≪「我」「魂」はどこにあるの?≫

 宗教哲学などで「心はどこにありますか?」「魂は人間のどこにありますか?」などとよく聞きます。
哲学では、「魂がある」とまず決めてしまいます。
それでも、決めたらそれで終わるはずなのに、それから、その魂はどこにあるのかと探すのです。
どこにあるかも分からないものなら、魂があるかどうかもまだ分かっていないということではないのでしょうか?
 神学でも「すべては神様に創造された」と言いますが、それならそれで問題は終わるはずなのに、
ではその創造した神様を探そう、と、それから神様が存在する証拠を探すのです。
だから彼らには、同じところをぐるぐる回るだけでいつまで経っても答えが出てこないのです。
 ヒンドゥ教でも「魂はある、アートマンはある」と決める。
あると決めればそれで終わるはずなのに、そのアートマンはどこにあるとか、どんなものかなどとかなどと哲学を作ります。
あると知っているなら、それがある場所も、どんなものかもすぐ分かるはずですけど。
自分で勝手に迷路に入って、間違っている同じところでいつまでもぐるぐる回っているだけです。
「魂」 とか「我」とか「宇宙を作った神」とか、何千年もの間、あるあると言いながら探しているのに未だ見つかっていないのですから、
一度立ち止まって、そんなものが本当にあるのだろうか、と調べ直した方がよいのではないかと思います。
お釈迦様は「すべての哲学が、袋に閉じた網の中であっちに行ったりこっちに行ったりするだけで、出口は全然見つからない」
とおっしゃっています。