外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします 「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です 極めて恣意性の強いスレであることを了解願います 上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく (むしろその逆で過疎って欲しいくらいです) 「真摯なる碩学」が パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です 自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです 自由に書き込みしたい方は↓こちらへ ひだ =^・ ・^= まり ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2 ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524 前スレ ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/ ログ保管庫 ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>33-34 ゴータマの説いたは、五蘊無我というものであり、それは「五蘊は無我ではない」といっただけ。 そして、「アートマンではないものをアートマンと見なすなかれ」です。 これを言い換えるならば、「アートマンをアートマンとして正しくみよ(体験せよ)!」となる。 ただ、ゴータマはアートマンについては教えを説くことがなかったのです。 アートマンの有無については答えずに沈黙した。つまり、無記の態度を採った。 その理由については明確に述べています。それは単に、誤解を受けたくないからであるとしており、 決して、「アートマンがないからである」という意味はそこにはない。 有為にアートマンがなかったとしても、無為であれば問題はない。 『しかし上述の経には、「それ(五蘊)は私の我ではない」と言っているのみであるから、五蘊以外に「我」があると考えれば、問題は別になろう。 このように考えられた我は、いわゆる「離蘊の我」であるが、この教説には、この離蘊の我については、何も言っていない。その理由は、離蘊の 我は認識できないものだからである(注)。 ----------------------------------------------------- (注)離蘊の我については、ヤマカ比丘と舎利弗との問答が理解に資するであろう。「如来は死後に断滅して、何も残らない」と主張したヤマカに 対して、舎利弗が、「五蘊の中に如来があるか」「五蘊を離れて如来があるか」等と質問して、その邪見を捨てしめたのである。SN.vol.V,pp. 109-12. 南伝大蔵経、第14巻、174-78頁。『雑阿含』巻5、大正2、30下-31下。いまは細説を略するが、その趣意は、認識されないものについて、その有無 はいえないということである。したがって離蘊の我がないと、積極的に否定することは勿論できないことである。』 (『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理」』東京大学出版会刊) >>35 定説じゃないって? これだけの錚々たるメンバー(著名学者)が殆ど完全同一の見解にあるというのに? では、どうなら定説ということになるのか? まっ、定説や永年の常識が覆るということは確かに在るが... 宗教上の迷信(伝統だからといって盲信すること)を打ち破るのが学問の役目です。 何故なら、本人たちにはできないから。 >>24 ID:yIp2CHvG師匠へ ttp://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/02/03/050000 人は生まれながらに仏性を持っているのか 「あなたは優しい人間だけど……」とそこは認めて それから直す、という(順番・段階がある) 中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察 勝義諦・世俗諦 この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう 現象的真実の中に存する根拠なしに 究極なるものの重要性は説き得ない 究極なるものの重要性を理解することなしに 解脱(涅槃)は達成され得ない それゆえに チベット ゲルク派の 中観自立派を理解して 光り輝く照明から観照する と導いて そして それから 中観帰謬派に導いていく という順番・段階がある という対機説法 ID:yIp2CHvG師匠へ 最終的には? 中観帰謬に導く そのために 上座部 パオ・セヤドー ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429 通常は、四界分別観から始めなければなりません そして それから ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第一禅定 五禅支の一番目 どこかへ飛んでいってしまう心の働きを 呼吸の観察に戻す 思考している空間から → 別の空間に戻す という順番・段階がある 根本仏典 上座部の場合は 少しずつ段階的に 止(サマタ禅定) 観(ヴィパッサナー智慧)の実践を進めていく これも 解脱智見に導くための (縁起している世界からの)解脱を知覚するための対機説法 ID:NYT8OvrL・ID:yIp2CHvG師匠へ そして 宝珠殿へ >自身の発する言葉 おじゃるは一応、上座部も肯定なので ttps://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E (自分の意見・見解も含めて 縁起している世界を) 手放すこと スマナサーラ そして一応 3.0として ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm 曹洞宗 内山興正 (自分の意見・見解も含めて 縁起している世界を手放して超える。そのために) 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません … …ところが今 (自分の意見・見解も含めて 縁起している世界を手放して超える。そのために) その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって 何ものをもつかまないでいることです すなわち思いの手放しです 思いが それをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう スマ長老がとても良いことを述べていたので、ここに紹介しておきます。 この部分の長老の言葉ならば、この私も同意します。 大乗のように「空」という言葉に踊らされていないところは、流石ではある。 この、“涅槃とは一切を超越した状態であり、涅槃を「空」ということはできない”という部分は特に大事な部分です。 『それでは、一般の人々は困るので、「最高な幸福、最高な安らぎ、不死なる境地、一切の苦しみの終焉」などの言葉も使っています。それでも、理解 できるとは思えないのです。涅槃とは、一切の次元を超越した状態です。ある、存在する、という理解できる範囲を超越しています。それ以上、目指す べきところはありません。 我々は、有の世界にいるのです。有・有るということは、因縁によって現れた、変化生滅していく、一時的な現象の世界です。神の次元も、梵天の次元 も、有の世界です。有は、無常なのです。有に対立して、人間は「無」の状態も想像しますが、実感があるとは思えません。どちらかというと、虚無主義 に陥りやすい概念なのです。仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、 実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も 涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不 可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。しかし、「有」でもないのです。その境地は観念的なものではなく、経験できるものです。』 (『解脱は理解できない』) http://www.j-theravada.net/howa/howa125.html >涅槃を「空」とは言わないのです >しかし >「有」でもないのです >その境地は観念的なものではなく >経験できるものです どこの誰が 解脱を知覚して涅槃に住むのか? 仏そのものが 解脱して知覚して涅槃に住む 戒・定・慧・解脱・解脱智見 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も) そして それから ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html … さらに無の世界も超えて 「仏そのもの」の世界から 移り行く世界の様を ありのまま見つめている どこの誰が? 仏の世界の「仏そのもの」が → 縁起している世界を見てる という対話がこれ↓ ttp://www.onedhamma.com/?p=5136 15/05/24 藤田一照:魚川祐司:山下良道 3.0のpodcast法話 >>41 やはりスマナサーラさんが言ってることは浄土真宗の僧侶ながら仏性や如来蔵や霊魂やもちろん真我も否定している小川一乗と大して変わらないのなw 真宗における空無我 http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar5.pdf >>31 解脱した修行完成者には主客はないから誰とかいう問いをすること自体がナンセンス。 これは仏教の基本中の基本。 涅槃や真理の世界はは言葉では表現できないとは主客とか分別とかから離れているからなのだよ。 >仏教1.0 中国経由の日本の大乗(禅宗とか) >仏教2.0 1990年代後半から日本に入って来たテーラワーダ(上座部、南方仏教) >仏教3.0 両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した仏教のあり方 このナンバリングは流石に、デタラメすぎるでしょ。 最初の仏教は原始仏教 次の仏教は部派仏教(その流れを汲む上座部仏教も) その次の仏教は大乗仏教(江戸時代までの日本仏教も) 今は、マルクス主義張りの(自称)科学的仏教が日本の伝統仏教と言われている。 仏教を科学と主張しているテーラワーダも、あまり期待は出来ない。 日本仏教の勝者は、日蓮世界宗と化した創価学会と言うことが、認めたくない現実だよ。 >>37 和辻や中村などの著名な仏教学者は、宗教としての仏教を理解できなかった。 彼らの意見を定説とした日本仏教は、もはや幸福の科学以下の存在。 そんな定説を有難っても、得られるものは無い。 (^。^)まぁ、お前らみんなが伝聞だけで「宗教としての仏教」を体験してないんだから目くそ鼻くそなんだがな。(笑) >>48 ×5chのみんなが目くそ鼻くそ 〇かなりの日本人が目くそ鼻くそ 近年はライトな信者が増えているけど、欧米とかではまだ半数以上が信者と認定できると思う。 >>8 涅槃を認識している主体は誰だ? という問いはウダーナ涅槃に関する経の第一の >比丘たちよ、その場所(処)は存在する のその場所とは何処のことだ? という問いと同じくらいの愚問。 >>46 創価学会の信者は宿命転換のカルマ落としのために熱心に布教(折伏大いにあり)するからね 伝統宗教は檀家制度に甘んじて布教には熱心ではないから 経験論から導かれる答えが、非我ではなく無我なんだよ。 >>宝珠 勿論、 仏教に於ける答えは、お釈迦さんの経験に依っているし、 それ以外の出発点・起点はない。 「涅槃なるもの」 涅槃(nibbAna)とは、煩悩の消えた(nir-√vA)状態、あるいは煩悩を離れた(nir-√vR)状態を言います。 具体的には、最上の悟りを得た人である阿羅漢の境地を指し、貪・瞋・痴の滅尽(khaya)という、 いわば三毒のない状態であるとされます。また涅槃は、「不死」(amata)、「不生」(ajAta)とも呼ばれますが、 それは、阿羅漢には、煩悩が断たれ、 もはや【渇愛(taNhA)・邪見(diTThi)に満ちた凡夫として】【生まれることも死ぬこともない】、 つまり業(kamma)による生死の輪廻(saMsAra)がないという意味です。これに関連して原始仏典に、 煩悩のある一般的な凡夫の死を「死ぬ」(marati)「時を作る」(kAlaM karoti)と表現するのに対し、 阿羅漢の場合には「入滅する」(parinibbAyati)「時を待つ」(kAlaM kaNkhati)とし、 はっきり両者を区別していることが注意されます。 それは、仏や阿羅漢は、身心が滅びても、死ぬことがない、 それゆえ仏教には「仏の死」とか「阿羅漢の死」という言葉は存在しないということです。 涅槃の状態は、「有余依」(saupAdisesa)と「無余依」(anupAdisesa)の二種によって説かれることもありますが、 それは、身心の有る涅槃か身心のない涅槃か、 つまり「煩悩の滅尽」か「蘊(煩悩の素因)の滅尽」かを区別しただけのものです。 後者は前者の単なる帰結に過ぎません。 これを、後者に重きを置き、真の涅槃は死後にあるとして、涅槃を死と結びつけるならば大きな誤りになります。 【涅槃は死に関わらぬものです】。その意義は、あくまでも、 【この世で、戒・定・慧の実践によって獲得される】【「煩悩の滅尽」に、目覚めた者の境地にこそ】あるはずです。 その意味でまた、成道について言われる「涅槃」(nibbAna)と入滅について言われる「般涅槃」(parinibbAna)とは、 言葉の使用において明確に区別される必要がありましょう。 なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、【勝義的には】【常住】、【寂静】、【無我】のものでありますから、 【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視されることはありえません】。 (季刊原始仏教第5巻(平成5年四月八日発行)P.143) ※(【 】は、重要と思われる部分に引用者が挿入。) >>51 そりゃ商売でもない限り、信じてもいないことを布教する馬鹿はいないからな。 そして伝統仏教は、商売者と、外道と、馬鹿学者の溜まり場になった。 >>44 のリンク先 空の世界観と浄土真宗 … …二種深信(特に機の深信)の徹底は 結果として 空の世界観が志向するものと一致する 二種深信 一には決定して深く 自身は現にこれ罪悪生死の凡夫 曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して 出離の縁あることなしと信ず(機の深信) 二には決定して深く かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと 疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず(法の深信) _ _ _ 「法の深信」の方はともかくとして 迷いの生死を出る手掛かりがまったくない「機の深信」の方は 誰もが成仏するわけではない(五性各別)という感じもするけど? どうなのかしらん? >>41 >しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。 ●維摩経 善意菩薩 「生死(輪廻)と涅槃は対立しています。 もし生死の本性を見れば、本来生死なく束縛するものもなく、解脱もなく生滅もありません。 このように得心するならば、これが不二法門に入ることです」はは →生死即涅槃 維摩 色々な菩薩の不二法門意見発表を聞いて最後に維摩の意見を求められた時に沈黙を返答とする(維摩の一黙雷)。 「真理は言説をはなれている」を表現したとされる。 ●中論 「輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない」(p.387) 少なくとも宗教を謳うのなら、体系的に完結している必要がある。 そうでないと、信者が混乱するからね。 「涅槃」みたいな大意で争いがおこるようなら、創価学会みたいに 釈迦ごと切り捨てた方が、人々を幸せにできるんじゃない。 それか、「仏教」と言う呼称を「仏クイズ」とか「仏パズル」に 変えたら、間違えたり、混乱する人が少なくなって良い。 >>57 中論 第二十五章 ニルヴァーナ(涅槃)の考察 涅槃の終わりがどこまでであるにせよ それは輪廻にある存在の終わりである (涅槃と輪廻の)両者の間にはわずかな違いも 最も微細な違いすらも存在しない (勝義諦としては、これで良いかもしれないけど) それでも、とりあえず世俗諦としては 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察 勝義諦・世俗諦 この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう 現象的真実の中に存する根拠なしに 究極なるものの重要性は説き得ない 究極なるものの重要性を理解することなしに 解脱(涅槃)は達成され得ない >>59 の訂正と、お詫び 涅槃がある。という『想い』の終わりがどこまでであるにせよ それは輪廻にある存在の『想い』の終わりである 両者の間の『想い』にはわずかな違いも 最も微細な違いすらも存在しない これなら 仮設としての 固執が現れ滅している おじゃるにも意味がわかる場合もあるかもしれない ということで訂正して、お詫び申し上げます スマソ m(_ _)m 自我 世界 原始仏教 無 n/a=無記 部派仏教 無 有 大乗仏教 無 空=無 正しい正しくないの問題でなく、どの宗派を信仰しているのかで想いも答えも決まる。 科学でなく、信仰で正解が決まるのなら、最も信者の多い宗派の所属者が正解となる。 >>61 自我 世界 原始仏教 無 n/a=無記 スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ… 拡大解釈をすれば 仮設としての 有為法している世界の中で 縁起している世界の中で 縁起に依存して 無明薫習に依存して 無明の暗闇に覆われている → 頭 スッタニパータ 21 …彼岸(涅槃)に到着している 涅槃の世界 無為法の世界 という解釈もできるかもしれない 無我という場合の「我」とは、最初にお話ししたアートマン(ātman)のことです。 それは永遠不滅で、これが人間だと言えるような、絶対に変わらない、確固とした実体、言い換えれば、私たるもの、私と言えるべき芯のようなものです。 そのような「我」=アートマンなど存在しない、というのが「無我」の意味です。 無我とは、ある意味では哲学的な言葉です。霊魂・魂・アートマンといったものは、一部の宗教家たちが頭の中でごちゃごちゃと考え、妄想を膨らませてつくり出した形而上学的な概念です。 それが、絶対神ブラフマンと真我・個我に関する話です。 つまり、宇宙を成り立たせている根本原理・万有に遍在する力は絶対的な神ブラフマン(梵)であり、各個人は小宇宙であるとともに 個体それぞれの純粋な本性は永遠不滅の魂アートマン(真我)であって、アートマン(真我)の中にブラフマン(梵)は実在する が、 ありのままの魂(個我)はブラフマン(梵)と同一ではなく、自己の本体であるアートマン(真我)を理解して個我を真我へと高めることで 宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個人の本体たるアートマン(真我)を合一させることができる…… といった、わけがわからない話なのです。 ですから、 無視してしまってかまいません。 しかし、真理を発見できなかった思想家・宗教家たちは、永遠不滅の実体(我、アートマン)が有ると固く信じて、論じていました。 だからお釈迦さまは、それに応えて、「我は無い」と語ったのです。このようにお釈迦さまは、世の中の質問に答えただけです。 世の中が、あまりにも「我が有る」と言うので、「いいえ、無いです」と言っただけの話です。 ですから仏教の立場は、 有我論でも無我論でもありません。あえて「無我論」を語る必要はないのです。 それを、大乗仏教の「空」思想のように、説明概念を極限まで敷衍して哲学や思想体系をつくることには、お釈迦さまは反対の立場です。 なぜかといえば、論があると異論も成り立って争論になり、時間を無駄にするからです。大切なのは、一日も早く清らかな心をつくることです。 実際、「空」の思想体系をつくったナーガールジュナ(龍樹)は、輪廻も解脱も涅槃も空の立場から観ると成り立たない、と語ってしまったのです。 当然、修行も成り立たない。ブッダの教えをしっかりした思想体系として構築しようとしたところが、あえて修行する必要はない印象を与えてしまった。 仏教に命を吹き込む努力が、命を吸い上げる結果になった。 努力はしましたが、この問題を解決するすることは、偉大なるナーガールジュナにもできなかったのです。 初期仏教では、苦・無常・無我・空は、ほとんど同じ意味で使います。 ただ、「空」は虚無主義と間違える可能性があるので、パーリ聖典ではとりたてて強調していません。 ただ、変わらない実体が無いからこそ、因縁によって森羅万象が変化していくことははっきりと説かなければなりません。 お釈迦さまは無我を発見するためではなく、苦しみをなくすために修行したのです。そこで、因果法則を発見されたのです。 アルボムッレ・スマナサーラ. 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1513948234/748 748 123師 ▼ 2018/05/13(日) 21:03:57.59 0 [0回目] 多数決で決めるバカが多い。 釈迦のバカ弟子が作ったバカお経を信じるバカが多い。 >>62 >>59 そのレスは全文同意 スマナサーラさんも龍樹(や道元)はかなり勉強したそうで中論24章も当然熟読していることと思いますよ それでも龍樹に敬意を払いつつ涅槃や解脱も空にすると勝義のみが尊重されて四諦による修行の必要性が不要になるという危惧感からそれはいけないとした これはスマナサーラさんの方便品ですかね!? 中論24章を紹介しても分からない人には分からないだろうと思って触れなかったのかもしれません 日本の皆様にもよく知られている『スッタニパータ』にも「世界を空として観なさい」と説かれている経典が載っています(Sn. 1 116 モーガラージャ経) 。 Mogharaja (モーガラ-ジャ)というたいへん智慧のある行者がお釈迦さまと対話をした記録です。 (モーガラージャさんが尋ねました。) 尊師に二度問い尋ねたが、眼ある方はお答えにならなかった。 三度目に問い尋ねると、仙人は返事をすると聞きました。 梵天、神々を含む、この世、あの世、に対する、偉大なるゴータマの見解を世は知らない。 かくも優れた智慧ある方に、お尋ねいたします。 世をいかに観察すると、死王を見ずに済みますか。 (釈尊が答えました。) 常に気づきを持ち、世は空としてみなして我見を取り除く。 かように世を観察すれば、死王を見ずに済む。 モーガラージャさんは、「どのように世間を観るならば、死を乗り越えられるのか」と質問しますが、それは「死なないでいたい」という意味ではありません。 「生きる苦しみを乗り越えて真理に達するために、私はこの世をどのように観察すべきか。どんな立場で観るべきか」ということです。 釈尊は、「常に気づきを持って(sato サトー) 、この世を空として観察しなさい」 と答えます。sati サティ 気づき、観察瞑想をしてありのまま観察して、1気づいてみると、「世の中は空 sunna スンニャである」と観えるはずなのです。 そのように観てください、と。 そうなってくると、自我という邪見が、「自分がいるんだぞ」という邪見がなくなる。 それで死を乗り越えたことになるのです。 輪廻転生の苦しみの世界を超えて、解脱に至るのす。 「世を観察する」という言葉の意味は、いきなりはわからないかもしれません。 仏教でいう「世 lolak ローカ」は、物理的な世界り、一切生命のことをいうのです。 釈尊が「一切生命を空とみなしてください」と言うのは、「実体たる自我がない」と発見するためです。 これはパーリ経典のなかでも、最も古いところで出てくる教えです。 「生命は空である」と分析すると、色受想行識の五蘊でできているものが生命なので、「五蘊には実体がないから空である」ということがわかるのです。 生きるとは何かといえば、眼耳鼻舌身意で認識することであって、それも実体がない。空である。そういう空論です。 空の観察(空観)は初期仏教からあった考え方で、べつに大乗仏教が発見したわけではないのです。 ただ初期仏教における「空」は、一切現象の無常·苦·無我を観察するもうひとつの観察の仕方なのです。 アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い? >>67 ID:ZihXhpJL師匠へ ↓ 注意して読んで 中論 第十八章 自己と実在物の考察 行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある 行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである 作り出されたものは (根本仏典・上座部系の) 「空性である」という観察によって消滅する 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察 無明の停止は (根本仏典・上座部系の) 止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである 青目(ピンガラ)の中論 觀法品 第十八 (根本仏典・上座部系の) 八正道を修習しながら 我と我所との因縁(生処)を滅すれば 無我や無我所という決定した 智慧を得るだろう 諸の禅定の中で、滅尽定が第一 >>70 の続き (根本仏典・上座部系の) ttp://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html 非想非非想を手放して超えて → 想受滅 ttps://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html 長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅) … 意思せず、また意思活動をしない それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない 滅に触れる このようにして順々の正知による『想滅定が生起する』 根本仏典・上座部も 大乗の中論も (根本仏典・上座部系の) 止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じる という対機説法 何が生じるのか? ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm 上座部 パオ・セヤドー 智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてくる >>23 を参照 >>68 『スッタニパータ』=数多有る仏典の一つ、作られた、残された仏典の中では最古のものであると言われているが、 釈迦の時代まで遡る者かのかは不明である。 スマナサーラが空に言及しているのは、それが上座部仏教的に正しいからではなく、日本で布教するための方便。 それを真に受けても、馬鹿を見るだけ。 「根本仏典・上座部系の」→これも間違い、wikiにも書かれている 根本仏典:存在しない 説一切有部:部派仏教の最大派 分別説部:部派仏教の一派、南伝仏教の源流と言われている ID:ZihXhpJL師匠へ ttp://yamaneko.hatenablog.jp/?page=1442018163 上座部 パオ・セヤドー 『自らの清浄なる』によって実現します ブッダの本体、色も形もない真実そのものの 『仏そのものからの清浄なる』によって… ttp://www.onedhamma.com/?p=6618 18/05/13 「分別」をマインドフルネスによって離れることが証であり、不戯論 ttp://www.dogen-shobogenzo.com/hachidainingaku3.html 八大人覚 (根本仏典・上座部系の) 正念 ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html 初期仏教の世界 八正道 … 正念 − サンマー・サティ 正定 − サンマー・サマーディ >根本仏典:存在しない ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC 大乗のみならず パーリ経典も編纂されたものである 最古の経典も編纂とみなされている 近代の文献学上は 原始経典さえも釈迦の言説が記録されているか否か明らかでない それでも、とりあえず ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF スッタニパータ がもっとも古い経典かもしれない という 涅槃に導くための対機説法でつ ヒンドゥー 釈迦 (とりあえずの)根本仏典 上座部 大乗 瑜伽行派 密教 肯定派でつ一応、念のため… 釈迦が入滅した時点で 釈迦仏教は消滅したにゃん♪ 今に伝わる仏教は釈迦の教え とは似て非なる物と心得るにゃん♪ 南無南無 人( ´•ω•` ) >>72 タイの上座部の高僧(一説には阿羅漢)の アーチャン・チャー「無常の教え−手放す生き方2 苦しみの終焉」(3) ●世間の人々は幸せになることを望む。彼らは苦しみを望まない。だが「ニッバーナ(nibbana涅槃)」とは、望むこと・望まないことを「超えたもの」だ。 ●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。 ●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。 もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。 http://samten.seesaa.net/article/446643678.html >>52 >経験論から導かれる答えが、非我ではなく無我なんだよ。 それはあなたが唯物論者だから、 勝手に自分の都合のいいように解釈してるだけです。 確かに、ゴータマは自らの経験に基づいて、 この現象界(有為)においてはアートマンは知覚されないとは述べたものと思う。 けれども、それは現象界(有為)を超越した世界であれば話はまた別となる。 ゴータマは現象界を超越した恒常なる世界があることを説いた。 そして、アートマンについては自ら体験しなさいということなのであって、 「無い」などとは一度も述べたことがない。アートマンの有無についてのゴータマの態度というのは無記だということ。 それをあなた方が勝手に、現象界において確認できないということは、つまりは「無い」(結局は無い)ということなんだと結論付けているわけだ。 そこが唯物論者の間違った勝手な論理だというのです。 そして、この判断の在り方が部派による誤解した無我の理解と酷似してるということ。 >>53-54 >なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、 こういう部分はとても良いのに... >【勝義的には】【常住】、【寂静】、【無我】のものでありますから、 と、これに続く部分においては、「常住」と「無我」とを結び付けてしまうという愚を犯している。 こういった混乱してるものを教科書にしてる限りは、いつまで経っても正しい理解を得ることはできないでしょう。 何だか... 世界的な権威である中村 元氏に対する批判的な意見すら上がっていますけれど、 駒沢大学でセブンたちに講義していた奈良康明教授は中村氏の一番弟子でしょうよ! その奈良教授がTV(NHK)の中でなんて解説してましたか? 『草柳: 色(受想行識)は無常である。無常なるものは苦である。 苦なるものは無我である。無我であるものは「私のもの」ではない。 「私」でもない。「私の本質」でもない。 正しい智慧をもって、この道理を如実に観察しなくてはならない。 (「サンユッタ・ニカーヤ」) 奈良: ここにも先ほどと同じ「色受想行識」と「五蘊(ごうん)」というものが、一つの無常の例として挙げられておりまして、括弧の中に、 「受想行識」とありますのは、経典は、まず「色」は無常である。無常なるものは苦である、と説きだして、それから次に「受」は無常であ る云々と。その一つひとつについて述べるわけですね。 草柳: ここは、例えば無常なものは苦である。苦なるものは無我である。何故苦なるものが無我なのか。無常なるものというのは何故苦な のか。その辺のところはどういうふうに。 奈良: 実は「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」と。実はこれ「原始仏典」で有名な言葉の一つの言葉なんです。その「無常 なるものが苦である」という意味は、比較的分かりいいと思いますね。今もちょっとお話が出ましたけれども、私どもはいつも良いもの、好ま しいものは、常なるものとしたいんですから、それがすべては無常ですからガラガラ変わっていってしまう。自分のものとして握りしめていた ものが抜けていってしまいますので、それは苦である、と。これはその通りでわかるんですね。苦なるものは無我である、とこういうんですけ れども、実はこの「無常、苦、無我」というのは、本来はそれぞれ別個に、仏教でいろいろに説かれてきた考え方なんですけど、これはそれを 一応三つ並べちゃった面がございまして、それほど綺麗に論理的に並んでいるものじゃないんですね。「苦なるものが無我である」という時に、 むしろこれを解釈とすれば、もう一回「無常なるものは苦である」。もう一つ無常というのをそこで繰り返しまして、「無常なるものは無我であ る」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。 つまり私どもは命でも何でも永遠に持ちこたえたい、と思います。それが無常ですからできない。ということは、この前の第一回の時にいろい ろ話が出たんですけれども、命だろうと、何だろうと、これは私ですよ、とか、私のものですよ、と、持ち続けることはできない。だから「非 我である。無我である」と、こういう意味でありますからね。事実、実は仏典の中には、今の三つの言葉の「無常なるものは苦なり、苦なるも のは無我である」。その「苦なるものは無我である」ということの中間に、「苦なるものは移り変わるものである」という言葉が入っている例が 非常に多いんです。ということは、なんのことはない、「無常なるものは苦である。苦なるものは無常である」と言い直しまして、「無常なるも の、無常だからこそ、無我なんだ」というふうに、説明を付け加えている例がたくさんございますのでね。ここのところは、いろいろ解釈して は難しい面があるんですけれども、「無常と苦と無我」というものが、こう論理的に、こういうふうに起こってくるというよりは、「無常」とか、 「苦」とか、「無我」という言葉の意味を、一つの関連するものとして受け止めておいた方がわかりいいと、私は思いますですね。』 (『原始仏典をよむA』NHK教育テレビ「こころの時代」平成三年五月十六日放送 駒沢大学教授 奈良 康明 ききて 草柳 隆三) 上記(サイトリンクは旨くでなかったので省略)の押さておくべき重要ポイントと、 そこから導き出される当然の理解は、必然的にこうなるということ。 「無常なるものが苦」であり、「苦なるものが無我」。 であるから、「無我であるものは私のものではない」。 (苦は、私でないものを私であると誤認する結果であり、 私のものでないものを私のものであると同一認する結果として生ずる)。 ということは、つまり、恒常なるものが苦からの離別であり、 無我からの出離こそが涅槃であるということが理解されるのです。 「空」というのは、無我空といって無我と同義ですから、涅槃が空である筈もないのです。 従って、無我(の境地)を求めるだの涅槃が無我だのというのは在り得ないこと。 だから、そういったものはすべて仏教(原始仏教の理解)の根本的な基本のすべてが間違ってる人たちの話です。 苦は私でないものとの同一認の結果ですから、 苦から永遠に解放される世界であるところの涅槃とは、 当然、真実の自己(私の本質)との同一認のこと以外にはないのです。 それがつまり、真我(アートマン)でしょう。 なんだか... 「空」をまるで素晴らしいものであるかのように見ている人がいたら、それは大間違い。 「空」は理解すべきものであり、現象界が空であることを体感することは一つの重要な境地ではあるのですが、 「空」そのものというのは素晴らしいどころか、その真逆に価値がまったく無いもののことをいうのです。 無価値であり、脱すべき世界が「空」だということ。 こういう勘違い者の殆どは大乗徒が多い。 >「無常なるものは無我である」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。(>>81 ) おっと、これがまたとても良い言葉なのでしたね!!! ということは、要するに“恒常(非無常)である涅槃は無我ではない”となる。 涅槃が無我ではない境地だということは、 それはつまり、我が在るということに他ならない。 はい、以上にて論決しました。 こうまとめてもよいでしょう。 行..因縁によって起こる現象 法..涅槃も含むすべて 「法」と言えば、「涅槃」も「ウサギの角」も「亀の毛」も「空華(虚空に浮かぶ実在しない花。凡夫が、実体の無い存在を実体が有るかのように誤ることのたとえ) 」も全部入っています。 それらはすべてが無我です。 ですから、涅槃もまた無我なのです。 「涅槃もまた無我」と言うと、誤解するでしょう。 仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています。 無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。 しかし、涅槃という境地は、認識概念では説明不可能です。 すべての概念は現象の世界を指しています。 現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません。 強いて言えば、生き続けることは苦であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。 最初から自我はなかったのです。 自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。 覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。 幻覚が無くなるのです。それだけです。 覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。 涅槃も無我です。 ですから、諸行無常で諸法無我なのです。 (無我の見方 (「私」から自由になる生き方) アルボムッレ・スマナサーラ) ブッダは私たちに我見(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いたのです。 もし、我というものは施設(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わります。 より正確に言うなら、問題が終わったというより、解決法が必要なくなったのです。 自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。 私たちはもはや死なないのです!違いますか? 「私たち」というもの、我(アッタン)が存在しないとき、私たちは死なないのです。 存在するのは、ただこの五蘊のみなのです。 「人」というものは、本当はどこにも存在しません。 人とは、単に地(パダヴィー)、水(アーポ)、火(テージョ)、風(ワーヨ)のあつまったものにすぎません。 これら四大のあつまりを、施設(パンニャッティ)として「人」と呼んでいるのです。 ブッダは、無我(アナッター)を説きました。 けれども、この無我についての話を聞くときには、どうか注意をして聞くようにしてください。 この無我という言葉の本当の意味は、私たちの世界のどこに「人」というものが存在するのか?ということなのです。 アーチャン・チャー https://twitter.com/AjahnChahBot >>84 >「空」をまるで素晴らしいものであるかのように 仮設としての 縁起している 空性の世界を手放して超えて → 涅槃 どこの誰が? 仏そのものが 解脱を知覚して涅槃に住む 真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのもの 法性身 ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html 漢訳 第一義空経 無明滅 → 行滅 → 識滅 → 苦しい。という『想い』も滅する どのように無明滅するのか? 仮設としての 縁起している 空性の世界を手放して超えて → 涅槃(無明滅) >>86-87 必死だな...。 あなた方は確かに、 永々とした気の遠くなるほどの時間における伝統を大切に受け継いできた。 そのことは私は高い評価に値するものと思う。 けれども、それは部派の教義、部派に拠って創られた教義だった。 ゴータマの教えではない(これを含むけれど)。 対する近代仏教学の研究というのは、 あくまでも原点(本来のゴータマを求めて)を追及している。 その研究成果があなた方との決定的な差となっている。 >>84 勘違いというか大乗仏教の権威である龍樹が空思想を構築し、著書中論の中で「空」を第一義諦・勝義諦(最高の真理)としているということ 中論二十四章でそう説かれている 空という第一義諦においては輪廻とニルヴァーナには区別は何一つない(中論二十五章) また空においては我も無我もない(中論十八章) 輪廻とかニルヴァーナとか我とか無我とかは仮であり現象世界のための言葉であり衆生を第一義諦に導く方便であり世俗諦である この龍樹の空思想は中村元や石飛道子などの仏教学者に賞賛されていたはず > 要するに“恒常(非無常)である涅槃は > 無我ではない”となる。 涅槃は常住って聞いた事がある。 涅槃が恒常って聞いた事はない。 涅槃は無為じゃないのかなぁ? 無為=恒常なの? あっ、ボヤキなんでスルーして下さい。 > 苦は、私でないものを私であると > 誤認する結果であり、 > (中略) > ということは、つまり、恒常なる > ものが苦からの離別であり、 私でないものとは、恒常でない仮構された私(無我)だよね。 私であると錯誤するのは、私を恒常されたものと認識する事だよね。 つまり、恒常であるという錯誤からの離別が、苦からの離別だよね。 あっ、呟きです、スルーで。 >>91 彼らとてパーフェクトではない。 私は「中論」には価値を見ないのでね。 何故なら、内容が仏典(ゴータマの教え)とはまったく異なるから。 ゴータマの教えは世俗諦であり、 そうでなければ人々の役には立たないから。 役に立たないもの(勝義諦/中論)は結果的には価値が無い。 役に立たないダンヤモンドと、 実際に役に立つガラスとではどちらに価値があるか? >>94 その話も中論二十四章でしているでしょうに >ゴータマの教えは世俗諦であり、 >そうでなければ人々の役には立たないから。 >役に立たないもの(勝義諦/中論)は結果的には価値が無い。 >役に立たないダンヤモンドと、 >実際に役に立つガラスとではどちらに価値があるか? >役に立たないダンヤモンドと、 >実際に役に立つガラスとではどちらに価値があるか? 役に立たないダイヤモンド→日本の伝統仏教 実際に役に立つガラス→(日本では)創価学会の教え 当然、こうなるよな。 役立たずの学問仏教を押しているようだが、 この結果は自分も賛成する。 >>87 >自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。 >私たちはもはや死なないのです!違いますか? >「私たち」というもの、我(アッタン)が存在しないとき、私たちは死なないのです。 ほんとうに、釈迦がこんな事言ったと思ってる? 実際は、こんな感じでしょ。 「執着から離脱できれば、死は怖くなくなる。 しかし、人は仙人ではなく、仙人にもなれない。」 >>94 >役に立たないもの(勝義諦/中論)は結果的には価値が無い。 君のように自分の信条に都合のいい学者の意見や仏典でも都合のいい箇所を引用してはアートマンの有無とかについて戯論を並び立てる人にこそ中論は価値がある 言葉への執着を断つことができるからな >>85 >ということは 云々 なんという短絡思考wwwww 奈良さんの授業は、単位関係なしに網羅してるから、 奈良さんのスタンスは、多分君よりも遥かに理解してる自負はあるよ。 また、片山さんをディスれるほど(片山さん以上に)貴方が仏典を読めているとは到底思えないw >>79 片山さんはビルマの長老方との繋がり深いぜ? というか、君の「涅槃論」が【歪】であることの論証もきっちりしてあげた筈だがねぇ・・・ ┐(´ー‘)┌ 奈良:この場合、涅槃(ニルヴァーナ)というのは、「心の安らぎ」という意味で、とってよろしいと思うんですね。 教学的に難しいことを言えば、いろいろ出てくるんですけれども、心の安らぎと言いましても、決して老とか死というものを、嫌だ嫌だ、と言っていたわけですから、それが綺麗になくなっちゃうわけじゃないんですね。 そうじゃなくて人生生きておりますから、いろんなことがあるに違いない。 死にたくない、というのもございます。「歳を取って嫌ですね」というのもむろんございます。 ただそうしたことが感覚としてはありながら、それをカチッと受け止めながら、しかしそれに振り回されずに乗り越えていくところに、心の安心を得るという。 よく言われる言葉を使うならば、その意味で安心して悩めみたいな言い方がよくあるんですけれども、 むしろ悩みは悩みとして、物理的な悩みは消えないんですから、それを乗り越えるところに安心を得なさい、という、そういう意味での涅槃です。 草柳:そうすると、涅槃というと、つまり彼岸の、あちら側の世界のことではなくて、つまり生きていくプロセスの中で、そういう安心立命、安心の境地というか、心の平安を保っていくと。 そのことを言っているわけですね。 奈良:そういうふうにみるべきだと思うんですね。 ですから涅槃というのは、何かある一定の時に、パッと何か精神が開けて、確かに一つの直感があって、なるほど、と思うことが当然ありますけれども、 むしろ大切なことは、その一瞬にわかったというだけではなくて、それが有ろうと無かろうと、常にいろんなことにぶつかるたんびに、 例えば今日のテーマの脈絡で言うならば、無常なるものは無常と見、無我なるものは無我と明らかに受け止める毎日毎日のプロセス、そのプロセスの中に心の安心という涅槃が現成(げんじょう)していく。 そういうふうにみるべきだと思うんですね。 >>100 より 奈良さん草柳さんはあるがままを受け止めることが涅槃への道であり涅槃に到達してもそれは変わらないと。 決して涅槃では真我が実現するとか言ってるわけではない。 >>80-83 の涅槃に関係しない対話から言質を勝手にとって涅槃とはこういうところに違いないと言われても2人とも面食らうだろう。 こういうのは個人の言葉遊びの範疇に止めるべき 「当然」だとかこれが真説だというようないうような言い回しはしないほうがいい また、宝珠が・・www 「涅槃」というのは、あくまでも覚者の心的状態を指して言う語。 苦を滅した心的状態をいうのであって、真我など関係ないし、どこやらにある場所とも関係ないw >セブン ちと聞くんだが・・・・ 現在の臨済宗って、碧巌録の扱いってどうなの? 圜悟克勤は、馬祖的な文字禅否定して、公案に対するスタンスがかなり変わったじゃん?w ああいう姿勢を是としているのかな? それとも、唐代のように、それぞれの公案の「意味解釈」中心なの? ↓難しくて意味がわからないけどとりあえず 馬祖の思想 経典や観心によらずに 日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き 「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう) 「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している また 相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め これによって多彩な弟子を育てる ttp://d.hatena.ne.jp/deku_dec/20151229/p1 禅思想史講義 - 日々の読書を糧にして-備忘録と駄文感想 … 『碧厳録』の著者である圜悟克勤の弟子大慧宗杲が看話禅を確立 唐代の問答は一見不可解だが 己れ自身がその答えだと「自覚」させようというやりとりが仕組まれていた 『ところが宋代になると、問答は、初めからいかなる意味も論理も含まない 絶対的に不可解なコトバ――「公案」――として扱われるようになる』 そうした公案は 『知的分別を奪い去り、その心を追い詰めて捨て身の跳躍を迫る』ために 理屈抜きに一気に悟らせるために、利用された 『ありのまま(0度)⇒ありのままの完全否定(180度) ⇒本来のありのままへの回帰(360度)―― このような円環の論理は ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾と言う唐代禅以来の長年の課題に 一つの解答を与えるものだった』 >>103 珍重すべき(自らが心酔信奉する)祖録というよりは、優れた参考書。 >>碧巌 また、近現代禅は、過去中国のような家風の相違はなく(優劣序列もなく)、それこそ意味解釈中心。 理由1、すべて白隠系(≒馬祖・六祖系)だから。 (それ以前はまだ、多少なりとも各法系毎の差異はあったと思う。) 理由2、(上記理由1のせいでもあるが)、「公案の網羅」=「修行の仕上げ」になってるから。 理由3、そもそも、碧巌自体が様々な家風の寄せ集め(逸話の集成)だしw 理由4、「論理的な禅、言語に依存する禅、修辞的手法の禅」は、宋時代には既に下火。(勿論、廃仏毀釈もあったにせよ) 日本の禅はほぼ例外なく「言語道断」の系譜だから、「沢山の事例」以上でも以下でもない。 ※鎌倉時代に輸入された禅は、それでも、言語重視な色合いをまだ残してはいたけれども。 ※その意味では、馬祖も圜悟も、きちんと言語は尊重してる方では? あの時代はまだ、ほぼ全ての禅家が、言語表現する(或は理に沿う)ことに意義を置いてる。おそらく圜悟に於いても。 体験重視にせよ、その伝達には言語が必須、と。 唐時代後半からの禅家乱立から廃仏あたりが、 近現代に通ずる姿勢・方向性を決定づけた面があるのでは? 碧巌の否定は、(岩波の解説にあるように)圜悟以後の反省(言語への過度の依存への反省)に始まるのでは? (禅思想史ってわかりづらいんだよね・・ややこしくて) 皆の衆、寝言は寝てから言うにゃん♪ ひゃっひゃっひゃ!*(^o^)/* 碧眼録ねぇ。 提唱のテキスト以上でも以下でもないし、老師によって扱いも違うし。 今時は朝課の時にホテルとかに置いてある仏教聖典を黙読したりするしねぇ。 公案に視座を置けば、碧眼も無門関も基本は法身・機関・向上の三種に分けて捌くだけだし。 一つの則を法身で見るとこう、機関で見るとこう、向上で見るとこう、って感じだね。 釈宗演、円覚寺管長、が超高速で公案を透過したことで有名となった。 >近現代禅は、過去中国のような家風の相違はなく(優劣序列もなく)、それこそ意味解釈中心。 まあ、そうなるんだろうねえw ある種のことを了解しようとすれば、言語というツールは必須なわけで、それをいきなり 不立文字で行っても、分かるわけがないw だから唐代禅的な意味解釈の方向性も当たり前なんだが、そうすると時代と共に 決まったパターン化が必然的に起きることとなる。 例えば、百丈 野鴨子の公案などは弟子たちが皆、師匠の前で「いてててええ」と 鼻をひねられたまねをするのが正解とされてたらしいww 近代になると各公案の正答集など虎の巻まで作成されたとかw ・・・・・圜悟の批判もまさに、それが一端なわけで。 かと言って、圜悟の言う、問いと回答の間を完全な意味的断絶と解する・・・つまり「活句」の 方向性は、難易度が高すぎるw これは何十年も修行した者のうち、ほんの僅かでしょう? これで達するのはw (ある作家が、「禅は百万人に一人の天才の道」と言ったが、まさに然りw) また、圜悟の方向性でも、初学における意味解釈の理解は必要なわけで、そこを「理解」できないと そもそもスタート地点にすら立てないわけで。 ・・・・しかし、殆どの者が、公案の意味解釈を「理解」した時点で「分かったぞおおおお」 となり、「なんちゃって覚者さん」となる。ww そこがスタート地点なのにw そして「山は山でない」をとことん自己に落とし込んで頷き、了解出来て180度。 そして戻って360度か。 ・・・・・こうやって見ると、禅はつくづく罪作りだなあw 手を出した100のうち、99人は何も分からず途中でやめるか、もしくは「分かっちゃって」w その境地を他人に語りだすw (まあ何といっても、雛が殻をつついてまさに破ろうとしているとき、それを外から助けてやる 親鳥・・・・即ちほんまもんの老師の絶対数が不足していることが一番の問題なんだろうがw) 109. 悟っていない人の感想である。 覚者になれないバカと言うことになる。 例えば、臨済のワキとされる普化などは、まず間違いなく何かしらの境地に達して いたと思うのだが、あれでは後進の者が彼から何かを教えられるのは難しい。 臨済ほどになって初めて、普化のすごさがわかるのだろうが。 ・・・・・確かに、普化は「偉大なる狂人」で、まさにある意味仏法の体現者と 言えるともおもうのだが、後進に対しての良き導師であったか? と言う側面については、どうしても疑問符がつく。 (まあ、彼の生き方そのものが、仏法の教示 であるとも言えるのだが) >手を出した100のうち、99人は何も分からず途中でやめるか、もしくは「分かっちゃって」w その境地を他人に語りだすw 爆笑、ジャンキーとやらが来てるしな笑。 >圜悟の言う、問いと回答の間を完全な意味的断絶と解する・・・つまり「活句」の 方向性は、難易度が高すぎるw 前世紀の一流処の禅師なんかの行いなんかをみると、 公案禅をやったから、一流政治家以上の人間間の交渉技術ができるんだろうな・・と最近。 >また、近現代禅は、過去中国のような家風の相違はなく(優劣序列もなく)、それこそ意味解釈中心。 ジャンキーの大好きな、ハッタリ評論の鈴木大拙とかか? そんなに俺が気になるかw 何度も言うが悟りとか知らんし、まだ参禅中だよw 銀椀裡に雪を盛るってな。 空じる事に終点はねーし、転じて色も同じこと。 いつまでも成り切れねーで分裂してろ、糞でおーw 成り切ってる時、自分はあるか? あると言えば成り切ってないし、ないと言えばいったい何が成り切るのか? 糞でおーw お前に気の利いた返事なぞ一生無理だわw 魔法陣でも書いて糞でも垂らしとけw www ↓難しくて意味がわからないけどとりあえず ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312823018 山は山に非ず 仮設としての 無明薫習に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して 遍計所執性に依存して 山を見て実有である。と「妄想している」 − これに対して − (縁起している世界を手放して超えて) (無の世界も超えて) 仏そのもの 平等性智をもって 仏性からの真如縁起をもって 移り行く世界の様を ありのまま見つめている 円成実性の世界から観照する → 依他起性している世界の「ありのまま」を見る junkie- ooyama師匠↑こんな感じでつか? >100 涅槃が、「心の安らぎ」や「安心立命」とされることは確かに間違いじゃないけれども、 それらは涅槃の持つ特性についてのほんの僅かな一端の部分にしか過ぎない。 そしてまた、学者が涅槃をこのように紹介しようとするその訳というのは、 彼らの涅槃に対する理解の限界性の現れなのだということ。 そもそも仏教学者というのは、確かに兼僧侶であったり、 資格僧侶としての最低限の修行は経験したかもしれないけれども、 所詮は、その殆どが単なる唯物論者か物理的次元を超えた現象についての未経験者たちだ。 だからどうしても、その程度の平易なことしか述べることも伝えることもできないのです。 まっ、涅槃についての理解ならば、この私の方が彼らよりも何倍もわかってるものと自負する。 >>102 私は、これまでに涅槃のことを物理的な、 または、霊的な次元における何処かにある場所であるとしては一度たりとも述べたことがない (パ−ピは私の今までの投稿の一体どこを読んできたの?)。 私がもしも涅槃を「場所」という言葉で述べるときというのは、 あくまで『ウダーナ』の経文の表現をそのまま使用してのこと。 要するに、涅槃を指し示す表現にはどうしても言語的な限界があるために、 ただ便宜上として「場所」(処)や「世界」などという言い方を使用しているだけのこと。 『比丘たちよ、その場所(処)は存在する』(8.1第一の涅槃に関することの経) >>68-69 世界(現象界)が「空」、 人間/生命-五蘊-はすべて「空」 そんな(仏教としてはごくごく)当たり前の話はどうだって良い。 問題は、「涅槃」も“涅槃に住する如来”も空などと語る僧侶たちの馬鹿さ加減だ。 そう語る者たちというのは空を理解していない。 たとえ教団の内外では阿羅漢と讃えられようとも、所詮はそのレベルだってこと。 現代日本では、本当に宗教を必要としている人は、 禅みたいな仏教クイズや、上座部みたいな仏教パズルはやらんだろ。 それで悟ったとしても、悟りの正体は薬物中毒まがいの変性意識にすぎないと お偉い修行者が暴露しているし。 現代に釈迦が生まれ変わったとしたら、間違い無くキリスト教徒になる。 >その殆どが単なる唯物論者 確かに仏教学者は馬鹿だが、これは凄まじく酷い評価だねえ まともに認識論をやった人間なら、普通観念論者になる。 荘子の混沌の寓話 と観念論 http://tapanulifever.hatenablog.com/entry/2016/11/22/173718 「南海の神を?(シュク)といい、北海の神を忽(コツ)という。中央の神を渾沌(コントン)という。 ?と忽があるとき、渾沌の治める土地で逢うことになった。渾沌は彼らをとても良くもてなした。 ?と忽は渾沌の徳にお礼をしようと相談して、語り合った。「人間には皆七つの穴がある。 それにより感覚し、食べ、息をするのだ。しかしこの者にだけはそれがない。試しに渾沌の体に 穴を開けてあげよう」と。一日に一つの穴を開け、七日目に渾沌は死んでしまった。」 この場合の渾沌=物自体 体に穴をあける行為=人の認識 渾沌が死んでしまった事実=認識の不可能性 仏教よりもよっぽど奥が深いと解釈できる。 >>117 ですね。 色即是空、空即是色。 空仮中。 混沌とはアフォリアの外の世界と思うけどね。 仏教は混沌に穴をあける様な事はしませんからw 要するに、こういうこと 唯物論 物があるから、人がある 観念論 人があるから、物がある 仮に観念論の立場に立ったとしても、 実際は、 人(認知主体)があろうがなかろうが、物がある しかし、その物は、もはや客体と言えないから、何物でもない では、我々の感じている物の本質とはいったい何であろうか 片山さんや奈良さんを唯物論者とかwwwwwwwwwwww ビルマの長老方を、わかってないとかwwwwwwwwwww >>118 どんだけぇ〜〜〜(by Ikko どんだけ盲だよ(泣怒 >>118 >何処かにある場所であるとしては一度たりとも述べたことがない 場所でないなら、境地でしかないだろw パーリ仏教に於いて「場所」(→「処、ThAna」と言われるものは、 空間的に場所を占めるものも、【要素として】【内包される、含意されるもの】も、双方ともに含むんだよ。 さて、涅槃はどっちだ?w I. Connotation. As one of the 4 iriyApathA (behaviours) 1. Contrasted(a) as standing position with sitting or reclining; (b) as rest with motion; 2. by itself without particular characterization as location. II. Meanings (1) Literal: place, region, locality, abode, part ( ---Th. of, or belonging to) (a) cattAri ThAnAni dassan?yAni four places (in the career of Buddha) to be visited (b)); ThAnA cAveti to remove from one's place Sn 442; J iv.138; PvA 55 (spot of the body). - (b) kumbha? (the "locality of the pitcher," i. e. the well) q. v.; araNNa? (part of the forest) (c) In this meaning it approaches the metaphorical sense of "condition, state" (see 2 & cp. gati) in: dibbAni ThAnAni heavenly regions (d) In its pregnant sense in combn with accuta & acala it represents the connotation I. 1 (b), i. e. perdurance, constancy, i. e. NibbAna Vv 514; Dh 225. - 2. Applied meanings<-> (a) state, condition; also (b) (part=) attribute, quality, degree: aggasAvaka? (degrees of discipleship) (c) (counter -- part=) object ( ---Th. for), thing; item, point; pl. grounds, ways, respects. With a numeral often=a (five)fold collection of . . . (d) (standpoint=) ground for (assumption) reason, supposition, principle, esp. a sound conclusion, logic, reasonableness (opp. a? see 4): 特に、宗教的事柄に於いては、 推薦、伝達、教導、助言、或いは提示、紹介、等々の際には、そこに 「ああ、そうか」「ああ、確かにその通りだ」という頷き があってのことだ。(通常は。) で、実は、ナンチャッテ覚者さん(や、各種新興宗教の教祖様方)も、 『自身の(神秘)体験』をべーすにした「ああ、そうか」の上に言葉を重ねている。 大王だって閻魔だって不説だって一代だって、(てすとやその他だって?w)皆そうである筈なのだ。 勿論、私も。 そりゃ、全く同じ追体験とはいかない、というか、そうであったらブッダだからw けれども、相似形としての体験が、必ずそこにある筈なのさ。 その文脈で、 宝珠には、そういう (神智学的、ヒンドゥ的)『ああ、そうか』 は、あるのかな? という疑問があるわけさ。 そして、 「仏教」の文脈、価値観、論理においては、 ≪経験的に「無我」≫なのさ。 【例外なく】ね。 で、 延命十句でも言われる常樂我浄は、まさに、 片山さんがコメントするような側面での常樂我浄なわけさ。 (^。^)どうも。その他の一人です。(笑) 示された月には成れないけど、 三十七品を「あぁ、なるほど」と腑に落ちない行者なんて駄目でしょ。(笑) そこはもう少し自信持とうよ。(笑) いやいや、大智度にもちゃんと大力の菩薩と小力な菩薩があるって記されてんだから、 少なくとも、バカカルトみたいな全く違うことをやって詐称している訳じゃない、(笑) ちゃんと師から継承したんなら、それなりの責任と矜持がないと。(笑) (^。^)まぁ、あんたも俺には言われたくないだろうから、もう止めとくがな。(笑) 第一 蛇の章 <11、勝利> 200. また身体が死んで横たわるとき、膨れて、青黒くなり、 墓場に棄てられる。親族もこれを顧みない。 201. 犬や野狐や狼や虫類がこれを喰らい、 烏や鷲やその他の生き物がこれを啄む。 202. ブッダのことばを聞いて、智慧ある修行者は、 この(身体の)ことを完全に了解する。あるがままにのみ観る。 203. <かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう>と、 自分の身体に対する欲をも、他人の身体に対する欲をも、離れるべきである。 204. 愛欲を離れた智慧ある修行者は、 不死・平安・不滅なるニッバーナ(涅槃)という最高の境地に達した。 http://juryoku.blogspot.jp/2017/04/blog-post.html?m=1 第五 彼岸に至る道の章 〈学生ヘーマカへの質問〉 1085 聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」 1086 (ブッダが答えた)、 「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。 1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。 ナーガルジュナの仏教は、意外なことには、或る意味では最初期の仏教の正当な発展であると解してもさしつかえないであろう。 『龍樹(中村元著)』より引用 ところが、ナーガルジュナにいたって、一大展開がなされたのであった。いやあるいは、釈迦の本心に返ったというべきか 『宗教原論(小室直樹著』より引用 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる