外道の独り言 9
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
>>504 リンク先について
その朝日新聞のサイトで
[我がない]で検索しても
[そうでない我はある]を
見つけることが出来ないので
ご確認の程を ヨロ m(_ _)m >>506
無為の真人=ナマケ者のニートにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
怪しい(宗教団体とかの)サイト?かもしれないけどとりあえず
ttp://vajracat.com/2017/03/04/bhagavadgita/
ヒンドゥー教
…体は、火と水と空気と土と風でできていて
あなたはこれらの要素に消えていくでしょう
でも、魂は永遠なのです…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
ヒンドゥー教
不二一元論
ブラフマン(梵)
アートマン(我)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
アートマン
永遠的な主体
− これに対して −
大乗では
個体としての我(人我)だけでなく
存在を構成している要素(法我)も否定して… ≪「我」「魂」はどこにあるの?≫
宗教哲学などで「心はどこにありますか?」「魂は人間のどこにありますか?」などとよく聞きます。
哲学では、「魂がある」とまず決めてしまいます。
それでも、決めたらそれで終わるはずなのに、それから、その魂はどこにあるのかと探すのです。
どこにあるかも分からないものなら、魂があるかどうかもまだ分かっていないということではないのでしょうか?
神学でも「すべては神様に創造された」と言いますが、それならそれで問題は終わるはずなのに、
ではその創造した神様を探そう、と、それから神様が存在する証拠を探すのです。
だから彼らには、同じところをぐるぐる回るだけでいつまで経っても答えが出てこないのです。
ヒンドゥ教でも「魂はある、アートマンはある」と決める。
あると決めればそれで終わるはずなのに、そのアートマンはどこにあるとか、どんなものかなどとかなどと哲学を作ります。
あると知っているなら、それがある場所も、どんなものかもすぐ分かるはずですけど。
自分で勝手に迷路に入って、間違っている同じところでいつまでもぐるぐる回っているだけです。
「魂」 とか「我」とか「宇宙を作った神」とか、何千年もの間、あるあると言いながら探しているのに未だ見つかっていないのですから、
一度立ち止まって、そんなものが本当にあるのだろうか、と調べ直した方がよいのではないかと思います。
お釈迦様は「すべての哲学が、袋に閉じた網の中であっちに行ったりこっちに行ったりするだけで、出口は全然見つからない」
とおっしゃっています。 >>510続き
我々が知っている大乗仏教も同じ過ち、仏教だったら絶対やってはいけない過ちを犯しています。
失礼な言い方をしますが、大乗仏教はブッダの教えから脱線しているのです。
日本の学者も明治時代には「大乗は仏教に非ず」というところまで突き止めて研究していたのに、
他の人たちに叩かれてそれも立ち消えになりました。
学問的に正しく叩かれたわけではなくて、感情で「あなたそんなことを言ってはいけません」と言われて潰されたのです。
その上、大乗仏教はやっぱり仏教だよという研究が発展してしまいました。
でも、やっぱり魂はあるという概念から大乗仏教は始まりますから、魂という言葉は使わず、法身があるとか言いますが、
あるならそれで終わりで、それ以上考える必要も何もないのに、そこからどうしていろいろ考えるのでしょうか?
あるかないかという結論は普通は最後に来るものですが、この人々はまず「魂はある」と結論を決めて、
この結論はどうやって成立するか、実証できるかとがんばっているのです。
仏教は逆に、普通の方法で、証拠によって結論を導きます。魂があるかどうか徹底的に調べてから、結論を出すのです。
結論を最初から決めたりしません。その結論はもう、釈尊が二千五百年前に出しています。
心にも心所にも「我」も「魂」もない
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) ≪釈尊は「我」を認めた?≫
ある学者の人々は、それでも我があってほしいから、
「お釈迦様は、『我はどこにもない』とは言っていない。
我でないものを我と受け取るのが嫌で無我と言っただけで、真我そのものを否定してはいない」と言うのです。
「自我は否定しても自己は否定していないぞ」とも言います。
言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。
お釈迦様の鋭さが見つかっていないというか、それを感じていないのです。
お釈迦様は人にショックを与えないで丁寧に智慧の方向に導くのです。
私たちが何かを付け加えることも、解釈を拡げることも不可能です。
遺された教えの中のほんの僅かのものを説明することしかできません。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) >>510
仏教哲学(?)も網の中で右往
左往しているだけにゃん 🎵
南無南無 ( ´人`) ≪「ない」と言うのは、難しい(まめ知識)≫
(略)
このように「ない」と証明するのは、簡単ではないのです。
気軽に「ない」と言い切れるものではありません。空間、時間を考慮して、限定的に語るしかないのです。
ここで多くの人が引っかかります。
たとえば、「お釈迦さまは非我とは言っているが、無我とは言っていない。我を完全に否定したわけではないのだ」と言う人たちがいます。
私にとっては、無我でも非我でもどうでもいいのですが、
要するに彼らは「ブッダは我を認めていたのだ」「ブッダは我がないとは言っていない」と言いたいのですね。
子供の言いがかりのように感じます。これは彼らが「ない」と言うことの難しさを理解しないからなのです。
逐一こういう論理的に厳密な言い方をしていると話がわかりにくくなるので、
私も「永遠不滅の神はない」といった、 論理的には穴のある一般的な言い方をしています。
しかし、厳密に真理を語るなら、「永遠不滅の神があることは発見できない」という言い方が本来は相応しいのです。
少し頭の隅に置いておいてください。
アルボムッレ・スマナサーラ. 無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福― (サンガ新書) スマナサーラさんは、我はないけれども、他者はあるとでも思ってんのかな 我がないということは、誰かの意志なんてものが成立しないのだから、大乗の人々なんて、どこにもいないではないかw お前らw真面目すぎwww
洒落のわからん人間はつまらんぞw >>518
生死の話なんだから、真剣になるでしょ
わたしがないのではなくて、わたしはあるから、いなくならないとだめって言ってるように感じてしまうんだよね
私はある、と見ている
また他者もあるとみている
その上で
私があるからいけない
釈迦の教えは無我だよ
あなた!
わたしがあるようだね、いけません
わたしを無くしましょう
というような感覚
まあ、ぼくの勘違いかもしれない
スマナサーラさんは、怒らなくなるような感じの本を読んだけど、こんなイメージだったかなあ
無我にいまからなるの? 私がいない、無我
ということは、今、この掲示板に書き込みをしているのは、私ではない
という意味だよね? >>520
無我っていうのは、常・一・主・宰の我はないという意味で、
五蘊が現象している我は刹那滅をしながらも存在しているってことでは? >>523
えっと永遠の私、は、存在しないが、今、ここにいる私は存在してるってことですかね
その私は、存在してるけれども、永遠ではないっと
じゃあ、存在してるなら、私はいる
ということで >>524
しかし、普通の意味で無我と聞くと、我がない
もしくは、無が我である
の、どちらかなのかなとイメージする
そうなると、ジャンキーさんという人も居ないし、この、書き込みをする動作が起こっている主体、意志のあるものが、肉体の中どころが、どこを探してもない
という意味のように聞こえる
そうなると、大乗の人々は、どうのこうの
以前に、
上座部の人々など、どこにもおらず
それらの現象が、自然に、機械的に、まあ、太陽が昇ったり沈んだり、するかのように、完全に自動的に巻き起こっているようになる
わたしがないなら、わたしの意志がない
意志はあるが、それは、わたしの意志ではない
そうなると大乗の信仰は、縁によりて起こっているだけで、批判する対象者など、存在しないが、それにもかかわらず、あいつらは、アカン
あいつらはどこにいるのかw >>524
≪「無我」 の「 我」 とは アート マン≫
「無我」は、誤解しやすい言葉です。
仏教は、単純に「私はない」という意味で、「無我」を語っているわけではありません。
生命には、感覚によって起こる、「自分がいる」という実感があります。
目や耳や鼻から起こる感覚によって、常に「ああ、自分がいるんだ」という実感をつくっているのです。
仏教は、こうした素朴な意味の「自分」を否定しているわけではありません。
「自分がいる」のは、ごく当たり前で、普通なことです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方
上引用文の続きは
>>64-65 >>526
自分がいるのが当たり前のことを言っているのなら、有我にならないのかなあ
観念的なわたしのことを言ってるのかな
アートマンっていうのが、ないのなら、真のわたしなんてものを探求する必要もないわけだ
わたしはいる
しかし、わたしは有限であり、永遠ではない
だいたい
みんな
しっている >>524
勿論、あなたがいなけりゃ、こうしてレスは出来ませんもんね。 様々なものが因縁仮和合して現象をしてるんですよね。
その現象の一つがJunkie-Ooyamaですよw >>527
> 自分がいるのが当たり前のことを言っているのなら、有我にならないのかなあ
元々、古代バラモン教の常・一・主・宰の我に対するアンチテーゼとして、
無(非)我という術語をお釈迦様が編み出されたんじゃないのかな?
有我 〜 常・一・主・宰の我、常見
無我 〜 我は無い、断見
仏教の無我 〜 上記の常見・断見を排して縁起を視座に置いた現象としての我
って感じですかね。
確かに分かりづらいし誤解を招きますよね。 >>519
いや、
勿論、真面目に考えるべき問題だとは思うよ。
「言った言わない」 & 「そういう意図でない」
などといった、【教義の伝承】に直結するトコだからwww
つか、お前ら、この構図の類似(重要性)に気付いてないわけ?w 文言では「思い切って当たれ」、
文脈では「ケガさせろ」、
って感じなわけさ。
┐(´ー`)┌ >>525
(V.1.10)【ヴァジラー尼】 (尼僧に関する集成) サンユッタ・ニカーヤII
http://kokoronoeiyou.seesaa.net/article/262164494.html
あなたの疑問には相応部経典の上記仏説が答えになる。
仏弟子で阿羅漢に達したヴァジラー比丘尼が悪魔(マーロ・パーピナー)への問答の中で答えを出してる。
>6.ついでヴァジラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向って詩を以て答えた。−−−
>「そなたは何故に〈生ける者〉というものを認めるのか?
>悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。
>この〈生ける者〉はただ諸々の形成されたものの集合である。
>ここに〈生ける者〉は認められない。
>譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、
>それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
>実に苦しみが起こり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。
>苦しみのほかには、なにものも生起しない。苦しみのほかには、なにものも滅びない」と。 >>533
>譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、
>それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
この「仮の想い」というのが重要かな、と。
その後に続く、ヴァジラー比丘尼がいう苦しみは無常、無我、空という言葉に置き換えることもできる。
>>534
このレス番までの意味は、わからないけど
何のために手放しが必要なのか?について
仮設としての
縁起している世界を手放して超えていく
そのための対機説法として
我所ではない
我でもない
「想う」という想いではない
「想わない」という想いでもない
非想非非想も手放して超えていく
そのための導き
これなら意味がわかる(かもしれない)
「我がある・我所もある」と掴もうとしている想いがあると
縁起している世界を手放して超えていくことができない
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
>>535の続き
仮設としての
縁起している世界の中で
無明薫習に依存して
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命が
ある。という『想い』が現れて、そして滅している
− これを対処するために −
「我所がある・我もある」と
掴もうとしている『想い』を手放して
縁起している世界を手放して超えて
そして涅槃
という対機説法
これなら意味が、わかる場合もある(かもしれない) 皆の衆、お早うにゃん ♪ (^o^)ノ”
思考や感情等の枝葉に囚われて
幹である本能を軽んじ無視して
いる限り真理には届かないにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ ≪なかなか理解できない生命の「心」≫
世界には数あまたの宗教がありますが、ほとんどの教えでは「創造主」「唯一絶対神」「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった、
何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると教えています。
それほど信仰心のない一般の人々も、それをなんとなくボンヤリと信じていて、
「神を信じていれば永遠の天国にいけるのかなぁ」とか「 自分には魂があるのかなぁ」とか思っています。
日本の主要な宗教である大乗仏教でも同じことです。
「創造主」「永遠の魂」などと言う代わりに「如来蔵」「仏性」「法身」、
日本の宗派仏教になると「大日如来」「久遠実成の仏陀」などと言葉を作っていろいろ概念を入れ替えるのですが、
結局は「真我」とか「魂」とか、何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると考えているのです。 >>538続き
そういうわけで、「勝義諦・真にあるもの・真実」が「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」
という説明自体、始めはなかなか理解しづらいと思います。
「『真にあるもの』だったら、永遠不滅のはずじゃないか」というのが、ごく一般的な反応でしょう。
「勝義諦・真にあるもの・真実」の一つが「心である」と聞いたとたん、私たちが持っている「永遠不滅の魂」といった
概念・固定観念で思考がカチンとロックされてしまって、そこから頭の切り替えができなくなるのです。
「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」という仏教の「心」、勝義諦としての「心」には、
たとえ仏教を勉強していても、なかなか肉薄できないようになっています。
アビダンマの勝義諦である物質・心・心 所 のどこを探しても、永遠の魂や他の絶対的な存在は見つかりません。
ならば最後に現れる「涅槃」こそが永遠の魂だと決め付けても、それは大間違いです。
もともとなかった魂が、「涅槃」になったとたん突然現れるはずがありません。
「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった実体論は、ゴミ概念として、仏教ではスタート地点から排除しているのです。
ですから私は講義の最初に、「真我」「魂」といった考え方をきっちり批判しておきたいのです。
むしろ「真我」「魂」といった我々に骨がらみになっている固定観念をとことん論破することによってこそ、
アビダンマの語る「心」の独自性、仏教の超越した智慧のすごさが、ありありと浮かび上がってくるのではないかと思います。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) 怨念弱犬チワワわわわわーんの人気は、このスレで起きるの? >>528
レスがあることが、普通は、わたしの意志なるものによって、主体の判断によって行為があると見られているが、実際は、そのようなことが様々なキッカケによって巻き起こっているだけで、誰かが、存在して、その、レスをしたということではない
ってことじゃなかったのかなあ
それに私があるのなら、滅するに決まってるから、苦しみは去らないし、死の乗り越えられることもない
だから、私がないというのは、わたしなるものは、事実、どこにもいないってことじゃないかなあ
感覚があるのは自明だが、それは、わたしではないってことじゃないの?
だから、スマナサーラさんが、散々文句言ってる、大乗の人が、存在してないはずとおもったんだよね
五蘊の集積が、勝手に起こって、それに対して、勝手に、わたしと言ってるだけで、それは、たんに自然現象に過ぎない
だから、わたしなんてどこにもなく、わたしの責任もなく、わたしの死もない これらの否定しさった先に、涅槃とか、真我とか名付けてみても、それは、存在しないものなのだから、同じことで、、、
アートマンとよんだのは、自己の真相だからであって、同じものを涅槃とか呼んだのかもしれない
なにしろ、否定しさった先の話ではある
この否定しさった先には、実在がないのだから、どうのこうのいえない
だからマハルシさんも、これは、真我のことを釈迦も説いたと言えたのじゃないか あなたたちは、わたしがある
ケシカラン
わたしは、わたしがない
えらい!
というのは、どうもw 「わたしは、わたしがない」
簡単に言えば・・^^
分別された私は私ではないということ・・^^
つまり・・^^
その私は非我であると・・^^
こういうことだな^^
「私のおもいどうりにならない^^」
この私は私ではないと・・・^^
ゆえに怒りが生じ・・苦が生じる^^ もっと簡単に言えば・・^^
執着するのが自我であり・・^^
執着しないのが真我であると・・^^
こういうことにしておこう^^ 自我であるがゆえに執着する^^
真我であるがゆえに執着をもたない^^
簡単すぎた感がある^^ 自我であるがゆえに執着する^^
つまり・・苦が生じる^^
真我であるがゆえに執着をもたない^^
つまり・・静寂の境地
つまり・・・^^
人は悟りを開く二面性を持っていると・・^^
こうなる^^ 人は悟りを開く二面性を持っていると・・^^
う〜〜ん^^
これは・・^^
「人はもともと悟っているのになぜ修行をするのか・・」
この言葉が浮かんできた^^ 「人はもともと仏であるならばどうして修行して悟りを求める必要があるのか・・・」
道元ちゃんか・・・^^
やはりな・・^^ 結論として・・^^
苦が生じたらそれは自我であり非我であるとかんじることだな・・^^ スッタニパータ
916.
“mūlaṃ papañca-saṅkhāya, (iti bhagavā)
(師は答えた)現象世界の根源である
mantā 'asmī' ti sabbam uparundhe.
考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を、すべて破壊せよ
yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
内にある、いかなる渇愛も
tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
それらを制するために、つねに注意して学べ うん?
「考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を・・」
これ・・・^^
544因縁果 ◆d........o 2018/05/24(木) 18:54:53.08ID:AktvjG4/
「わたしは、わたしがない」
簡単に言えば・・^^
分別された私は私ではないということ・・^^
まさしく^^
「考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を・・」と・・
「分別された私は私ではないということ・・^^ 」これ^^
表現は違っても意味はおなじや・・・^^
うわっ^^
おいらがスッタニパータ書いたまである^^
寝る^^ 「現象世界の根源である考えて‘(私は)ある’という(不当な思惟)を」
これ分別のこと言ってるんだよな・・^^
分別は虚妄の世界であると・・^^
分別は無明から生じる^^
そして・・煩悩は分別から生じると・・^^ 「ケガさせろとは言っていない!」
「我がないとは言っていない!」
「いや、ケガをさせろという意味にしか受け取れませんでした」
「いや、我は存在しない、としか受け取れませんでした」
さて・・・
悪いのはどちらだろうか?w 分別(不当な思惟)すると自我が生起し苦が生じる・・^^
現象世界が滅しない限り真我は現れないか・・^^ 「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」やな・・^ omaekosoga kakurisarerubeki jinbutu >>560 生死の中に佛あれば、生死なし。またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。
こころは夾山(かっさん)定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の 人のことばなれば、さだめてむなしくもうけじ。
生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨をあきらむべしもし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひおもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱(げだつ)のみちをうしなヘり。
ただ生死すなわち涅槃(ねはん)とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分あり。
(現代語訳)
「迷いの中に悟りがあれば、迷いはなくなる」また言う、「迷いの中に悟りがなければ、迷いに迷うことはない」
この言葉は、宋代の禅僧の夾山善会と定山神英という二人の禅師のものである。悟りを得た人の言葉であるから、無意味なものであるわけがない。
迷いから離脱したい人は、まさにこの言葉の真意を明らかにすべきである。人がもし、迷いの中で、別のものとしての悟りを求めるならば、車の轅を北に向けて南の越の国に向かい、顔を南に向けて北斗星を見ようとするようなものだ。
それだと、むしろ迷いの原因を寄せ集めて、ますます解脱への道を見失ってしまう。
ただただ「生死」が即「涅槃」だと心得て、「生死」 (迷い)であるからといってこれを忌避せず、「涅槃」を願ってはならない。そうしたとき、はじめて「生死 (迷い)を離れる手立てができる。 ≪「生命とは何か」とブッダが問う≫
初期仏教では「生命とは何か」ということに、客観的で具体的な答えを出そうとしています。
それは私たちの問題のすべてが、「生きている」ということから生じているからです。
私たちにはさまざまな問題や苦しみがあって、それをなくしたいと思っています。
そのために宗教を信仰する人もいて、信仰しない人もいるのですが、宗教に興味を持とうが持つまいが、
神を信仰していようがいまいが、仏教のどんな宗派に属していようがいまいが、
すべての問題は基本的に自分が生きているから成り立つことなのです。
生きていて完全に満足で不満がないなら、何も探し求めようとしないはずでしょう。
≪ヒンドゥー教の出す答え≫
他宗教では生きていることの研究なしに、ただ答えを出そうとするのです。
たとえば「生命は自然発生したものである」という答えもあります。
「神様が一切の生命を創造した」という答えもあります。
ヒンドゥー教の教典『バガヴァッド・ギーター』では、『般若心経』が「空」を説くように、「カルマヨーガ」の教えを説いています。
これはつまり「天命で与えられた義務を果たせ」ということです。
それでヒンドゥー教では、「四つの身分のカーストまで神が分けたのだ」「だから苦しいことがあっても、がまんしろ」と説くのです。
「神様が創ったものだから、神様の企画、考えであって、創造された私たちはそれに従うべきでしょう」と。
どんな不条理なことがあっても、神がそう定めたのだから、その行為をしているだけであって、そこに「私」はないのだというのです。
「私がいる」という意識がなく、神に定められた仕事をできるならば、それはカルマ・ヨーガであって、それこそ梵我一如、真理と一体になる道であると説きます。
それがヒンドゥーの神概念なのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? ≪西洋一神教の出す答え≫
西洋のキリスト教社会でも神が人間を創造したと説いているのですが、神の計画はうまく運ばなかったのです。
計画に失敗した神は、ノアの箱舟の時代に生命をまとめて処分するのですが、それでもうまくいきませんでした。
そういうわけで「あなたがたは、頑張って神の意思どおりに生活すべきだ」と言われるのです。
キリスト教では、神が自分の息子であるイエスを殺すことで、神の意思に従わない人間の過ちが許されたと言っています。
アジア的には理解不能な理屈です。
なんの罪もない自分の息子を残酷に殺したことで、父親が満足する?それで他の人間の罪を許してあげる?
なんという倒錯した話でしょうか。
まあ、彼らは、充分代償を払ったと言いたいのでしょう。
罪人だったら磔になっても自分の罪の一部がチャラになるだけですが、 完全に清らかなイエスが死んだことで、その徳の貯金が残ったらしいのです。
その貯金で罪深き人々が救わ れるという理屈です。
どうして私がキリスト教の説明をしてあげなくちゃいけないないのかわかりませんが、そうやって、みんな悩んで、いろんな解決法をひねり出すのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? ≪「生きている」とはなんなのか?≫
ブッダの違うところは、こう気づいたところです。
「あれ?これすべて自分が生きているから成り立っているんじゃないかな?」と。
生きることが苦しいか幸福かは、生きているから気になるのです。
「自分はどこから来たのか」というウパニシャッド哲学者のような疑問さえも、私がここに生きているから生まれるのです。
形而上学的、観念的に頭で考えても、一つも証明できる答えは出ません。ただの自己満足です。
だからブッダは、「生きている」ってなんなのかと、まず分析するのです。
それが科学的に人間の問題を解決する唯一の方法なのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? ≪勝義諦 4:涅槃は寂静≫
心、心所、物質を全部理解したところで、四番目の涅槃 nibbana という状態も分かるのです。
エネルギーとエネルギーがぶつかって認識が生まれて、それでまた違うエネルギーになって、
きりがなく流れていきますが、ではその流れを変えたら(止めたら)どうなるか。
どうにもこうにも、話すことも動くことも心に何か思うことも、何もできない世界になります。
そんな世界があるのかないのかさえ、 想像することもできません。
認識することによって「私がいる」と言うだけなのですが、その認識することができなくなったら
(認識の流れが止まったら)そこに「私」はいるのでしょうか?
「私」はどうなったのですか?次の状態はどういう状態ですか?何も説明できません。
次の状態は認識できない状態ですから、何の言葉も、何の存在の次元も当てはまらないのです。
どんな理屈でも考えられません。言語の世界も、体験の世界も、思考の世界も、すべて終わりです。
心と心所と物質を理解しても、それは全部、現象の世界です。
その現象の世界を理解してしまえば、それを全部乗り越えてしまいます。それを涅槃と言います。
ですから涅槃は一つしかありません。現象が消えた状態、それだけです。
現象が消えたら、それは消えたという一つのことだけですから、一つなのです。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) 皆の衆、お早うにゃん ♪ (^o^)ノ”
金槌で掌を力任せに殴った後の
寝言なら読む価値が有るかも
知れないにゃん ♪ (笑) ('∀`)ノ
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>566
> 心と心所と物質を理解しても、それは全部、現象の世界です。
>その現象の世界を理解してしまえば、それを全部乗り越えてしまいます。それを涅槃と言います。
>ですから涅槃は一つしかありません。現象が消えた状態、それだけです。
その現象が消えた世界である涅槃は一切なのか一切外かのか論点になってたような気がする
涅槃を一切に入れてしまうと涅槃まで一切皆苦の世界になってしまうのがおかしいとかなんとかで 一切の現象がない状態を空というのではなくて、一切の現象は五蘊によって形成されていて、その五蘊は縁起しているから、無自性であり、つまり、それそのものとして、恒常的に存在するものではないので、空である
仮にあるものに名称と形があるが、それらは、それそのものとして、単独で存在しえない
ってことじゃないの??
認識が止まるって、じゃあ意識不明とか、寝てる時は涅槃なのかってことになるやん 実際はだれもが仏なのに
気がついてない
しかしスマナサーラさんの説は
オレは仏じゃ!
おまえらとは違うのじゃ!
と聞こえるのです 一切というからには、涅槃もその中に含まれるのでしょうね。
ところで、「苦」とはご周知のとおり「思うがままにならない」の意だったかと思います。
つまり、様々なものが因縁仮和合してまた縁起しているから「思うがままにならない」のです
ところで、涅槃に至るのも至らないのも「思うがままにならない」なかで起こるその方の内面の変化です。
「思うがままにならない」中で顕現した内面の変化や智慧の発現(ほつげん)によって得られたものは、果たして「思うがままにならないもの」でしょうか?
勿論、内面の変化があったその方は五蘊からなるものですから「思うがままにならない」存在ですが、その存在の智慧の発現よって得られたものは、果たして「思うがままにならないもの」でしょうか?
> 仏教徒の大間違いの原因は、
> 「一切」の理解に失敗したことにあります。
> つまり、「一切」の中に「涅槃」を含めてしまったことです。
なにか根本的なところで勘違いをされているように見受けられるんですが? 追伸
仏の智慧は、一切を一切たらしめている虚空に例えられますけどね。
無為 (仏教)
ウィキペディア参照
中観帰謬派
『中論』の第七章では
有為法が実有なるものとして成立しえないことを述べたあとで
「(生と住と滅とが成立しないが故に)有為は成立しない
また有為が成立しないが故にどうして
(仮設としての、縁起している世界の中において)
無為が成立するであろうか」と
中論 第七章
原因によるもの(条件〔縁〕づけられたもの〔有為〕)の考察
生じ、消滅し、そして存続することが確証されないので
部分と原因で構築された事物(有為)は存在しない
もしすべての構築された事物が確証されないなら
(仮設としての、縁起している世界の中において)
非構築的なもの(無為)などがどうして確証されるだろうか
夢のように、幻影のように
ガンダルヴァの都市のように
生じることと存続すること
そして消滅とが説明されたのである
縁起している世界を手放して超えて → 涅槃 だからw
お前らは、
「日大側(内田・井上)の言辞」と「違反プレー選手の言辞」と、
どっちを信用するんだ?
という話。 法華七喩は良く出来てるがセブンの比喩は本当の意味での自画自賛(しかない)からなあ >>570
≪テーラワーダと大乗の運命≫
大乗仏教が、自分と違った仏教徒たちを「小乗仏教」という蔑称で呼ぶのは、学問的にも正しくありません。
自分の教えに「大」を付けるのはかまいませんが、他人の教えに「小」を付けるのは仏教の基本的な考えにも反します。
仏教は「生命は平等だ」とします。他をけなすことを悪いことだとするのです。
しかし、テーラワーダ仏教も、大乗仏教に対して、「お釈迦さまの教えではない」という立場をとります。
言い換えれば、「仏教でも何でもない」というようなニュアンスです。
互いに汚れているのに、相手に向かって「あなたは汚い」と言えたものではありません。
仏教は、お釈迦さまの教えです。お釈迦さまの教えがなければ、仏教は存在もしないのです。
ブッダがすべての生命に、今ここで幸福に達する道を示されたのです。
仏教徒たちは皆、仲良く、争うことをやめて、世界に平和と幸福への道を教えたほうがよいのではないかと思います。
それをする上で邪魔に なるのは、各宗派のしきたりや習慣です。また、各開祖たちの教えです。
開祖の思考は、本師の思考より優れているわけではないのです。この問題を解決する方法があると思います。
テーラワーダ仏教・大乗仏教というのではなく、テーラワーダ文化・大乗文化と命名すればよいのです。 >>578続き
それぞれの文化が違うのは当たり前のことです。西洋文化・東洋文化というのは、違いがあることを示しています。
そこには「文化同士で争ってはならない」という意味が入っているのです。
東洋人は西洋文化を理解する、西洋人は東洋文化を理解する。それで皆、仲良くなる。
仏教の場合も、それぞれを「文化」にしてみれば、いとも簡単に仲良くなるのです。
テーラワーダ文化も大乗文化も、お釈迦さまの真理の教えが両仏教の心臓だと思えば、仏教はもう一度、世界一の宗教になるはずです。
一貫して人類の平和を語る教えなので、一貫して一切の差別を否定する教えなので、
すべての人類は仏教の教えにしたがって幸福になると思います。
仏教徒は、何の価値もない神秘やしきたり、どうでもよい習慣などを強調すること、誇示することをいいかげんにやめ て、
人類の心の闇をなくすために、人類の苦しみをなくすために、努力することが義務だと思います。
アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダは真理を語る: テーラワーダ仏教の真理観とその変容 (高野山大学での講演録) 世界一の宗教とか人類が幸せとか言うヤツはまだまだ修行が足らんだろ。(笑)
修行始めたばかりのガキかよ。(笑)
(^。^)仏様でもあるまいに分を弁えろと、何様のつもりだと言いたいね。(笑) >>580
【人類が幸せ】
最澄
「一隅を照らす者、これ、国の宝なり」
空海
「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きなむ」
明恵(9歳時)
「我れ、親類の後生(ごしょう)たすからむがために、法師になして尊とからむとす。
然(しか)ればその志を知りて尊とかるべきに、何ぞこの馬におとるべき。
今は法師になりて尊く行ひて親類より始めて、みな一切衆生を導引(みちぎ)かむと思ふ願いをおこす。
その後類親(るいしん)の恋しさもうせぬ。
尊とからむことをのみ思ひき。
かくの如く思ひつづけて高尾にのぼりつきぬ。
すなわち上覚上人に付きて倶舎頌(くしゃじゅ)を受け始む」
道元
「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。
そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり」
一遍
「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」
日蓮
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし」 581.釈迦が、そんなことを言ってるかや。バカ弟子の証拠である。
バカ弟子が作ったバカお経が多い。法華経は、その代表である。 >>581
本気で>>579の文脈で言う「人類の幸せ云々」と引用した文意が同じだと思うんですか? >>583
>>579
>一貫して人類の平和を語る教えなので、一貫して一切の差別を否定する教えなので、
>すべての人類は仏教の教えにしたがって幸福になると思います。
>人類の心の闇をなくすために、人類の苦しみをなくすために、努力することが義務だと思います。
うん、スマナサーラと仏教幸福論と日本の高僧が言ってた衆生救済利益の趣旨はまあ同じだね^ - ^ 成る程。
従えと言うのと願うと言うのとは全くと言って良いほど違うとは思わないんだね?
なら、君はオウムの与太話が仏教だとか言う連中と同じだよ。
仏教はヒンドゥーのアヒンサーと同様に非暴力をとき、他者に服従を強要するものではない。
君は基地子などのエセ仏教徒と同類だよ。 >>582
>>579
一貫して人類の平和を語る教えなので
→スッタニパータの「武器を執ること」の内容や五戒のうちに不殺生戒があること、マガダ国王にヴァッジ国を攻めるのを諦めさせたこと、などから間違ってはない
一貫して一切の差別を否定する教えなので
→バラモン以外の人でも正しい道の実践により悟れるとした、事実アウトカーストの人でも阿羅漢に何人も成っている >>585
したがって〜と思います
と個人の見解を述べているのであって
従えと強制しているわけでもなんでもない >>585
まさか真言宗では法布施や利行などの四摂法をスルーしているわけではあるまいて( ̄∀ ̄) >>587
理解出来ないんだが、君は
「人類は仏教に、したがってしあわせになると思います」
と書いてあるように見えるのかな?
それとも「したがって幸せになると思います」という文章だけしか理解出来ないで、前後の単語は読んでないのかな?
外国の人か?
日本語の翻訳ソフトがわるいのか?
なんにせよ、まるで話にならないな。
「俺のブッキョーに従えば幸せになるんだよ」
なんてのは、ごく一部の日本人にしか通用しませんよ。(笑) あと「文化」云々と言ったすぐ後に、
「どうでもいい習慣は止めろ」なんてところからも、
此奴の駄目っぷりが垣間見えるわな。(笑)
こういう文脈を全く理解出来ないで、偉そうにされたらコロッと騙されんのはバカカルト信者と同じだよ。(笑) あと、俺は元真言で、今は全く関係ないからね?(笑)
思想的にも大分違うから。(笑)
まぁ、古参なら今さらだろうが、
なんかバカカルト信者は俺が今も真言だと誤解しているみたいなんだよな。
(^。^)連中には日本語通じないからイチイチ訂正してないけど。(笑) 皆さん、ただいま〜♪
「成田山新勝寺」の開基1080年祭/記念大開帳、
二泊三日の参拝旅行から帰宅して、やっとこ落ち着きました。
元々、普段から脚のふくらはぎの痛みを持っているので、
隣接する公園と合わせて東京ドーム約8個分の広さを誇るという新勝寺の敷地内を歩き回り、
そして、お土産選びのために総門前の参道を行き来して、遂に脚がパンクしてしまいました(苦笑)。
ところで、
新勝寺では4/28〜5/28(毎月28日は不動尊御縁日)の1ヶ月間限定で十年に一度の御開帳だとしていたので、
これは秘仏である成田山開山の縁起不動尊を拝することのできる実に貴重なイベントという認識なのでしたが、
しかし実際には、成田山新勝寺ではあくまでもそれはイベントの開催ということであって、
開基の縁起不動尊が普段は秘仏として非公開となっているということではなく、
普段から常時、大本堂にて公開のままでお祀りされているということなのでした。
現地で初めてそのことを知り、私はやや拍子抜けした...。
まっ、結果的には有難くお不動さまを拝することができたわけだし、
元々、以前から“非公開の秘仏”という在り方に対してはいつも疑問を持っていたので、
その意味では、嬉しい誤算なのでした。
そもそも非公開の秘仏の意味やメリットとは何か? というと、
結局のところ、参拝者に対してレアな有難感を与えるためなのだろうけれど、
これって、秘仏扱いのホトケ様ご当人にとっては如何なお気持ちなのだろうか?
私の察するところとしては、そんな暗闇に閉ざされて寂しい扱いを受けて絶対に嬉しい筈がないのであって、
きっと本当は、普段から普通に明るい処で多くの人々に慕われて拝されることの方が遥かに嬉しいに決まってる。 ちなみに成田山新勝寺について簡単に紹介しておくと、
私の家の菩提寺である真言宗智山派の三つある大本山の一つ(他二つは、「川崎大師平間寺」と「高尾山薬王院」)で、
例年、初詣(正月三ケ日)の参拝者数では明治神宮に次ぐ全国2-3位を川崎大師と分け合っていて、
年間参拝者数1000万人を誇るという人気の大寺院。
歌舞伎の初代/市川団十郎が跡継ぎに恵まれず、こちらで一心に子授けを祈願したところ見事、待望の長男を授かったという。
以来、感謝の心を込めて成田のお不動様を演じる演技で人気を博してから、寺院の信徒参拝者が大きく膨れ上がった。
現在の成田屋市川宗家の十一代目/市川海老蔵と麻央さんはこの寺院にて挙式をあげました。
そして、肝心の成田不動の開山縁起はというと、
寺院側からの説明によれば、この不動明王の尊像は真言宗宗祖の空海、自らが一刀三礼で彫り上げたものだという。
平安時代に平将門の乱が起こり、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正がこの戦乱を鎮めるべく
不動明王の御尊像と共に関東(現在の成田)の地にて二十一日間の御護摩祈祷を厳修して、
めでたく結願の日に将門の乱が終息した。
寛朝大僧正が役目を終えて都へ帰ろうとしたところ、不思議と御尊像が磐石のごとく動かず、
「我れここに留まって、関東の地を護る」とのお告げを受けた、というのがこの成田不動の始まり。 >>325-326
要するに、
あくまでも対機説法なんだということを理解しないとまったく話にならないのです。
これらのゴータマによる湖の中への投石や油の話というのは、
パラモン呪法を全権万能だと錯覚しているバラモン祭祀たちに対する諭と戒めの対機説法ですから。
つまり、如何に強力なバラモンの呪力であろうとも、物事にはできることとできないこととがあるということ。
生前の生き方と行為のすべてが死後の行き先を決定づける業報においては、
たとえバラモン呪力といえども直接的な作用はできないでしょう。
しかしながら、それでも死者供養という意味においては決して無駄ということではなくて、
ゴータマは善生経(シンガーラへの教え)の中で先祖供養について説き、
祖霊に対して適当な時々に供物を捧げなさいと教えています。
また、特定の祖霊に廻向することはできないとしながらも、
餓鬼地獄に堕ちている自分の祖霊を含めた餓鬼存在に対しては広く供養を届けることができるとしています。
そして当然、これらの供養の行為は善行として施者に功徳をもたらすものであるので実践されることを奨めています。
(藤本 晃著『パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養』)
http://nbra.jp/publications/69/pdf/69_26.pdf
ゴータマによるバラモン呪法に対する禁止事項というのは直弟子である出家僧たちに対してのものであって、
その理由というは単純明快であって、自分の教える解脱成仏法であるところの
三十七菩提分法の修得実践に完全集中しなさいということ以外にない。
もちろん、バラモン呪法が単なる迷信に過ぎず効力が皆無という意味などではないから、勘違いしないように。
ゴータマのバラモン呪法の優れた効果を認める記述は『スッタニパータ』の458.509.568などに明らかです。
真言宗が修する加持護摩祈祷は、このパラモン呪法のホーマを継承したものであり、
彼らこそは、現代に蘇ったバラモン達そのものなのです。 私がいつも述べるように、
本当に困難の只中にあって苦しんでいる者には説法などはまったく役には立たない。
行方不明ですでに死んでいるかもしれない我が子の安否に苦悩する日々を過ごす母親に、
「それらは無我であって、自分ではない、また自分のものでもない、
自分のものでないものと自己を同一認することから苦悩が生ずるのだ...」
などという言葉などは母親の耳には入らないし、たとえそれを知ったところで苦悩の解決にはならない。
きっと母親は、「そんな話はどうでもいいから、一緒になって子供を探して欲しい」というでしょう。
この母親の苦悩を終焉に至らしめる方法はただ一つ。それは我が子が(生存の有無に関わらず)見つかることだけです。
密教には、それを可能ならしめる神秘力がある。
子供の居場所を示し、或いは遺体を浮かび上がらせる奇跡を発揮する。
顕教(密教以外の諸派)にはできない。
この密教の神秘力によって援けられた人間は、
必ず心から神仏に対する感謝の念を抱くようになる。このことが重要なのです!!!
その後、その人は自ら進んで教えを受けて道に入ることになる。
密教の現世利益をもたらす加持祈祷はそのためにあるのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/639-713
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/454-456
https://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1404308683/964-965 >>401-402
>例えばラーマクリシュナの言葉を読んでみますと、色界第一禅定くらいは経験がある感じはしますが、
>それでもまだ、「神がいる」とか「魂がある」とか「梵天がいる」などという状態なのです。--中略--
>これは、スマナサーラさんが仰るところでは、
>魂論・真我論・有神論・などの観念信仰からラーマクリシュナといえども抜け出せなかったので、
>正しく真実を見抜く眼力を持つことができなかったからのようです。
“魂の認識”や“神(梵)との融合”という話はすべて、
彼らによる実際的な自己体験にもとづいたものです。
長老にその体験がないのなら、まだそのレベルまで到達してないだけのこと。
ゴータマがこれらを完全否定したなどとい話は、単に仏典の読み違いによる誤認です。
テーラワーダの伝統護持とは、間違った部派の教義を守ってきだたけのこと。 >>568
はい、その通りです。
重要な部分をシッカリと読まれていますね。
>>571
>一切というからには、涅槃もその中に含まれるのでしょうね。--中略--
>なにか根本的なところで勘違いをされているように見受けられるんですが?
いやいや.冗談じゃないな。
では、私のほうから(自称仏教徒らすべてに対して)問う。
(私からの図式解説はそれからだ)
一切の中に涅槃が含まれてることを示す経文があるのならば、是非ともここに提示して欲しい。
そんなこと絶対にできやしないから。そんな教えは最初からないのだから、当然できる筈がない。
ゴータマの説かれた一切に涅槃が含まれることがないことは、
経典の中から一切に関する経文をチェックしていけばすぐにわかること。
ただし、何でも在りの創作/大乗諸経典や論書の類いからではなく、
歴史上のブッダの教えが含まれるとされる仏典/原始経典(パーリ五部聖典or漢訳阿含)のみでお願いする。
もしも、この私が間違ってたのならハッキリとここに謝罪し、
そして、二度と馬鹿な発言は投稿しないことを約束する。
では、
ハリキッテどうぞ。
仏教徒の諸君!! >>589
自分もそう読んでますが何か?
すべての人類は仏教の教えに、したがって幸福になると思います。
では日本語として理解できる人はいないと思いますw
あとその分節だけではなくその前の
>一貫して人類の平和を語る教えなので、一貫して一切の差別を否定する教えなので、
から通して読んだ方が良いですね^ - ^
逆にもっと全体を通して読んで引っかかったのが>>590か
これは先に>>500こう言った話を語っており、神秘主義は
>>579
>テーラワーダ文化も大乗文化も、お釈迦さまの真理の教えが両仏教の心臓だと思えば、仏教はもう一度、世界一の宗教になるはずです。
の「お釈迦さまの真理の教え」からは外れているとスマナサーラはとらえているということです
>>578
>互いに汚れているのに、相手に向かって「あなたは汚い」と言えたものではありません。
の「互いに汚れている」は、テーラワーダでも神秘主義でお金を取ったりしていることを言ってるのですな 「すべての人類は仏教の教えに、したがって幸福になると思います。 」
う〜ん^^
考え方が人それぞれあるとして・・^^
捉え方がおいらとちがうんだよな・・・^^
仏教の目指すものは涅槃寂静の境地であり・・^^
幸福を目指すものではないと・・^^
幸福を感じることはそこには不幸があり・・^^
涅槃の境地とは幸福・不幸も寂滅している^^
まぁ真理を悟れば・・幸福も不幸もないんだよね・・^^
永遠の幸福が得られないのはなぜか・・^^
これが幸福を解く鍵となるかな・・・^^ 「目指すもの」
これは違うな・・・^^
目指すんじゃなくて・・・^^
「自然とそうなる^^」
だな・・^^ 「仏教」・・これもおかしい^^
真理を悟れば自然と涅槃寂静の境地に到るだな・・^^
特に現象世界の真理・・虚妄の世界をね^^ となると・・^^
幸福・不幸も虚妄の世界に含まれるかもしれん^^ 虚妄の世界・・・^^
簡単にいうと・・^^
分別の世界やな・・^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています