┐(´ー‘)┌


 ≪「誰それの」涅槃≫がある ではなく、 ≪涅槃≫がある

というシンプルな構図を、なぜ描けないのだろう・・・。
「誰それの」という形容がつくから、≪常住なる涅槃≫は、同時に≪常住なる「誰それ」≫になってしまうわけで・・w

普段の、日常に於いても、「オレの○○、私の○○」が、本当に「オレの私の」なのか疑わしいと言うのに・・・。
諸法が縁起するものなれば、そこに「誰それの」なぞあろう筈もなく、
縁起に依らないものが世俗の価値観(「オレの私の」)に倣う筈もなく、
「個性、個別性」は世俗の要素・価値基準に他ならず、
出世間の涅槃にそれを持ち込むのは、愚昧な顛倒でなくてなんであろうか? と。  ノシ