>>452
(初期)仏教では、一貫して 「見よ」 と言われるだけであり、
「(成就永遠なる)如来に【なれ】」とは言われない。
ギリギリ「阿羅漢となる・なった」「ブッダとなった(覚った)」と言われるだけ。(そして皆、【普通に】この世を去っていく)
なぜか?
阿羅漢もブッダも(そして如来も)、世間的呼称であるから。
(だから、後世「法身仏」が希求されることになる。単に阿羅漢仏陀如来であるだけでは永遠ではないから。)


>そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
>その涅槃に常住するのが如来

「境地が恒常である」というのは、(まさに今あなたが言うような!)
≪『(それを)見ている【者】がいる』境地(→『見ている【者の】→誰それの』!)が、恒常的にある、存在する、ということではない。
誰か特定の人の(誰か特定の人が見ている)境地が常住なのでない。
そのような境地が、そのようなものとして、
行じれば必ず現じるものとして常にある、という意味で常住であり、
「その人が(如来が)常住となる」などとは言われていない。


高級スポーツカーに乗ったらイケメン御曹司になるようなw、
力士に抱っこして貰ったら強い子に育つような、
そんな「『あやかり』常住」は笑い話にしかならん。