外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
>>304 >…慈悲や幸せを願う心…
↓間違ってたら スマソ m(_ _)m
ttps://ci.nii.ac.jp/els/contents110007058779.pdf?id=ART0008993827
唯識説における「別境心所」の特色
…
…欲(chanda)
…「欲」は
勤(正勤=精進)を起こすもととなる勝れた心作用であると定義される
このことは、『倶舎論』(有部)には明説されなかったこととして注意されてよい
つぎに
欲の所縁となる「所楽の境」(「楽」はねがい求むる意味)の理解について…
(欲(chanda)以外にも、その他諸々…)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html
単純な(純粋な)
canda(チャンダ)意欲、やる気
(純粋に)何かを「やろう」とする働き
_ _ _
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
仏に戻る
そのための障害(覆)がない無覆無記
に近いような感じかしらん?
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>303
初期仏教では二度と母胎に入らない、再生しないことを目的に修行して解脱して涅槃の境地に住するわけだから、
大乗の無量劫再生して菩薩行をする無住処涅槃は初期仏教とは違うね。
現世涅槃という点ではたしかに同じではあるけど。 >>261
私も、ゴータマの原始仏教がそのまま今の日本にとって適した信仰であるとは見なしてはいない。
本物の解脱を求める出家者という意味であるならば、今でも重視されるところが多々あるものとは思うけれども...。
また、大乗のすべてが無価値であるなどとは思わないし、
そしてまた、もしも対機説法のゴータマが、再び、我々の眼前に登場されたとしたならば、
当時の古代インドとは異なった教え、もっと現代日本に相応しい新しい教えを説かれた筈です。
>>261-262
私は、法華経信奉でも念仏でもいいけれども、
信仰は何でも自由だと思っているし、「これこれ然々の理由によって自宗派を信奉するんだ」
というのならば、それはそれで大いに結構なことだと思う。
けれど、嘘(信徒を騙すの)は止めましょう! 間違いは認めようよ!
ってこと。 >>266
スマ長老は、なかなか心が寛大ですね!(笑)
まっ、長老が密教の評価を最低とする理由は明白だけれど...。
この私は逆に、
密教を大乗の中でも最高位として評価して、そして、自分もこれを利用させて頂いている。
一言でいうと、密教というのは歴史上、インド大乗最後の切札として登場したものであり、
これまでの大乗としてのすべての経験値を内に持っている。
そして、唯一にして明確なバラモン譲りの不思議な呪力を発揮する仏教諸派だということ。
これにより、説法だけではどうにも救うことのできない庶民の苦悩を加持力によって軽減し、
人々の心に信仰心(神仏に対する感謝の念に始まる)を目覚めさせることができるもの。
顕教にはそれができない。 >>208
>無限に長い時間、みんなを救い続け、自分はいつまでも仏にならないという菩薩もいらっしゃいます。
批判的な見方を採れば、これは創作仏教である大乗というのは、
自らがブッダの時代のような即涅槃(及び現世の阿羅漢入り)はできないものとして
あきらめを自認していることの誤魔化しであるとも受け取ることができる。
しかし、もしもそうではなくて本気で主張してるのであれば、
神智学の説く奉仕の精神(他者に対する善行は無償の奉仕行為として説く)と通ずるものということができる。
見返りを求めずに無償で為される真の奉仕は自己の魂の持つ特質です。
この魂の特質が現れ始めた奉仕者は、自身の進化(救い)そのものについては無関心になっていく...。
つまり、忘我(自分のことはどうでもよくなる)の状態になる。
>>301
これはとても素晴らしい教えです。
私も、「布施」とは何かについて人に話す際にはこのエピソードをいつも語ります。 114junkie- ooyama2018/05/15(火) 13:03:51.83ID:NDwJnvNA
そんなに俺が気になるかw
何度も言うが悟りとか知らんし、まだ参禅中だよw
↓
945日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/03(木) 21:53:34.98ID:pfuwmEER
大山君、粘着した時のエゴサ凄いんだねw
それが大山君の病気だよ?
960日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/03(木) 23:09:47.06ID:pfuwmEER>>961
大体、仏教スレで病気の煽りをしすぎなんだよ。
大山君は( ・∀・)
970日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/03(木) 23:32:15.40ID:pfuwmEER>>971>>973
病気で都合の悪い者をDisる事しか出来ない大山君。
醜い大山君( ・∀・) 103 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 20:48:37.22 ID:aLWscAki
一度でも良いから自殺する位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?
悟りを舐めてるわ、マジで。
こいつらは何年もこんな事やってんのかよ。オウム麻原と同属だな
101Junkie-Ooyama2018/04/20(金) 16:00:42.49ID:2kjZdeE1
Psychic Disorders Mens NET
(精神障害者ネット)
P〜ポタ公
D〜でおー
M〜元オウム
N〜日本鬼子
E〜栄進
T〜タ >>307
五時八教説の事?今は特段強調していないと思うんだけど。
創価学会任用試験講座のページがあるから、自分で確認すればいい。
https://ninyou-shiken2018.sokanet.jp/ >>303
>やはりここでも釈迦仏教に近いのは有部よりも龍樹(大乗仏教)の方なのかもしれない。
比較すれば有部よりは近いかもしれないが、少なくとも悟りの直後の釈迦は世界を無記としていたと思う。
教団を持ちバラモンと争う中で、世界の有無に言及した可能性はあるが、それは釈迦の本質ではない。
前期釈迦 悟り直後の釈迦 我は無我、世界は無記
後期釈迦 教団を構えてからの釈迦 我は無我、世界は??
釈迦の仏説の本質は前期釈迦にあるのであり、慈悲や空らしきものを謳っている後期釈迦は、
言っちゃ悪いが釈迦自身のエピゴーネンに過ぎないと思っている。
パーリ語仏典を珍重して、歴史を遡っても、後期釈迦の教団指導上の方便がわかるのみで、
真の仏説はわからない。その点では、上座部も大乗も釈迦の教えから等しく遠く離れている。
そして、真の仏説を離れて宗教としての仏教を希求するのなら、別にすぐそこにある創価学会で
問題ないと思う。 「過去世で欲深く、布施の功徳を積まなかったからである。 」
こんなことブッダちゃんが言う分けないだろう^^ >>307
> けれど、嘘(信徒を騙すの)は止めましょう! 間違いは認めようよ!
これのどこが嘘なんだよw
↓
> 最古層の仏典が釈迦の直説であると仮説しても、仏教がその部分だけでは成立しないのは事実。 > 菩薩は生死と涅槃が異なっていると観ない。
> 智慧によっているので生死に定住せず、慈悲によっているので涅槃に定住しない。
> もし、生死に対して分別すれば、もう生死に定住することになってしまうし、
> もし、涅槃を分別すればすなわち涅槃に定住することになってしまう。
> だが、菩薩は無分別智を得ており、分別することが無いので、定住する処がないのである。
(摂大乗論)
うむ、実に明快だな、流石は世親菩薩(ヴァスバンドゥ)だわ。
無分別智が発現(はつげん)するからこそ、生死にも涅槃にも定住しない。
”涅槃だの無我だの分別するからそこに定住するのだ、ボケ!
無分別だからそんな処にゃ滞留しておらんのだ!ほれほれ!”
って事だな。 ↑
すまん、一字抜けてたw
×摂大乗論
〇摂大乗論釈 梵我一如の影響を受けすぎなんだよな。
我は有、世界は有 がバラモンだとすると、
我は無、世界は無 の大乗は批判しながらのパクリでもあると言える。
主客一体も、所詮は梵我一如の変形である。
どちらも劣化バラモンに過ぎないと言える。
釈迦の直説を明らかにしたいのなら、
梵我一如を捨て、別の視点からアプローチしたほうがいい。 さて、唯識の五十一心所から「利他行(慈悲)」がどれに分類されるか考えてみましょうか。
大別すると「遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定」があると・・・
え?ん?心所の分類では善と煩悩(随煩悩)って分かれてるじゃないですか???
善の心所(11)を見ると「信・精進・慙・愧・無貪・無瞋・無痴・勤・軽安・不放逸・行捨・不害」とあるね。
「信」には「実・徳・能」があり、「能」とは善法を能く行い得ること、と。
「無瞋」とは、不都合怒らず排除せず、と。
「勤」とは、善を修し、と。
「行捨」とは、平等にして偏らない、と。
「不害」とは、いのちを憐れみ、他を悩ませない、と。
・・・利他行って煩悩じゃなくて善じゃないの? バラモン教
我〜常・一・主・宰
法〜任持自性、軌生物解
仏教
説一切有部〜我空・法有
大乗〜我空・法空
・・・仏教はいずれも刹那生滅説。 >>305
ストレートに善の心所に視座を置いて利他行を見てみました。(>>322) >>308
>そして、唯一にして明確なバラモン譲りの不思議な呪力を発揮する仏教諸派だということ。
>これにより、説法だけではどうにも救うことのできない庶民の苦悩を加持力によって軽減し、
>人々の心に信仰心(神仏に対する感謝の念に始まる)を目覚めさせることができるもの。
――― 相応部経典 42,6 西地人
ある時、ブッダはナーランダ(那羅陀)なるパーヴァーリカンバ(波婆離迦菴羅)林にいらっしゃいました。その時アシバンダカプッタ(刀師子)という部落の長がブッダを訪ね来たって、ブッダを拝して、問うて申しました。
「大徳よ、西の方から来たバラモンは水瓶を持ち、花環をつけ、水に浴し、火神につかえ、死んだ人々を天界に昇らせることができると聞きました。
大徳は広く世人の尊敬を受けられる覚者でいらっしゃいますが、大徳もまた、人々の身が壊れ、命が終って後、善趣天界に上生せしめることがお出来になるのでしょうか。」
「部落の長よ、では、私から、あなたに問うてみたい。あなたの思うとおりに答えてみるがよい。
部落の長よ、あなたはこれをどのように思うであろうか。ここに一人の人があって、人を殺し、物を盗み、偽りを言いなど、あらゆる邪まの業をなしたとするがよい。
そこに大勢の人々が集まり来たって、――この人が死んで後は善趣天界に生まれるように――と、祈祷し、合掌したとするならば、あなたはどのように思うか。
この人は、この大勢の祈祷合掌の力によって、死後、天界に生まれることができるであろうか。」
「大徳よ、いいえ、彼は天界に生まれることはできますまい。」
「部落の長よ、たとえば、ここに一人の人があって、深い湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。
その時、そこに大勢の人々が集まり、――大石よ、浮かび上がれ、浮かび上がって陸にのぼれ――と、祈祷し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、あなたはどのように思うか。
その大きな石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かび上がって陸にのぼるであろうか。」 「大徳よ、いいえ、大きな石が浮かび上がって陸にのぼるはずはありません。」
「それと同じことである。
あらゆる邪悪の業をつんできたものが、いかに祈祷し合掌したからといって、死後、天界におもむく道理はない。その人は、身が壊れ、命が終わって後は、悪趣地獄に生まれるほかはないのである。
では部落の長よ、さらに、あなたは、このような場合には、どのように思うであろうか。
ここにまた、一人の人があって、生きものを害せず、人の物を盗まず、偽りを語らず、あらゆる善き業をつんだとするがよい。
しかるに、大勢の人々が集まり、この人が死んで後は悪趣地獄に生まれるようにと、祈祷し、合掌したとするならば、どうであろうか。
あなたはどのように思うか。この人は、人々の祈祷合掌の力によって、死後は地獄に生まれなければならぬのであろうか。」
「大徳よ、いいえ、そのような人が地獄に落ちるはずはありません。」
「その通りである。
たとえば、ここに一人の人があって、深い湖の中に、油の壷を投じたとするがよい。そして壷は割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。
その時、大勢の人々が――油よ、沈め、油よ、水の底にくだれ――と祈り、合掌して、湖の周りを回ったとするならば、その油は人々の祈祷の力によって沈むであろうか。」
「いいえ大徳よ、油が水の底に沈むはずはありません。」
「それと同じことである。
あらゆる正善の業をつんできたものは、いかに祈ったからとて、合掌したからとて、その力によって死後、地獄におもむくはずはない。
その人は、身が壊れ、命が終わって後は、善趣天界におもむくことは必定である。」
このように教えられた時、部落の長は、ブッダにこのように申しました。
「善いかな大徳よ、
たとえば倒れたものを起こすように、覆われたものを啓(ひら)くように、迷える者に道を示すかのように、また眼(まなこ)ある者は見よといって、暗闇の中に灯し火をもたらすかのように、世尊は種々の方便をもって、法を説き示された。
願わくは、今日より終世かわることない帰依の信者として、私を許しお受け下さい。」 >>325-326の相応部経典の仏説からは、釈迦は呪文や祈祷や式典を否定するのみにあらず、葬式までをも否定しかねなかったというのがうかがえる
今の世でいえばいくら葬式で花をあげて立派で高い戒名をつけて焼香してお経をあげようとも極楽浄土にはいけない
涅槃や浄土や天界にいけるかいけないかはそういったものの力ではなくあくまで生前の善行為による善業の力である
悪業を積んだ者はいくら立派な葬式をしても地獄に落ちるということになるね >>327
やらない善よりやる偽善如何に?
南無南無 ( ´•人•` ) 祈ること=生きる意味を実感させることなんだよね。
まあ、神はいない、祈りもない、それで評価を得られていたと言うことは、
それだけ教えが優れていたことの証にもなるけど。
ただ、肝心の教えが善因善果なら、別に釈迦が出張る必要は無い。
対バラモンとしてはそれでもいいが、その程度のものを「法」を説いたと
珍重していることに、違和感を覚えた。 >>宝珠
再度言う。
「涅槃」が、「境地」なれば、自動的に「無我」だろ? とw >>330
>くだらんスレになったな・・w >>パーピ
wwwwwwwww
そういうな、セブンw
このスレに限らず、仏教系スレは全部、そうだろ?
以前みたいに長文で反論する気も起らない書き込みばかりだから、
書き込み頻度も激減w
流し読みばかりだわw セブンお前が何か面白いこと書けよw
お前の絶望的なまでに頓珍漢な比喩で笑ってやるからさ >>334
過去スレ過去レス漁って肴にすればいいじゃないかwww
膨大な量ある筈だから、「ああ、ああ、あんなこと言ってたw」と、思い出し乍ら
3年は晩酌できるくらいの発言はしてると思うが? >>335
いや、新しいネタで面白いこと書くのだ!
くだらんスレになったと思うのなら(>>330)自分からネタを投稿するくらいすればいい
反応してやるからw >>336
お釈迦さんだって、晩年は、同じことしか言ってなかったかもしれんぞ?w
(ああ・・、世尊はまた同じ話してる・・・(苦笑 )と。
※だからこそ、食事に呼ばれた際の定型句が成立したのかもしれんしw
菩提樹下の逡巡を思えば、わざわざ徒労を選ぶには膨大なエネルギーが要るのさ。
ワシは『菩薩』じゃないんで、雪で井戸を埋めるほどの慈悲は持ち合わせてないよ。 「3年は晩酌できるくらいの発言・・・」
331 名前:神も仏も名無しさん 2018/05/18(金) 21:27:37.40 ID:WWGqrLyV
>>宝珠
再度言う。
「涅槃」が、「境地」なれば、自動的に「無我」だろ? とw
確かに^^ う〜〜ん^^
この「自動的に」が難解やな・・・^^ 内容はともかくとして・・・^^
この「自動的に」で3年は晩酌できるかもしれん^^ 「無我即涅槃」か・・^^
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「輪廻即涅槃」・・^^
う〜〜ん^^
ちょっと表現がくるしいか^^ 馬鹿だな・・お前ら・・・
≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。 >>337
セブンらしい実にくだらんレスだな・・・w 「主体が欲しくなるんだよ。」
う〜〜ん^^
欲しくなるんじゃなくて・・・^^
思考がすでに我から生起してるからね^^ 「涅槃」と思考すれば必然的に我を伴う・・^^
ということは・・・^^
無我であれば・・・^^ >>342
>≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
>と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。
考えてるのはセブン、お前だけだ
お前の脳内の妄想だw > 思考がすでに我から生起してるからね
ん?
無我なのに思考が我から生じるのか?
我と思考は同時に生じるんじゃないの?(相互依存性縁起) 『(涅槃とは)一切の知解(ちげ、獲得・対照的知識)が滅し、
戯論が滅して、寂静なる(境地)である。」
これなんだよな・・^^ >>343
お前はホントに馬鹿だなw
仮に、ワシが何か書き込んだとしても、
それに、(ワシが反応仕返したくなるようなw)レスが返ってこないなら徒労だということ。
君が面白いと思うかどうかの問題じゃないw 私が、いいリアクションだと受け止め還せるようでないなら一緒。
だから、(逆に)、
君が面白いと思うレスを、過去レスから探せ、と言っている。
君の期待に応える自信はないし、
また、自分が期待する反応が返ってこないことも分かってる(―実際に、ここ数年は噛みつかれてハッとすることもない―)しw 「涅槃」と思考すれば必然的に我を伴う・・^^
ゆえに・・^^
『(涅槃とは)一切の知解(ちげ、獲得・対照的知識)が滅し、
戯論が滅して、寂静なる(境地)である。」
となる^^ >噛みつかれてハッと
その意味で、一代との出会いは貴重だったよ。
今更ながら礼を言いたいくらいだw 中論
「業と煩惱と滅するが故に 之を名づけて解脱と爲す
業と煩惱とは實に非らず 空に入れば戲論滅す」
「諸法實相とは 心行言語斷じ
生無く亦た滅無く(無生亦無滅にして) 寂滅なること涅槃の如し」
う〜〜ん^^
これやな・・^^ 思考がすでに我から生起してるからね^^
「心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。
まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
う〜〜ん^^
似てるな・・・^^
「ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
この表現がうまい^^ つまり・・^^
346神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:06:00.65ID:JzHGooXC>>353
>>342
>≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
>と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。
「主体が欲しくなるんだよ。」・・ではないと・・^^
こうなる^^ 「「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)と考えるから、
主体が欲しくなるんだよ。」
これと・・
「心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。
まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
まったく似てない^^ 「思考がすでに我から生起してるからね^^」
「心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。
まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
やや似てる^^ うん?
「主体が欲しくなるんだよ。」
我執と考えろばそうでもないか^^ 359神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:39:25.50ID:o3b2Gtmd
>>344
思考は我ではないよ
真理追求の思考は我から生じないかもしれん^^ 唯識でみると・・^^
第十乾栗陀耶識・・仏覚、無上覚・・仏の世界
↓
・・・・・・・・・・解脱・・・・・・・・・・
↓
第九阿摩羅識・・仏性
↓
・・・・・・・・・・悟り・・・・・・・・・・
↓
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) >>361
真理探究してるのも、涅槃を求めてるのも、そのような活動が起こっているのも、わたしの意思によるのではなくて、タイミングの問題 第七末那識・・・自我意識から第六意識・・思考意識が生じる・・・^^
359神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:39:25.50ID:o3b2Gtmd
>>344
思考は我ではないよ
とするならば・・・^^ タイミングの問題 か・・^^
う〜〜ん^^
難しい^^
寝る^^ >>362
意識が円鏡で、その、意識を貫通してるのが、阿頼耶識で、個人的なものでないもの
その状態でいるのが、安楽であるから、涅槃 >>350
>それに、(ワシが反応仕返したくなるようなw)レスが返ってこないなら徒労だということ。
ハイ!正体現れたw
セブンは結局はこれがしたかっただけw
人格的には下の下だな
何のために仏教で何年も議論してるのかがよく分かる
つまらない自己顕示欲と暇つぶしだ
煩悩の塊ここに極まり
反応仕返し?
馬鹿言うんじゃありませんw
その前に自己の向上に努めなさい
反応仕返し?
人格下劣な椰子に反応仕返しされても仕返しと感じられんわなw
あ、下劣だから仕返しなどという発想が出てくるのかw
正体突き止めたからもう相手するのやめたw 唯識だと第七末那識・・・自我意識が平等性智に変ると言ってるが・・^^
無分別智のことだろうな・・^^ >>368
執着をとることと、その、方法
それが大切なの
不生という知識を手に入れる必要はあるかもしれないけど、知っても、解脱はしてない 結論
>≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
>と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。
ではなく・・^^
第七末那識・・・自我意識から第六意識・・思考意識が生じてる・・
つまり・・^^
「思考がすでに我から生起してるからね^^ 」
が正解^^ そんなことより・・^^
「涅槃」が、「境地」なれば、自動的に「無我」だろ? とw
この「自動的に」が難解や^^ >>370
そうなんだよな・・^^
執着をとること・・・
ゆえに「空」「縁起空」を説きはじめたんだよな^^ ・・・思考が我から生起するとすれば、それは我を認めることになるので、仏教の無我説に反するな。
唯識説によれば、思考(第三能変中の第六識である意識)は心所として遍行に分類され、
触〜認識対象との接触
作意〜心の起動
受〜苦・楽・それ以外の判別
想〜自己の枠組みへの当てはめ
思〜認識対象への働きかけ
というはたらきに分けられる。
ところで、第六識である意識は「我」に他ならない。
また、第六識である意識(=我)は、阿頼耶識が転変して見分と相分に分かれた際に生じるものなので、「無い」、まさに無我。 373神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 01:02:17.36ID:o3b2Gtmd
>>372
涅槃なんてないよ
そうだよね・・・^^
言葉で表現できないからね^^
龍樹ちゃんも・・
「ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
と言葉にしていない^^ >>374
色受想行識は空である
空とは、真我のように、把握されるものではなく
無
であるからして、そこに我はいない
しかし、我と見て、感じて、様々な働きに、一体化しているから、勘違いして、苦しむ
これをシフトさせる方法
実質的な、もの
が重要であって、知識は補助的に役立つもの
空といって、何かあるわけじゃない
と、今は、思う
突き抜けた何かが、残ってたら、それに縛られて解脱はしない
涅槃もない
涅槃はない
涅槃というのは、その、なんとも言えないものに名付けてみただけのこと
かもしれん >>375(続き)
つまり、「思考」と「我」は、阿頼耶識が認識対象と接触し見分と相分に分かれた際、その転変・遍行により同時に生じる。
我から思考が生じるのではない。 ・・・思考が我から生起するとすれば、それは我を認めることになるので、仏教の無我説に反するな。
唯識説によれば、思考(第三能変中の第六識である意識)は心所として遍行に分類され、
触〜認識対象との接触
作意〜心の起動
受〜苦・楽・それ以外の判別
想〜自己の枠組みへの当てはめ
思〜認識対象への働きかけ
というはたらきに分けられる。
ところで、第六識である意識は「我」に他ならない。
また、第六識である意識(=我)は、阿頼耶識が転変して見分と相分に分かれた際に生じるものなので、「無い」、まさに無我。
つまり、「思考」と「我」は、阿頼耶識が認識対象と接触し見分と相分に分かれた際、その転変・遍行により同時に生じる。
我から思考が生じるのではない。 思考、感情、動作、本能、性、感受性、意識
これらの要素は自然、縁によって、原因によって、様々に変化していく
これらの機能は、わたしの意志によってあるのではなくて、あらゆる出来事が、反応しあって、このように、ある
そのもとは、もちろん意識である
この意識を真我と呼ぶ
しかし、この意識の永遠の実在は、輪廻しつつ、よくはわからないが、因果の中で、様々には変転しつつ苦しまねばならない
なぜなら、苦しみであると気付いてないからだ
ここに幸せな生存があると信じて疑わず、悟ったりなさるからだw 「思考がすでに我から生起してるからね^^ 」
「思考(分別)によって、我執が生じ苦悩が生じる^^」
卵が先か・・にわとりが先か・・^^
で3年は晩酌できるかもしれん^^ なぜ分別するのか・・・^^
簡単に言えば無明だからとなる^^
無明ゆえに分別し迷う^^ つまり・・^^
我と他のものを分別し迷うんだよな・・^^
これが^^ そして・・・^^
「思考(分別)によって、我執が生じ苦悩が生じる^^」
我があると考えるゆえに苦悩が生じる^^ で・・その我を自己のうちに探してみるtとそこにはない^^
仮の姿だったんだよな^^
部品はあっても車はそこにはないと・・^^ 「真我とは何か」・・^^
う〜〜〜ん^^
これはまた後で・・・^^ 想念が静まると智慧が生ずると仏教では説かれるが・・・^^
真我と智慧か・・^^ 「無我だ、無我だというのはお前の自我だと言われそうですが(笑)」
なるへそ^^ >因縁果 ◆d........o
え〜〜とですね、
その短文による独白の連投のスレの消費は止めてください。
誰かの意見に異論、反論、もしくは疑問等がありましたら、アンカーをつけて
提示するように。 そうか。。。
敢えて、誤解・語弊を恐れず 「場所」 的表現をとるならば、
「涅槃に入る(を見る)」とは、
(公営の)公園に行くようなもんだ。
さて、その公園は、
≪誰の(家の)庭に≫あるのか?
≪誰の所有する≫公園なのか?
≪誰それの好みに合った≫もの(ある特定の個人にだけ合う(該当する)もの)なのか?
だとするなら、他の人間には合致しない、該当しない、他の人間は所有しない・使用できない・・・etc.etc.
めんどくせ・・w
そういう【限定的な】要素を持たないからこそ、正しく一心に行じた者が、
(例外なく)【見る】ことができる、そのような境地として【常に】【ある】、と言われるのではないかい?
>>ALL
>>360>>372
自分でどっかサイト探して、>>332 の過去レス読んで来いよw
西洋的思考そのものが、反仏教的なんだよ。
>>367
仕返しという漢字・言い方になったからといって
「復讐」「やり返す・やり込める」という意味で受け止めるお前の金玉の小ささに笑うわw
子供をあやす・構う時は、
単純にリアクションが可愛らしくて、
(それを期待して、そのリアクション・反応を感受することが幸福だから(それらを欲するから))
大多数の大人(或いは兄弟姉妹、親戚の(その子よりちょっとだけのw)お姉さんお兄さん)は、
子供を構うのさ。 >>395
お前が一番コドモなことに気づけよ、セブンww 「外道の独り言」のスレだから・・^^
つい独り言を言ってしまった^^ >>395
仏陀をチャンつけするような奴に仏教はどうのと言う奴もバカだよ。(笑)
(^。^)相手はあのイカだぞ。(笑) >>396
>お前が一番コドモ
うむw その通り。
だから、いつまでも2chがやめられないw >>395
私の誤解かもしれませんが、他の宗教では、誰かが空無辺処定まで行った形跡はありません。
「色界には進んでいる」と分かる話は、現代でも瞑想体験がある人のテキスト、
例えばラーマクリシュナの言葉を読んでみますと、色界第一禅定くらいは経験がある感じはしますが、
それでもまだ、「神がいる」とか「魂がある」とか「梵天がいる」などという状態なのです。
無色界の禅定では、今まで味わっていた第五禅定までの尊い体験があっさり消えて、何もない真空状態を認識するのです。
そうすると心の波がさらに細かくなります。 概念・考えることはまったくない。ただいるだけ。
いるだけで何も見えない。何も聞こえない。身体の感覚はまったく感じない。自分がここにいるという概念さえないのです。
その人の身体はきれいに消えています。この無色界の禅定では呼吸もしません。
大変勝れた処 ?yatana(状態・レベル・state)なのです。
その人は、無辺たる真空の状態 ?k?s?nanc?yatana を体験して、その状態を観察します。それが無色界の第一番目の禅定です。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) スマナサーラさんによるとその
>正しく一心に行じた者が、 (例外なく)【見る】ことができる、そのような境地として【常に】【ある】、と言われるのではないかい?
この正しく行じることができるのは仏教徒だけ。
ヒンドゥー教の聖者として有名なラーマクリシュナでも色界第一禅定止まりでした。
なぜ数か月間無分別三昧に入ったと言われる(呼吸もしており妻から口元に水を運んできてもらって飲んでいたから滅尽定ではない)
ラーマクリシュナをしても色界第一禅定止まりだったのでしょうか?
これは、スマナサーラさんが仰るところでは、魂論・真我論・有神論・などの観念信仰からラーマクリシュナといえども抜け出せなかったので、
正しく真実を見抜く眼力を持つことができなかったからのようです。
スマナサーラさんが大乗仏教を批判するときも仏性・如来蔵・阿頼耶識・法身仏など立ってているから。
別に龍樹の空論は間違っているなどとは批判しません、中論は道徳とは結び付かないとは批判しますが。
せっかくお釈迦様は脱バラモン化して迷信を除去して自ら観察して確信するという道を打ち出したのに、
大乗仏教になって仏性・如来蔵・阿頼耶識・法身仏などを立てヒンドゥー教に戻ってしまい観念論になり真理の道から遠くなってしまったことを嘆いているのです。
同様にスリランカやタイのテーラワーダ僧であってもお金をもらって占いなどしている神秘主義を売り物にしている僧がいることを長老は嘆いています。 >>403
神秘主義はお釈迦さまの教えじゃないし
なおかつお金をもらって占っているからでしょうね 実の所は釈迦が何を語ったかは
最早誰にも分からない謎にゃん♪
過去の偉人聖人に頼るよりも今
現在生きている人間を検証する
べきにゃん♪
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