外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>533
>譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、
>それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
この「仮の想い」というのが重要かな、と。
その後に続く、ヴァジラー比丘尼がいう苦しみは無常、無我、空という言葉に置き換えることもできる。
>>534
このレス番までの意味は、わからないけど
何のために手放しが必要なのか?について
仮設としての
縁起している世界を手放して超えていく
そのための対機説法として
我所ではない
我でもない
「想う」という想いではない
「想わない」という想いでもない
非想非非想も手放して超えていく
そのための導き
これなら意味がわかる(かもしれない)
「我がある・我所もある」と掴もうとしている想いがあると
縁起している世界を手放して超えていくことができない
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
>>535の続き
仮設としての
縁起している世界の中で
無明薫習に依存して
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命が
ある。という『想い』が現れて、そして滅している
− これを対処するために −
「我所がある・我もある」と
掴もうとしている『想い』を手放して
縁起している世界を手放して超えて
そして涅槃
という対機説法
これなら意味が、わかる場合もある(かもしれない) 皆の衆、お早うにゃん ♪ (^o^)ノ”
思考や感情等の枝葉に囚われて
幹である本能を軽んじ無視して
いる限り真理には届かないにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ ≪なかなか理解できない生命の「心」≫
世界には数あまたの宗教がありますが、ほとんどの教えでは「創造主」「唯一絶対神」「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった、
何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると教えています。
それほど信仰心のない一般の人々も、それをなんとなくボンヤリと信じていて、
「神を信じていれば永遠の天国にいけるのかなぁ」とか「 自分には魂があるのかなぁ」とか思っています。
日本の主要な宗教である大乗仏教でも同じことです。
「創造主」「永遠の魂」などと言う代わりに「如来蔵」「仏性」「法身」、
日本の宗派仏教になると「大日如来」「久遠実成の仏陀」などと言葉を作っていろいろ概念を入れ替えるのですが、
結局は「真我」とか「魂」とか、何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると考えているのです。 >>538続き
そういうわけで、「勝義諦・真にあるもの・真実」が「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」
という説明自体、始めはなかなか理解しづらいと思います。
「『真にあるもの』だったら、永遠不滅のはずじゃないか」というのが、ごく一般的な反応でしょう。
「勝義諦・真にあるもの・真実」の一つが「心である」と聞いたとたん、私たちが持っている「永遠不滅の魂」といった
概念・固定観念で思考がカチンとロックされてしまって、そこから頭の切り替えができなくなるのです。
「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」という仏教の「心」、勝義諦としての「心」には、
たとえ仏教を勉強していても、なかなか肉薄できないようになっています。
アビダンマの勝義諦である物質・心・心 所 のどこを探しても、永遠の魂や他の絶対的な存在は見つかりません。
ならば最後に現れる「涅槃」こそが永遠の魂だと決め付けても、それは大間違いです。
もともとなかった魂が、「涅槃」になったとたん突然現れるはずがありません。
「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった実体論は、ゴミ概念として、仏教ではスタート地点から排除しているのです。
ですから私は講義の最初に、「真我」「魂」といった考え方をきっちり批判しておきたいのです。
むしろ「真我」「魂」といった我々に骨がらみになっている固定観念をとことん論破することによってこそ、
アビダンマの語る「心」の独自性、仏教の超越した智慧のすごさが、ありありと浮かび上がってくるのではないかと思います。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) 怨念弱犬チワワわわわわーんの人気は、このスレで起きるの? >>528
レスがあることが、普通は、わたしの意志なるものによって、主体の判断によって行為があると見られているが、実際は、そのようなことが様々なキッカケによって巻き起こっているだけで、誰かが、存在して、その、レスをしたということではない
ってことじゃなかったのかなあ
それに私があるのなら、滅するに決まってるから、苦しみは去らないし、死の乗り越えられることもない
だから、私がないというのは、わたしなるものは、事実、どこにもいないってことじゃないかなあ
感覚があるのは自明だが、それは、わたしではないってことじゃないの?
だから、スマナサーラさんが、散々文句言ってる、大乗の人が、存在してないはずとおもったんだよね
五蘊の集積が、勝手に起こって、それに対して、勝手に、わたしと言ってるだけで、それは、たんに自然現象に過ぎない
だから、わたしなんてどこにもなく、わたしの責任もなく、わたしの死もない これらの否定しさった先に、涅槃とか、真我とか名付けてみても、それは、存在しないものなのだから、同じことで、、、
アートマンとよんだのは、自己の真相だからであって、同じものを涅槃とか呼んだのかもしれない
なにしろ、否定しさった先の話ではある
この否定しさった先には、実在がないのだから、どうのこうのいえない
だからマハルシさんも、これは、真我のことを釈迦も説いたと言えたのじゃないか あなたたちは、わたしがある
ケシカラン
わたしは、わたしがない
えらい!
というのは、どうもw 「わたしは、わたしがない」
簡単に言えば・・^^
分別された私は私ではないということ・・^^
つまり・・^^
その私は非我であると・・^^
こういうことだな^^
「私のおもいどうりにならない^^」
この私は私ではないと・・・^^
ゆえに怒りが生じ・・苦が生じる^^ もっと簡単に言えば・・^^
執着するのが自我であり・・^^
執着しないのが真我であると・・^^
こういうことにしておこう^^ 自我であるがゆえに執着する^^
真我であるがゆえに執着をもたない^^
簡単すぎた感がある^^ 自我であるがゆえに執着する^^
つまり・・苦が生じる^^
真我であるがゆえに執着をもたない^^
つまり・・静寂の境地
つまり・・・^^
人は悟りを開く二面性を持っていると・・^^
こうなる^^ 人は悟りを開く二面性を持っていると・・^^
う〜〜ん^^
これは・・^^
「人はもともと悟っているのになぜ修行をするのか・・」
この言葉が浮かんできた^^ 「人はもともと仏であるならばどうして修行して悟りを求める必要があるのか・・・」
道元ちゃんか・・・^^
やはりな・・^^ 結論として・・^^
苦が生じたらそれは自我であり非我であるとかんじることだな・・^^ スッタニパータ
916.
“mūlaṃ papañca-saṅkhāya, (iti bhagavā)
(師は答えた)現象世界の根源である
mantā 'asmī' ti sabbam uparundhe.
考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を、すべて破壊せよ
yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
内にある、いかなる渇愛も
tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
それらを制するために、つねに注意して学べ うん?
「考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を・・」
これ・・・^^
544因縁果 ◆d........o 2018/05/24(木) 18:54:53.08ID:AktvjG4/
「わたしは、わたしがない」
簡単に言えば・・^^
分別された私は私ではないということ・・^^
まさしく^^
「考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を・・」と・・
「分別された私は私ではないということ・・^^ 」これ^^
表現は違っても意味はおなじや・・・^^
うわっ^^
おいらがスッタニパータ書いたまである^^
寝る^^ 「現象世界の根源である考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を」
これ分別のこと言ってるんだよな・・^^
分別は虚妄の世界であると・・^^
分別は無明から生じる^^
そして・・煩悩は分別から生じると・・^^ 「ケガさせろとは言っていない!」
「我がないとは言っていない!」
「いや、ケガをさせろという意味にしか受け取れませんでした」
「いや、我は存在しない、としか受け取れませんでした」
さて・・・
悪いのはどちらだろうか?w 分別(不当な思惟)すると自我が生起し苦が生じる・・^^
現象世界が滅しない限り真我は現れないか・・^^ 「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」やな・・^ omaekosoga kakurisarerubeki jinbutu >>560 生死の中に佛あれば、生死なし。またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。
こころは夾山(かっさん)定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の 人のことばなれば、さだめてむなしくもうけじ。
生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨をあきらむべしもし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひおもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱(げだつ)のみちをうしなヘり。
ただ生死すなわち涅槃(ねはん)とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分あり。
(現代語訳)
「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる」また言う、「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない」
この言葉は、宋代の禅僧の夾山善会と定山神英という二人の禅師のものである。悟りを得た人の言葉であるから、無意味なものであるわけがない。
迷いから離脱したい人は、まさにこの言葉の真意を明らかにすべきである。人がもし、迷いの中で、別のものとしての悟りを求めるならば、車の轅を北に向けて南の越の国に向かい、顔を南に向けて北斗星を見ようとするようなものだ。
それだと、むしろ迷いの原因を寄せ集めて、ますます解脱への道を見失ってしまう。
ただただ「生死」が即「涅槃」だと心得て、「生死」 (迷い)であるからといってこれを忌避せず、「涅槃」を願ってはならない。そうしたとき、はじめて「生死 (迷い)を離れる手立てができる。 ≪「生命とは何か」とブッダが問う≫
初期仏教では「生命とは何か」ということに、客観的で具体的な答えを出そうとしています。
それは私たちの問題のすべてが、「生きている」ということから生じているからです。
私たちにはさまざまな問題や苦しみがあって、それをなくしたいと思っています。
そのために宗教を信仰する人もいて、信仰しない人もいるのですが、宗教に興味を持とうが持つまいが、
神を信仰していようがいまいが、仏教のどんな宗派に属していようがいまいが、
すべての問題は基本的に自分が生きているから成り立つことなのです。
生きていて完全に満足で不満がないなら、何も探し求めようとしないはずでしょう。
≪ヒンドゥー教の出す答え≫
他宗教では生きていることの研究なしに、ただ答えを出そうとするのです。
たとえば「生命は自然発生したものである」という答えもあります。
「神様が一切の生命を創造した」という答えもあります。
ヒンドゥー教の教典『バガヴァッド・ギーター』では、『般若心経』が「空」を説くように、「カルマヨーガ」の教えを説いています。
これはつまり「天命で与えられた義務を果たせ」ということです。
それでヒンドゥー教では、「四つの身分のカーストまで神が分けたのだ」「だから苦しいことがあっても、がまんしろ」と説くのです。
「神様が創ったものだから、神様の企画、考えであって、創造された私たちはそれに従うべきでしょう」と。
どんな不条理なことがあっても、神がそう定めたのだから、その行為をしているだけであって、そこに「私」はないのだというのです。
「私がいる」という意識がなく、神に定められた仕事をできるならば、それはカルマ・ヨーガであって、それこそ梵我一如、真理と一体になる道であると説きます。
それがヒンドゥーの神概念なのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? ≪西洋一神教の出す答え≫
西洋のキリスト教社会でも神が人間を創造したと説いているのですが、神の計画はうまく運ばなかったのです。
計画に失敗した神は、ノアの箱舟の時代に生命をまとめて処分するのですが、それでもうまくいきませんでした。
そういうわけで「あなたがたは、頑張って神の意思どおりに生活すべきだ」と言われるのです。
キリスト教では、神が自分の息子であるイエスを殺すことで、神の意思に従わない人間の過ちが許されたと言っています。
アジア的には理解不能な理屈です。
なんの罪もない自分の息子を残酷に殺したことで、父親が満足する?それで他の人間の罪を許してあげる?
なんという倒錯した話でしょうか。
まあ、彼らは、充分代償を払ったと言いたいのでしょう。
罪人だったら磔になっても自分の罪の一部がチャラになるだけですが、 完全に清らかなイエスが死んだことで、その徳の貯金が残ったらしいのです。
その貯金で罪深き人々が救わ れるという理屈です。
どうして私がキリスト教の説明をしてあげなくちゃいけないないのかわかりませんが、そうやって、みんな悩んで、いろんな解決法をひねり出すのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? ≪「生きている」とはなんなのか?≫
ブッダの違うところは、こう気づいたところです。
「あれ?これすべて自分が生きているから成り立っているんじゃないかな?」と。
生きることが苦しいか幸福かは、生きているから気になるのです。
「自分はどこから来たのか」というウパニシャッド哲学者のような疑問さえも、私がここに生きているから生まれるのです。
形而上学的、観念的に頭で考えても、一つも証明できる答えは出ません。ただの自己満足です。
だからブッダは、「生きている」ってなんなのかと、まず分析するのです。
それが科学的に人間の問題を解決する唯一の方法なのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? ≪勝義諦 4:涅槃は寂静≫
心、心所、物質を全部理解したところで、四番目の涅槃 nibbana という状態も分かるのです。
エネルギーとエネルギーがぶつかって認識が生まれて、それでまた違うエネルギーになって、
きりがなく流れていきますが、ではその流れを変えたら(止めたら)どうなるか。
どうにもこうにも、話すことも動くことも心に何か思うことも、何もできない世界になります。
そんな世界があるのかないのかさえ、 想像することもできません。
認識することによって「私がいる」と言うだけなのですが、その認識することができなくなったら
(認識の流れが止まったら)そこに「私」はいるのでしょうか?
「私」はどうなったのですか?次の状態はどういう状態ですか?何も説明できません。
次の状態は認識できない状態ですから、何の言葉も、何の存在の次元も当てはまらないのです。
どんな理屈でも考えられません。言語の世界も、体験の世界も、思考の世界も、すべて終わりです。
心と心所と物質を理解しても、それは全部、現象の世界です。
その現象の世界を理解してしまえば、それを全部乗り越えてしまいます。それを涅槃と言います。
ですから涅槃は一つしかありません。現象が消えた状態、それだけです。
現象が消えたら、それは消えたという一つのことだけですから、一つなのです。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) 皆の衆、お早うにゃん ♪ (^o^)ノ”
金槌で掌を力任せに殴った後の
寝言なら読む価値が有るかも
知れないにゃん ♪ (笑) ('∀`)ノ
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>566
> 心と心所と物質を理解しても、それは全部、現象の世界です。
>その現象の世界を理解してしまえば、それを全部乗り越えてしまいます。それを涅槃と言います。
>ですから涅槃は一つしかありません。現象が消えた状態、それだけです。
その現象が消えた世界である涅槃は一切なのか一切外かのか論点になってたような気がする
涅槃を一切に入れてしまうと涅槃まで一切皆苦の世界になってしまうのがおかしいとかなんとかで 一切の現象がない状態を空というのではなくて、一切の現象は五蘊によって形成されていて、その五蘊は縁起しているから、無自性であり、つまり、それそのものとして、恒常的に存在するものではないので、空である
仮にあるものに名称と形があるが、それらは、それそのものとして、単独で存在しえない
ってことじゃないの??
認識が止まるって、じゃあ意識不明とか、寝てる時は涅槃なのかってことになるやん 実際はだれもが仏なのに
気がついてない
しかしスマナサーラさんの説は
オレは仏じゃ!
おまえらとは違うのじゃ!
と聞こえるのです 一切というからには、涅槃もその中に含まれるのでしょうね。
ところで、「苦」とはご周知のとおり「思うがままにならない」の意だったかと思います。
つまり、様々なものが因縁仮和合してまた縁起しているから「思うがままにならない」のです
ところで、涅槃に至るのも至らないのも「思うがままにならない」なかで起こるその方の内面の変化です。
「思うがままにならない」中で顕現した内面の変化や智慧の発現(ほつげん)によって得られたものは、果たして「思うがままにならないもの」でしょうか?
勿論、内面の変化があったその方は五蘊からなるものですから「思うがままにならない」存在ですが、その存在の智慧の発現よって得られたものは、果たして「思うがままにならないもの」でしょうか?
> 仏教徒の大間違いの原因は、
> 「一切」の理解に失敗したことにあります。
> つまり、「一切」の中に「涅槃」を含めてしまったことです。
なにか根本的なところで勘違いをされているように見受けられるんですが? 追伸
仏の智慧は、一切を一切たらしめている虚空に例えられますけどね。
無為 (仏教)
ウィキペディア参照
中観帰謬派
『中論』の第七章では
有為法が実有なるものとして成立しえないことを述べたあとで
「(生と住と滅とが成立しないが故に)有為は成立しない
また有為が成立しないが故にどうして
(仮設としての、縁起している世界の中において)
無為が成立するであろうか」と
中論 第七章
原因によるもの(条件〔縁〕づけられたもの〔有為〕)の考察
生じ、消滅し、そして存続することが確証されないので
部分と原因で構築された事物(有為)は存在しない
もしすべての構築された事物が確証されないなら
(仮設としての、縁起している世界の中において)
非構築的なもの(無為)などがどうして確証されるだろうか
夢のように、幻影のように
ガンダルヴァの都市のように
生じることと存続すること
そして消滅とが説明されたのである
縁起している世界を手放して超えて → 涅槃 だからw
お前らは、
「日大側(内田・井上)の言辞」と「違反プレー選手の言辞」と、
どっちを信用するんだ?
という話。 法華七喩は良く出来てるがセブンの比喩は本当の意味での自画自賛(しかない)からなあ >>570
≪テーラワーダと大乗の運命≫
大乗仏教が、自分と違った仏教徒たちを「小乗仏教」という蔑称で呼ぶのは、学問的にも正しくありません。
自分の教えに「大」を付けるのはかまいませんが、他人の教えに「小」を付けるのは仏教の基本的な考えにも反します。
仏教は「生命は平等だ」とします。他をけなすことを悪いことだとするのです。
しかし、テーラワーダ仏教も、大乗仏教に対して、「お釈迦さまの教えではない」という立場をとります。
言い換えれば、「仏教でも何でもない」というようなニュアンスです。
互いに汚れているのに、相手に向かって「あなたは汚い」と言えたものではありません。
仏教は、お釈迦さまの教えです。お釈迦さまの教えがなければ、仏教は存在もしないのです。
ブッダがすべての生命に、今ここで幸福に達する道を示されたのです。
仏教徒たちは皆、仲良く、争うことをやめて、世界に平和と幸福への道を教えたほうがよいのではないかと思います。
それをする上で邪魔に なるのは、各宗派のしきたりや習慣です。また、各開祖たちの教えです。
開祖の思考は、本師の思考より優れているわけではないのです。この問題を解決する方法があると思います。
テーラワーダ仏教・大乗仏教というのではなく、テーラワーダ文化・大乗文化と命名すればよいのです。 >>578続き
それぞれの文化が違うのは当たり前のことです。西洋文化・東洋文化というのは、違いがあることを示しています。
そこには「文化同士で争ってはならない」という意味が入っているのです。
東洋人は西洋文化を理解する、西洋人は東洋文化を理解する。それで皆、仲良くなる。
仏教の場合も、それぞれを「文化」にしてみれば、いとも簡単に仲良くなるのです。
テーラワーダ文化も大乗文化も、お釈迦さまの真理の教えが両仏教の心臓だと思えば、仏教はもう一度、世界一の宗教になるはずです。
一貫して人類の平和を語る教えなので、一貫して一切の差別を否定する教えなので、
すべての人類は仏教の教えにしたがって幸福になると思います。
仏教徒は、何の価値もない神秘やしきたり、どうでもよい習慣などを強調すること、誇示することをいいかげんにやめ て、
人類の心の闇をなくすために、人類の苦しみをなくすために、努力することが義務だと思います。
アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダは真理を語る: テーラワーダ仏教の真理観とその変容 (高野山大学での講演録) 世界一の宗教とか人類が幸せとか言うヤツはまだまだ修行が足らんだろ。(笑)
修行始めたばかりのガキかよ。(笑)
(^。^)仏様でもあるまいに分を弁えろと、何様のつもりだと言いたいね。(笑) >>580
【人類が幸せ】
最澄
「一隅を照らす者、これ、国の宝なり」
空海
「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ」
明恵(9歳時)
「我れ、親類の後生(ごしょう)たすからむがために、法師になして尊とからむとす。
然(しか)ればその志を知りて尊とかるべきに、何ぞこの馬におとるべき。
今は法師になりて尊く行ひて親類より始めて、みな一切衆生を導引(みちぎ)かむと思ふ願いをおこす。
その後類親(るいしん)の恋しさもうせぬ。
尊とからむことをのみ思ひき。
かくの如く思ひつづけて高尾にのぼりつきぬ。
すなわち上覚上人に付きて倶舎頌(くしゃじゅ)を受け始む」
道元
「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。
そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり」
一遍
「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」
日蓮
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし」 581.釈迦が、そんなことを言ってるかや。バカ弟子の証拠である。
バカ弟子が作ったバカお経が多い。法華経は、その代表である。 >>581
本気で>>579の文脈で言う「人類の幸せ云々」と引用した文意が同じだと思うんですか? >>583
>>579
>一貫して人類の平和を語る教えなので、一貫して一切の差別を否定する教えなので、
>すべての人類は仏教の教えにしたがって幸福になると思います。
>人類の心の闇をなくすために、人類の苦しみをなくすために、努力することが義務だと思います。
うん、スマナサーラと仏教幸福論と日本の高僧が言ってた衆生救済利益の趣旨はまあ同じだね^ - ^ 成る程。
従えと言うのと願うと言うのとは全くと言って良いほど違うとは思わないんだね?
なら、君はオウムの与太話が仏教だとか言う連中と同じだよ。
仏教はヒンドゥーのアヒンサーと同様に非暴力をとき、他者に服従を強要するものではない。
君は基地子などのエセ仏教徒と同類だよ。 >>582
>>579
一貫して人類の平和を語る教えなので
→スッタニパータの「武器を執ること」の内容や五戒のうちに不殺生戒があること、マガダ国王にヴァッジ国を攻めるのを諦めさせたこと、などから間違ってはない
一貫して一切の差別を否定する教えなので
→バラモン以外の人でも正しい道の実践により悟れるとした、事実アウトカーストの人でも阿羅漢に何人も成っている >>585
したがって〜と思います
と個人の見解を述べているのであって
従えと強制しているわけでもなんでもない >>585
まさか真言宗では法布施や利行などの四摂法をスルーしているわけではあるまいて( ̄∀ ̄) >>587
理解出来ないんだが、君は
「人類は仏教に、したがってしあわせになると思います」
と書いてあるように見えるのかな?
それとも「したがって幸せになると思います」という文章だけしか理解出来ないで、前後の単語は読んでないのかな?
外国の人か?
日本語の翻訳ソフトがわるいのか?
なんにせよ、まるで話にならないな。
「俺のブッキョーに従えば幸せになるんだよ」
なんてのは、ごく一部の日本人にしか通用しませんよ。(笑) あと「文化」云々と言ったすぐ後に、
「どうでもいい習慣は止めろ」なんてところからも、
此奴の駄目っぷりが垣間見えるわな。(笑)
こういう文脈を全く理解出来ないで、偉そうにされたらコロッと騙されんのはバカカルト信者と同じだよ。(笑) あと、俺は元真言で、今は全く関係ないからね?(笑)
思想的にも大分違うから。(笑)
まぁ、古参なら今さらだろうが、
なんかバカカルト信者は俺が今も真言だと誤解しているみたいなんだよな。
(^。^)連中には日本語通じないからイチイチ訂正してないけど。(笑) 皆さん、ただいま〜♪
「成田山新勝寺」の開基1080年祭/記念大開帳、
二泊三日の参拝旅行から帰宅して、やっとこ落ち着きました。
元々、普段から脚のふくらはぎの痛みを持っているので、
隣接する公園と合わせて東京ドーム約8個分の広さを誇るという新勝寺の敷地内を歩き回り、
そして、お土産選びのために総門前の参道を行き来して、遂に脚がパンクしてしまいました(苦笑)。
ところで、
新勝寺では4/28〜5/28(毎月28日は不動尊御縁日)の1ヶ月間限定で十年に一度の御開帳だとしていたので、
これは秘仏である成田山開山の縁起不動尊を拝することのできる実に貴重なイベントという認識なのでしたが、
しかし実際には、成田山新勝寺ではあくまでもそれはイベントの開催ということであって、
開基の縁起不動尊が普段は秘仏として非公開となっているということではなく、
普段から常時、大本堂にて公開のままでお祀りされているということなのでした。
現地で初めてそのことを知り、私はやや拍子抜けした...。
まっ、結果的には有難くお不動さまを拝することができたわけだし、
元々、以前から“非公開の秘仏”という在り方に対してはいつも疑問を持っていたので、
その意味では、嬉しい誤算なのでした。
そもそも非公開の秘仏の意味やメリットとは何か? というと、
結局のところ、参拝者に対してレアな有難感を与えるためなのだろうけれど、
これって、秘仏扱いのホトケ様ご当人にとっては如何なお気持ちなのだろうか?
私の察するところとしては、そんな暗闇に閉ざされて寂しい扱いを受けて絶対に嬉しい筈がないのであって、
きっと本当は、普段から普通に明るい処で多くの人々に慕われて拝されることの方が遥かに嬉しいに決まってる。 ちなみに成田山新勝寺について簡単に紹介しておくと、
私の家の菩提寺である真言宗智山派の三つある大本山の一つ(他二つは、「川崎大師平間寺」と「高尾山薬王院」)で、
例年、初詣(正月三ケ日)の参拝者数では明治神宮に次ぐ全国2-3位を川崎大師と分け合っていて、
年間参拝者数1000万人を誇るという人気の大寺院。
歌舞伎の初代/市川団十郎が跡継ぎに恵まれず、こちらで一心に子授けを祈願したところ見事、待望の長男を授かったという。
以来、感謝の心を込めて成田のお不動様を演じる演技で人気を博してから、寺院の信徒参拝者が大きく膨れ上がった。
現在の成田屋市川宗家の十一代目/市川海老蔵と麻央さんはこの寺院にて挙式をあげました。
そして、肝心の成田不動の開山縁起はというと、
寺院側からの説明によれば、この不動明王の尊像は真言宗宗祖の空海、自らが一刀三礼で彫り上げたものだという。
平安時代に平将門の乱が起こり、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正がこの戦乱を鎮めるべく
不動明王の御尊像と共に関東(現在の成田)の地にて二十一日間の御護摩祈祷を厳修して、
めでたく結願の日に将門の乱が終息した。
寛朝大僧正が役目を終えて都へ帰ろうとしたところ、不思議と御尊像が磐石のごとく動かず、
「我れここに留まって、関東の地を護る」とのお告げを受けた、というのがこの成田不動の始まり。 >>325-326
要するに、
あくまでも対機説法なんだということを理解しないとまったく話にならないのです。
これらのゴータマによる湖の中への投石や油の話というのは、
パラモン呪法を全権万能だと錯覚しているバラモン祭祀たちに対する諭と戒めの対機説法ですから。
つまり、如何に強力なバラモンの呪力であろうとも、物事にはできることとできないこととがあるということ。
生前の生き方と行為のすべてが死後の行き先を決定づける業報においては、
たとえバラモン呪力といえども直接的な作用はできないでしょう。
しかしながら、それでも死者供養という意味においては決して無駄ということではなくて、
ゴータマは善生経(シンガーラへの教え)の中で先祖供養について説き、
祖霊に対して適当な時々に供物を捧げなさいと教えています。
また、特定の祖霊に廻向することはできないとしながらも、
餓鬼地獄に堕ちている自分の祖霊を含めた餓鬼存在に対しては広く供養を届けることができるとしています。
そして当然、これらの供養の行為は善行として施者に功徳をもたらすものであるので実践されることを奨めています。
(藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』)
http://nbra.jp/publications/69/pdf/69_26.pdf
ゴータマによるバラモン呪法に対する禁止事項というのは直弟子である出家僧たちに対してのものであって、
その理由というは単純明快であって、自分の教える解脱成仏法であるところの
三十七菩提分法の修得実践に完全集中しなさいということ以外にない。
もちろん、バラモン呪法が単なる迷信に過ぎず効力が皆無という意味などではないから、勘違いしないように。
ゴータマのバラモン呪法の優れた効果を認める記述は『スッタニパータ』の458.509.568などに明らかです。
真言宗が修する加持護摩祈祷は、このパラモン呪法のホーマを継承したものであり、
彼らこそは、現代に蘇ったバラモン達そのものなのです。 私がいつも述べるように、
本当に困難の只中にあって苦しんでいる者には説法などはまったく役には立たない。
行方不明ですでに死んでいるかもしれない我が子の安否に苦悩する日々を過ごす母親に、
「それらは無我であって、自分ではない、また自分のものでもない、
自分のものでないものと自己を同一認することから苦悩が生ずるのだ...」
などという言葉などは母親の耳には入らないし、たとえそれを知ったところで苦悩の解決にはならない。
きっと母親は、「そんな話はどうでもいいから、一緒になって子供を探して欲しい」というでしょう。
この母親の苦悩を終焉に至らしめる方法はただ一つ。それは我が子が(生存の有無に関わらず)見つかることだけです。
密教には、それを可能ならしめる神秘力がある。
子供の居場所を示し、或いは遺体を浮かび上がらせる奇跡を発揮する。
顕教(密教以外の諸派)にはできない。
この密教の神秘力によって援けられた人間は、
必ず心から神仏に対する感謝の念を抱くようになる。このことが重要なのです!!!
その後、その人は自ら進んで教えを受けて道に入ることになる。
密教の現世利益をもたらす加持祈祷はそのためにあるのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/639-713
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/454-456
https://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1404308683/964-965 >>401-402
>例えばラーマクリシュナの言葉を読んでみますと、色界第一禅定くらいは経験がある感じはしますが、
>それでもまだ、「神がいる」とか「魂がある」とか「梵天がいる」などという状態なのです。--中略--
>これは、スマナサーラさんが仰るところでは、
>魂論・真我論・有神論・などの観念信仰からラーマクリシュナといえども抜け出せなかったので、
>正しく真実を見抜く眼力を持つことができなかったからのようです。
“魂の認識”や“神(梵)との融合”という話はすべて、
彼らによる実際的な自己体験にもとづいたものです。
長老にその体験がないのなら、まだそのレベルまで到達してないだけのこと。
ゴータマがこれらを完全否定したなどとい話は、単に仏典の読み違いによる誤認です。
テーラワーダの伝統護持とは、間違った部派の教義を守ってきだたけのこと。 >>568
はい、その通りです。
重要な部分をシッカリと読まれていますね。
>>571
>一切というからには、涅槃もその中に含まれるのでしょうね。--中略--
>なにか根本的なところで勘違いをされているように見受けられるんですが?
いやいや.冗談じゃないな。
では、私のほうから(自称仏教徒らすべてに対して)問う。
(私からの図式解説はそれからだ)
一切の中に涅槃が含まれてることを示す経文があるのならば、是非ともここに提示して欲しい。
そんなこと絶対にできやしないから。そんな教えは最初からないのだから、当然できる筈がない。
ゴータマの説かれた一切に涅槃が含まれることがないことは、
経典の中から一切に関する経文をチェックしていけばすぐにわかること。
ただし、何でも在りの創作/大乗諸経典や論書の類いからではなく、
歴史上のブッダの教えが含まれるとされる仏典/原始経典(パーリ五部聖典or漢訳阿含)のみでお願いする。
もしも、この私が間違ってたのならハッキリとここに謝罪し、
そして、二度と馬鹿な発言は投稿しないことを約束する。
では、
ハリキッテどうぞ。
仏教徒の諸君!! >>589
自分もそう読んでますが何か?
すべての人類は仏教の教えに、したがって幸福になると思います。
では日本語として理解できる人はいないと思いますw
あとその分節だけではなくその前の
>一貫して人類の平和を語る教えなので、一貫して一切の差別を否定する教えなので、
から通して読んだ方が良いですね^ - ^
逆にもっと全体を通して読んで引っかかったのが>>590か
これは先に>>500こう言った話を語っており、神秘主義は
>>579
>テーラワーダ文化も大乗文化も、お釈迦さまの真理の教えが両仏教の心臓だと思えば、仏教はもう一度、世界一の宗教になるはずです。
の「お釈迦さまの真理の教え」からは外れているとスマナサーラはとらえているということです
>>578
>互いに汚れているのに、相手に向かって「あなたは汚い」と言えたものではありません。
の「互いに汚れている」は、テーラワーダでも神秘主義でお金を取ったりしていることを言ってるのですな 「すべての人類は仏教の教えに、したがって幸福になると思います。 」
う〜ん^^
考え方が人それぞれあるとして・・^^
捉え方がおいらとちがうんだよな・・・^^
仏教の目指すものは涅槃寂静の境地であり・・^^
幸福を目指すものではないと・・^^
幸福を感じることはそこには不幸があり・・^^
涅槃の境地とは幸福・不幸も寂滅している^^
まぁ真理を悟れば・・幸福も不幸もないんだよね・・^^
永遠の幸福が得られないのはなぜか・・^^
これが幸福を解く鍵となるかな・・・^^ 「目指すもの」
これは違うな・・・^^
目指すんじゃなくて・・・^^
「自然とそうなる^^」
だな・・^^ 「仏教」・・これもおかしい^^
真理を悟れば自然と涅槃寂静の境地に到るだな・・^^
特に現象世界の真理・・虚妄の世界をね^^ となると・・^^
幸福・不幸も虚妄の世界に含まれるかもしれん^^ 虚妄の世界・・・^^
簡単にいうと・・^^
分別の世界やな・・^^ 君は「教えに従えば幸せになれる」のか仏教だと本当にそんな事を思うのか。
「何の価値もない神秘やしきたり」なんて文化は「やめて」「世界一の宗教」なんかを目指すのが仏教だと?(笑)
(^。^)たまげたなぁ、それではオウムと同じエセ仏教だよ。(笑) >>604
お釈迦さまは何のために悟った後に布教したのですか? (^。^)そんなん俺が君に言える訳ないじゃん?(笑)
「仏教とは人民を従わせて幸せにするために異文化を殲滅するもの」
って考えてるような人には何にも言えないよ。(笑)
桑原桑原。(笑) 「人間が自己に執着するのは真実の自己を知らないからである」
う〜〜ん^^
なかなかやな・・^^
温泉瞑想に行って真実の自己を見てみるかなっと^^ 「お釈迦さまは何のために悟った後に布教したのですか?」
布教?
真理を説いたんだよな・・^^
たぶん・・言っても分らないとおもいながらも^^ スマちゃんは真理を説くのではなく・・^^
世の中をうまく渡っていくにはどうしたいいのか・・^^
を説いている感がする^^ ほーらw ↑
結局、(宝珠のアートマンスレ以降に限らずw)およそ仏法の議論が、
「言った言わない」 「後代の敷衍か、誤解か」 に尽きてるじゃん。 >>576-577 仏典の方は発言した当事者が生存してないので例え裁判しても判決はでない
アメフトの方は世論で日大側を支持する声はほとんどないので議論にはなってない
日大を批判、教育方針批判、隠蔽批判といった批判の声が圧倒的
一即多、もとい一緒くたにはできないよ仏教議論とアメフト反則問題はw 仏法の議論は・・
「言った言わない」ではなく^^
「真か偽か」^^
真理かそうではないかになる^^ >>327
>>>325-326の相応部経典の仏説からは、
>釈迦は呪文や祈祷や式典を否定するのみにあらず、葬式までをも否定しかねなかったというのがうかがえる
>
>今の世でいえばいくら葬式で花をあげて立派で高い戒名をつけて焼香してお経をあげようとも極楽浄土にはいけない
>涅槃や浄土や天界にいけるかいけないかはそういったものの力ではなくあくまで生前の善行為による善業の力である
>悪業を積んだ者はいくら立派な葬式をしても地獄に落ちるということになるね
あっ、肝心なレスをすっ飛ばすところでした...。
ハッキリいって、あなたはテーラワーダや原始経典や藤本 晃氏の翻訳解説著を読む割にはまったく分かってないな。
ゴータマが仏弟子たちに対して「葬儀に関わるな」と説いたというのは、
バラモン呪法やバラモン祭祀に対するものとまったく同じものであり、
その理由は自らの説く解脱成仏法であるところの三十七菩提分法の修得に完全集中しなさい、
ということを徹底したいが為です。
それは、別に葬儀そのものに対する否定意などではないから。
その証拠に、
仏教教団における一番最初の葬儀とは、
ゴータマ自らが執り行った父スットーダナ王の葬儀です。
その内容のすべては息子であるゴータマが自らすべてプロデュースし、
最後に父の棺を自らの手で抱え上げて運んだ(今日の棺の手運びはここからきた)。
それから、
先ほどの『先祖・施餓鬼供養』藤本 晃著の論文>>594を読めば分かる通り、
確かに、戒名はおろか死者に対する行為による直接的な救済はないけれども、
遺族や子孫が執り行う供養のその行為を死者である当人が気付いた時に、
その気持ちの対する有難い感謝の念が自身に自然と沸き起こることで、
自動的に自らの心が浄化され、その結果として死者自身の向上に繋がるということ。
これは原始経典の中でゴータマ自らが説かれた教えです。
ゴータマが葬儀や供養を否定したなどいう理解なんてトンデモナイことです。
反省して欲しい!
仏式葬儀の起源
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199809.html >>597
ふーんw
それはあなたの主張と文意から汲み取ったんだけどw
話を転がすなら議論する意味はないなw >>616
意味不明。
あなたは一切に中に涅槃が含むと理解するのでしょう。
だから、その根拠を仏典の記述から示してくれといってるのです。
私はそうじゃないから。
私は一切には涅槃は含まれないとするのがゴータマの教えであって、
勝手に一切に含むことにしたのは部派の間違いだとしています。
そのことについては私はいくらでも説明ができる。
そして実に、
アートマン無我の間違いもそこに原因があるから。 >>614
フーム。。
因縁果さんは、時々いいことをいうね!
>>86
>涅槃という境地は、認識概念では説明不可能です。
>すべての概念は現象の世界を指しています。
>現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません。
アートマンの説明とて同じこと。
それは現象世界を超越したものです。一体、何が違う?
>最初から自我はなかったのです。
>自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
>覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
>幻覚が無くなるのです。それだけです。
>覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
今までなかったアートマンが突然現れるのではなくて、
元々からあったアートマンに(初めて)気付くことが本当の覚りです。
これまでのアートマンではないもの、
つまり、間違った自我の錯覚は理論としてではなくて、
自身の実体験として完全に消える。
>>224
>※ここが、一番のネック。 ただ、2500年の間にも、宝珠のような考え方を許容出来ないが故に
> 阿頼耶識なり何なりがでてきたりしながらも、彼らの言う「我」を認めることができなかった。
> 2500年間、膨大な人数の行者が、その方向性を採れなかったことを、もっと重く受け止めるべきだろう・・。
それは逆でしょう。
矛盾してる無我(アートマンはない)なんてものを継承してるから、
2500年の間にも阿頼耶識なり、如来蔵なりがでてくることになる。
また、どうしても仏性という概念を無くすことはできなかった、と...。
そりゃそうだ。無我のほうこそが間違った理解だったのだから。
そこには必ず無理が生ずるから。 >>617
絶対を立てれば絶対が相対化される様に、一切を立てれば一切を一切たらしめる虚空を引っ張りださなければならなくなります。
そういう意味で(絶対的)一切なら当然に涅槃はそこに含まれるし、(相対的)一切なら涅槃は一切か虚空の何れかに含まれる事となります。
私の基本的スタンスは、絶対的一切というなら涅槃は当然にそこに含まれ、相対的一切というなら涅槃は虚空に含まれる、です。
が、根本的スタンスは「そんなの戯論」ですね。 >>615
>その証拠に、
>仏教教団における一番最初の葬儀とは、
>ゴータマ自らが執り行った父スットーダナ王の葬儀です。
『浄飯王般涅槃経』という経典に書いてあるらしいけど、『浄飯王般涅槃経』はパーリ5部聖典や漢訳阿含に収められてる経典なの? >>619
一切には、
絶対的や相対的の区別などの必要がなく、その何れかに拠って回答が異なることはないのです。
何故ならば、仏教の説く一切は一つであってそれ以外はないのだから。
あなたが仏教の説く一切をまったく知らないことはハッキリしました。
であるのに、自分が知らなことを勝手に虚論扱いしないで下さいね。
一つだけ教えておきます。
仏教の説く「一切」というのは、
私たちが日常で普通に使用している一切の語句とは意味も使い方も異なります。
あなたは勝手に、日常言葉の意味で解しようとしただけでしょう。 >>621
> 何故ならば、仏教の説く一切は一つであって
> それ以外はないのだから。
ん?だから、
> 絶対を立てれば絶対が相対化される
云々を話して、絶対的一切と言ったんだけど?
その次元から説明しないと分からないのかな? >>622(続き)
分かるかな?
絶対とか相対とかと言う相対化以前の絶対ね。 弱犬チワワわわわわーんが居ついているじゃないか笑、
最近、曼荼羅ネタで反撃しているつもりらしいが笑。
ま、チワワ君が食いついてくるのは、
承狂tyわんが用心する「越法」を恐れて「入我我入」とか三密加持とかの表現を嫌って、茶化して表現したレス内容が、
チワワ君の追及しているつもりのネタらしい笑 103ジャンキーのハッタリレスをまとめると2018/05/12(土) 17:57:41.23ID:AGCU2KA5
1、>それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものな
高野山の金堂の曼陀羅と根本大塔の仏像の曼陀羅提示と混同。
2、>立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
真言密教教学における、曼陀羅の定義がある。
で、実は、根本大塔の・・・・と。
詳しくはやめておこう、ジャンキーのウソハッタリ知識の放出を繰り返させて(・∀・)ニヤニヤ笑ってやろう。
無限嘘つきわんわんの姿を曝してやろう笑。 102嘘つきわんわん、また知ったかレスです、懲りんなあ笑。2018/05/12(土) 17:52:41.83ID:AGCU2KA5
真言密教教学によれば、このジャンキーのゴマカシ言い訳も間違いなんだな、
ジワジワハッタリ知識を放出させて放置する方針だからな。
何が間違いか?真言密教教学の曼陀羅の定義を見れば、明白、
下記の表現、ジャンキーのデタラメ知識は放置してコケし倒すに限る笑
>立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
867Junkie- Ooyama2018/05/11(金) 18:33:56.60ID:Q2iyllff>>868
>>865
昔、高野山真言宗には仕事で高野山に行きましたからw
金堂、御影堂、根本大堂、そして奥の院等、一通り回りましたんでw
立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
魔法陣じゃないからwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 121さらにダメ押しとするか笑、はい、論破2018/05/12(土) 18:56:57.37ID:AGCU2KA5
>立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
という、ジャンキーのハッタリの言い訳は
下記によってデタラメと判明される笑。
http://www.toji.or.jp/mandala.shtml
羯磨曼荼羅
東寺の仏像が、羯磨曼荼羅
で、真言密教教学でいうなれば、四種曼陀羅の内の一つが羯磨曼荼羅で、
ジャンキーの表現では、真言密教の曼陀羅は、
>仏像を特定のパターンで配した(羯磨曼荼羅)
だけが曼陀羅と主張していることになる。
はい、論破、
嘘つきワンワン君笑 865嘘つきワンワン・ジャンキー伝説2018/05/11(金) 18:26:18.63ID:ptUe2Gpt
なんかクリスチャンスレでクリスチャンにレスした魔法陣にはまって、ワンワン吠えている犬ジャンキー笑、
麦は相変わらず、嘘つきワンワンをい信奉している笑、きもいな笑、
さて、高野山金堂を大塔と思い込んだ、ジャンキーの恥ずかしいレスだ、
まさに知ったか、ハッタリを象徴する事件なのだが笑。
756神も仏も名無しさん2018/05/10(木) 14:45:12.74ID:MXlp3M94
高野山根本大塔と金堂の区別もつかないレスして、わんわん犬山は、根本大塔の事をレス笑
嘘つきワンワン犬山かな笑。
↓
>それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものな (根本大塔のことを金堂とお思い込み笑)
↓
660junkie- ooyama.2018/05/09(水) 19:49:07.97ID:z9m0773G
でおーくん、
> 高野山金堂で魔法陣ぶちまわしたので、
> 俺脳、今、仏教化濃厚やわ・・・・。
それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものな 「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」・・・三法印^^
諸行と諸法か・・・^^
考えると難解やな・・^^ >>613
自画自賛するのは、貶されるだけだから自分で褒めるしかないじゃんw
で、「文言非我、文脈無我」をなぜ自画自賛するかと云えば、
金言を知りえない以上、文脈で判断するしかないから。
また、今回の違反プレー問題を、
批判意見・反対意見があるかないか、或いは法律面で是か非か、
でしか見れてないところが、君の器の限界なんだろうよ。
*多分、コーチはケガさせろと言ってる。 監督は、【もしかしたら】【ホントに】言ってないかも。
じゃあ、「言ってない」なら責任無いのか? ということ
監督の意図として(文脈として)ケガさせろだったのではないか?と。
無我と言ってないから、有我なのか?と。
「無我」とは言われていないなら、「有我」だとも言われていない。
そこが、たとえお釈迦さんの体験が田上論文の通りであったとしても、
有我と言えなかったなら、「その文脈」をこそ、目を見開いて見るべきなんじゃないか? >>613
構図を見れない人間は黙ってろ。 諸法・・・^^
舎利子よ、是の諸法は空相にして、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり 【一切法】
〘仏〙 すべての存在,事物。
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