外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>445
五蘊皆空はもちろん原始仏教の教えにもあります。
但し般若心経では色ばかりを強調して他の受想行識は亦復如是と一絡げにされてしまっていることには注意が必要です。
般若波羅蜜多の完成は五蘊一つ一つを空(無我)と観じて執着を捨てていくのです。
パーリ経典では必ず色、受、想、行、識の一つ一つをわざわざ挙げてこれは無常である、苦である、無我であるとお釈迦様が説明したことが書いてあります。
更に問題なのは般若心経では、せっかくお釈迦様が修行のために見つけた十八界や十二因縁や四聖諦や智慧を無の一言で否定していることです。
これはお釈迦様が悟りに導くために見つけ出した筋道であり法なのですが、無で否定してしまうと、
それらは必要ない、悟りのためには全てへの執着をただ捨てればよいという虚無主義に陥り、修行へのやる気を削いでしまうのです。
道を歩くという道徳も虚無主義により破壊されてしまいます(>>441
しかしそれらよりも更に問題なのは、散々無と観じることが般若波羅蜜多であると強弁しておきながら、最後は般若波羅蜜多は偉大なる呪文であると神秘主義を持ち出し、しかもその功徳を持ち出して自画自賛で終わらせていることです。
論理が崩れた空論者としてスタートして、虚無主義者を経由して、最後に神秘主義者になってしまったのが「般若心経」なのです。 >>447
追伸(コピペですがね)
■[本の紹介]怒らないこと アルボムッレ・スマナサーラ 著
<111ページ 突然、人に殴られたらどうする? より>
完全なる悟りを開いて阿羅漢になったということは、「実体=エゴ」が頭の中にもまったくないということです。
一瞬一瞬の無常に完全に気づいている「ヴィパッサナー」の知慧で生きているのですから、たとえぶたれても、サーリプッタ尊者にとっては、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことです。
そこで痛みが生まれても、心は痛みを感じて、「あっ、痛み」というだけで終わりということになります。
「私は痛い」とか「私はぶたれた」という発想は、無意識のところにもありません。
だから、そういう態度でいられるのです。
http://d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/touch/20100715 >>448-449
マハルシのことはよく分かっています。
病気や苦痛との関係も...。
しかし、そうではなく、
私が(平均的仏教徒らに)いっているのは、
無常/空なるものは実体がなく価値が無いといっているのだから、
そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
その涅槃に常住するのが如来でしょうということをいってる。
つまり、「空」なる世界を脱した境地が涅槃だということ。
だから涅槃と涅槃に住する如来が「空」である筈がない、と。 追記:
五蘊皆空(五蘊は悪魔であるともゴータマは説かれた)であるのに、
どうして、涅槃や如来が空で在り得ようか???
まさか涅槃が五蘊に在るという教えはない筈ですが、
これ如何に?
まっ、
後で平均的仏教徒の(仏教理解の)大間違いを図解でやりますから。 >>452
はっきり理解してるわけではないですが
五蘊が空である
と悟った時に、この、空というのは、別の空ということではなく、五蘊のことです
ですから、五蘊というのは、存在するすべてのものですので、あらゆるものは、空であり、イコール五蘊であるとなる
そこで、これら実体のないものに、囚われた心が落ちるなら、その見抜いた智慧は、そこには、なにものもないはずである
この、なにものもない
なにものもなき五蘊は、そこには、なんの識別作用も働かない智慧の完成した悟りがあり
その、消失した、消失もない
なにもない
その、それが、完全なるもの
完全なる安らぎとなるんじゃないですかね
それは、あるとは言えないわけで、ないとも言えないし、完全に解脱してる
この、あるものが、あるがままで、しかない
精神的なポジション?
ポイント?
のようなことじゃないのかなあ >>454
仏教徒の大間違いの原因は、
「一切」の理解に失敗したことにあります。
つまり、
「一切」の中に「涅槃」を含めてしまったことです。
これは部派がヤラかした誤解であり、間違いなのです。
以降〜の上座部テーラワーダ(スマ長老たちも)を含め、北伝大乗もすべてがこれに倣っている。
仏教徒たちは部派以降〜の二千年を伝統護持と称してこれを死守してきたのです。
そして、無我の間違いもこの誤解の中にある..。
旅行、帰宅後にこれを図解にて解説します。
>五蘊が空
スッタニパータ 1119
(五蘊だけではなくて)
仮設としての
有為法の
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
仮設としての
有為法の
すべて一切の諸法は
自分のものではない
自分ではない
我所ではない
我ではない >>452
(初期)仏教では、一貫して 「見よ」 と言われるだけであり、
「(成就永遠なる)如来に【なれ】」とは言われない。
ギリギリ「阿羅漢となる・なった」「ブッダとなった(覚った)」と言われるだけ。(そして皆、【普通に】この世を去っていく)
なぜか?
阿羅漢もブッダも(そして如来も)、世間的呼称であるから。
(だから、後世「法身仏」が希求されることになる。単に阿羅漢仏陀如来であるだけでは永遠ではないから。)
>そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
>その涅槃に常住するのが如来
「境地が恒常である」というのは、(まさに今あなたが言うような!)
≪『(それを)見ている【者】がいる』境地(→『見ている【者の】→誰それの』!)が、恒常的にある、存在する、ということではない。
誰か特定の人の(誰か特定の人が見ている)境地が常住なのでない。
そのような境地が、そのようなものとして、
行じれば必ず現じるものとして常にある、という意味で常住であり、
「その人が(如来が)常住となる」などとは言われていない。
高級スポーツカーに乗ったらイケメン御曹司になるようなw、
力士に抱っこして貰ったら強い子に育つような、
そんな「『あやかり』常住」は笑い話にしかならん。 これが説一切有部が示す一切
http://livedoor.blogimg.jp/tojiruwa/imgs/e/0/e071c596.JPG
涅槃は無為法の真ん中の択滅
説一切有部ではこれらの一切法が三世に渡って実有であるとした
択滅
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%8F%E3%82%81%E3%81%A4
真我みたいな恒常の我の存在は説一切有部でも認めてないので一切には含まれない
あと説一切有部だけではなくどの部派でも一切の外に真我が存在するとは言わない
何故ならアーガマの中で釈迦は
「比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、
それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。
何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
と比丘たちに説いているからである
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
一切に含まれないものはただ言葉だけがあるのみであって実際はありもしないものだからである
(説一切有部では上図五位七十五法が一切であるとしたがそれは説一切有部の説である) >>460
>(説一切有部では上図五位七十五法が一切であるとしたがそれは説一切有部の説である)
部派が違えば一切法の数も違ってくるであろうという意味
75という数はあくまで説一切有部の主張する数 >>455
涅槃というのは、空を悟ったものの、囚われから離れた精神、つまり、目覚めたものの、その、智慧に、仮に名付けたもので、そのような理解はあるかもしれないが、そのものが、物質現象として、どこかにあるわけではない アーチャン・チャー比丘
●「私」とか「私のもの」と言えるものは無く、全ては無常だ。
なぜ「ニルヴァーナを得た」という言い方ができないのか? ニルヴァーナを体験した人は、もはや「私」とか「私のもの」という考えを持たないからだ。もし、そのような言い方をするなら、その人はニルヴァーナを真に体験していないということだ。
●世間の人々は幸せになることを望む。彼らは苦しみを望まない。だが「ニッバーナ(nibbana涅槃)」とは、望むこと・望まないことを「超えたもの」だ。
●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。
●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。
もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。
●苦しみがない状態というのは、「我」というものがなく、「私」とか「私のもの」というものがない状態をいう。
ただこの考えを受け入れる時も、私たちは智慧を働かせるべきだ。「この身体は私のものではない」と言って、その身体を傷つけるのなら、その行為は私たちにとって何の益もない。
●勝義諦では「私」というものはなく、ただ「無我(アナッター)」だけだ。無我を理解するためには、瞑想をする必要がある。もし知的な方法で無我を理解しようとするなら、あなたの頭は破裂してしまうだろう。
一度でも心から無我を理解したなら、人生の悩みは霧散する。そして家庭生活、仕事など全てのことがずっと気楽なものになるだろう。
あなたが我を超えて物事を見るとき、もはや幸福に執着することはなくなる。そして、幸福に執着しなくなたっとき初めて、本当の意味で幸福になることができるのだ。 >>103
別件で目に入った論考。 参考にでも
つhttp://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st05/st05_0404.pdf
誰かと思って調べたら沖本さん。 なので、どうかなぁ・・とも思ったけど、
少なくとも上記URL論考に関しては、かなりいい線で、よく評し得ているかな・・とw
全章全文→ http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/book_f1e.html > 無常/空なるものは実体がなく価値が無いといっているのだから、
> そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
→そのような世界を脱したではなくて、そのような世界(空)を知見(得般若智)した境地が涅槃じゃないの?
> その涅槃に常住するのが如来でしょうということをいってる。
→如来常住の事かな?常住「する」というより常住「してる」んでしょ?真理は。
> つまり、「空」なる世界を脱した境地が涅槃だということ。
> だから涅槃と涅槃に住する如来が「空」である筈がない、と。
→上記の反論参照。 > 五蘊皆空(五蘊は悪魔であるともゴータマは説かれた)であるのに、
> どうして、涅槃や如来が空で在り得ようか???
「空で在り得ようか」ではなく、「空を知り得た」んでしょ? http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1496603691/376-385
神仏板ゆえ、致し方ない流れかな・・・。
経典の文句がそのまんま、現代の様々な悩み・精神疾患に援用できるとでもおもってんのかね・・・。 >>464 乙
時間のあるとき、じっくり読んでみる。
>>467
まじで、特定の経を読んだら、その功徳により現実の障害が解決できると
考えてんのかね?w
>>464のリンク先について
仮設としての
縁起している世界の中で
前世において、畜生だったものが
今この現世においても、畜生であったとしても
ttp://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st05/st05_0404.pdf
南泉の異類について
…
(今この現世において
畜生でないものが、外見上・表面上?)
畜生のように振舞ったとして
(来世に)
畜生になるものか
_ _ _
(仮設としての)
無明を掴んだままでは - 仏に成らない
無明を手放して、そして - 仏そのもの
↑こういう意味かしらん?
>>469の補足として
今この時点において
仮設としての
「無明を手放していない」のなら
外見上・表面上?
「仏そのもの?」のように振舞ったとして
「仏そのもの」になるのか
_ _ _
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?
無いのか?
有ることもあり、無いこともあるのか?
如来は本より畢竟じて
空である
況して滅後は言うまでもない
如来は戯論を超過するのに
人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達(おじゃる)は
仏を見ることはない http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1496603691/376-385
380の人は相談人が先天性のコミュ症であるのを忘れて後天性コミュ症の一般的な解決策しか言ってないので失格
383の人は金剛般若経の教えを広めてセブンとパーピマンに嘲笑されたことで383の能浄業障分は成就されたw
金剛般若経といえば応無所住而生其心
これは臨済禅でも有名な言葉で禅語にもなっている
臨済禅を学ぶものが金剛般若経を否定してはいけないよ( ̄▽ ̄) 同事(どうじ)というは不違(ふい)なり、自(じ)にも不違なり、侘(た)にも不違なり、
譬(たと)えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、
侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、
自侘は時に随うて無窮(むきゅう)なり、
海の水を辞せざるは同時なり、是故(このゆえ)に能(よ)く水聚(みずあつま)りて海となるなり。 悟りとは浮世に未練が
無くなる状態を指すにゃん♪
極めて単純な事柄を無理矢理
ややこしくして善男善女を誑かす
生臭坊主は地獄行き確定にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 大乗の極点がタントラバジラヤーナである。
金剛教だったかな。
殺人肯定とかいうよりもっと全生物を殺してもOKって思想。
この思想の矛盾は全生物を殺すことはその生物の中に
自己も入るわけであるからいわば全生物と抱き合わせ心中と
言うことでもある。
日本の真言宗 チベットのラマ教の根本の教えである。
仏教の正反対の教えでもある。
外面菩薩 内面般若の内と外が180度違う。
菩薩行のつもりでヒトを殺す。臨済宗の禅も同じ
仏に会えば仏を殺し 親に会えば親を殺す。
全く同じである。 >>475
それは金剛乗(密教)でその経典が金剛頂経では?
ただ金剛頂経では殺人OK殺生OKなどとはしてないと思う。
あれは確か即身成仏についての経典だったはず。 >>471の金剛般若経というのは金剛頂経とはまた別。 悟り悟りというけど
これは自分の親が生まれる以前
さらにその親の親が生まれる以前と
どんどん過去を克服していく作業を
意識的に行い生の最初まで辿る
作業を行うという事で親からの束縛を
脱するということである。
親の意識はその社会の反映でもある
のでその親の意識の根源からの脱出
方法である。それにより親から独立し
自由を得るという方法なんだろ。
その場合血統というものが立ちふさがる
血のつながりとか、じつはそんなものは
ないんだが。 >>473
道元ちゃんやな・・^^
同事とは無分別のことやな^^
我があると分別する^^ >>475
「タントラ」・バジュラヤーナだと凶悪テロ組織のオウムのこと。
バジュラヤーナが密教のことだ。
頭のおかしな犯罪者達の妄想と密教は全く違うものです。
(^。^)凶悪テロリスト団体と、その賛同者供は朝鮮送りにすべきだよな。(笑) 読経して後に功徳が生じる事もあるかもしれないけど、読経と「同時」に功徳も生じているのでは? あんな豚の垂れ流した下痢便と密教が同じに思えるんなら、
君は宗教学者の島田某と同じレベル。(笑) 川口慧海のチベット探検記でもよんでごらん。
13世ダライの時代だよ、今は14世な。
密教が絡んだ国は滅ぶ。ダライ・ラマとか信用してるんだ。 チベット密教がボン教と密教が混ざったものってのは常識だよ。(笑)
ルンがーとか死者の書とか虹の身体なんて密教では言わないよ。(笑)
密教は仏教がヒンドゥー教を取り入れた宗派で根本経典は金剛頂経と大日経で、
常用経典が、君が「殺人云々」と書いた比喩もある理趣経。
バカカルトでは金剛頂経は理趣と同じと言うらしいが別の経典。(笑)
チベット密教と真言宗を一緒にするのは、チンパンジーとゴリラが同じ種と同じってレベル。(笑)
更にあのテロリスト団体のタワゴトが宗教だと思うなら、文科省の役人レベルの宗教観。(笑)
(^。^)それとも日蓮宗みたいな仏教の成れの果ての信者さんかな?(笑) >>485
密教も、真言宗も、まったくのど素人で経典も読んだことないんだけど、どんなのなの?
クンダリーニが上昇して、神と一つになるようなのと似てるのかなあ
神秘的な力があって、その、異次元不可視ワールドを旅していくような??
それとも仏教だから、一応、縁起や無我の理解を目指してるのかな?
まあ、本読めよって話だけど、、、
チベット密教の本は読んだことあるけど、ぼくが読んだのは、めちゃ普通に、六波羅蜜の詳しい話だった、、、 よく言われるように、密教って師匠から伝授受けないと出来ない修行方法。
仏教だから当然仏教の修行で、その方法にヒンドゥーや当時の呪法を用いた。
その具体的な呪法は勝手に教えたら駄目ってことだから、
「密教の本」が考え方、つまり仏教教義になるのは仕方ない。
色々な本があり、中には方法だけ詳しい本もあるが、考え方を踏まえないとヤバイから薦めはしないよ。(笑)
(^。^)簡単に言うと、この身体のまま仏になる教えですけど、
これは「美人になる」って謳い文句と同じで本当に完璧な美人に成れる訳じゃあない。(笑)
>>486 ID:3jn2Flzn師匠へ
承狂師匠が(正式な)教授阿闍梨なのか?
わからないけど、とりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8
(正式な)
教授阿闍梨から法の教えを授かる
それ以外は
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%B3%95%E7%BD%AA
越法罪(おっぽうざい)
…灌頂を受けていない者に灌頂の大事を明かしたり… >>487
仏になる
いつも思うんだけど、仏になると言っても、仏って一体なんなのか明確に知ってる人っているのだろうかな
ゴータマシッダッタのようになるという意味なら、ゴータマシッダッタのような人は、歴史上、ほとんどいないから、真言密教で即身成仏した人は、ある特定の意味を付与された、仏、なるものに、なるのだろうか
仏様というのは、目覚めた人、悟った人の意味だとすれば、たくさんいることになるが、それなら、みんな、この身のままで、悟ったのではないの??
と思ってしまう
仏っていうのは、なんなのかすら、よくわからないなあ
仏像にあるような形の存在が、異次元にいたりするのだろうかとか、想像したりw
よくわかんない
でも一応、自分では目覚めた人、つまり、惑い苦しみから、解き放たれることが、出来た人なのかなとか思う >>489
380はセブンさんという人ではありません >>491
ああ、違うスレの話だったら、わかりません
勘違いなら、ごめんなさい >密教…どんなの
六師外道
ヒンドゥー(バラモン)
釈迦
根本仏典
中観派
瑜伽行派
などを部分的に?受け継いで、それゆえに
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
チベット
根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
↑中観帰謬を前提としてるような気がする
仮設としての
縁起している世界の中は
無常であるがゆえに
変化しないものではない
それゆえに自相(自性)ではない
というところについては
部分的には
上座部と共通しているところもあるかもしれない
間違っていたら スマソ m(_ _)m 「美人になる」って例えでいえば、
一般人が漠然とイメージする「美人」と「美人になる」って言う人のイメージは違うかも知れないが、まぁ、大体の所は同じでしょう。
「皆が美人なんだ」とも言えばいえますが、どんな美女でも醜悪な時もあるし、並べればそれぞれアラもでる。(笑)
年をとれば醜くなるかも知れないし、そもそも「万人が認める美女」なんて存在しない。(笑)
マツコみたいなのが理想ってのもいるだろうからね。(笑)
だから百家争鳴して止まることは絶対にない。(笑)
(^。^)上座では「仏とは世界に釈尊一人だけで、もう現れない」なんて言うところもあるそうな。(笑) >>490
まぁ何かあるなら俺の立てた「てす」ってスレに書いてください。
此処であんまりやるとまた怒られるから。(笑)
(^。^)ちなみにここの主は「密教は大日如来の教説」とかいても火病りますからお試しあれ。(笑) 皆の衆、お早うにゃん♪ (^o^)/
>>490
様々な未練から解放されて
最終的に己のが命に対する
未練執着から解き放たれた
人物が仏にゃん♪
小難しい似非哲学を振り回し
他人をやり込めたところで
修羅界の外道に過ぎないにゃん♪
南無南無 ( ´•人•` ) 392Junkie-Ooyama2018/05/22(火) 00:24:01.72ID:wh1MMrx6
>>390
成程ね、接心への参加経験はあると。
「あの時は」って事は今迄一回きりってことかな。
ともあれ、俺の言う参禅は老師から公案を頂いて問答する事です。
彼此法縁には恵まれていたんで、接心は少なくとも百回以上は参加させて戴いてるけどね。
393Junkie-Ooyama2018/05/22(火) 00:35:46.68ID:wh1MMrx6
一番回数が多かったのは24炷(しゅ)/日かなぁ。
典座とかやってた時は回数減ったけどね。
時には本山からわざわざ管長が来てくださって提唱をして下さったけどね。 367junkie- ooyama2018/05/21(月) 19:23:52.32ID:67Ztlv5B
>>364
同じだよ。
むしろ、(本証の)妙修から入る道元禅の方が大変かもな。
てか、専門道場で何年腹練ったの?
370Junkie-Ooyam2018/05/21(月) 19:42:46.43ID:LwxKK+T5
てか、専門道場で何年腹練ったの?>>369
390J.Ooyama2018/05/21(月) 23:15:09.79ID:67Ztlv5B>>392
>>389
>いや、公案の方がわかりずらいけどなぁ。
参禅した事あるの? 430 名前:J.Ooyama [sage] :2018/05/22(火) 12:07:18.47 ID:uBIySK/+
多重人格が10連投か。
でおー隔離スレでやれよ、迷惑掛かるから。
416 名前:夕 :2018/05/22(火) 06:23:35.76 ID:Uqe1xqYL
なんかおかしいな。
俺にはあの芸当はできない。 テーラワーダの真髄は解脱
要点を整理してみましょう。お釈迦さまは客観的にものごとを見る科学者よりも、はるかに優れた科学者でした。
「生きる」という本題に対する真理を発見して、苦しみを乗り越えたのです。
それは単なる科学的なやり方であって、神秘ではありません。
不可思議な出来事も説かれてはいますが、お釈迦さまは神秘に反対なのです。
しかし時代が経つとともに、無智な一般人の要求に応じて仏教の世界の中でも、神秘的な考えが現れてきたのです。
そうして仏教の世界は、仏教独特の呪文や祈禱などを発展させたのです
(ヒンドゥー教の呪文や祈禱より優れたシステムを作りたかったのだろうと思います)。
神秘主義は、大乗仏教世界においてじりじりと発展しました。
ブッダの教えは顕教であると明確に説かれてあったにもかかわらず、「密教」という宗派も現れたのです。
今世で解脱に達する目的から遠ざかって、一般人に現世利益を願う宗教に変身したのです。
お釈迦さまの教えを忠実に守って、今世で解脱を目指して修行するという約束のテーラワーダ仏教も、神秘主義、御利益主義などの竜巻に揺れたのです。
現世利益や祈禱などの習慣は、テーラワーダ仏教にも現れました。大乗仏教と比較すると、神秘主義に関しては、テーラワーダ仏教は後輩です。
祝福、祈禱などの習慣は、大乗仏教から取り入れたのです。
しかし、お釈迦さまの真理の教えがそのまま残っているので、テーラワーダ仏教界で見られるご利益や祈禱系の習慣に、ブッダの教えをおさえて物置のようなところに閉じ込める力はありません。
ご利益に依存している人々も、「ブッダの真の教えは煩悩を絶って、解脱に達することだ」と明確に知っているのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダは真理を語る: テーラワーダ仏教の真理観とその変容 (高野山大学での講演録) 「anaTTan」とは言ったが、
それは「(どこにも)我がない」という意味ではなく、
「これらは我ではなく、そうでない我はある」という意味。
私の説示と弟子たちの受け取り方・認識との間で、乖離・誤解があったとしたら大変残念だ。 雨降りは寝言ばかりにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
>>501
リンンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m
ttp://fallibilism.web.fc2.com/089.html
最初期の仏教では
「我はない」という意味の無我説は説かれていない
「〔真実の〕我ではない」という意味の非我説が説かれたのである
ということが明らかになった
非我と無我とは別の概念であって、はっきり区別する必要があり
非我から無我へと思想史的な変移がみられるという
(anattan の意味も同様に変化していったといわれる)
↑これかしらん?
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_621/_pdf/-char/en
倶舎論における無我説
…
(中観帰謬派)
後世の仏教においてアートマンの意味を
〔それ自体〕〔自性〕と解するにいたった
中観派における無我という語は
この様な意味に解せられていることが多い
>>504 リンク先について
その朝日新聞のサイトで
[我がない]で検索しても
[そうでない我はある]を
見つけることが出来ないので
ご確認の程を ヨロ m(_ _)m >>506
無為の真人=ナマケ者のニートにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
怪しい(宗教団体とかの)サイト?かもしれないけどとりあえず
ttp://vajracat.com/2017/03/04/bhagavadgita/
ヒンドゥー教
…体は、火と水と空気と土と風でできていて
あなたはこれらの要素に消えていくでしょう
でも、魂は永遠なのです…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
ヒンドゥー教
不二一元論
ブラフマン(梵)
アートマン(我)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
アートマン
永遠的な主体
− これに対して −
大乗では
個体としての我(人我)だけでなく
存在を構成している要素(法我)も否定して… ≪「我」「魂」はどこにあるの?≫
宗教哲学などで「心はどこにありますか?」「魂は人間のどこにありますか?」などとよく聞きます。
哲学では、「魂がある」とまず決めてしまいます。
それでも、決めたらそれで終わるはずなのに、それから、その魂はどこにあるのかと探すのです。
どこにあるかも分からないものなら、魂があるかどうかもまだ分かっていないということではないのでしょうか?
神学でも「すべては神様に創造された」と言いますが、それならそれで問題は終わるはずなのに、
ではその創造した神様を探そう、と、それから神様が存在する証拠を探すのです。
だから彼らには、同じところをぐるぐる回るだけでいつまで経っても答えが出てこないのです。
ヒンドゥ教でも「魂はある、アートマンはある」と決める。
あると決めればそれで終わるはずなのに、そのアートマンはどこにあるとか、どんなものかなどとかなどと哲学を作ります。
あると知っているなら、それがある場所も、どんなものかもすぐ分かるはずですけど。
自分で勝手に迷路に入って、間違っている同じところでいつまでもぐるぐる回っているだけです。
「魂」 とか「我」とか「宇宙を作った神」とか、何千年もの間、あるあると言いながら探しているのに未だ見つかっていないのですから、
一度立ち止まって、そんなものが本当にあるのだろうか、と調べ直した方がよいのではないかと思います。
お釈迦様は「すべての哲学が、袋に閉じた網の中であっちに行ったりこっちに行ったりするだけで、出口は全然見つからない」
とおっしゃっています。 >>510続き
我々が知っている大乗仏教も同じ過ち、仏教だったら絶対やってはいけない過ちを犯しています。
失礼な言い方をしますが、大乗仏教はブッダの教えから脱線しているのです。
日本の学者も明治時代には「大乗は仏教に非ず」というところまで突き止めて研究していたのに、
他の人たちに叩かれてそれも立ち消えになりました。
学問的に正しく叩かれたわけではなくて、感情で「あなたそんなことを言ってはいけません」と言われて潰されたのです。
その上、大乗仏教はやっぱり仏教だよという研究が発展してしまいました。
でも、やっぱり魂はあるという概念から大乗仏教は始まりますから、魂という言葉は使わず、法身があるとか言いますが、
あるならそれで終わりで、それ以上考える必要も何もないのに、そこからどうしていろいろ考えるのでしょうか?
あるかないかという結論は普通は最後に来るものですが、この人々はまず「魂はある」と結論を決めて、
この結論はどうやって成立するか、実証できるかとがんばっているのです。
仏教は逆に、普通の方法で、証拠によって結論を導きます。魂があるかどうか徹底的に調べてから、結論を出すのです。
結論を最初から決めたりしません。その結論はもう、釈尊が二千五百年前に出しています。
心にも心所にも「我」も「魂」もない
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) ≪釈尊は「我」を認めた?≫
ある学者の人々は、それでも我があってほしいから、
「お釈迦様は、『我はどこにもない』とは言っていない。
我でないものを我と受け取るのが嫌で無我と言っただけで、真我そのものを否定してはいない」と言うのです。
「自我は否定しても自己は否定していないぞ」とも言います。
言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。
お釈迦様の鋭さが見つかっていないというか、それを感じていないのです。
お釈迦様は人にショックを与えないで丁寧に智慧の方向に導くのです。
私たちが何かを付け加えることも、解釈を拡げることも不可能です。
遺された教えの中のほんの僅かのものを説明することしかできません。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) >>510
仏教哲学(?)も網の中で右往
左往しているだけにゃん 🎵
南無南無 ( ´人`) ≪「ない」と言うのは、難しい(まめ知識)≫
(略)
このように「ない」と証明するのは、簡単ではないのです。
気軽に「ない」と言い切れるものではありません。空間、時間を考慮して、限定的に語るしかないのです。
ここで多くの人が引っかかります。
たとえば、「お釈迦さまは非我とは言っているが、無我とは言っていない。我を完全に否定したわけではないのだ」と言う人たちがいます。
私にとっては、無我でも非我でもどうでもいいのですが、
要するに彼らは「ブッダは我を認めていたのだ」「ブッダは我がないとは言っていない」と言いたいのですね。
子供の言いがかりのように感じます。これは彼らが「ない」と言うことの難しさを理解しないからなのです。
逐一こういう論理的に厳密な言い方をしていると話がわかりにくくなるので、
私も「永遠不滅の神はない」といった、 論理的には穴のある一般的な言い方をしています。
しかし、厳密に真理を語るなら、「永遠不滅の神があることは発見できない」という言い方が本来は相応しいのです。
少し頭の隅に置いておいてください。
アルボムッレ・スマナサーラ. 無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福― (サンガ新書) スマナサーラさんは、我はないけれども、他者はあるとでも思ってんのかな 我がないということは、誰かの意志なんてものが成立しないのだから、大乗の人々なんて、どこにもいないではないかw お前らw真面目すぎwww
洒落のわからん人間はつまらんぞw >>518
生死の話なんだから、真剣になるでしょ
わたしがないのではなくて、わたしはあるから、いなくならないとだめって言ってるように感じてしまうんだよね
私はある、と見ている
また他者もあるとみている
その上で
私があるからいけない
釈迦の教えは無我だよ
あなた!
わたしがあるようだね、いけません
わたしを無くしましょう
というような感覚
まあ、ぼくの勘違いかもしれない
スマナサーラさんは、怒らなくなるような感じの本を読んだけど、こんなイメージだったかなあ
無我にいまからなるの? 私がいない、無我
ということは、今、この掲示板に書き込みをしているのは、私ではない
という意味だよね? >>520
無我っていうのは、常・一・主・宰の我はないという意味で、
五蘊が現象している我は刹那滅をしながらも存在しているってことでは? >>523
えっと永遠の私、は、存在しないが、今、ここにいる私は存在してるってことですかね
その私は、存在してるけれども、永遠ではないっと
じゃあ、存在してるなら、私はいる
ということで >>524
しかし、普通の意味で無我と聞くと、我がない
もしくは、無が我である
の、どちらかなのかなとイメージする
そうなると、ジャンキーさんという人も居ないし、この、書き込みをする動作が起こっている主体、意志のあるものが、肉体の中どころが、どこを探してもない
という意味のように聞こえる
そうなると、大乗の人々は、どうのこうの
以前に、
上座部の人々など、どこにもおらず
それらの現象が、自然に、機械的に、まあ、太陽が昇ったり沈んだり、するかのように、完全に自動的に巻き起こっているようになる
わたしがないなら、わたしの意志がない
意志はあるが、それは、わたしの意志ではない
そうなると大乗の信仰は、縁によりて起こっているだけで、批判する対象者など、存在しないが、それにもかかわらず、あいつらは、アカン
あいつらはどこにいるのかw >>524
≪「無我」 の「 我」 とは アート マン≫
「無我」は、誤解しやすい言葉です。
仏教は、単純に「私はない」という意味で、「無我」を語っているわけではありません。
生命には、感覚によって起こる、「自分がいる」という実感があります。
目や耳や鼻から起こる感覚によって、常に「ああ、自分がいるんだ」という実感をつくっているのです。
仏教は、こうした素朴な意味の「自分」を否定しているわけではありません。
「自分がいる」のは、ごく当たり前で、普通なことです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方
上引用文の続きは
>>64-65 >>526
自分がいるのが当たり前のことを言っているのなら、有我にならないのかなあ
観念的なわたしのことを言ってるのかな
アートマンっていうのが、ないのなら、真のわたしなんてものを探求する必要もないわけだ
わたしはいる
しかし、わたしは有限であり、永遠ではない
だいたい
みんな
しっている >>524
勿論、あなたがいなけりゃ、こうしてレスは出来ませんもんね。 様々なものが因縁仮和合して現象をしてるんですよね。
その現象の一つがJunkie-Ooyamaですよw >>527
> 自分がいるのが当たり前のことを言っているのなら、有我にならないのかなあ
元々、古代バラモン教の常・一・主・宰の我に対するアンチテーゼとして、
無(非)我という術語をお釈迦様が編み出されたんじゃないのかな?
有我 〜 常・一・主・宰の我、常見
無我 〜 我は無い、断見
仏教の無我 〜 上記の常見・断見を排して縁起を視座に置いた現象としての我
って感じですかね。
確かに分かりづらいし誤解を招きますよね。 >>519
いや、
勿論、真面目に考えるべき問題だとは思うよ。
「言った言わない」 & 「そういう意図でない」
などといった、【教義の伝承】に直結するトコだからwww
つか、お前ら、この構図の類似(重要性)に気付いてないわけ?w 文言では「思い切って当たれ」、
文脈では「ケガさせろ」、
って感じなわけさ。
┐(´ー`)┌ >>525
(V.1.10)【ヴァジラー尼】 (尼僧に関する集成) サンユッタ・ニカーヤII
http://kokoronoeiyou.seesaa.net/article/262164494.html
あなたの疑問には相応部経典の上記仏説が答えになる。
仏弟子で阿羅漢に達したヴァジラー比丘尼が悪魔(マーロ・パーピナー)への問答の中で答えを出してる。
>6.ついでヴァジラー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に向って詩を以て答えた。−−−
>「そなたは何故に〈生ける者〉というものを認めるのか?
>悪魔よ。汝は悪しき見解をいただいている。
>この〈生ける者〉はただ諸々の形成されたものの集合である。
>ここに〈生ける者〉は認められない。
>譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、
>それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
>実に苦しみが起こり、苦しみがとどまりかつ滅びてゆく。
>苦しみのほかには、なにものも生起しない。苦しみのほかには、なにものも滅びない」と。 >>533
>譬えば実に諸々の部分が集まったならば「車」という名称が起こるように、
>それと同じく、五つの構成要素(五蘊)が存在するのに対して〈生ける者〉という仮の想いが起こるのである。
この「仮の想い」というのが重要かな、と。
その後に続く、ヴァジラー比丘尼がいう苦しみは無常、無我、空という言葉に置き換えることもできる。
>>534
このレス番までの意味は、わからないけど
何のために手放しが必要なのか?について
仮設としての
縁起している世界を手放して超えていく
そのための対機説法として
我所ではない
我でもない
「想う」という想いではない
「想わない」という想いでもない
非想非非想も手放して超えていく
そのための導き
これなら意味がわかる(かもしれない)
「我がある・我所もある」と掴もうとしている想いがあると
縁起している世界を手放して超えていくことができない
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
>>535の続き
仮設としての
縁起している世界の中で
無明薫習に依存して
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命が
ある。という『想い』が現れて、そして滅している
− これを対処するために −
「我所がある・我もある」と
掴もうとしている『想い』を手放して
縁起している世界を手放して超えて
そして涅槃
という対機説法
これなら意味が、わかる場合もある(かもしれない) 皆の衆、お早うにゃん ♪ (^o^)ノ”
思考や感情等の枝葉に囚われて
幹である本能を軽んじ無視して
いる限り真理には届かないにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ ≪なかなか理解できない生命の「心」≫
世界には数あまたの宗教がありますが、ほとんどの教えでは「創造主」「唯一絶対神」「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった、
何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると教えています。
それほど信仰心のない一般の人々も、それをなんとなくボンヤリと信じていて、
「神を信じていれば永遠の天国にいけるのかなぁ」とか「 自分には魂があるのかなぁ」とか思っています。
日本の主要な宗教である大乗仏教でも同じことです。
「創造主」「永遠の魂」などと言う代わりに「如来蔵」「仏性」「法身」、
日本の宗派仏教になると「大日如来」「久遠実成の仏陀」などと言葉を作っていろいろ概念を入れ替えるのですが、
結局は「真我」とか「魂」とか、何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると考えているのです。 >>538続き
そういうわけで、「勝義諦・真にあるもの・真実」が「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」
という説明自体、始めはなかなか理解しづらいと思います。
「『真にあるもの』だったら、永遠不滅のはずじゃないか」というのが、ごく一般的な反応でしょう。
「勝義諦・真にあるもの・真実」の一つが「心である」と聞いたとたん、私たちが持っている「永遠不滅の魂」といった
概念・固定観念で思考がカチンとロックされてしまって、そこから頭の切り替えができなくなるのです。
「生滅変化し続ける無常の現象で、一時的に現れている」という仏教の「心」、勝義諦としての「心」には、
たとえ仏教を勉強していても、なかなか肉薄できないようになっています。
アビダンマの勝義諦である物質・心・心 所 のどこを探しても、永遠の魂や他の絶対的な存在は見つかりません。
ならば最後に現れる「涅槃」こそが永遠の魂だと決め付けても、それは大間違いです。
もともとなかった魂が、「涅槃」になったとたん突然現れるはずがありません。
「真我(アートマン)」「永遠の魂」といった実体論は、ゴミ概念として、仏教ではスタート地点から排除しているのです。
ですから私は講義の最初に、「真我」「魂」といった考え方をきっちり批判しておきたいのです。
むしろ「真我」「魂」といった我々に骨がらみになっている固定観念をとことん論破することによってこそ、
アビダンマの語る「心」の独自性、仏教の超越した智慧のすごさが、ありありと浮かび上がってくるのではないかと思います。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) 怨念弱犬チワワわわわわーんの人気は、このスレで起きるの? >>528
レスがあることが、普通は、わたしの意志なるものによって、主体の判断によって行為があると見られているが、実際は、そのようなことが様々なキッカケによって巻き起こっているだけで、誰かが、存在して、その、レスをしたということではない
ってことじゃなかったのかなあ
それに私があるのなら、滅するに決まってるから、苦しみは去らないし、死の乗り越えられることもない
だから、私がないというのは、わたしなるものは、事実、どこにもいないってことじゃないかなあ
感覚があるのは自明だが、それは、わたしではないってことじゃないの?
だから、スマナサーラさんが、散々文句言ってる、大乗の人が、存在してないはずとおもったんだよね
五蘊の集積が、勝手に起こって、それに対して、勝手に、わたしと言ってるだけで、それは、たんに自然現象に過ぎない
だから、わたしなんてどこにもなく、わたしの責任もなく、わたしの死もない これらの否定しさった先に、涅槃とか、真我とか名付けてみても、それは、存在しないものなのだから、同じことで、、、
アートマンとよんだのは、自己の真相だからであって、同じものを涅槃とか呼んだのかもしれない
なにしろ、否定しさった先の話ではある
この否定しさった先には、実在がないのだから、どうのこうのいえない
だからマハルシさんも、これは、真我のことを釈迦も説いたと言えたのじゃないか あなたたちは、わたしがある
ケシカラン
わたしは、わたしがない
えらい!
というのは、どうもw 「わたしは、わたしがない」
簡単に言えば・・^^
分別された私は私ではないということ・・^^
つまり・・^^
その私は非我であると・・^^
こういうことだな^^
「私のおもいどうりにならない^^」
この私は私ではないと・・・^^
ゆえに怒りが生じ・・苦が生じる^^ もっと簡単に言えば・・^^
執着するのが自我であり・・^^
執着しないのが真我であると・・^^
こういうことにしておこう^^ 自我であるがゆえに執着する^^
真我であるがゆえに執着をもたない^^
簡単すぎた感がある^^ 自我であるがゆえに執着する^^
つまり・・苦が生じる^^
真我であるがゆえに執着をもたない^^
つまり・・静寂の境地
つまり・・・^^
人は悟りを開く二面性を持っていると・・^^
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