■■■臨死体験■■■
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>>68 ヨブは最後の最後で神に祝福されています。 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 ヨブ記42:5−6 ヤコブもモーセもエリヤも神に祝福されてます。 旧約の時代にすでに、罪から救われた人々がいたということは、 イエスの十字架が人類の罪を贖ったというパウロの主張は、 大ウソになってしまいませんか。 イエスの最後のコトバは福音書ごとに異なってます。 マタイ 27:46では、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 これは、わが神、 わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という意味である。 マルコ 15:34では、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 ーー意味はマタイと同じ。 ルカ 23:46では、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 ヨハネ 19:30では、「成し遂げられた。」 マタイとルカでは、十字架の死を神に抗議しているようですが、 キリスト教は詩編22を持ち出して弁解します。それにしても読む側は、 どれが本当なのかわからないではありませんか。 最後のコトバは、どれもこれも作り話なのかもしれません。 マザーテレサと、キューブラーロスから、 いまさらながら宗教の深刻な問題に気づかされる。 どんな宗教も「信じれば救われる」という前提を持ってるから、 信者はその時の心の状態で丸ごと受容される。 そのため、利己的なものがそっくりそのまま温存されてしまう。 その利己的なものを消滅させることこそが最大の課題なのに、 宗教自体がブレーキになって、それを温存させている。 どうしたらいのか。既成宗教から離れたらいいのではないだろうか。 この問題に関しては、釈尊が2500年前に答えを出している。 ーー 「耳ある者どもに甘露(不死の)の門は開かれた。 ーー 〔おのが〕信仰を捨てよ。」 by 『悪魔との対話』 梵天勧請 仏教にしろキリスト教にしろ、 信仰すること自体が、神との出会いを逆に遠ざけてしまう。 希望や願望は欲望から生じている。 既成宗教によって欲望を温存したら、神との出会いはいつまでも生じない。 釈尊は「信仰を捨てよ」と言っている。この意味をよく考えよう。 既成宗教を信じている信者たちは、自分たちこそ救われている、 救われるはずだと信じているようだが、その根拠は何? 時間には限りがある。過ぎてしまえば一瞬だ。 つまらないことから足を洗おう。 変化は見えるが時間は見えない 目盛りは見えるが空間は見えない 神経細胞群は見えるが意識は見えない 無数の現象は見えるが可能性は見えない - -; 臨死体験なんて当てになりません。 たとえば、 大邸宅の門を入って すぐに出てきたのと同じです。 門を入ったら、 花壇があった! それだけです。 仏様も神様も顔を出しません。 まだ死なないのは明白だからです。 死後の世界がある証拠にはなるでしょうけどね。 「生まれ変わり」や「前世の記憶」などの学術調査もあり その結論は 「生まれ変わり若しくは超能力」という事だったが 爺的には (多重人格にも関連しそうな)霊的憑依も考えられるかと - -; >>75 臨死体験は、十牛図の第三図・見牛体験に属する神秘体験です。 しかし、見牛体験にはピンからキリまであって、 神に出会うこともあり、死者の霊に出会うこともありえます。 神秘体験には、神との出会い、霊魂との出会い、天使との出会い、 守護霊・死者の霊との出会いなどいろいろあります。 わたしの場合、 @ 目を開いたまま体験したのは神との出会いでした。 A 坐禅で体験したのは霊魂との出会い、天使との出会いでした。 B 夢で体験したのは守護霊・死者の霊との出会いでした。 神秘体験には決まった順番があるのかもしれません。@→A→B いずれにしろ、どのくらいの深度で精神的に死ねるかによって、 神秘体験の内容が決まるのではないかと思います。 そんなことは死んでからやればいいじゃないか、 と思っている人はカン違いしてますね。 死後の世界には「試練」がないので、 神との出会いも、霊魂との出会いも永遠に不可能なのです。 輪廻だけが救いになるでしょう。 われわれは物質世界で欲望に拘束されているからこそ、 神と出会い、自分の霊魂と出会うことも可能になるのです。 欲望を根こそぎにすれば神と出会えます。 精神的にほんの一瞬、死ねたら神と出会えるのですが・・・ 塗炭の苦しみをすることになります。 >>76 さすがマスターG。盲点を指摘されたような思いがします。 少し考えさせてください。 どのくらいの深度で精神的に死ねるか ← 爺も「人其々では?」と思ってんょ (^こ^) 霊魂なんぞありゃせんわww ↑ 科学が尻尾も掴めん君の意識原理の呼び名ゃ (^こ^) 前世の記憶は事実なのか否か 憑霊タイプは、憑霊されることによって本人の意識が消えます。 そのため記録係と、できれば審神者役が必要になります。 このタイプで有名なのは、神功皇后、エドガーケーシー、出口王仁三郎、 シルバーバーチの霊媒になったモーリス・バーバネラなどがいます。 子供がウソをついている可能性は、そんな話をしても損するばかり 何の得もなく、ほとんど考える必要もなさそうです。 また、誰かが入れ知恵した可能性は慎重に調査すれば防止できます。 残るは超能力ですが、前世の記憶をそう言うならばそうなんでしょう。 結論として、前世の記憶はきわめて信ぴょう性が高いものだと考えます。 わたしは十歳のころに転機があり、自分を特別な存在だと 思い込んだことがある。そしてそれを示さなければと、たまたま家にあった 1センチ幅の革のヒモを左肩から右斜めにぶら下げて、学校に行った ことがある。それがまた掛けたくなるような丁度いい長さだった。 朝の校庭を校舎へ向かって歩いている時、あれ、変なことしてるなと気づき 慌てて外した。幸い誰からも何も言われずに済んだが危なかった。^^ 大人になってからバラモン教に「聖紐」なるものがあることを知り、 ああ、これだったかもしれないと思うようになった。 バカモンと言われそうだが、 わたしの前世はバラモンだったかもしれないのだ。^^ 普通の人には理解しがたい多重人格も、 憑霊現象の仕組みがわかれば不思議ではないですね。 心理学と心霊学は 精神世界の同じ対象を別の言語体系で表現してんょ (^こ^) 一部のキリスト教会では、「異言」という奇妙な現象を発生させます。 説教やら音楽やらで信者の気分を高揚させて行くと、 意味不明な言葉をごにょごにょ呟くそうです。 彼らはこの現象を、神から聖霊を受けた証拠だと誇りにします。 しかし憑霊現象の仕組みがわかってくると、異言は 死者の霊が取りつく前段階、前触れではないのかと思われ 心配になります。死者の霊には悪霊もいるからです。 大本の王仁三郎は、鎮魂帰神法で依代に憑霊させると、 その後、精神状態が悪くなる者も現われ、同法を封印したそうです。 常識的に考えても、人が見えない霊を操ることなど不可能です。 コントロールできないなら、最初からやめてほしいですね。 マザーテレサと、キューブラーロスの話を読んで、 男と女の違いは何かと気になった。 女はより感覚的だから、必然的に現実的・唯物論的な考え方になる。 それゆえ女の信仰は、宗教団体や、聖書や仏典そのものへと向けられ、 そこで見たり聞いたりしたものを中心に形成される。 また、生まれ育った家庭の影響を強く受け、生涯的に支配される。 これに対して男は、幼い頃から、生きるためには周囲との戦いが 必要なことを意識する。あるいは意識させられる。 周囲との戦いを意識すれば、「死」とどう向き合うかが問題になる。 従って男は、より哲学的な傾向を帯びる。 根が哲学的だから、現実そっちのけで考えごとに耽りがちである。 ーー もちろん、女と比較すればの話ですが。 死後の世界の考察という事で、 かなり信ぴょう性が高い本を参考にすると、 アラン・カルデックの『天国と地獄』や、 下記のHPの後半部分で紹介されてる『末期ガンでの昏睡状態から臨死体験後、急激・奇跡的にガンが消滅したアニータという女性の本』なんかが参考になるけど、 もし現世で真面目に生きていたら、アノ世は超快適な世界で、 逆の場合は、しばらくの間は想念的に苦しむ世界でもあるのかもしれないと思った。 《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》 https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome >>89 出版社の方ですか? このスレで『神との対話』の宣伝はやめてください。 神はコトバを話さないし、話す必要もないし、話す口も舌もない。^^ >>90 だとしたら、シルバーバーチも他の霊界通信も、 同様にウソということになります。 神との対話の神が、どういう意味での神なのかはさておき、 大切なのはメッセージの中身です。 そのメッセージによって救われる人がいるのなら、 それはその人にとっては有益なものと考えればいいんです。 バシャールやラムサなどのチャネリングものも同様です。 『神との対話』 --------------------------------------------- 神との対話 批判 神との対話 嘘 --------------------------------------------- 上記で検索するとその正体がわかります。 いわゆるステマですね。 死後世界に備えて 🐼 (念のため) 人生の目標を「魂(心)磨き」に定めておけば 幸福な人生を送れる確率が高くなります (^こ^) 【^J^】< 魂(心)磨きを心掛けましょう >【^c^】 _/ ̄ ̄\_ // \ヽ fY Y| | | /\)(/ヽ | | (V <・)| (・> V) | ー | ー | | \ ^^ / | 輝く魂は \ ヽ /\ / / この人生をも照らします /\____/\ | | VL∧/ | | 世界の四大聖人と言えば、釈尊・孔子・ソクラテス・イエスでは ないだろうか。マホメットは憑霊型の預言者なので聖人とは違う。 ところで、この中になぜ女の名前がないのか、ということを考えたい。 女には、人格高潔とか清廉潔白という言葉は似あわない。 その理由は、女が感覚的であり現実的であり、 精神的なことより物質的なことを優先するからに他ならない。 物質への依存性、執着、欲望が男より断然強いのだ。 聖人は欲望を捨てるが、女は逆に自分から欲望へどっぷり浸かる。 女が下等だからではない。その背景には出産と子育てがある。 その必要から、女の特性(感覚的・現実的)が生まれる。 女は社会で作られるのではなく、受胎した瞬間に女になるのである。 そんなことは絶対にありえないが、女が聖人になったら、 出産も子育てもできない。これは運命的なもので変えられない。 昔から、女の目標は良妻賢母に決まっている。 女は力が弱いから、ひとりでは生き憎い。 子供がいれば、なおさらだ。そのため周囲とのつながりを大切にし、 場所や組織に定着、場合によっては大家族主義的にもなる。 このように女は、人間同士の依存関係に頼らざるを得ないことから、 精神的に自立するのがきわめて難しい。 これに対して男は、新参者である限り、場所や組織の中で必ず損をする から、これを嫌って放浪者的になりがちだ。 結婚するにしても、より自由な核家族を望む。依存関係を嫌うことで 依存心から離れ、自立心を養うチャンスを得ることもできる。 周囲の人間関係に左右されるようでは聖人とは言えない。 これも、女の聖人が生まれない理由になるだろう。 聖人になるために最低、欲望を根こそぎにする必要があるが、 そのためには塗炭の苦しみをすることになる。 精神的に死なないと、欲望を根こそぎにすることはできない。 肉体的に死んだら本当に死ぬから、肉体はそのままの状態で精神的に 死ぬわけだが、より哲学的・精神的な男でも至難の業なのに、 より感覚的・物質的な女にはまったく不可能だと考えた方がいいだろう。 男も女もそれぞれの役割があり、それぞれの役割を果たすことで 幸せになれるように神によって最初から造られている。 女の役割は、結婚し出産して子育てをすることの中にある。 神探しは男の役割なのです。それも女を幸せにするために・・・ ^^ 男は愛する女のために戦う。家族のために戦う。 友のために戦う。組織のために戦う。国のために戦う。 そのために備えて、いつ死んでもいいように神探しを始める。 神と出会えれば、後のことは神に任せ、心置きなく戦い、 死んで行くことができる。 マザーテレサの神秘体験 @ ・・・ ニューズレターより >>67 1946年9月10日、ダージリンに向かう列車の旅の途中、マザーが 列車の中で祈りをしていると眼前に突如、十字架につけられた 現実さながらのイエスの姿が現われました。そしてイエスはマザーに WI THIRSTWと叫びました。十字架につけられたイエスの傍らには 母マリアや使徒ヨハネやマグダラのマリアの姿も見えました。 思いがけない光景に遭遇してマザーは混乱しました。やがてマザーを 乗せた列車はダージリンに到着しました。 マザーテレサの神秘体験 A ダージリンでマザーが、列車の中での神秘体験をどのように考え 受けとめてよいのか分からず一心に祈りをしていると、聖母マリアが 現われて「イエスの言われることにWはいWと言って従いなさい。 今はわからなくてもその言葉に従いなさい」と語りかけます。その後、 決心が固まらないマザーに対して、イエスは再び現れて呼びかけます。 イエスの声は、早く次なる行為に移るように催促します。 マザーが列車の中で見た光景は、ヨハネ福音書の19:25、28にあり、 福音書の中でもヨハネ福音書が特にお気に入りだったのだろう。 ところで、マザーの神秘体験はいったい何だったのか。 事故や病気が原因の「臨死体験」でないことは明らかである。 神秘体験の内容を覚えているから「憑霊現象」でもない。 イエスもマリアも言葉を話すから「神」ではない。 一番考えられるのは、夢、それも「白日夢」である。 夢に「死者の霊」が現われることもある。 1946年、マザーは結核療養のためにダージリンへ向かった。 2年前にストレプトマイシンが発見されたが、 まだ発見されたばかりであり、結核と聞き、マザーは死を宣告された かのように落ち込んだのではないだろうか。 マザーは列車の中で長時間、微熱と体のだるさに耐えながら、 目を閉じたまま、イエスに病気の治癒を必死に祈っていたはずである。 そして意識が微熱と体のだるさをすっかり忘れ去ったとき、 イエスの姿を幻視したのではないだろうか。 マザーはダージリンからアサンスルに移動して療養、6か月後にコルカタ に戻った。その間、祈りと瞑想の日々を送りながら、イエスを何度となく 幻視し会話している。イエスは修道院から出るように説得した。 マザーはその頃のことを次のように語る。「アサンスルでは、まるで主 (イエス)が私に自分を丸ごとくださったようでした。しかし甘美で慰めに 満ち、主と固く結ばれた6か月間はあっという間に過ぎてしまいました。」 ーー しかしマザーが修道院を出て、コルコタの貧民街で奉仕活動を開始 すると、なぜかイエスと会えなくなる。心の闇が始まった。 そういえば、わたしも祈りの最中に変なモノを幻視したことがある。 もともとは神を否定する唯物主義者だったが、人間関係のことでいろいろ 考えごとをしている時、神としか言えない存在に出会った。 神と言えば聖書だと思い、慌てて新約聖書を買って読み始めた。 山上の垂訓に感銘を受け、教会にも行き始めた。ところがある日、教会の 祈りに参加し、目を閉じ、心をこめて祈っているとき、 変なモノが赤っぽい背景の中にポコッと浮かび上がったのである。 集団で祈るのが恐くなり、それっきり教会に行くのをやめた。 教会に行ったのは数回きりだが、 わたしの場合、白日夢が教会と決別するきっかけになっている。 マザーテレサ 1910年8月26日生〜1997年9月5日 87歳没 マケドニア生まれ。後にインド国籍を取得。 父は裕福な地元の名士。父母は信仰の篤いカトリック教徒。 6歳上の姉、3歳上の兄。三人きょうだいの末っ子。 18歳、アイルランドのロレト修道女会に入る。 19歳〜37歳、コルコタの聖マリア学院で地理と歴史を教える。 21歳、ダージリンに赴く。 27歳、終生誓願を宣立。 36歳、療養のためダージリンに向かう途中で神秘体験。 38歳、修道院外居住許可、コルカタのスラムへ。 40歳、神の愛の宣教者会、ローマ教皇庁が許可。 1997年、インド政府は、亡くなったマザーを国葬にしている。 2016年、カトリックはマザーテレサを列聖した。 マザーは、イエスへの祈りによってイエスのイメージ化に成功、 そのイエスと会話することができた。 じつは、これとよく似た修法が仏教にもある。同じ言葉を繰り返し、 心の中に仏像や神像をイメージし、次第に鮮明にしていく。 そしてそれらが、生々しく息づくのをひたすら待つ。 求聞持法を修した空海は、真言を唱えながら虚空蔵菩薩をイメージし、 そしてその果てに明星体験をすることになる。 マザーとの共通点は、虚空蔵菩薩のイメージ化に成功した点にある。 しかし空海は、その先の明星体験をやっている。 あなたのようにいう人をたまに見かけます。 ですがそれは甚だしい無知だとわたしははっきり言えます。 性別は関係ない。 誰もがそれを経験しなくてはならないのです。 今は、なぜマザーが神秘体験できたのかがわかればいい。 その仕組みが理解できれば十分だ。 私はもともと唯物主義者だったから、「祈る」ことによって 心の奥底に潜航するという発想がまったく欠けていた。 それでマザーの神秘体験にはひどくとまどったが、祈りにも 神秘体験へと導く霊的な効果があることが次第にわかってきた。 イエスを信じれば、少しはイエスに習って生きられるのかもしれない。 しかし神にしたら、神は男なのかと文句を言いたくなるがな。 イエスは処女マリアから生まれただと? そんなアホなw ここら辺は絶対譲れないな^^ マザーは結核療養のためダージリンに向かったはずだが、 それが治癒したという話が見つからない。 もしかして結核ではなかったとか? その可能性は十分ある。たとえば、36歳という年齢だったことから、 女性を捨てるかどうかの瀬戸際にいた。終身宣立したとはいえ、 それでいいのかどうか真剣に悩んでいたはずである。そして体調を崩す。 そう考えれば、マザーの見た幻覚の意味も少しは見えてくる。 イエスはマザーに、修道院から出て次の行動を起こせと繰り返し、 マザーのことを「わたしの伴侶」とまで呼んでいる。 このあたりのやり取りには、神という全能者の面影などまったくなく、 説得力の無さに焦っているイエスをほうふつとさせる。^^ その後のマザーの成功は、霊界側の多大な援助のお陰かもしれない。 キューブラーロスは、マザーテレサとは対照的な人生を歩んでいる。 1926〜2004、78歳没。スイス生まれ。→ プロテスタント? 女ばかり三つ子の長女。父は医学部進学に反対だったから、 専門学校で学んで検査技師になり、働きながらチューリッヒ大学の医学部を 31歳で卒業。32歳の時、同大に留学中のアメリカ人と共に米国へ。 夫婦の間には、男と女の子供二人がいる。 キュブラーロスは、あまり家庭的ではなく、その後も勉学や研究に没頭し、 そのことでついには夫と離婚することになる。 『死の瞬間』の著者 〜 死の受容プロセスを発表する。 1 否認 → 2 怒り → 3 取引 → 4 抑うつ → 5 受容 ホスピス施設を作って活動、実質的なホスピス活動の創始者。 キュブラーロスは、「感覚遮断タンク」で対外離脱を体験している。 感覚を遮断することが神秘体験のベースにある。 全身麻酔の経験があれば、感覚の遮断によって手術時の痛みが消える ことを知っているだろう。感覚がなくなれば意識も消える。 簡単な話、静かで真っ暗な部屋で坐禅をし、雑念を退治すれば 想受滅を体験できる。ただし十中八九確実に死ぬ。 全身麻酔は医者が管理しているが、医者が失敗すれば死ぬ。 感覚遮断タンクも同様、誰かが見張っているが失敗する危険性が高い。 イエスに祈る場合は、イエスへの思いが続いている間は大丈夫。 求聞持法も真言を唱えている間は大丈夫。 通常の夢なら、夢を見て死ぬことは絶対にないだろう。 『人生は廻る輪のように』 角川文庫 2003年6月発売 キューブラーロス、71歳のときの自伝だが、ネットで検索したら 同書に対する簡単な紹介ブログが二つあった。 それを読むと、ロスはキリスト教洗脳から解放されていたようだ。 そうであれば、ロスが神に対して、「あなたはヒットラーだ」 「ヒトラー並だ」と呼びかけたことも納得できる。 >>66 この点がマザーとの違いで、マザーは心の闇を抱え込んだまま、 最後までカトリック信仰から離れられなかった。 ロスは、人生の先輩から教えて頂くという姿勢で話を聞いたという。 マザーは、キリスト教を強制せず、死者が信じる宗教で弔ったという。 自分の親族でも簡単ではないのに、 死にゆく者への敬意や奉仕の精神で行動したんだろうね。 イエスの黄金律 マタイ 7:12 だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、 人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである。 孔子の『論語』 巻第八 衛霊公第十五の二四 子貢問うて曰く、一言にして以って終身これを行うべき者ありや。 子の曰く。其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。 ----------------------------------------------------- 死にかけている者は、いまさら何かを学びたいとは思わない。 ヒンドゥー教徒なら、キリスト教式の弔いなど望まない。 ロスもマザーもその態度は、イエスの教えではなく、 孔子の教えに従ったものになっている。 自分が望むからと言って、相手が望むとは限らない。 相手が嫌がる可能性に配慮した、孔子の教えの方が優れている。 黄金律は「自分教」ではないのか。 自分が善いと思うことを相手にするのだから。 キリスト教徒は自分たちを正しいと信じ、 キリスト教を世界中に強制、世界を暴力的に植民地にしていた。 が、その動きはアメリカを中心に未だ続いている。 もしかするとその身勝手さは、 イエスの説いた「黄金律」も関係しているのかもしれない。 キリスト教は、イエスという男を神にした時点で破綻している。 それはパウロの妄想から始まるが、 神を男だ女だと考えること自体が思考の混乱ではないだろうか。 この妄想の意味を洞察したのが、ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝。 民衆を支配するには、民衆の頭を混乱させた方が容易い。 そこでキリスト教を国教にして民衆に武力で強制した。 そのうえ、教会以外に救いがないとウソをつき、民衆を教会に通わせ、 信じたかどうかを教会にチェックさせた。 こうすれば、教会を支配することで民衆を支配することができる。 混乱と矛盾に満ち満ちたキリスト教は 領土支配の道具としてローマで採用された @ 暴力で強制し、民衆の頭を混乱させる A その民衆を教会に通わせ、教会で管理させる B 教会に特典を与え、ローマの支配下に置く C 死後の救済があれば、民衆は戦争を恐れない 白人の多くは、キリスト教の洗脳から いまだに解放されていない TT マザーテレサ(リジューのテレサから名前をつけている)に限らず、 アビラのテレサもイエスとの合一体験をしているようだ。 もしかするとジャンヌダルクも体験したかも。^^ イエスが男だから、女の場合はそういった幻覚に落ちて行くのだろう。 まして修道女は、イエスに身を捧げるわけだから。 しかし男の場合、イエスとの合一体験は起こりえない。 聖職者がそういった神秘体験をしたという話は皆無ではなかろうか。 これは神を男にした当然の結果である。 イエスという男が本当に神であるなら、 女は救われるかもしれないが、男は救われないのではないだろうか。 神との合一が不可能なのだから。 そのため、女になれば救われるのではないかという幻想が生まれる。 その幻想がホモ的な男を作り出すのではないだろうか。 キリスト教は、神を男にするから男を女性化してしまう。 またひとつ利口になった。^^ 30歳くらいで急にイスラエル・ユダヤの田舎(ガリラヤ地方)に現れて、3年ほど布教して 33歳あたりで処刑されただけの、いわゆる大工の息子が、未だに世界一の有名人。 全世界総計約30億人ともいわれるキリスト教を信仰する人間の数。 聖書は現在もベストセラー継続中。人名も文化も戯曲も芸術も近代憲法まですべてが聖書を参考にされ、 とりわけイエス・キリストの影響が散見される。彼が生まれる前に書かれた旧約聖書には、 数え切れないほどのイエス・キリストに関する的確な預言・・・・たった3年だけ活動した人を ダンテ、ゲーテ、ダヴィンチ、ドストエフスキー、ニーチェ、パスカル、ニュートン、アインシュタイン、 そしてジョン・レノンが嫉妬するだろうか? アメリカ大統領の宣誓式で新約の入った聖書を使うだろうか? イギリス王室がキリスト教の洗礼式を行なうだろうか? またモーセを苦しめたエジプトのファラオ、古代イスラエル王のダビデ、息子ソロモン、あるいはネブカドネザル、 キリストを裁いたピラト総督、ヘロデ王、同時代のバラバ、サロメ、アグリッパ王、パウロ、 後の時代の アウグスティヌス、ルター、ヤン・フス、フランチェスコ、マザー・テレサ・・・・みな実際に存在した。 歴史上の事実である。 信仰者数12億人ともいわれるイスラム教においても、旧約の聖書は啓典とされ、 イーサー(イエス)は偉大な預言者であり、wikiによれば、「イーサーは殺されることも磔にされることもなく、 生き続けて天国に上がったとされる。イスラームの伝承では、イーサーは最後の審判が近づけば地上に戻り、 司法を復活させて偽のメシア(al-Masīḥ ad-Dajjāl 。偽メシア、反キリスト) を打ち負かすと考えられている。 いずれにせよ、実際に我々が使用しているイエス・キリストを分水嶺に存在する西暦ひとつをみても・・・・ もしイエス・キリストの存在が嘘で未だに世界最大の影響力を示し続けているというなら、 あるいはそのほうが天文学的な確立の奇跡と言わねばなるまい。 こぴぺ🐼 何がすごいって、 今も生きて働いておられるところ。 旧約はユダヤ民族の神話でしかない。 新約は、刑死したイエスを神にする、パウロの作り話でしかない。 それをローマ帝国が民衆(白人)に対して強制した。 強制は近代までえんえんと続き、キリスト教は白人社会の深層に根付き、 たとえば神道のように、違和感なく受け入れられるに至っている。 それを否定すれば、本能レベルの抵抗感、恐怖感が生じるのだろう。 白人だけでなく、日本人や韓国人などの信者が、 刑具である十字架をうっとり拝むようになれば洗脳の完成だ。^^ かれらは自分が奇妙なことをやってることに気づかない。 キリスト教徒は毎週、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲んでいる。 何も知らない人が聞いたらビックリしてしまうが、 人肉食を模した行為を聖餐と称してやっているわけである。 一般人から見ると妙にグロテスクだ www 聖餐はパウロの作り話だったw これに関する記述は、一コリ 11:23-25、マタ 26:26-29、 マコ 14:22-25、ルカ 22:14-20、に登場する。 これらはどれも、パウロの贖罪説を肯定している。 かりに贖罪説が成立するならば、 イエスが山上の垂訓で説いた教えはすべて無意味になる。 行為義認ではなく信仰義認なのだから。 何を言っているのかのぅ。 奥の奥を見抜けない人は難儀じゃのぅ。 いつまでやってるのかのぅ。 何年やってるのかのぅ。 悔い改めから入らない 教えも実践しない それではキリストのことなどわかるはずもなかろう。 キリストに出会う体験がないんだね。 どのような人に姿を現すと聖書に書いてあるか。 ヨハネ福音書にも人肉食のたとえ話があるではないか。 もう牧師も神父も言い逃れできないね。^^ はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、 あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を 終わりの日に復活させる。 ヨハ6:53-54 教会の聖餐式に参加すれば、永遠の命を得るだと??? そんな簡単なわけないだろ、ペテン師め、詐欺師めw 聖餐式はイエスを冒涜するものであり、 神を冒涜するものだwww イエスは、神への祈り方をマタイ6:6で教えている。 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの神に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられる あなたの神が報いてくださる。 教会で祈れとは書いてないね。 キリスト教の聖職者や信徒には、この個所が見えないのだろうか。 見れども見えず、ということか。 イザヤの召命 イザヤ 6:9-10 行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。 目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。 近代スピリチュアリズムは1850年頃、 物理的心霊現象としてアメリカやイギリスで開始されている。 臨死体験、前世の記憶などもこの流れの下にある。 1850年頃から霊界側の働きかけが強化された背景 @ 産業革命が一巡、欧米が物質優先社会へと走り出した。 A 貧富の差が拡大し、共産主義が誕生、急速に成長していた。 B 物質優先による世界の対立激化が予想された。 C 価値観を「物質優先から精神優先に」作り替える必要があった。 D しかし、従来の間違ったキリスト教ではまったく役に立たない。 E 手遅れになるので、もはや人間の側に任せておけない。 F こうして霊界側からの介入がスタートした。 >>134 人の子(キリスト)の肉と血〜のくだりはシンボリックな表現だと思うけどね 火と水による洗礼なんかもそうだけど、それを文字通りに受け取ると訳のわからないことになる シルバーバーチなどの霊界通信は、 人間は死後、霊界で生きることになると伝えている。 臨死体験では、生きている人間が死後の世界をかいま見るわけだ。 聞いた話ではなく自分で体験するのだから、 少なくてもその人は死後の世界を疑うことはできない。 これが真実なら、キリスト教の「最後の審判」など妄想でしかない。 人は死後、すぐに裁かれる。www キリスト教徒にとっては残念なお知らせですが、 イエスを信じていたかどうかなどまったく役に立たない。 ご愁傷さまでした。^^ >>138 わたしが過去、読解に苦労したのは、 パウロの『ローマ書』と、竜樹の『中論』でしたね。 要するに詭弁の連続だと思いました。 ご指摘の個所は、むしろパウロの本音かと思います。 パウロはテント職人ですが、聖書研究家であり、メシア研究家です。 かれはユダヤの、ローマ帝国からの独立しか願ってません。 その非常手段が、人間イエスを神に祭り上げることだったのかと。 精神と物質 〜 精神主義・精神優先とは何か 人間は精神と物質からできている。 子供時代は自分の欲望に従って物質中心に生きる。 欲望を導きにして成長していく。 子供のうちから聖人君子では成長できずに夭逝してしまう。 しかし、異性に目覚め始める思春期にもなれば、 自分の欲望ばかりでは思うようにならないことを自然に自覚する。 相手にも欲望があり、周囲にも欲望があるからだ。 欲望とは結局、自分の欲望でしかないのだ。 この段階では、精神は物質以外の認識対象を何も持っていない。 物質を否定すれば、必然的に自分自身の精神を否定することになる。 欲望を否定し、物質を否定すれば生きていけない。 妥協とか、バランスとか、要領よくとかいろいろ思いつくが、 このジレンマから脱け出すのは容易ではない。 世間ではこの状態に落ち込んだ人たちを、落ちこぼれとか、 引きこもりとか、精神分裂とか、統合失調とか言ってマイナス評価する。 しかし仮に物質以外の認識対象があれば? すべては180度反転する。それが「神との出会い」である。 精神は物質以外の認識対象を見つけたのだ。 欲望を否定したら生きられないじゃないか、などと文句を言ったら、 神とは永遠に出会えない。 神に会いたければ、欲望を死ぬほど嫌悪する以外にない。 神と出会えれば、精神は喜んで神を対象にする。 物質への欲望は二義的になり、 物質優先から精神優先へと転換することになる。 「メタ天文(ブン)学」 🐼 *改訂版 この宇宙は無限大と無限小の間に在る この宇宙の両極は無限大と無限小である 無限大空間の背後は メタ空間異世界であり 無時間世界である 無限小空間の背後は メタ時間異世界であり 全時間世界である 「メタ時・空反応」が この宇宙の全現象であり 「メタ時・空落差」が この宇宙の全エネルギーである ビッグバンはメタ時・空異世界の出会い・反応であり 素粒子はメタ時・空異世界反応の定在波(渦)である 重力は物質に流れ込むメタ空間異世界の作用であり 光は物質から放射するメタ時間異世界の作用である 無限大は無数の無限小で埋め尽くされており 両者は対等で表裏一体的「メタ構造」を成している 🐼 寄生虫のお話し 爺のお気に入り 🐼 アルテミアという普段は透明な体で単体行動するエビの仲間は条虫に寄生されると 赤色に変色し何メートルもの大きさの集団行動をする その訳は条虫がアルテミアの肉体/行動を支配し 条虫が唯一繁殖出来るフラミンゴ の体内に入る(食べられる)為にフラミンゴに見つかり易くしてしているのだ ハリガネムシの幼虫を食べたコオロギも同様に支配され ハリガネムシの 交尾/産卵が水中である必要性から沼などを見つけると飛び込み自殺する 寄生蜂に卵を産み付けられた芋虫は 他の虫が近付くと繭を守る為に激しく体を くねらしているが 実は寄生蜂の幼虫の数匹が芋虫の体内に残っていて 繭の中の寄生蜂の幼虫を守る為のオトリ行動をとらせている エメラルドゴキブリ蜂は体内に受精卵を持つとゴキブリを見つけ特殊な針で ゴキブリの脳を感知し脳内に在る2ヶ所の神経節に特殊物質を注入して 大人しくさせて犬の散歩の様にゴキブリの触覚を引きながら巣にお持ち帰りする ゴキブリの体内に卵を産み付けられた幼虫は生きたままの宿主を食べつくす トキソプラズマは様々な哺乳類に寄生するが生殖は猫の体内のみ可能で ネズミに入り込んだトキソプラズマはネズミを支配し猫の尿の匂いを 嗅ぎ付けると「食ってくれ」と言わんばかりに猫を追尾する ペラ論理を超えた神秘を感じるんょ(^こ^) 何であれ行き過ぎれば反動がじる。 そのため、右に行ったり左に行ったり、右往左往することになる。 全体の流れは足して2で割った平均値のように見えるが、 それを超えた摂理が奥底にあるのかもしれない。 それにAという生物にBという生物が寄生して、 Aの運命をほどほどに左右してしまうという現実を知れば、 生命現象の奥深さに目が眩むばかり。 ガンとかアレルギーとか自家中毒とかもよくわかっていない。 まだまだ、わからないことだらけですね。 147の訂正 × 反動がじる → ○ 反動が生じる ペラ神など居らんやろょ 🐼 w 神と言えば やっぱメタやろょ w (=^・^=) 国語辞書によれば<精神>とは・・・「対象を区別し、判断し、 記憶する、心の活動を総合したもの。」だそうである。 これに対して<意識>とは・・・「@自分の現在していること、 置かれている立場や状況などが自分ではっきりわかっている状態。 A気にしたり、こだわったり、思い込んだりすること。罪の意識。 目的意識。自意識過剰。」だそうである。 従って、精神とは心の活動のことであり、 意識とは精神のひとつの現象であると解釈できる。 両者の関係は精神>意識である。 精神と意識の関係がわかれば話を先に進められるーー すると、人間の精神は次のように展開する。 @ 0歳〜潜在的には、精神は(神ー精神ー物質)の関係にある。 A 1歳〜そのままの状態で、基本的な生存能力を身につける。 B 4歳〜精神は周囲を発見、物質に対して意識的になる。 C 思春期〜異性を意識すると、精神はこれまでの生き方に疑問を抱く。 ー欲望に従うから物質優先になってしまう。 ー欲望に従っている限り、何をしても自分中心主義でしかなく、 ーそこには他者への愛などまったくないことを悟った。 D 絶望〜それがわかったときは、もう生きていても意味がないから ー死んでしまおうと心底思った。 ーならば、その命を使ってみようかともふと思った。そしたら突然、 ー昼間なのに、目を開いているのに目が見えなくなった。 E 神との出会いは衝撃的だった! 最初に横倒しになった「中」という漢字が頭に浮かび、 次の瞬間、命の雫が一滴、頭の中、額の真ん中辺りに落ちてきた。 えー何だ何だとびっくりしたが、それが神であることは即座にわかった。 それは愛であり、赦しであり、永遠であり、真理であり、叡智であり、 すべてであった。神としか言いようがない存在だった。 わたしは一瞬で、唯物主義者から有神主義者に変わってしまった。 神を自分の目で見たのだから、神は精神の対象であり、 精神は物質による拘束から基本的に解放された。 何が起きたのかと言えば、潜在的だった(神ー精神ー物質)の関係が この時から顕在的になったようである。 神は人間が心底悔い改めた後に、人間の心の中に流れ込む。 人間の心を知っている神が、勝負がついてから祝福するのだから、 神が祝福相手を間違えることなどありえない。 悔い改めない人間や、悔い改めの足りない人間が祝福されることはない。 いくら信じても信じるだけでは永遠に救われない。 欲望を根こそぎにできた者だけが神に出会うことができる。 少しづつ欲望を減らそうと思ってもできるものではない。 そうではなく、欲望を心底嫌うことで根こそぎにするのである。 毛嫌いすることが根こそぎにするコツである。 己に克つに、時々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。 兼て気象を以って克ち居れよと也。 by 西郷南洲遺訓22 根底が無原因というのは 「全知気取り三流ペラ妄想」と見做すのが理に適ってんょ(^こ^) 御意 >🐼 w 無原因は悪魔の証明で不可能 ゆえに悪魔の断定w (^こ^) 御意 >(=^・^=) w 神ー精神ー物質のうち、神と物質は明らかになったが、 <精神>がいまだに不明である。精神とはいったい何なのか。 神との出会い後、神の書だと言われる聖書から読み始めた。 それと同時に、流布本の天台小止観を参考に、独学で坐禅を始めた。 たまたま住居の中に、静かで真っ暗な空間を作ることができ、 さらに目を閉じ、数息観で最初から一時間ほど坐ることができた。 それから半年後に、幸い十牛図・人牛ぐ忘を成就する。 ★ いま思うと相当危険であり、絶対マネしないでください。 ★ ほどほどの明るさの中、半眼で坐るのが正式の作法らしいです。 十牛図・第三図 〜 見牛体験 (見性体験) 精神が、欲望に従うことで物質に拘束されていることを知る。 そのことに気づけば、欲望をコントロールしようとする。 ゆえにそれから、第四図・得牛、第五図・牧牛、第六図・騎牛帰家、 第七図・亡牛存人というプロセスをたどることになる。 しかしわたしの場合、見牛体験をした瞬間に欲望を毛嫌いし、 たとえ一瞬でも欲望を根こそぎにできたから、 いきなり第八図・人牛ぐ忘を体験することが可能になったようである。 これは坐禅で言う想受滅(滅尽定)の後で生じる現象だが、 その人の「霊魂」が身体から脱け出した状態なので、その「霊魂」が 再び身体に戻れるかどうかがきわめて重大な問題になる。 戻れなければ死んでしまうからだ。 もうすでに<精神>の正体は明らかになった。 坐禅で体験する第八図・人牛ぐ忘、「霊魂」に他ならない。 「霊魂」とは透明な丸い球であり、繊細なシャボン玉のようでもあり、 絶対に壊れそうにない水晶玉のようでもある。 そこに必要に応じて五感が生じ、対象を認識する意識が生じ、 善悪を判断することも可能である。これが究極の<精神>なのである。 問題は、その状態からどうやって地上に戻るかにある。 わたしの場合は、見牛体験、先に神との出会いをやったことが 想受滅に入れた前提になっており、「霊魂」状態から地上に戻る 前提にもなっている。要するに見牛体験が先行することで、 人牛ぐ忘体験が可能になり、地上へも戻れたのである。 要するに、見牛体験 → 人牛ぐ忘体験という順序が肝心であり、 これ以外の方法はすべて邪道ということになる。 四句分別 〜 ベン図による整理 ビッグバンによって神と物質が誕生した。 そこで神をA、物質をBとして長方形の中にベン図を描く。 すると世界は次のように整理できる。 A 〜 神(命そのもの・永遠・真理・叡智・時間も空間もない) B 〜 物質(時間と空間・因果の法則が支配する) AかつB 〜 生き物(人間には霊魂がある・動物?植物?) AでもなくBでもない 〜 霊界(天使と死者の霊が住む想念の世界) 子供に既成宗教を強制してはならない。 どの宗教も完全ではなく、間違ったところが必ずあるからだ。 それに子供を聖人君子にしたら育たずに夭逝してしまう。 子供の仕事は遊びだから、子供にあまり干渉しないのがよい。 悪いことをしたら軽く叱る程度にしておこう。 わたしは小3の頃、神話や童話を自然に読み出した。 学校図書館ばかりでなく、近くにあった児童図書館も利用した。 そこに書かれている、この世ならぬ不思議にわくわくしていた。 これで読書慣れしたせいか、学校の成績も急上昇してしまったのだ。^^ 今になっても、神話や童話が役に立ったとつくづく思う。 西郷南洲遺訓 〜 遺教・一家親睦のいましめ 翁、遠島中、常に村童を集め、読書を教へ・・・のたまふ、 「汝ら一家むつまじく暮らす方法はいかにせばよろしと思ふか」と。 ------------------------ 「早速手を下すには、欲を離るゝ處第一なり。一つの美味あれば、 一家挙げて共にし、衣服を作るにも、必ず善きものは年長者に譲り、 自分勝手を構えず、互いに誠を尽くすべし。ただ欲の一字より、 親戚の親しみも離るるものなれば、根拠するところを断つが専要なり。 さすれば慈愛自然に離れぬなり。」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる