なお、説一切有部においても我空法有であり名色については五蘊が全てであり、
それ以外の真我のような常一主宰を認めていたわけではない。
あくまで我空(無我)であり、涅槃も無為法として認めるが涅槃においても我空(無我)であるとしている。

大乗仏教では涅槃は無為法としてよりもむしろ無住処涅槃、生死即涅槃という現世肯定な立場に立っての涅槃論が説かれることが多い。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1494147709
>小乗仏教においては、煩悩に満ちた日常生活からの自らの心の解脱を求めるもので、日常生活はさとりの境地と相反した否定されるべきものです。
>大乗仏教は一切皆空の教えにより、このような小乗仏教の教えを根本から否定し、穢濁に充満したこの現世こそが清浄な仏国土であると教えます。仏のいる仏国土とは衆生を離れた彼方に存在するのではなく、娑婆世界に存在するのだと説きます。
>『わが此の土は浄し。しかるに。汝は〔それを〕見ず。』(『維摩経』)
>『衆生の罪の故に、如来の仏土の厳(かざ)られ浄きことを見ざるなるなり。』(『維摩経』)
>「輪廻には、涅槃との何らの差異も存在しないい。涅槃には、輪廻との何らの差異も存在しない。」(『中論』25.19)
>「涅槃の極致、それは、また輪廻の極致である。それら両者には、極微細ないかなる差異も存在しない。」(『中論』25.20)

さて、初期仏教ではどうであったかというと、古い経典では現法涅槃が基本である。
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/69816342.html
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1814200.html?p=1
やはりここでも釈迦仏教に近いのは有部よりも龍樹(大乗仏教)の方なのかもしれない。

もっとも、有部も中論も大乗も本来の釈迦の教えではない、と思われるのなら「そうですか」としか言いようがないがw