インドには、サンスクリット語でローカーヤタ ワーダ「Lokāyata vāda」という、唯物論のとても優れた哲学学派がいました。
彼らは、徹底的に攻撃されたため、テキストとしては一冊だけ、ジャヤラーシ( Jayarāśi)という人による『Tattvopaplavasiṃha』というたいして古くないもの(紀元八〇〇年頃)が遺っているだけです。
しかし、お釈迦さまの時代から、唯物論を語る人々はいました。
 お釈迦さまと同世代のアジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambala)さんは、生命は「地」「水」「火」「風」という四つの物質元素と、「感覚器官」でできていると考え、人間は死ぬとすべてが無になると考えました。
その詳細は略しますが、いわば「魂はない」という話です。
 しかし周囲からは、「魂はあるに決まっている」と激しく攻撃されます。
そこで唯物論者たちがとった態度は、一種の妥協でした。
「魂はある、ただし、魂は物質だ」と主張したのです。
 ところが、「魂が物質であるはずがない」とまた激しく攻撃されます。
そこでまた妥協をします。「感覚器官が、考えたり見たり聞いたりする。それが魂だ」と。
「だから、死んでしまえば魂は空に飛んでいく。遺体を焼けばボーッと出ていってしまうのだ」というのがアジタ・ケーサカンバラさんの主張でした。
アジタ・ケーサカンバラさんは厳密な唯物論の哲学者で、「魂は不滅である」という説は否定しましたが、それでも「魂はない」とまでは言えなかったのです。
 こうして唯物論者たちは、何とか自分の立場を守ろうとしました。
しかし、唯物論者でさえ「魂はない」とは言えないのは、なんと恐ろしい状況でしょう。
 このように、 宗教・哲学・文学・民話 などのすべてが、魂 =「我」があるという立場で語られてきました。
私たちは数千年の間、「魂はある」という思い込みの 世界で生きてきて、進化してきたのです。
 ですから、 私たちの頭の中や遺伝子は、お釈迦さまが語られる「無我」を理解できるようにはなっていないのです。
一般常識的な立場では、無我を理解することはできません。「私たちには無我を理解できるだけの知識能力がない」ということです。

アルボムッレ・スマナサーラ. 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方