>>420
その大日経ですが、密教研究では権威となっている?津田真一先生の大日経の解説を読んでみたらこう書いてありました。

>したがって、「貪心」とは、そして百六十心のすべては智慧(般若)の心と慈悲にもとづく行為(これも方便である)とが不二に結合したものに他ならない。
>そして、我々のこの心が、普遍的実在者毘盧遮那を構成するのである。
>「実在者」という言葉を私は使ってしまったが、この宗教的な真実の世界としての毘盧遮那は、
>「住心品」が大乗仏教の原則に従うかぎり当然のことではあるが、固定的実体なのではなく、空であり、
>諸条件の集合の上に仮に成立しているもの (縁生)に他ならない。
>そして、その全的な真実の世界の存立の条件こそが個人の主体性に関わる概念としての「三句」であったのである。
>この真実の世界は曼荼羅として表象される。
>毘盧遮那は曼荼羅全体(法身)であり、それが同時に曼荼羅の中心(報身)である。

ということで、大日経によれば、あるいは津田先生の解釈によれば、毘盧遮那=大日如来は空ということなりますね。