外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>266
大乗仏教は実践知らずの頭でっかちか、よくないのどちらかしかない、ように読めるんだけど。
要するに、信仰する価値のない教えであると、慇懃無礼にけなしている。 >>263
あちらを立てればこちらが立たず
ほんにお前は屁の様なにゃん?
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 簡単に言えば・・^^
我執のある境地で見れば慈悲はある^^
無我の境地で見れば慈悲はそこにはない^^
つまり・・^^
無我の境地で見れば慈悲は煩悩に見えるということや^^ 「慈悲は煩悩である」なんて言ったら大変なことになるからな^^
これはここだけの話にしておこう^^ まぁ無我の人には慈悲なんて想念は生起しない^^
自然体なんだよな^^ 凡夫にとっては慈悲を意識しないと行為がなされないからな・・・^^
その違いや^^ 質問箱が荒れてた頃が、
(一番ギスギスしてたけどw)一番熱かったし濃かったな・・。
今はもうスカスカだw 四無量心
慈、悲、喜、捨
おまいら捨がないから煩悩にかわるんだよな^^ 是の聖人は、吾我の相を破し、一異の相を滅するが故に、但だ因縁
の相続に従って諸欲を生ずるを観じ、以て衆生を慈念する時、和合
の因縁の相続して生ずるより但だ空なり。(中略)衆生は是の法の
空なるを知らず、而も常に一心に楽を得んことを欲す。聖人は之を
愍み、意に従って楽を得せしむ。世俗の法の為の故なり。名けて法
縁と為す。無縁とは、是の慈は但だ諸仏のみ有り。何となれば諸仏
の心は有為無為の性中に住せず、過去世未来現在世に依止せず、諸
仏は不実にして、顛倒虚誑なりと知りたまうが故に心に所縁なし。
仏は衆生が是の諸法実相を知らず、五道に往来し心諸法に著して分
別し取捨するを以て、是の諸法実相の智慧を以て、衆生をして之を
得せしめたまう。是を無縁と名く。(中略)悲心も亦た是の如し。
『大智度論巻第二十』 慈悲心に三種有り。衆生縁・法縁・無縁となり。
凡夫人は衆生縁なり。声聞・辟支仏及び菩薩は、
初は衆生縁にして後は法縁なり。諸仏は善く
畢竟空を修行するが故に名けて無縁と為す。
是の故に慈悲をも亦た仏眼と名く。
『大智度論巻四十』 天台「三縁の慈悲」
無縁の慈悲とは即ち如来の慈悲なり。
この慈悲と実相と同体にして
衆生の相を取らず、故に愛見に非ず、涅槃の相を取らず、
故に空寂に非ず、
空寂に非ざるが故に法縁の慈悲に非ず、愛見に非ざるが
故に衆生縁に非ず。二辺の相無き故に無縁と名く。
『摩訶止観巻第六』 うん?
なんか言った^^
ちょっと今とりこんでるので^^ 対象のない慈悲・・^^
二辺の相無き故に無縁と名く・・・・^^
無縁の慈悲・・・^^
初めて知ったがなるほどね^^
天台らしいよな^^ 「是の聖人は、吾我の相を破し、一異の相を滅するが故に、但だ因縁
の相続に従って諸欲を生ずるを観じ、以て衆生を慈念する時、和合
の因縁の相続して生ずるより但だ空なり。」
無我・・無分別の境地に住む聖人は・・・^^
吾我の相を破し、一異の相を滅するが故に、但だ因縁
の相続に従って諸欲を生ずるを観じ・・
以て衆生を慈念する時、和合
の因縁の相続して生ずるより但だ空なり。」 因縁の相続に従って諸欲を生ずる・・・^^
和合の因縁の相続して生ずるより但だ空なり。・・^^
う〜〜ん^^
寝る^^ おまえらは・・是の法の空なるを知らず、而も常に一心に楽を得んことを欲す。
聖人は之を愍み、意に従って楽を得せしむ。世俗の法の為の故なり。
名けて法縁と為す 無縁とは、是の慈は但だ諸仏のみ有り。
何となれば
諸仏の心は
有為無為の性中に住せず、
過去世未来現在世に依止せず、
諸仏は不実にして、顛倒虚誑なりと知りたまうが故に心に所縁なし。
「諸仏は不実にして、顛倒虚誑なりと知りたまうが故に心に所縁なし。」
う〜〜ん^^
般若心経 と同じ表現してるな^^ 栄西禅師がいわれるのに「みなの衆よ、あなた方が、いま用いている衣服・食料などを私から貰うのだ、と思ってはならぬ。
衣食ともに仏法を守る神々(諸天)が我々に供養して下さる所のものである。
私は、ただその取次役をしているだけだ。
また、あなた方はそれぞれ自分一生の分け前はちゃんと具わっているのだから、あくせく走りまわってはならぬ」と。このように常に導かれた。
まことにこの上ない美言であると思う 。
(道元 正法眼蔵随聞記)
あなた方はなぜ衣服のことで思い煩うのか。野
のユリがどのように育つかをよく考えなさい。
労したり,紡いだりしない。
だが,あなた方に告げるが,栄光を極めたときのソロモンでさえ,それらの一つほどにも装っていなかった。
では,神が,今日生えていて明日かまどに投げ込まれる野の草にこのように衣服を与えておられるのであれば,あなた方にはなおのこと衣服を与えてくださらないだろうか,信仰の少ない者たちよ。
「だから,『何を食べようか』,『何を飲もうか』,『何を着ようか』と言って思い煩ってはいけない。
こうしたものすべては,異邦人たちが追い求めているものだからだ。
あなた方の天の父は,あなた方がこうしたものすべてを必要としていることをご存じなのだ。
むしろ,神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば,こうしたものすべてもあなた方に与えられるだろう。
(聖書 マタイ伝)
栄西とイエスは食物や衣服については神から与えられるものと見做していた
(イエスは食については空を飛ぶ鳥を喩えに神から与えられることを衣服の前段の教えで説いている)。
だから衣食についてあくせくしてはならないと。
覚者の思考には共通点がやはり多いのだと思う。 慈悲心に三種あり。衆生縁と法縁と無縁となり。
凡夫人は、衆生縁なり。
声聞・辟支仏及び菩薩は、初めは衆生縁にして、後には法縁なり。
諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に、名づけて無縁となす。
(『大智度論』) 衆生縁とは
凡夫及び有学の人の起す所にして、即ち一切衆生を縁じて怨親の別なく、
普く利益を得しめんと欲するを云い、
法縁とは
無学、或は辟支仏等の起す所にして、慈念を以って五蘊の法を縁じ、
人空を知らざる者を愍みて楽を得しめんとするを云い、
無縁とは
唯諸仏の所行にして、即ち仏は実相に住して無分別なるが故に心に所縁なく、
唯衆生をしてこの実相の智慧を得せしめんとするを云う。
悲喜捨に於いてもまたかくの如く、所縁に於いて異あるが故に
これを各三種に分別するを得るなり 「是の聖人は、吾我の相を破し、一異の相を滅するが故に、但だ因縁
の相続に従って諸欲を生ずるを観じ、以て衆生を慈念する時、和合
の因縁の相続して生ずるより但だ空なり。」
やはり・・
「吾我の相を破し、一異の相を滅するが故に・・・」
無我と無分別と慈悲か・・・^^ 無縁とは
唯諸仏の所行にして、即ち仏は実相に住して無分別なるが故に心に所縁なく、
唯衆生をしてこの実相の智慧を得せしめんとするを云う。
仏は実相に住して無分別なるが故に心に所縁なく・・^^
無分別の言葉が出てくるが・・^^
これを言ってたんだな・・・^^ 慈悲心に三種あり。衆生縁と法縁と無縁となり。
つまり・・・^^
無縁の慈悲をこのスレで言ってたと・・^^
衆生縁とは
凡夫及び有学の人の起す所にして、即ち一切衆生を縁じて怨親の別なく、
普く利益を得しめんと欲するを云い、
衆生縁は煩悩であると・・・^^
こうゆうことやな^^ 徳雲の閑古錐、幾たびか妙峰頂を下る。
他の痴聖人を傭やとって、雪を擔うて共に井を填む。
まさに空即是色、無住処涅槃じゃないか? 272因縁果 ◆d........o 2018/05/17(木) 20:24:26.88ID:LQJ6E4k3
つまり・・・^^
見る境地の違いなんだな^^
つまり・・・^^
見る境地の違い・・
慈悲心に三種あり。衆生縁と法縁と無縁となり。
これだったと・・・^^ 貧しい村に行かれた釈尊
こんなエピソードがあります。
あるとき、お釈迦さまが弟子たちと托鉢(たくはつ)に出かけられました。
しばらくして、行く手が二股に分かれていましたが、
お釈迦さまが右に歩まれるとお弟子の一人が言いました。
「お釈迦さま、失礼ですが、道を間違われたのでは?
こちらの道は、大変貧しい者の住む集落に向かいます。
最近の飢饉で餓死する者まで、出ているところです。
そんな村に托鉢に行かれても、布施する人はいないでしょう。
反対の道ならば、大地主や大商人たちの住む町ですから、
布施する人も多くありましょう」
それに対して、お釈迦さまは、こう仰有いました。
「道を間違えてはいない。
この道が、貧しい村に通ずることは知っている。
布施は貧しい者ほどしなければならないのだ。
彼らが現在、餓死するほどに貧しいのは、
過去世で欲深く、布施の功徳を積まなかったからである。
布施を励んだ人は、恵まれた家に生まれ、
施しをしなかった人は貧しいところに生を受ける。
彼らは自らの報いを受けているのだ。
貧しい中から、米一粒でも布施をして、功徳を積むならば、
それにより、彼らは今の苦しい状態から、抜け出せる。
長者の万灯よりも貧者の一灯、布施の尊さは量にはよらない。
貧しさに苦しんでいる人ほど、布施をしなければならないのだ」
弟子たちは深く頷いたと言います。
http://bukkyouwakaru.com/rokudomangyou/fuse1.html
釈尊は衆生や集落を分別して貧しい村を選んで托鉢に行ってますね >>258
中論は我空法有の説一切有部に対するアンチテーゼで
有部では我空法有を説いたが中論(大乗仏教)では我空法空であると反論した。
簡単に言えば有部は五蘊皆有、中論(大乗仏教)では五蘊皆空。
ではどちらがゴータマの教えに近いのかというと、存在論においての場合は中論(大乗仏教)の方。
いろかたちは泡粒のごとくである。
感受は水泡のごとくである。
表象は陽炎のごとくである。
意欲・行為は芭蕉のごとくである。
識別作用は幻のごとくである。
と日の御子(ブッダ)は説かれた。
瞑想するにしたがって、それ(心身)を正しく考察するならば、
〔それは〕実体なく(リッタカ)、空虚(トゥッチャカ)である。
(『サンユッタ・二カーヤ』]]TT』)
初期の仏教では五蘊皆空でした。 なお、説一切有部においても我空法有であり名色については五蘊が全てであり、
それ以外の真我のような常一主宰を認めていたわけではない。
あくまで我空(無我)であり、涅槃も無為法として認めるが涅槃においても我空(無我)であるとしている。
大乗仏教では涅槃は無為法としてよりもむしろ無住処涅槃、生死即涅槃という現世肯定な立場に立っての涅槃論が説かれることが多い。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1494147709
>小乗仏教においては、煩悩に満ちた日常生活からの自らの心の解脱を求めるもので、日常生活はさとりの境地と相反した否定されるべきものです。
>大乗仏教は一切皆空の教えにより、このような小乗仏教の教えを根本から否定し、穢濁に充満したこの現世こそが清浄な仏国土であると教えます。仏のいる仏国土とは衆生を離れた彼方に存在するのではなく、娑婆世界に存在するのだと説きます。
>『わが此の土は浄し。しかるに。汝は〔それを〕見ず。』(『維摩経』)
>『衆生の罪の故に、如来の仏土の厳(かざ)られ浄きことを見ざるなるなり。』(『維摩経』)
>「輪廻には、涅槃との何らの差異も存在しないい。涅槃には、輪廻との何らの差異も存在しない。」(『中論』25.19)
>「涅槃の極致、それは、また輪廻の極致である。それら両者には、極微細ないかなる差異も存在しない。」(『中論』25.20)
さて、初期仏教ではどうであったかというと、古い経典では現法涅槃が基本である。
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/69816342.html
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1814200.html?p=1
やはりここでも釈迦仏教に近いのは有部よりも龍樹(大乗仏教)の方なのかもしれない。
もっとも、有部も中論も大乗も本来の釈迦の教えではない、と思われるのなら「そうですか」としか言いようがないがw 唯識の説を借りれば、煩悩には煩悩心所(6)・随煩悩心所(20)・不定心所(4)の計30種があるそうだけど、空即是色と還ったのちの慈悲や幸せを願う心がそのうちのどの煩悩に当てはまるのやらw
ま、ともあれ、いい機会だから成唯識論を紐解いて調べてみるか。
善悪相即、煩悩即菩提、無住処涅槃。
>>304 >…慈悲や幸せを願う心…
↓間違ってたら スマソ m(_ _)m
ttps://ci.nii.ac.jp/els/contents110007058779.pdf?id=ART0008993827
唯識説における「別境心所」の特色
…
…欲(chanda)
…「欲」は
勤(正勤=精進)を起こすもととなる勝れた心作用であると定義される
このことは、『倶舎論』(有部)には明説されなかったこととして注意されてよい
つぎに
欲の所縁となる「所楽の境」(「楽」はねがい求むる意味)の理解について…
(欲(chanda)以外にも、その他諸々…)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html
単純な(純粋な)
canda(チャンダ)意欲、やる気
(純粋に)何かを「やろう」とする働き
_ _ _
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
仏に戻る
そのための障害(覆)がない無覆無記
に近いような感じかしらん?
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>303
初期仏教では二度と母胎に入らない、再生しないことを目的に修行して解脱して涅槃の境地に住するわけだから、
大乗の無量劫再生して菩薩行をする無住処涅槃は初期仏教とは違うね。
現世涅槃という点ではたしかに同じではあるけど。 >>261
私も、ゴータマの原始仏教がそのまま今の日本にとって適した信仰であるとは見なしてはいない。
本物の解脱を求める出家者という意味であるならば、今でも重視されるところが多々あるものとは思うけれども...。
また、大乗のすべてが無価値であるなどとは思わないし、
そしてまた、もしも対機説法のゴータマが、再び、我々の眼前に登場されたとしたならば、
当時の古代インドとは異なった教え、もっと現代日本に相応しい新しい教えを説かれた筈です。
>>261-262
私は、法華経信奉でも念仏でもいいけれども、
信仰は何でも自由だと思っているし、「これこれ然々の理由によって自宗派を信奉するんだ」
というのならば、それはそれで大いに結構なことだと思う。
けれど、嘘(信徒を騙すの)は止めましょう! 間違いは認めようよ!
ってこと。 >>266
スマ長老は、なかなか心が寛大ですね!(笑)
まっ、長老が密教の評価を最低とする理由は明白だけれど...。
この私は逆に、
密教を大乗の中でも最高位として評価して、そして、自分もこれを利用させて頂いている。
一言でいうと、密教というのは歴史上、インド大乗最後の切札として登場したものであり、
これまでの大乗としてのすべての経験値を内に持っている。
そして、唯一にして明確なバラモン譲りの不思議な呪力を発揮する仏教諸派だということ。
これにより、説法だけではどうにも救うことのできない庶民の苦悩を加持力によって軽減し、
人々の心に信仰心(神仏に対する感謝の念に始まる)を目覚めさせることができるもの。
顕教にはそれができない。 >>208
>無限に長い時間、みんなを救い続け、自分はいつまでも仏にならないという菩薩もいらっしゃいます。
批判的な見方を採れば、これは創作仏教である大乗というのは、
自らがブッダの時代のような即涅槃(及び現世の阿羅漢入り)はできないものとして
あきらめを自認していることの誤魔化しであるとも受け取ることができる。
しかし、もしもそうではなくて本気で主張してるのであれば、
神智学の説く奉仕の精神(他者に対する善行は無償の奉仕行為として説く)と通ずるものということができる。
見返りを求めずに無償で為される真の奉仕は自己の魂の持つ特質です。
この魂の特質が現れ始めた奉仕者は、自身の進化(救い)そのものについては無関心になっていく...。
つまり、忘我(自分のことはどうでもよくなる)の状態になる。
>>301
これはとても素晴らしい教えです。
私も、「布施」とは何かについて人に話す際にはこのエピソードをいつも語ります。 114junkie- ooyama2018/05/15(火) 13:03:51.83ID:NDwJnvNA
そんなに俺が気になるかw
何度も言うが悟りとか知らんし、まだ参禅中だよw
↓
945日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/03(木) 21:53:34.98ID:pfuwmEER
大山君、粘着した時のエゴサ凄いんだねw
それが大山君の病気だよ?
960日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/03(木) 23:09:47.06ID:pfuwmEER>>961
大体、仏教スレで病気の煽りをしすぎなんだよ。
大山君は( ・∀・)
970日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/03(木) 23:32:15.40ID:pfuwmEER>>971>>973
病気で都合の悪い者をDisる事しか出来ない大山君。
醜い大山君( ・∀・) 103 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 20:48:37.22 ID:aLWscAki
一度でも良いから自殺する位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?
悟りを舐めてるわ、マジで。
こいつらは何年もこんな事やってんのかよ。オウム麻原と同属だな
101Junkie-Ooyama2018/04/20(金) 16:00:42.49ID:2kjZdeE1
Psychic Disorders Mens NET
(精神障害者ネット)
P〜ポタ公
D〜でおー
M〜元オウム
N〜日本鬼子
E〜栄進
T〜タ >>307
五時八教説の事?今は特段強調していないと思うんだけど。
創価学会任用試験講座のページがあるから、自分で確認すればいい。
https://ninyou-shiken2018.sokanet.jp/ >>303
>やはりここでも釈迦仏教に近いのは有部よりも龍樹(大乗仏教)の方なのかもしれない。
比較すれば有部よりは近いかもしれないが、少なくとも悟りの直後の釈迦は世界を無記としていたと思う。
教団を持ちバラモンと争う中で、世界の有無に言及した可能性はあるが、それは釈迦の本質ではない。
前期釈迦 悟り直後の釈迦 我は無我、世界は無記
後期釈迦 教団を構えてからの釈迦 我は無我、世界は??
釈迦の仏説の本質は前期釈迦にあるのであり、慈悲や空らしきものを謳っている後期釈迦は、
言っちゃ悪いが釈迦自身のエピゴーネンに過ぎないと思っている。
パーリ語仏典を珍重して、歴史を遡っても、後期釈迦の教団指導上の方便がわかるのみで、
真の仏説はわからない。その点では、上座部も大乗も釈迦の教えから等しく遠く離れている。
そして、真の仏説を離れて宗教としての仏教を希求するのなら、別にすぐそこにある創価学会で
問題ないと思う。 「過去世で欲深く、布施の功徳を積まなかったからである。 」
こんなことブッダちゃんが言う分けないだろう^^ >>307
> けれど、嘘(信徒を騙すの)は止めましょう! 間違いは認めようよ!
これのどこが嘘なんだよw
↓
> 最古層の仏典が釈迦の直説であると仮説しても、仏教がその部分だけでは成立しないのは事実。 > 菩薩は生死と涅槃が異なっていると観ない。
> 智慧によっているので生死に定住せず、慈悲によっているので涅槃に定住しない。
> もし、生死に対して分別すれば、もう生死に定住することになってしまうし、
> もし、涅槃を分別すればすなわち涅槃に定住することになってしまう。
> だが、菩薩は無分別智を得ており、分別することが無いので、定住する処がないのである。
(摂大乗論)
うむ、実に明快だな、流石は世親菩薩(ヴァスバンドゥ)だわ。
無分別智が発現(はつげん)するからこそ、生死にも涅槃にも定住しない。
”涅槃だの無我だの分別するからそこに定住するのだ、ボケ!
無分別だからそんな処にゃ滞留しておらんのだ!ほれほれ!”
って事だな。 ↑
すまん、一字抜けてたw
×摂大乗論
〇摂大乗論釈 梵我一如の影響を受けすぎなんだよな。
我は有、世界は有 がバラモンだとすると、
我は無、世界は無 の大乗は批判しながらのパクリでもあると言える。
主客一体も、所詮は梵我一如の変形である。
どちらも劣化バラモンに過ぎないと言える。
釈迦の直説を明らかにしたいのなら、
梵我一如を捨て、別の視点からアプローチしたほうがいい。 さて、唯識の五十一心所から「利他行(慈悲)」がどれに分類されるか考えてみましょうか。
大別すると「遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定」があると・・・
え?ん?心所の分類では善と煩悩(随煩悩)って分かれてるじゃないですか???
善の心所(11)を見ると「信・精進・慙・愧・無貪・無瞋・無痴・勤・軽安・不放逸・行捨・不害」とあるね。
「信」には「実・徳・能」があり、「能」とは善法を能く行い得ること、と。
「無瞋」とは、不都合怒らず排除せず、と。
「勤」とは、善を修し、と。
「行捨」とは、平等にして偏らない、と。
「不害」とは、いのちを憐れみ、他を悩ませない、と。
・・・利他行って煩悩じゃなくて善じゃないの? バラモン教
我〜常・一・主・宰
法〜任持自性、軌生物解
仏教
説一切有部〜我空・法有
大乗〜我空・法空
・・・仏教はいずれも刹那生滅説。 >>305
ストレートに善の心所に視座を置いて利他行を見てみました。(>>322) >>308
>そして、唯一にして明確なバラモン譲りの不思議な呪力を発揮する仏教諸派だということ。
>これにより、説法だけではどうにも救うことのできない庶民の苦悩を加持力によって軽減し、
>人々の心に信仰心(神仏に対する感謝の念に始まる)を目覚めさせることができるもの。
――― 相応部経典 42,6 西地人
ある時、ブッダはナーランダ(那羅陀)なるパーヴァーリカンバ(波婆離迦菴羅)林にいらっしゃいました。その時アシバンダカプッタ(刀師子)という部落の長がブッダを訪ね来たって、ブッダを拝して、問うて申しました。
「大徳よ、西の方から来たバラモンは水瓶を持ち、花環をつけ、水に浴し、火神につかえ、死んだ人々を天界に昇らせることができると聞きました。
大徳は広く世人の尊敬を受けられる覚者でいらっしゃいますが、大徳もまた、人々の身が壊れ、命が終って後、善趣天界に上生せしめることがお出来になるのでしょうか。」
「部落の長よ、では、私から、あなたに問うてみたい。あなたの思うとおりに答えてみるがよい。
部落の長よ、あなたはこれをどのように思うであろうか。ここに一人の人があって、人を殺し、物を盗み、偽りを言いなど、あらゆる邪まの業をなしたとするがよい。
そこに大勢の人々が集まり来たって、――この人が死んで後は善趣天界に生まれるように――と、祈祷し、合掌したとするならば、あなたはどのように思うか。
この人は、この大勢の祈祷合掌の力によって、死後、天界に生まれることができるであろうか。」
「大徳よ、いいえ、彼は天界に生まれることはできますまい。」
「部落の長よ、たとえば、ここに一人の人があって、深い湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。
その時、そこに大勢の人々が集まり、――大石よ、浮かび上がれ、浮かび上がって陸にのぼれ――と、祈祷し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、あなたはどのように思うか。
その大きな石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かび上がって陸にのぼるであろうか。」 「大徳よ、いいえ、大きな石が浮かび上がって陸にのぼるはずはありません。」
「それと同じことである。
あらゆる邪悪の業をつんできたものが、いかに祈祷し合掌したからといって、死後、天界におもむく道理はない。その人は、身が壊れ、命が終わって後は、悪趣地獄に生まれるほかはないのである。
では部落の長よ、さらに、あなたは、このような場合には、どのように思うであろうか。
ここにまた、一人の人があって、生きものを害せず、人の物を盗まず、偽りを語らず、あらゆる善き業をつんだとするがよい。
しかるに、大勢の人々が集まり、この人が死んで後は悪趣地獄に生まれるようにと、祈祷し、合掌したとするならば、どうであろうか。
あなたはどのように思うか。この人は、人々の祈祷合掌の力によって、死後は地獄に生まれなければならぬのであろうか。」
「大徳よ、いいえ、そのような人が地獄に落ちるはずはありません。」
「その通りである。
たとえば、ここに一人の人があって、深い湖の中に、油の壷を投じたとするがよい。そして壷は割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。
その時、大勢の人々が――油よ、沈め、油よ、水の底にくだれ――と祈り、合掌して、湖の周りを回ったとするならば、その油は人々の祈祷の力によって沈むであろうか。」
「いいえ大徳よ、油が水の底に沈むはずはありません。」
「それと同じことである。
あらゆる正善の業をつんできたものは、いかに祈ったからとて、合掌したからとて、その力によって死後、地獄におもむくはずはない。
その人は、身が壊れ、命が終わって後は、善趣天界におもむくことは必定である。」
このように教えられた時、部落の長は、ブッダにこのように申しました。
「善いかな大徳よ、
たとえば倒れたものを起こすように、覆われたものを啓(ひら)くように、迷える者に道を示すかのように、また眼(まなこ)ある者は見よといって、暗闇の中に灯し火をもたらすかのように、世尊は種々の方便をもって、法を説き示された。
願わくは、今日より終世かわることない帰依の信者として、私を許しお受け下さい。」 >>325-326の相応部経典の仏説からは、釈迦は呪文や祈祷や式典を否定するのみにあらず、葬式までをも否定しかねなかったというのがうかがえる
今の世でいえばいくら葬式で花をあげて立派で高い戒名をつけて焼香してお経をあげようとも極楽浄土にはいけない
涅槃や浄土や天界にいけるかいけないかはそういったものの力ではなくあくまで生前の善行為による善業の力である
悪業を積んだ者はいくら立派な葬式をしても地獄に落ちるということになるね >>327
やらない善よりやる偽善如何に?
南無南無 ( ´•人•` ) 祈ること=生きる意味を実感させることなんだよね。
まあ、神はいない、祈りもない、それで評価を得られていたと言うことは、
それだけ教えが優れていたことの証にもなるけど。
ただ、肝心の教えが善因善果なら、別に釈迦が出張る必要は無い。
対バラモンとしてはそれでもいいが、その程度のものを「法」を説いたと
珍重していることに、違和感を覚えた。 >>宝珠
再度言う。
「涅槃」が、「境地」なれば、自動的に「無我」だろ? とw >>330
>くだらんスレになったな・・w >>パーピ
wwwwwwwww
そういうな、セブンw
このスレに限らず、仏教系スレは全部、そうだろ?
以前みたいに長文で反論する気も起らない書き込みばかりだから、
書き込み頻度も激減w
流し読みばかりだわw セブンお前が何か面白いこと書けよw
お前の絶望的なまでに頓珍漢な比喩で笑ってやるからさ >>334
過去スレ過去レス漁って肴にすればいいじゃないかwww
膨大な量ある筈だから、「ああ、ああ、あんなこと言ってたw」と、思い出し乍ら
3年は晩酌できるくらいの発言はしてると思うが? >>335
いや、新しいネタで面白いこと書くのだ!
くだらんスレになったと思うのなら(>>330)自分からネタを投稿するくらいすればいい
反応してやるからw >>336
お釈迦さんだって、晩年は、同じことしか言ってなかったかもしれんぞ?w
(ああ・・、世尊はまた同じ話してる・・・(苦笑 )と。
※だからこそ、食事に呼ばれた際の定型句が成立したのかもしれんしw
菩提樹下の逡巡を思えば、わざわざ徒労を選ぶには膨大なエネルギーが要るのさ。
ワシは『菩薩』じゃないんで、雪で井戸を埋めるほどの慈悲は持ち合わせてないよ。 「3年は晩酌できるくらいの発言・・・」
331 名前:神も仏も名無しさん 2018/05/18(金) 21:27:37.40 ID:WWGqrLyV
>>宝珠
再度言う。
「涅槃」が、「境地」なれば、自動的に「無我」だろ? とw
確かに^^ う〜〜ん^^
この「自動的に」が難解やな・・・^^ 内容はともかくとして・・・^^
この「自動的に」で3年は晩酌できるかもしれん^^ 「無我即涅槃」か・・^^
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「輪廻即涅槃」・・^^
う〜〜ん^^
ちょっと表現がくるしいか^^ 馬鹿だな・・お前ら・・・
≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。 >>337
セブンらしい実にくだらんレスだな・・・w 「主体が欲しくなるんだよ。」
う〜〜ん^^
欲しくなるんじゃなくて・・・^^
思考がすでに我から生起してるからね^^ 「涅槃」と思考すれば必然的に我を伴う・・^^
ということは・・・^^
無我であれば・・・^^ >>342
>≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
>と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。
考えてるのはセブン、お前だけだ
お前の脳内の妄想だw > 思考がすでに我から生起してるからね
ん?
無我なのに思考が我から生じるのか?
我と思考は同時に生じるんじゃないの?(相互依存性縁起) 『(涅槃とは)一切の知解(ちげ、獲得・対照的知識)が滅し、
戯論が滅して、寂静なる(境地)である。」
これなんだよな・・^^ >>343
お前はホントに馬鹿だなw
仮に、ワシが何か書き込んだとしても、
それに、(ワシが反応仕返したくなるようなw)レスが返ってこないなら徒労だということ。
君が面白いと思うかどうかの問題じゃないw 私が、いいリアクションだと受け止め還せるようでないなら一緒。
だから、(逆に)、
君が面白いと思うレスを、過去レスから探せ、と言っている。
君の期待に応える自信はないし、
また、自分が期待する反応が返ってこないことも分かってる(―実際に、ここ数年は噛みつかれてハッとすることもない―)しw 「涅槃」と思考すれば必然的に我を伴う・・^^
ゆえに・・^^
『(涅槃とは)一切の知解(ちげ、獲得・対照的知識)が滅し、
戯論が滅して、寂静なる(境地)である。」
となる^^ >噛みつかれてハッと
その意味で、一代との出会いは貴重だったよ。
今更ながら礼を言いたいくらいだw 中論
「業と煩惱と滅するが故に 之を名づけて解脱と爲す
業と煩惱とは實に非らず 空に入れば戲論滅す」
「諸法實相とは 心行言語斷じ
生無く亦た滅無く(無生亦無滅にして) 寂滅なること涅槃の如し」
う〜〜ん^^
これやな・・^^ 思考がすでに我から生起してるからね^^
「心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。
まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
う〜〜ん^^
似てるな・・・^^
「ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
この表現がうまい^^ つまり・・^^
346神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:06:00.65ID:JzHGooXC>>353
>>342
>≪「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)
>と考えるから、主体が欲しくなるんだよ。
「主体が欲しくなるんだよ。」・・ではないと・・^^
こうなる^^ 「「誰それの」「涅槃」≫(→「私の」「貴方の」「涅槃」)と考えるから、
主体が欲しくなるんだよ。」
これと・・
「心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。
まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
まったく似てない^^ 「思考がすでに我から生起してるからね^^」
「心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。
まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。」
やや似てる^^ うん?
「主体が欲しくなるんだよ。」
我執と考えろばそうでもないか^^ 359神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:39:25.50ID:o3b2Gtmd
>>344
思考は我ではないよ
真理追求の思考は我から生じないかもしれん^^ 唯識でみると・・^^
第十乾栗陀耶識・・仏覚、無上覚・・仏の世界
↓
・・・・・・・・・・解脱・・・・・・・・・・
↓
第九阿摩羅識・・仏性
↓
・・・・・・・・・・悟り・・・・・・・・・・
↓
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) >>361
真理探究してるのも、涅槃を求めてるのも、そのような活動が起こっているのも、わたしの意思によるのではなくて、タイミングの問題 第七末那識・・・自我意識から第六意識・・思考意識が生じる・・・^^
359神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:39:25.50ID:o3b2Gtmd
>>344
思考は我ではないよ
とするならば・・・^^ タイミングの問題 か・・^^
う〜〜ん^^
難しい^^
寝る^^ >>362
意識が円鏡で、その、意識を貫通してるのが、阿頼耶識で、個人的なものでないもの
その状態でいるのが、安楽であるから、涅槃 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています