外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>413
意識も無意識も、わたしの意志によってあるのではなく自然に、原因、縁によってある
常にある主である真我とは、意識が広がる以前の、心臓にあるもの
その空洞の広がりが世界となって円鏡に反射している
常にあるといっても、知覚が、それを認識して理解しているわけではない
常住不変の、その、広がりを、存在と感じるか
それとも、その広がりや、安らぎのないものへ至るかが、ちがう
まったく認知されないもの
そこには、真我という存在がない 意識がすべてを現していて、気絶したら、なにものも認識されず、記憶にも残らない
わたしは、意識の中に現れている、世界の中で中心にいて、それは肉体という固定されたものであると思われている
この体や、わたしの心意識と呼ばれているものは、わたしのものではない
それだけのこと
そして、その、意識こそが、真のわたしだというのは、その、意識が分断されない広がりとして心臓から映写されているというお話
マハルシさん
しかし、この、円鏡や全体意識、その元である安らぎの地点は、知覚活動の上にあるものではないのだ
からして、この、安らぎというのは結果として、そのような言葉を当てはめているだけ
そして、この、空やら、真我などという、当てはめられた言葉をイメージして、その、捉えたものに縛られる人々は、理解できない
と、いう
ような、気がするw
気がするだけだがw >>414
んー?
考えがまとまらないのですかね?
>>380
>この意識を真我と呼ぶ
>>414
> 常にある主である真我とは、意識が広がる
> 以前の、心臓にあるもの 178junkie- ooyama.2018/05/16(水) 17:21:06.82ID:40hGydXD
空じられた上での幸福追求ね。
それが空即是色。 >>331
セブン!
この私との付き合いはもう何年になったと思う。
修行と僧侶を何年やってる?
どうして、まだ解らんのん?...。
>「涅槃」が、「境地」なれば、自動的に「無我」だろ? とw
いやいや.それは逆でしょ!
「境地」であるからこそ、逆に無我(アートマンは無いという意)ではないことが明白なのであって、
だからこそ、自動的にアートマンを浮き彫りにしてる、と。
「境地」というのは人の精神や意識の状態を意味しており、その意識レベルのことをいってる。
そんなことは何も今更、パーリ辞書を開かなくたって正しく学んでいれば常識ですから。
であれば、涅槃を覚知している意識がアートマンなのは自明だと思うが...。
涅槃を覚知する意識が煩悩塗れや仮和合の意識であったり、
五蘊の意識であったりする筈がないでしょ。
ゴータマは、五蘊を悪魔であるとさえ述べている。
ならば、その涅槃を覚知している清浄なる意識、
恒常な涅槃に常住する意識がアートマン以外にないことは必然。
ただ、ゴータマは迷信的なバラモンたちの手前があり、
自らアートマンということを説きたくなかっただけのこと。
だから、アートマンについて聞かれれば無記の態度を採るのです。
まったく「無い」などは一言もいっていない。
いつも、アートマンでないものに対して、それらはアートマンに非ずと述べただけ
(だから「非我」こそが意味合いとして正しい)。
まっ、セブンの良いところはなかなか生真面目なところかな...。
まるで“奈良の薬師寺管主”などとはエライ違いだ!!!!
あそこは15年の旅行のときに拝観料があまりに高くて断念してる。
>>410 >自性清浄
ttps://www.daihorin-kaku.com/book/b109285.html
大日経 住心品講讃 130ページ参照
五通智道
五神通
この五は皆
慧をもって自性となす
_ _ _
光り輝いている(仏そのもの)
という意味の自性清浄であったとしても
唯識も
密教も
中観帰謬派とかも受け継いでいるので
とりあえず
「慧をもって自性となす」と導いてから
それから
最終的には?
「自性清浄である」と
掴もうとしている『想い』も手放して
縁起している世界を手放して超えていく
ということかもしれない
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 一体、これは何が刺激したのやら...
随分とこれまで普段は来なかった参加者たちで楽しく賑わってる。
私からも言いたいことはあるけれども...
私は明日の朝早くから旅行にて、数日の間は投稿できませんのでご了承を。
母を連れて二人で、成田山新勝寺の開基1080年祭/成田不動の十年振り御開帳へと参ります
(自分の人生で母とのこうした参拝の旅は、これが最後であるかもしれない...)。
セブンを始め、その他の投稿者に対しても、
帰宅後にまた厳しくピッシ!ビッシ!! といくつもりなので、
皆んな、覚悟しておくように。
私が本格的に2chに参加し、
自ら専用スレを立ててからハヤ今年で丸10年目なのでしたね。
ということで、今回は外道/宝珠自身を御開帳サービスしておきま〜す。
グラサンにて失礼...
http://houjugusya.web.fc2.com/shinhan.htm >>417
> 高野山金堂で魔法陣ぶちまわしたので、
> 俺脳、今、仏教化濃厚やわ・・・・。
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // だっておwwwwwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) / こいつ、曼荼羅もしらねぇんだwwww
ヽ / `ー'´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) >>420
その大日経ですが、密教研究では権威となっている?津田真一先生の大日経の解説を読んでみたらこう書いてありました。
>したがって、「貪心」とは、そして百六十心のすべては智慧(般若)の心と慈悲にもとづく行為(これも方便である)とが不二に結合したものに他ならない。
>そして、我々のこの心が、普遍的実在者毘盧遮那を構成するのである。
>「実在者」という言葉を私は使ってしまったが、この宗教的な真実の世界としての毘盧遮那は、
>「住心品」が大乗仏教の原則に従うかぎり当然のことではあるが、固定的実体なのではなく、空であり、
>諸条件の集合の上に仮に成立しているもの (縁生)に他ならない。
>そして、その全的な真実の世界の存立の条件こそが個人の主体性に関わる概念としての「三句」であったのである。
>この真実の世界は曼荼羅として表象される。
>毘盧遮那は曼荼羅全体(法身)であり、それが同時に曼荼羅の中心(報身)である。
ということで、大日経によれば、あるいは津田先生の解釈によれば、毘盧遮那=大日如来は空ということなりますね。 意識が広がって、そこに、様々な出来事が織り成されているとして
この意識を意識するには、意識を内包するもの、もしくは、意識を離れたものがなくてはならなくなる
それが無意識かもしれない
そして、この、無は、なにものも認知されない、主体そのものであって、これが真我と名付けられたのであって
それが、常に存在すると、いうのは、世界の基盤としての、スペースを作り出すような神秘的な働きが、この、胸の奥にある
のではないかと思われる
が、そのようなものが認識上に昇ることがありえないので明確なことは言えないはずである
それを真我と、呼ぶから、ややこしくなる
そこで、真我などと言わずに、無や、空という言葉を当てたとしても、思いの外れた、そこ自体は同じことなのだ
常住にあるといっても、それは、こちら側からしたら、それがなくては、存在しえないからであって、もしも、五蘊の働きの、その、向こうへスルーしたら、そのもの自体が、なにもないものであるのであるから、それが永遠であっても、そこは、消失なのだから
永住と言っても、よくわからない話だ
>>423
だるま文庫 八宗綱要 真言宗
無為法の
大日如来は
仮設としての
有為法の
すべて一切の諸法にも満ちている
これが
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
般若の智慧と慈悲によって → 縁起している世界を見る
ということかもしれない
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>417
(^。^)お前らが頑張れ。(笑)
てか、バカカルトに比べれば可愛いもんだろ。(笑)
ついでにバカカルトも頼むわ。(笑)
>>425の続き
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?
無いのか?
有ることもあり、無いこともあるのか?
如来は本より畢竟じて
空である
況して滅後は言うまでもない
如来は戯論を超過するのに
人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達(おじゃる)は
仏を見ることはない
_ _ _
おじゃるは
仮設としての
戯論を生じ
慧眼を破り
『無為法の大日如来は…』と
掴もうとしている『想い』が現れているので
仏を見ることはできない
ということかもしれない >>419
で、質問に答えてもらってないな?w
片山さん及び奈良さんは唯物論者なんだね? >>419
仮に、百億万歩譲って 「無いとは言っていない」 としても、
【同時に】 「『ある』とも言っていない」 わけでね。
さあ、どうしようかねぇ・・・www あぁ〜呼ばれて飛び出て!!
>>429
>で、質問に答えてもらってないな?w
>片山さん及び奈良さんは唯物論者なんだね?
いや.ごめん!
本物の唯物主義者であるかどうかの確認は特にしてはいないです。
ただ一般論としては、仏教学の文献学者というのは大方そういうものだということ。
彼らがたとえ、物理的次元を超えた超常レベルについて肯定的に発言(記述)したとしても、
それはあくまでも、“その宗教(聖典)においては”そのように信じられており、
そして、説かれている。書かれている。ということをいっているに過ぎない。
尚、私個人は、
文献学者の中で明らかに物理次元を超えた現象や世界があることについて、
彼ら自身が本当に信じているとみられる発言や記述を今まで見た記憶がありません。
精々、プッダのような大聖者というのは我々の理解を超えた境地にあるとされているので、
仏典の記述にあるように、そういうこと(霊的な奇跡など)が絶対にないなどと言い切ることはできないかもしれない...。
といった程度の寛容的な心を示す発言ならば聞いたことはある。佐々木 閑氏などはね。
「松本史朗氏が正しい」という人もいるかもしれないけど
それでも、とりあえず
松本史朗氏よりも
宗教に寛容的な学者の方が良い感じがする
松本史朗氏曰く
「縁起は哲学であり信条である
釈尊の悟りは
完全無欠な人間になったということではなく
縁起説で生きていこうと決意したということである…」
↑この説明よりも
「(縁起とは何か?を理解した上で)
縁起している世界を手放して超えていく
そのための対機説法」
この説明の方が良い感じがする
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>432
脳内現象/ニューロン電気信号の結果という理解でしょ。
夢はおろか、宗教体験・神秘体験..などのすべてを
彼ら(物質科学の唯物論者)はこれで説明する。
これでは説明のつかない現象があることについては無視だ。 「脳内現象、電気信号でしょ」とみてるのも脳内、電気信号から抜け出せないという
無限後退だね
>夢の世界は、科学では、物理次元なの??
意味がわからないけどとりあえず
ttp://www.nikkei-science.com/page/magazine/0311/hologram.html
ホログラフィック宇宙
3次元に見える私たちの宇宙
実際には
3次元としての実有がある『わけではない』
夢・幻を見て
3次元としての実有がある。という『思い込みのようなもの』 すべてが電気信号だとして、その電気信号が発生する空間が、スペースが必要だよね
その電気信号が光を生んで、それが、何もないところに映像のように浮かんでいて、その、中で、わたしは生存した個体であると勘違いしているが、実際は、これらが、全体の反応としての夢の世界であったりして
その世界の変遷は、肉体と精神が姿を変えながらずっと続いていく呪縛のような六道輪廻??
そこから離れるには、すべての電気信号は、わたしとは無関係な、風景であるとみる
そして離れたものの存在?となることが、この、電気信号世界からの解脱??
んー、ますます、混迷してしまう たとえ、己はなく、空である
と悟ったとしても、世界は、あるはずでは?
その世界は死と共に終焉するのだろうか
再生の素因を滅し尽くして、死と共に解脱するのが仏教? 「自分には実体はなく空性である」といかなる時にも如実智見できるのが如来 >>439
如何なる時にも如実智見していることが大切であって、
この私はどうなるのだろうかとか
この世界はどうなるのだろうかとか
そのような事柄一切合切、も、止んだ地点にあって、苦しみを止める?
となれば、これは、科学というより、精神的な苦しみを解くための方法論であって
事実かどうかの話ではなく、心の持ちようの話なのだろうか?
このようにすれば、苦しみから逃れられるという方法
その方法は正しいと証明? >>440
◼︎道徳が破れるまで語ってはならない
宗教に興味を持つ人は、何かしら苦しんでいるのです。
だから宗教は、苦しみに対する答えを出さないといけないのです。
「そんな苦しみなんかはないんだよ(無苦集滅道)」と言っても、それは答えになりません。
だから私が批判しているところは、「空論を語るのはかまわないけれど、語ると、私たち一人ひとりがどうするべきか、ということが言えなくなってしまうではないか」ということです。
つまり「あなた方はやり過ぎだよ」と言いたいのです。
『般若心経』の作者は、言葉を使う程度がわからなくなって、操縦がきかなくなっているのです。
それはブッダの立場からすれば「やり過ぎ」なのです。
言葉を使うときは語り過ぎには気をつけること。
そうしないと、どこまでも、頭の考えだけで飛んでいってしまうのです。
『般若心経』ではどこまでも観念を回転させて、結局、修行も道徳も成り立たないところまで脱線してしまいました。
道徳が成り立たなくなったので、宗教としても人々を引き付ける力がなくなってしまったのです。
何を語るにしても、道徳が破れるところまで語ってはならないのです。
話の内容がいくら緻密であっても、道徳が成り立たないような結論に至るならば、お釈迦さまはそれを「邪見」の類に入れるのです。
(アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?) ┐(´ー‘)┌
≪「誰それの」涅槃≫がある ではなく、 ≪涅槃≫がある
というシンプルな構図を、なぜ描けないのだろう・・・。
「誰それの」という形容がつくから、≪常住なる涅槃≫は、同時に≪常住なる「誰それ」≫になってしまうわけで・・w
普段の、日常に於いても、「オレの○○、私の○○」が、本当に「オレの私の」なのか疑わしいと言うのに・・・。
諸法が縁起するものなれば、そこに「誰それの」なぞあろう筈もなく、
縁起に依らないものが世俗の価値観(「オレの私の」)に倣う筈もなく、
「個性、個別性」は世俗の要素・価値基準に他ならず、
出世間の涅槃にそれを持ち込むのは、愚昧な顛倒でなくてなんであろうか? と。 ノシ 「それで大乗の世界で何をするかというと、般若心経のように呪文を唱えたり、南無妙法蓮華経と唱えたりするだけで終わってしまうのです。
これは、世界宗教として仏教を見ると恥ずかしいことです。
世界で太陽のごとく、一切の哲学思想宗教の上に立って、皆に打ち勝って勝利者になるべき仏教が、すごくだらしなくて、コソコソと隠れていなければならない状況に陥っているのです。」
「私たちテーラワーダ仏教徒は、仏教徒であることをすごく自慢して言うのです。
その裏にどんなニュアンスが隠れているかとというと、
私たちはバカではない。科学的な人間であって、迷信のかけらもない。怖いものはないという誇りなのです。」
「仏教は真理に基づき、どのようにすれば生命が幸せに至るのか、論理的、具体的に説くのです。
真理に基づくので、仏教には普遍性があるのです」
「仏道は、自分の心を高める実践です。
仏教徒は道徳を守り、慈悲の心で、最高の幸福にチャレンジするのです。
本人が精進せずに幸福になるなどという甘い話ではありませんが、苦行の類は一切なく、誰にでも実践が可能です。」
(アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?) >>442
涅槃に到達した完成者と、
まだ未完であり、非涅槃の状態にある者との二つの違いがあるから。
つまり、涅槃をこの今において覚知している者とそうでない者。
当然、この場合は、誰が涅槃に達した者であり、誰々がそうでないかの個人差があるということ。
「誰の涅槃」ではなくて、「誰々が涅槃にある」のか? という個人差です。 >>441
宗教に興味を持つ人が苦しんでいる??
もちろん、苦しんでるいる人もいるだろうけれども、苦しみから解き放たれて興味を持つ人々の方が多いのではないですか?
苦しみから解き放たれた経験があり、その素晴らしさから興味を惹かれて、深く学び出して、究極のニルバーナなるものを悟る
悟る過程で、様々な苦難があって、自業自得ではあるけれども苦しまなくてはならない
しかし、なんらかの真実味を、感じている、わたしが、その道を、自ら進んでいく
般若心経が誤り??
原始仏典の説くものと、五蘊皆空を説くものとが矛盾しているとは思えません スマ長老はおしゃべりが過ぎるので...
これは、また「後で」やります。
「分かってない者」というのは、
その分かってないことを自分自身が知らないから、かなり面倒...。 >>439
「空」などというのは何も難しい話などではなく、
何も知らなかったような人間が最初に知る話でしかない。
それを体感できる程度のレベルが如来ですか???
まさか...足を怪我しても、
それは実体がないから、それは自分ではないから痛くないとか?
痛みを感じなくなったら如来なのか? (笑) 現在知覚しているものの、上に、空というイメージを覆い被せて、見ている
このような見方をしていることは、空を悟ることではないと思う
智慧と、空はイコールであり、何ものにも寄らない、という原始経典のような思想とも共通していると、感じる
何処にも行かないというのは止まることであり、真ん中であり、偏りがない
そして、仮論寂滅などの、言葉ともぴったりくる
歓喜に束縛されず、感官を制するのであるから、足の痛みは、当然耐えられないが、その、耐えられない苦しみに、対処することができるものが、日々の瞑想? 坐禅?
なんらかの修行体系の成果としてあったのかもしれない
そのようなことを教えてくれるところは、どこにあるのだろうか?
わからない
しかしラマナマハルシは、体に対する執着が低く、医者の好きなようにしたらいいと言ってたと本で読んだような気がする
まあ、ぼくは、所詮、想像を巡らせているだけに過ぎないが、、、
極端に優れた人かいるようにも見えない
わからないものには、わからないように、できているのだろうか >>447
次の単語は、taṇhacchidaṃ
覚った方は、身体に痛みを感じてもそこから煩悩を作らない。
耐えられない痛みがあっても、嘆くことはない。
釈尊は病気になったお坊さんにお見舞いすると、痛みは減っていきますか、増えていきますか、耐えられる痛みですが、耐えられない痛みですか、と訊く。
覚ってるお坊さんなら、「いま耐えられない痛みがあります」と仰るだけなんです。
何とかしてくれと縋ったりはしない。
科学者がコーティング素材として金(ゴールド)を見てるようなものです。
覚ったあとは、色受想行識に執着は何もない。
考えるときも、考えなくてはいけないから考えるだけ。
煩悩なくただの機能としてやっているんです。
そうやって、我々の生き方と比較して、それがない世界が覚った世界なんです。
(スマナサーラ長老の仏教法話)
痛みを感じなくなったから如来なのではなくこの痛みは空なのだなと観じて、それによってやはり空である五蘊への妄想を膨らますこともないので嘆くこともない
五蘊への執着は何もないのですから。
そうして煩悩なくしてただの機能として生きていって死を迎える、それが如来なのです。
1001.(1002) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。正知と気づきの者として、この身体を置き去りにするであろう。
1002.(1003) 〔わたしは〕死を喜ばない。〔わたしは〕生を喜ばない。しかして、雇われ者が報酬を〔待つ〕ように、〔為すべきことを為して、死の〕時を待つ。
(小部経典 テーラガーター 17章三十なるものの集まり サーリプッタ長老の詩偈) >>445
五蘊皆空はもちろん原始仏教の教えにもあります。
但し般若心経では色ばかりを強調して他の受想行識は亦復如是と一絡げにされてしまっていることには注意が必要です。
般若波羅蜜多の完成は五蘊一つ一つを空(無我)と観じて執着を捨てていくのです。
パーリ経典では必ず色、受、想、行、識の一つ一つをわざわざ挙げてこれは無常である、苦である、無我であるとお釈迦様が説明したことが書いてあります。
更に問題なのは般若心経では、せっかくお釈迦様が修行のために見つけた十八界や十二因縁や四聖諦や智慧を無の一言で否定していることです。
これはお釈迦様が悟りに導くために見つけ出した筋道であり法なのですが、無で否定してしまうと、
それらは必要ない、悟りのためには全てへの執着をただ捨てればよいという虚無主義に陥り、修行へのやる気を削いでしまうのです。
道を歩くという道徳も虚無主義により破壊されてしまいます(>>441
しかしそれらよりも更に問題なのは、散々無と観じることが般若波羅蜜多であると強弁しておきながら、最後は般若波羅蜜多は偉大なる呪文であると神秘主義を持ち出し、しかもその功徳を持ち出して自画自賛で終わらせていることです。
論理が崩れた空論者としてスタートして、虚無主義者を経由して、最後に神秘主義者になってしまったのが「般若心経」なのです。 >>447
追伸(コピペですがね)
■[本の紹介]怒らないこと アルボムッレ・スマナサーラ 著
<111ページ 突然、人に殴られたらどうする? より>
完全なる悟りを開いて阿羅漢になったということは、「実体=エゴ」が頭の中にもまったくないということです。
一瞬一瞬の無常に完全に気づいている「ヴィパッサナー」の知慧で生きているのですから、たとえぶたれても、サーリプッタ尊者にとっては、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことです。
そこで痛みが生まれても、心は痛みを感じて、「あっ、痛み」というだけで終わりということになります。
「私は痛い」とか「私はぶたれた」という発想は、無意識のところにもありません。
だから、そういう態度でいられるのです。
http://d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/touch/20100715 >>448-449
マハルシのことはよく分かっています。
病気や苦痛との関係も...。
しかし、そうではなく、
私が(平均的仏教徒らに)いっているのは、
無常/空なるものは実体がなく価値が無いといっているのだから、
そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
その涅槃に常住するのが如来でしょうということをいってる。
つまり、「空」なる世界を脱した境地が涅槃だということ。
だから涅槃と涅槃に住する如来が「空」である筈がない、と。 追記:
五蘊皆空(五蘊は悪魔であるともゴータマは説かれた)であるのに、
どうして、涅槃や如来が空で在り得ようか???
まさか涅槃が五蘊に在るという教えはない筈ですが、
これ如何に?
まっ、
後で平均的仏教徒の(仏教理解の)大間違いを図解でやりますから。 >>452
はっきり理解してるわけではないですが
五蘊が空である
と悟った時に、この、空というのは、別の空ということではなく、五蘊のことです
ですから、五蘊というのは、存在するすべてのものですので、あらゆるものは、空であり、イコール五蘊であるとなる
そこで、これら実体のないものに、囚われた心が落ちるなら、その見抜いた智慧は、そこには、なにものもないはずである
この、なにものもない
なにものもなき五蘊は、そこには、なんの識別作用も働かない智慧の完成した悟りがあり
その、消失した、消失もない
なにもない
その、それが、完全なるもの
完全なる安らぎとなるんじゃないですかね
それは、あるとは言えないわけで、ないとも言えないし、完全に解脱してる
この、あるものが、あるがままで、しかない
精神的なポジション?
ポイント?
のようなことじゃないのかなあ >>454
仏教徒の大間違いの原因は、
「一切」の理解に失敗したことにあります。
つまり、
「一切」の中に「涅槃」を含めてしまったことです。
これは部派がヤラかした誤解であり、間違いなのです。
以降〜の上座部テーラワーダ(スマ長老たちも)を含め、北伝大乗もすべてがこれに倣っている。
仏教徒たちは部派以降〜の二千年を伝統護持と称してこれを死守してきたのです。
そして、無我の間違いもこの誤解の中にある..。
旅行、帰宅後にこれを図解にて解説します。
>五蘊が空
スッタニパータ 1119
(五蘊だけではなくて)
仮設としての
有為法の
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
仮設としての
有為法の
すべて一切の諸法は
自分のものではない
自分ではない
我所ではない
我ではない >>452
(初期)仏教では、一貫して 「見よ」 と言われるだけであり、
「(成就永遠なる)如来に【なれ】」とは言われない。
ギリギリ「阿羅漢となる・なった」「ブッダとなった(覚った)」と言われるだけ。(そして皆、【普通に】この世を去っていく)
なぜか?
阿羅漢もブッダも(そして如来も)、世間的呼称であるから。
(だから、後世「法身仏」が希求されることになる。単に阿羅漢仏陀如来であるだけでは永遠ではないから。)
>そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
>その涅槃に常住するのが如来
「境地が恒常である」というのは、(まさに今あなたが言うような!)
≪『(それを)見ている【者】がいる』境地(→『見ている【者の】→誰それの』!)が、恒常的にある、存在する、ということではない。
誰か特定の人の(誰か特定の人が見ている)境地が常住なのでない。
そのような境地が、そのようなものとして、
行じれば必ず現じるものとして常にある、という意味で常住であり、
「その人が(如来が)常住となる」などとは言われていない。
高級スポーツカーに乗ったらイケメン御曹司になるようなw、
力士に抱っこして貰ったら強い子に育つような、
そんな「『あやかり』常住」は笑い話にしかならん。 これが説一切有部が示す一切
http://livedoor.blogimg.jp/tojiruwa/imgs/e/0/e071c596.JPG
涅槃は無為法の真ん中の択滅
説一切有部ではこれらの一切法が三世に渡って実有であるとした
択滅
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%8F%E3%82%81%E3%81%A4
真我みたいな恒常の我の存在は説一切有部でも認めてないので一切には含まれない
あと説一切有部だけではなくどの部派でも一切の外に真我が存在するとは言わない
何故ならアーガマの中で釈迦は
「比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、
それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。
何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
と比丘たちに説いているからである
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
一切に含まれないものはただ言葉だけがあるのみであって実際はありもしないものだからである
(説一切有部では上図五位七十五法が一切であるとしたがそれは説一切有部の説である) >>460
>(説一切有部では上図五位七十五法が一切であるとしたがそれは説一切有部の説である)
部派が違えば一切法の数も違ってくるであろうという意味
75という数はあくまで説一切有部の主張する数 >>455
涅槃というのは、空を悟ったものの、囚われから離れた精神、つまり、目覚めたものの、その、智慧に、仮に名付けたもので、そのような理解はあるかもしれないが、そのものが、物質現象として、どこかにあるわけではない アーチャン・チャー比丘
●「私」とか「私のもの」と言えるものは無く、全ては無常だ。
なぜ「ニルヴァーナを得た」という言い方ができないのか? ニルヴァーナを体験した人は、もはや「私」とか「私のもの」という考えを持たないからだ。もし、そのような言い方をするなら、その人はニルヴァーナを真に体験していないということだ。
●世間の人々は幸せになることを望む。彼らは苦しみを望まない。だが「ニッバーナ(nibbana涅槃)」とは、望むこと・望まないことを「超えたもの」だ。
●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。
●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。
もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。
●苦しみがない状態というのは、「我」というものがなく、「私」とか「私のもの」というものがない状態をいう。
ただこの考えを受け入れる時も、私たちは智慧を働かせるべきだ。「この身体は私のものではない」と言って、その身体を傷つけるのなら、その行為は私たちにとって何の益もない。
●勝義諦では「私」というものはなく、ただ「無我(アナッター)」だけだ。無我を理解するためには、瞑想をする必要がある。もし知的な方法で無我を理解しようとするなら、あなたの頭は破裂してしまうだろう。
一度でも心から無我を理解したなら、人生の悩みは霧散する。そして家庭生活、仕事など全てのことがずっと気楽なものになるだろう。
あなたが我を超えて物事を見るとき、もはや幸福に執着することはなくなる。そして、幸福に執着しなくなたっとき初めて、本当の意味で幸福になることができるのだ。 >>103
別件で目に入った論考。 参考にでも
つhttp://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st05/st05_0404.pdf
誰かと思って調べたら沖本さん。 なので、どうかなぁ・・とも思ったけど、
少なくとも上記URL論考に関しては、かなりいい線で、よく評し得ているかな・・とw
全章全文→ http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/book_f1e.html > 無常/空なるものは実体がなく価値が無いといっているのだから、
> そのような世界から脱した境地が恒常の涅槃なのであり、
→そのような世界を脱したではなくて、そのような世界(空)を知見(得般若智)した境地が涅槃じゃないの?
> その涅槃に常住するのが如来でしょうということをいってる。
→如来常住の事かな?常住「する」というより常住「してる」んでしょ?真理は。
> つまり、「空」なる世界を脱した境地が涅槃だということ。
> だから涅槃と涅槃に住する如来が「空」である筈がない、と。
→上記の反論参照。 > 五蘊皆空(五蘊は悪魔であるともゴータマは説かれた)であるのに、
> どうして、涅槃や如来が空で在り得ようか???
「空で在り得ようか」ではなく、「空を知り得た」んでしょ? http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1496603691/376-385
神仏板ゆえ、致し方ない流れかな・・・。
経典の文句がそのまんま、現代の様々な悩み・精神疾患に援用できるとでもおもってんのかね・・・。 >>464 乙
時間のあるとき、じっくり読んでみる。
>>467
まじで、特定の経を読んだら、その功徳により現実の障害が解決できると
考えてんのかね?w
>>464のリンク先について
仮設としての
縁起している世界の中で
前世において、畜生だったものが
今この現世においても、畜生であったとしても
ttp://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st05/st05_0404.pdf
南泉の異類について
…
(今この現世において
畜生でないものが、外見上・表面上?)
畜生のように振舞ったとして
(来世に)
畜生になるものか
_ _ _
(仮設としての)
無明を掴んだままでは - 仏に成らない
無明を手放して、そして - 仏そのもの
↑こういう意味かしらん?
>>469の補足として
今この時点において
仮設としての
「無明を手放していない」のなら
外見上・表面上?
「仏そのもの?」のように振舞ったとして
「仏そのもの」になるのか
_ _ _
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?
無いのか?
有ることもあり、無いこともあるのか?
如来は本より畢竟じて
空である
況して滅後は言うまでもない
如来は戯論を超過するのに
人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達(おじゃる)は
仏を見ることはない http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1496603691/376-385
380の人は相談人が先天性のコミュ症であるのを忘れて後天性コミュ症の一般的な解決策しか言ってないので失格
383の人は金剛般若経の教えを広めてセブンとパーピマンに嘲笑されたことで383の能浄業障分は成就されたw
金剛般若経といえば応無所住而生其心
これは臨済禅でも有名な言葉で禅語にもなっている
臨済禅を学ぶものが金剛般若経を否定してはいけないよ( ̄▽ ̄) 同事(どうじ)というは不違(ふい)なり、自(じ)にも不違なり、侘(た)にも不違なり、
譬(たと)えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、
侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむる道理あるべし、
自侘は時に随うて無窮(むきゅう)なり、
海の水を辞せざるは同時なり、是故(このゆえ)に能(よ)く水聚(みずあつま)りて海となるなり。 悟りとは浮世に未練が
無くなる状態を指すにゃん♪
極めて単純な事柄を無理矢理
ややこしくして善男善女を誑かす
生臭坊主は地獄行き確定にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 大乗の極点がタントラバジラヤーナである。
金剛教だったかな。
殺人肯定とかいうよりもっと全生物を殺してもOKって思想。
この思想の矛盾は全生物を殺すことはその生物の中に
自己も入るわけであるからいわば全生物と抱き合わせ心中と
言うことでもある。
日本の真言宗 チベットのラマ教の根本の教えである。
仏教の正反対の教えでもある。
外面菩薩 内面般若の内と外が180度違う。
菩薩行のつもりでヒトを殺す。臨済宗の禅も同じ
仏に会えば仏を殺し 親に会えば親を殺す。
全く同じである。 >>475
それは金剛乗(密教)でその経典が金剛頂経では?
ただ金剛頂経では殺人OK殺生OKなどとはしてないと思う。
あれは確か即身成仏についての経典だったはず。 >>471の金剛般若経というのは金剛頂経とはまた別。 悟り悟りというけど
これは自分の親が生まれる以前
さらにその親の親が生まれる以前と
どんどん過去を克服していく作業を
意識的に行い生の最初まで辿る
作業を行うという事で親からの束縛を
脱するということである。
親の意識はその社会の反映でもある
のでその親の意識の根源からの脱出
方法である。それにより親から独立し
自由を得るという方法なんだろ。
その場合血統というものが立ちふさがる
血のつながりとか、じつはそんなものは
ないんだが。 >>473
道元ちゃんやな・・^^
同事とは無分別のことやな^^
我があると分別する^^ >>475
「タントラ」・バジュラヤーナだと凶悪テロ組織のオウムのこと。
バジュラヤーナが密教のことだ。
頭のおかしな犯罪者達の妄想と密教は全く違うものです。
(^。^)凶悪テロリスト団体と、その賛同者供は朝鮮送りにすべきだよな。(笑) 読経して後に功徳が生じる事もあるかもしれないけど、読経と「同時」に功徳も生じているのでは? あんな豚の垂れ流した下痢便と密教が同じに思えるんなら、
君は宗教学者の島田某と同じレベル。(笑) 川口慧海のチベット探検記でもよんでごらん。
13世ダライの時代だよ、今は14世な。
密教が絡んだ国は滅ぶ。ダライ・ラマとか信用してるんだ。 チベット密教がボン教と密教が混ざったものってのは常識だよ。(笑)
ルンがーとか死者の書とか虹の身体なんて密教では言わないよ。(笑)
密教は仏教がヒンドゥー教を取り入れた宗派で根本経典は金剛頂経と大日経で、
常用経典が、君が「殺人云々」と書いた比喩もある理趣経。
バカカルトでは金剛頂経は理趣と同じと言うらしいが別の経典。(笑)
チベット密教と真言宗を一緒にするのは、チンパンジーとゴリラが同じ種と同じってレベル。(笑)
更にあのテロリスト団体のタワゴトが宗教だと思うなら、文科省の役人レベルの宗教観。(笑)
(^。^)それとも日蓮宗みたいな仏教の成れの果ての信者さんかな?(笑) >>485
密教も、真言宗も、まったくのど素人で経典も読んだことないんだけど、どんなのなの?
クンダリーニが上昇して、神と一つになるようなのと似てるのかなあ
神秘的な力があって、その、異次元不可視ワールドを旅していくような??
それとも仏教だから、一応、縁起や無我の理解を目指してるのかな?
まあ、本読めよって話だけど、、、
チベット密教の本は読んだことあるけど、ぼくが読んだのは、めちゃ普通に、六波羅蜜の詳しい話だった、、、 よく言われるように、密教って師匠から伝授受けないと出来ない修行方法。
仏教だから当然仏教の修行で、その方法にヒンドゥーや当時の呪法を用いた。
その具体的な呪法は勝手に教えたら駄目ってことだから、
「密教の本」が考え方、つまり仏教教義になるのは仕方ない。
色々な本があり、中には方法だけ詳しい本もあるが、考え方を踏まえないとヤバイから薦めはしないよ。(笑)
(^。^)簡単に言うと、この身体のまま仏になる教えですけど、
これは「美人になる」って謳い文句と同じで本当に完璧な美人に成れる訳じゃあない。(笑)
>>486 ID:3jn2Flzn師匠へ
承狂師匠が(正式な)教授阿闍梨なのか?
わからないけど、とりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8
(正式な)
教授阿闍梨から法の教えを授かる
それ以外は
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%B3%95%E7%BD%AA
越法罪(おっぽうざい)
…灌頂を受けていない者に灌頂の大事を明かしたり… >>487
仏になる
いつも思うんだけど、仏になると言っても、仏って一体なんなのか明確に知ってる人っているのだろうかな
ゴータマシッダッタのようになるという意味なら、ゴータマシッダッタのような人は、歴史上、ほとんどいないから、真言密教で即身成仏した人は、ある特定の意味を付与された、仏、なるものに、なるのだろうか
仏様というのは、目覚めた人、悟った人の意味だとすれば、たくさんいることになるが、それなら、みんな、この身のままで、悟ったのではないの??
と思ってしまう
仏っていうのは、なんなのかすら、よくわからないなあ
仏像にあるような形の存在が、異次元にいたりするのだろうかとか、想像したりw
よくわかんない
でも一応、自分では目覚めた人、つまり、惑い苦しみから、解き放たれることが、出来た人なのかなとか思う >>489
380はセブンさんという人ではありません >>491
ああ、違うスレの話だったら、わかりません
勘違いなら、ごめんなさい >密教…どんなの
六師外道
ヒンドゥー(バラモン)
釈迦
根本仏典
中観派
瑜伽行派
などを部分的に?受け継いで、それゆえに
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
チベット
根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
↑中観帰謬を前提としてるような気がする
仮設としての
縁起している世界の中は
無常であるがゆえに
変化しないものではない
それゆえに自相(自性)ではない
というところについては
部分的には
上座部と共通しているところもあるかもしれない
間違っていたら スマソ m(_ _)m 「美人になる」って例えでいえば、
一般人が漠然とイメージする「美人」と「美人になる」って言う人のイメージは違うかも知れないが、まぁ、大体の所は同じでしょう。
「皆が美人なんだ」とも言えばいえますが、どんな美女でも醜悪な時もあるし、並べればそれぞれアラもでる。(笑)
年をとれば醜くなるかも知れないし、そもそも「万人が認める美女」なんて存在しない。(笑)
マツコみたいなのが理想ってのもいるだろうからね。(笑)
だから百家争鳴して止まることは絶対にない。(笑)
(^。^)上座では「仏とは世界に釈尊一人だけで、もう現れない」なんて言うところもあるそうな。(笑) >>490
まぁ何かあるなら俺の立てた「てす」ってスレに書いてください。
此処であんまりやるとまた怒られるから。(笑)
(^。^)ちなみにここの主は「密教は大日如来の教説」とかいても火病りますからお試しあれ。(笑) 皆の衆、お早うにゃん♪ (^o^)/
>>490
様々な未練から解放されて
最終的に己のが命に対する
未練執着から解き放たれた
人物が仏にゃん♪
小難しい似非哲学を振り回し
他人をやり込めたところで
修羅界の外道に過ぎないにゃん♪
南無南無 ( ´•人•` ) 392Junkie-Ooyama2018/05/22(火) 00:24:01.72ID:wh1MMrx6
>>390
成程ね、接心への参加経験はあると。
「あの時は」って事は今迄一回きりってことかな。
ともあれ、俺の言う参禅は老師から公案を頂いて問答する事です。
彼此法縁には恵まれていたんで、接心は少なくとも百回以上は参加させて戴いてるけどね。
393Junkie-Ooyama2018/05/22(火) 00:35:46.68ID:wh1MMrx6
一番回数が多かったのは24炷(しゅ)/日かなぁ。
典座とかやってた時は回数減ったけどね。
時には本山からわざわざ管長が来てくださって提唱をして下さったけどね。 367junkie- ooyama2018/05/21(月) 19:23:52.32ID:67Ztlv5B
>>364
同じだよ。
むしろ、(本証の)妙修から入る道元禅の方が大変かもな。
てか、専門道場で何年腹練ったの?
370Junkie-Ooyam2018/05/21(月) 19:42:46.43ID:LwxKK+T5
てか、専門道場で何年腹練ったの?>>369
390J.Ooyama2018/05/21(月) 23:15:09.79ID:67Ztlv5B>>392
>>389
>いや、公案の方がわかりずらいけどなぁ。
参禅した事あるの? 430 名前:J.Ooyama [sage] :2018/05/22(火) 12:07:18.47 ID:uBIySK/+
多重人格が10連投か。
でおー隔離スレでやれよ、迷惑掛かるから。
416 名前:夕 :2018/05/22(火) 06:23:35.76 ID:Uqe1xqYL
なんかおかしいな。
俺にはあの芸当はできない。 テーラワーダの真髄は解脱
要点を整理してみましょう。お釈迦さまは客観的にものごとを見る科学者よりも、はるかに優れた科学者でした。
「生きる」という本題に対する真理を発見して、苦しみを乗り越えたのです。
それは単なる科学的なやり方であって、神秘ではありません。
不可思議な出来事も説かれてはいますが、お釈迦さまは神秘に反対なのです。
しかし時代が経つとともに、無智な一般人の要求に応じて仏教の世界の中でも、神秘的な考えが現れてきたのです。
そうして仏教の世界は、仏教独特の呪文や祈禱などを発展させたのです
(ヒンドゥー教の呪文や祈禱より優れたシステムを作りたかったのだろうと思います)。
神秘主義は、大乗仏教世界においてじりじりと発展しました。
ブッダの教えは顕教であると明確に説かれてあったにもかかわらず、「密教」という宗派も現れたのです。
今世で解脱に達する目的から遠ざかって、一般人に現世利益を願う宗教に変身したのです。
お釈迦さまの教えを忠実に守って、今世で解脱を目指して修行するという約束のテーラワーダ仏教も、神秘主義、御利益主義などの竜巻に揺れたのです。
現世利益や祈禱などの習慣は、テーラワーダ仏教にも現れました。大乗仏教と比較すると、神秘主義に関しては、テーラワーダ仏教は後輩です。
祝福、祈禱などの習慣は、大乗仏教から取り入れたのです。
しかし、お釈迦さまの真理の教えがそのまま残っているので、テーラワーダ仏教界で見られるご利益や祈禱系の習慣に、ブッダの教えをおさえて物置のようなところに閉じ込める力はありません。
ご利益に依存している人々も、「ブッダの真の教えは煩悩を絶って、解脱に達することだ」と明確に知っているのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダは真理を語る: テーラワーダ仏教の真理観とその変容 (高野山大学での講演録) 「anaTTan」とは言ったが、
それは「(どこにも)我がない」という意味ではなく、
「これらは我ではなく、そうでない我はある」という意味。
私の説示と弟子たちの受け取り方・認識との間で、乖離・誤解があったとしたら大変残念だ。 雨降りは寝言ばかりにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
>>501
リンンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m
ttp://fallibilism.web.fc2.com/089.html
最初期の仏教では
「我はない」という意味の無我説は説かれていない
「〔真実の〕我ではない」という意味の非我説が説かれたのである
ということが明らかになった
非我と無我とは別の概念であって、はっきり区別する必要があり
非我から無我へと思想史的な変移がみられるという
(anattan の意味も同様に変化していったといわれる)
↑これかしらん?
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_621/_pdf/-char/en
倶舎論における無我説
…
(中観帰謬派)
後世の仏教においてアートマンの意味を
〔それ自体〕〔自性〕と解するにいたった
中観派における無我という語は
この様な意味に解せられていることが多い
>>504 リンク先について
その朝日新聞のサイトで
[我がない]で検索しても
[そうでない我はある]を
見つけることが出来ないので
ご確認の程を ヨロ m(_ _)m >>506
無為の真人=ナマケ者のニートにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
怪しい(宗教団体とかの)サイト?かもしれないけどとりあえず
ttp://vajracat.com/2017/03/04/bhagavadgita/
ヒンドゥー教
…体は、火と水と空気と土と風でできていて
あなたはこれらの要素に消えていくでしょう
でも、魂は永遠なのです…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
ヒンドゥー教
不二一元論
ブラフマン(梵)
アートマン(我)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
アートマン
永遠的な主体
− これに対して −
大乗では
個体としての我(人我)だけでなく
存在を構成している要素(法我)も否定して… ≪「我」「魂」はどこにあるの?≫
宗教哲学などで「心はどこにありますか?」「魂は人間のどこにありますか?」などとよく聞きます。
哲学では、「魂がある」とまず決めてしまいます。
それでも、決めたらそれで終わるはずなのに、それから、その魂はどこにあるのかと探すのです。
どこにあるかも分からないものなら、魂があるかどうかもまだ分かっていないということではないのでしょうか?
神学でも「すべては神様に創造された」と言いますが、それならそれで問題は終わるはずなのに、
ではその創造した神様を探そう、と、それから神様が存在する証拠を探すのです。
だから彼らには、同じところをぐるぐる回るだけでいつまで経っても答えが出てこないのです。
ヒンドゥ教でも「魂はある、アートマンはある」と決める。
あると決めればそれで終わるはずなのに、そのアートマンはどこにあるとか、どんなものかなどとかなどと哲学を作ります。
あると知っているなら、それがある場所も、どんなものかもすぐ分かるはずですけど。
自分で勝手に迷路に入って、間違っている同じところでいつまでもぐるぐる回っているだけです。
「魂」 とか「我」とか「宇宙を作った神」とか、何千年もの間、あるあると言いながら探しているのに未だ見つかっていないのですから、
一度立ち止まって、そんなものが本当にあるのだろうか、と調べ直した方がよいのではないかと思います。
お釈迦様は「すべての哲学が、袋に閉じた網の中であっちに行ったりこっちに行ったりするだけで、出口は全然見つからない」
とおっしゃっています。 >>510続き
我々が知っている大乗仏教も同じ過ち、仏教だったら絶対やってはいけない過ちを犯しています。
失礼な言い方をしますが、大乗仏教はブッダの教えから脱線しているのです。
日本の学者も明治時代には「大乗は仏教に非ず」というところまで突き止めて研究していたのに、
他の人たちに叩かれてそれも立ち消えになりました。
学問的に正しく叩かれたわけではなくて、感情で「あなたそんなことを言ってはいけません」と言われて潰されたのです。
その上、大乗仏教はやっぱり仏教だよという研究が発展してしまいました。
でも、やっぱり魂はあるという概念から大乗仏教は始まりますから、魂という言葉は使わず、法身があるとか言いますが、
あるならそれで終わりで、それ以上考える必要も何もないのに、そこからどうしていろいろ考えるのでしょうか?
あるかないかという結論は普通は最後に来るものですが、この人々はまず「魂はある」と結論を決めて、
この結論はどうやって成立するか、実証できるかとがんばっているのです。
仏教は逆に、普通の方法で、証拠によって結論を導きます。魂があるかどうか徹底的に調べてから、結論を出すのです。
結論を最初から決めたりしません。その結論はもう、釈尊が二千五百年前に出しています。
心にも心所にも「我」も「魂」もない
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析) ≪釈尊は「我」を認めた?≫
ある学者の人々は、それでも我があってほしいから、
「お釈迦様は、『我はどこにもない』とは言っていない。
我でないものを我と受け取るのが嫌で無我と言っただけで、真我そのものを否定してはいない」と言うのです。
「自我は否定しても自己は否定していないぞ」とも言います。
言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。
お釈迦様の鋭さが見つかっていないというか、それを感じていないのです。
お釈迦様は人にショックを与えないで丁寧に智慧の方向に導くのです。
私たちが何かを付け加えることも、解釈を拡げることも不可能です。
遺された教えの中のほんの僅かのものを説明することしかできません。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) >>510
仏教哲学(?)も網の中で右往
左往しているだけにゃん 🎵
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