■■■臨死体験■■■
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>>511 基本、自己責任なので、どんな方法であっても自由です。 ただし、釈尊が5〜6年近く修行に明け暮れても悟れず、 スジャータに助けられてじきに成道したことも参考にすべきです。 釈尊の流れは、気づき→甘露体験→止の坐禅→想受滅→霊魂体験。 スジャータから乳粥を受けた時の、 釈尊の気持ちをいろいろ想像してみてください。 甘露体験をするまでやってください。 これが公案とは違った、自己の気づき方です。 お釈迦さんに対して 信仰的態度で接することと 仏教の教えは違いそうですね スッパニパータ 236-238 にも、三宝(仏法僧)に帰依する話が 出てくる。釈尊が自分からそうしろと言うはずもないので、かなり 早い段階で、釈尊と仏教教団の乖離が始まっている。 三宝に帰依する話以外にも、疑問に思うものがいくつもある。 たとえば、八正道、四念処、十二因縁、五蘊仮和合など。 早くから空や無我を目標に教義や修行が体系化されているので、 釈尊の真実を発掘するのは容易ではない。 仏教の歴史を簡単に要約すれば、悟りで釣って、 悟らせないようにすることだった。TT --------------------------------------------- 真実の発掘 〜 釈尊の説く「中道」とはいったい何か。 ーー 四区分別で検証すると次のようになる。 T 快楽主義 〜 王子時代 U 苦行主義 〜 出家時代 V 快楽かつ苦行 〜 これは同時には成立しない? W 快楽でもなく苦行でもない 〜 これが釈尊の中道である。 ーー 釈尊の定義が、中論の中道、非有非無の背景にある。 もちろん、(快楽+苦行)÷2 = 中道ではない 快楽と苦行の二項で否定的に定義された、中道の中身は曖昧だ。 偏ったことに気づいたら、その都度修正するのだろう。 ーー 体が快楽を求め、霊が苦行を求めるのだから、その人の ーー 内なるエネルギーのせめぎ合いと見て、中道=霊主体従かも。 V 快楽かつ苦行 ドストエフスキー『地下室の手記』に、歯痛にも快楽を感じる話がある。 マゾっぽい話だが、快楽と苦行は同時に存在するみたいだね。 快楽だって浦島太郎のように、何年も続いたら飽きてしまって嫌になる。 ということは、快楽と苦行を貫く「自我」が存在していることになる。 Tの快楽主義にもVの苦行主義にも、同じ「自我」が存在している。 ではWの、快楽でもなく苦行でもないケースはどうなのか。 これも判断主体「自我」が存在しないと、適切な行動が不可能になる。 以上から、釈尊の中道は「自我」という主体を前提にしている。 これに対して『中論』の中道は、「自我」のいない非有非無であり、 釈尊の中道とはまるで異なっていることがわかる。 竜樹は最初からアートマンを無視している。 ちなみに竜樹の四区分別 ・・・ 有と無を相互依存させる T有 U無 V有かつ無(〜具体的イメージが何も湧かない ^^) W 非有非無 〜 有でもなく無でもない → 空=縁起=中道 中論24-18 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。 中論25-10 師(ブッダ)は生存と非生存を捨て去ることを説いた。 それ故に『ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず』というのが正しい。 中村博士の反論 『龍樹』 p291 ここで竜樹の議論には若干の飛躍がある。われわれは生存に執着して、 妄執によりあくせくしてはならない。しかしまた非生存(断滅)にとらわ れて、人生を捨てて虚無主義になってはならない、と原始仏教が説いて いたことは事実である。しかし、そこからいきなり、「ニルヴァーナは 有でもなく、無でもない」といえるかどうか。 ーー わたしも同感ですね (^−^) 竜樹がなぜダメなのかと言えば、 釈尊の説いた「縁起の理法」と「苦集滅道」を台無しにし、 ニルヴァーナを破壊、悟りを不可能にしたからである。 竜樹にとって、事物は一切皆空で実体が無いから、相互依存、 因縁によって仮に存在しているだけになる。そういう存在であれば、 苦楽もなく、生死もない。→ 空になりきれば悟りなのである。 さらに、因果関係を説く苦集滅道も実体がないから空になり、 竜樹の説く空に吸収してしまう。手品のように苦集滅道を消滅させる。 そんなわけで、竜樹こそは仏法の大破壊者ということになる。 では、釈尊の説いた「縁起の道理」とは何か。 梵天勧請の「これを条件としてかれがあるということ」だけでは、 いまひとつピンと来ない。しかし、釈尊の縁起の道理は失われている。 そこで、わたしが使ってきた縁起を紹介しよう。 縁起するものは、真偽、善悪、美醜などの判断基準に限定する。 それ以外の、精神と物質のすべての思考対象に、 因果関係(原因→結果、結果→原因)を使う。 この使い分けができれば、ニルヴァーナに至ることも可能です。 検査済みなので保証書付。たぶん釈尊と同じ方法だろうと推測します。 苦集滅道 〜 苦の意味 なんで楽ではないのか。楽して悟れたら最高ではないか。 ところが、苦しまないと悟れない仕組みになっている。 ヨブ記のヨブのように、苦しみに苦しまないと神に出会えない。 この世への執着が完全に消えた時に自我が消滅する。 だが、砕かれた心を神は侮らない。 心が砕かれた瞬間、神の甘露が上の方から落ちて来る。 これが神との出会い、ニルヴァーナである。 だから苦であり、苦集滅道なのである。 この世に愛された人々には決して味わえない至福の境地である。 貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々 心の清い人々は幸いである。あなたがたは神を見るだろう。(^−^) なぜ楽は許されないのか それでなくても許されないのだから、空だとか無我だとか言って、 悪いことを積極的にやる人はなおさら許されないだろう。 その理由は心の仕組みにある。 心の仕組みは下記のようになっている。 神(命)→心【霊魂→カルマ識→背後意識→日常意識】→現実への執着 人間が神に近づくには、矢印を逆向きにしなければならない。 楽を感じる人間が、どうして現実に背を向けられるだろうか。 苦を感じる人間だけが、苦を生む現実に背を向けることができる。 心がこういった仕組みであるのは神秘としか言いようがない。 ーー それは人間を創造した神(命)の意志なのである。 AI上に自意識や感情を構築する愚か過ぎる(不可能な)夢は いざ実現すれば「不吉な娯楽」以外には何の使い物にもならない 笑w 🙋 釈尊の憂慮 ・・・ by 梵天勧請 苦労してわたしが「さとり」得たことを 今説く必要があろうか。 「貪りと憎しみ」にとりつかれた人々が、 この真理をさとることは容易ではない。 これは【世の流れに逆らい】、微妙であり、 深遠で見がたく、微細であるから、 「欲を貪り」闇黒に覆われた人は 「見ることができない」のだ。 人間の中には常住と無常とが同時に存在している。 人間存在は、無常でもないし常住でもない。 非有非無の中道が常に成立している。中論27−17、18 常住 → (神-命も常住)〜霊魂-アートマン 無常 → カルマ識・背後意識・日常意識〜(身体・現実も無常) これらの真理を探求する方法が二つある。 苦集滅道 → 原因・結果から現象の因果関係を明らかにする。 縁起 → 善悪・真偽などの縁起で、自分の思い込みを発見する。 ーー これが縁起の正しい使い方であり、それは無意識の世界に ーー 潜って行く潜水艦のサーチライトである。 わたしは坐禅の「観」をまったくやっていない。 その代り、フロイト心理学と唯物弁証法に熱中した。 詩や小説や画集などを、作家の経歴から鑑賞するようにもした。 こうすると作家の個性がわかって得るものが大きかった。 こんなことをしていたら、神との出会いを偶然やってしまった。 坐禅は神との出会いをした後、自然にやりたくなったので始めた。 それから天台小止観の流布本を見つけ、数息法の「止」だけをやった。 やり始めて半年ぐらいで想受滅から霊魂体験をする。 いま思えば、意味もわからないうちに体験だけが先行した。 宗教に無知、師もいないから、体験の意味を知るのにむしろ苦労した。 こんな経過から、師は不要、生活全体で観、観→止の順序を薦めたい。 坐禅では観を省略、数息法の止だけを行う。 神との出会いをしてから坐禅を開始する理由は、 @ 魔境→想受滅を体験するためであり、 A 霊魂体験から地上に無事生還するためでもある。 観をやるなら生活全体でやり、坐禅は止のみに限定する。 この方が安全であり、より短期間で悟れる可能性大。 どんな宗教であれ、止→観の修行体系であったら誤りである。 止→観を小刻みに繰り返すタイプも誤り。 密教やチベット仏教は坐禅の観を重視するようだが、邪道である。 観の誤用であり、誤って想受滅に入る危険もある。 坐禅の目的は、霊魂=アートマン体験にある。 心の仕組み(>>523 )の反対のことをやる。 現実への執着から離れ、意識を心の奥底へと向けるのが坐禅である。 それゆえ坐禅は、「止」オンリーでやるべきものである。 もともと坐禅は不自然な格好である。 不用心この上もないことをやるのだから、できるだけ短時間がよい。 坐禅をして考えるなら、目を開けて考えた方が安全である。 心に浮かんだ想念を、「観」で変容していく宗派もあるようだが、 妄想とか白日夢と何が違うのだろうか。坐禅の乱用だと言っていい。 「観」は坐禅ではなく、生活全体で行うべきものである。 九次第定(くしだいじょう) by 大パリニッバーナ経第六章 釈尊は初禅から滅想受定に至り、そこから順番に初禅へ戻り、 再度、初禅から第四禅に至ってニルヴァーナに入られた。 (色界) 初禅→第二禅→第三禅→第四禅 (無色界) 空無辺処定→識無辺処定→無所有処定→非想非非想処 (無為界) 滅想受定 九次第定は釈尊が説いたわけではない。後の教義が持ち込まれている。 中村博士の訳注160を参照のこと。 それに禅定の区分が抽象的で曖昧、こんな区分では非想非非想処には 決して到達できない。悟れなかった教団幹部による、保身のための、 悟りの棚上げ作戦なのかもしれない。そうならば姑息で罪深い改ざんだ。 また、坐禅経験があればすぐにわかることだが、禅定の行ったり来たりは 不可能である。禅定を緩めると、坐禅そのものが一挙に終了する。 サンユッタニカーヤ U-Y-1-1 「梵天勧請」ニルヴァーナに続き、 同書Y-2-5 「全き安らぎ」パリニッバーナがあり、そこにも九次第定 の話がある。読み比べると、安らぎを二種類に区別している。 A 神との出会い→甘露体験→安らぎ→ニルヴァーナ B 自分との出会い→霊魂体験→全き安らぎ→パリニッバーナ つまり、甘露体験だけでは不十分、坐禅によって霊魂=アートマン体験 を追加することで「完全な悟り」になるわけだ。この違いを区別しないと 混乱する。AとBの両方を体験しないと悟ったことにならないのだ。 この区別ができれば、中村訳『感興のことば』ウダーナヴァルガ、 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) を理解できるだろう。 1〜23節までは、甘露体験・ニルヴァーナ 24〜30節は、霊魂体験・パリニッバーナの話である。 まず甘露体験、次に霊魂体験という順序が文章構成に反映している。 後半の、霊魂体験の描写は興味深い。釈尊の話ではなさそうだが、 霊魂体験をした人の話であることは間違いないだろう。 そこが空や無我の境地でないことを読み取ってほしいものである。 有余涅槃 〜 死ぬ前は肉体の束縛があって完全な悟りは得られない。 無余涅槃 〜 完全な悟りは死んだ後に得られる。 これなんかも、釈尊の悟りを棚上げにしよう、という逃げを感じる。 想受滅から霊魂体験をすれば、生前も死後も関係なく、 甘露体験と霊魂体験が揃って完全な悟り、パリニッバーナなのに。 昔は今と違って、口伝えで手探りだったという事情もあり、 なかなか悟れなかったのだろう。気の毒に思う。 今の人は、やる気次第で悟れるという時代を生きている。 その幸運を活用した方がいいだろう。(^−^) プログラムの無いAIは動きまへん 🙎 正解w 🙋 まことは、無料掲示板をオモチャと勘違いしているのじゃ 釈尊の視点から、ヒンドゥー教を少し考えてみよう。 ヴェーダーンタ学派はシャンカラの「不二一元論」を継承している。 かれらはブラフマン=アートマンという主張をしている。 ブラフマンは現象界(物質現象と生命現象)のことであり、 アートマンは人間存在の実体のことである。 かれらは、この二つが同一であり、本来等しいものだと考えている。 ーー 釈尊ならどう突っ込むかを想像してみよう。 あなたがたは、ブラフマンを体験したのか、アートマンを体験したのか。 体験した上でそれらが同一だと主張しているのか。 それともそう考えただけなのか。 → 恐れ入りました。 m(__)m >>538 > ブラフマンは現象界(物質現象と生命現象)のことであり、 > アートマンは人間存在の実体のことである。 まずこれから間違い ついでに、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の信者にも 突っ込みを入れよう。 あなた方は、あなた方が信じている神を見たことがあるのか。 もし見たというなら、どんな神を見たのか。 → 聖書(経典)に書いてあります。 それを読んだだけで、実際に見ることなく信じているのか。 → 見れるものなら見てみたいです。 気の毒な人たち。その気のある者はついて来なさい。 神を見る方法を教えてあげよう。(^−^) >>539 調べてから書いてますが、どこがどう間違っていますか。 言いがかりをするなら、その理由を書くのが礼儀だと思いますよ。 >>542 何で調べたのか教えてくれ そしたら教えてあげる ジャイナ教は、神を認めず、霊魂(多我説)の宗教である。 ブラフマンを認めず、アートマンだけを認めている。 かれらは、霊魂に業物質が付着し、それが霊魂に浸透することで輪廻が 生じる、と考える。物質への執着が業物質を付着させるので、まず五感を 制御する。さらに「苦行」によって、霊魂に浸透した業物質を払い落とす こと(止滅)で輪廻から解脱しようとする。 かれらはその教義から、苦行・瞑想・不殺生(アヒンサー)・無所有 などの戒律を守っている。また不殺生から菜食主義を選ぶ。 六師外道のうち今に残るのはジャイナ教だけである。 不殺生 → 貴金属商に進出 → 無所有から教団への寄進が莫大 → その結果としてジャイナ教の寺院は豪壮華麗である。 ジャイナ経典に記載された霊魂体験の解説 苦痛も快楽もなく、苦しみも生もなく、生まれることも死ぬこともない 場所、それが解脱である。感覚器官も、驚きも、眠りも、渇きも、飢え もない場所、それが解脱である。カルマもなく、カジカルマもなく、 心配事もなく、いかなる種類の思考もない場所、 それがニルヴァーナである。 ジャイナ教導師ガウタマによる霊魂体験の解説 あらゆる観点から見て安全だが到達しがたい場所があり、そこでは年を 取ることも死ぬこともなく、苦しみもなければ病気をすることもない。 ニルヴァーナ、あるいは苦痛からの解放、あるいは完全性と呼ばれている 場所こそがあらゆる観点から見て安全で、幸福で、静寂な場所であり、 偉大な賢者たちがそこに到達できる。そこはあらゆる観点から見て永遠の 場所であるが到達しがたい。そこへ到達した賢者は悲しみから解放され、 存在の流れを終わらせた。 ジャイナ教は、「甘露体験なしに」想受滅から霊魂体験をする。 これだと死ぬ可能性があるが、それをどうやって防いだのだろう? A 指導者を置き、時間を決めて集団で瞑想(坐禅)したか。 B それとも、解脱したものとして放置、その死をむしろ祝福したか。 C 一人でやるなら、求聞持法のごとく何かを唱えながらやるか。 ーー Aのケースだと、ストップされるタイミングで体験内容が変わる。 ーー ニルヴァーナの種類が四つあるらしいので、これかもしれない。 いきなり霊魂体験を目指す欠点は、死ぬ可能性が生じるだけでなく、 甘露体験が不可能になることである。死ねば当然不可能だが、 死なずに霊魂体験できれば終わり、それ以上のものを探さないだろう。 もともと甘露体験を知らないのだから。空海がそうだった。(TT) >>546 空海ってそうなの? 甘露体験ってどんなの? 言語 概念 定義 解釈の流動不定性を鑑みて ペラ事象下のペラ神は居ないでおK?w 🙋 ・ジャイナ教は厭世的だ。苦行しないと解脱できない。 苦行しても必ずしも解脱できるわけではない。それに苦も楽もない 場所では魅力がない。それでもジャイナ教が滅びなかったのは、 その教義とカーストが結びつき、裕福な信者を確保できたからだろう。 インドだから発生し、インドだから存続している宗教だとも言える。 ・キリスト教も厭世的だ。人間全員を罪人扱いし、イエスを信じないと 救われないと脅し、黙示録ではこの世の破滅が預言されている。 ・イスラム教も、創世記や福音書を共有するから、キ教と同じ厭世的な 宗教である。しかし、いったん信徒になるとやめられないし、政教一致の 前近代的な社会だから、キ教の欧米側が目の敵にしている。 ・ユダヤ教も厭世的。人間を罪人と見なし、613の戒律を課している。 これほど多くの戒律から逃れられる人は誰もいない。今は別のユダヤ人、 白人系のアシュケナージがイスラエルを建国、実効支配している。 >>548 わたしたちが探して見つかるものは、命と霊魂しかない。 誰もが生と死は違うものだとわかっている。わかっているのに、 その違いをはっきり指摘できないもどかしさがある。 自分の視線の中にも、自分の思いの中にも、 「わたし」という統一された意識を感じるのに、 これが「わたし」だと指摘できないもどかしさがある。 自分の中で素通りしない以上、何らかのものが必ず存在している。 そして宗教とは無関係に、偶然見つけたものが命と霊魂だった。 どちらも物質ではない霊的存在ですね。 現世肯定の宗教思想は存在するのか? ・菩薩道 〜 悟って阿羅漢になってしまうと輪廻から解脱してしまう。 これでは衆生済度ができなくなるから、あえて阿羅漢にならずに利他行を 目指す。これを菩薩道と言うが、その考え方は釈尊の前世物語ジャータカ を起源としている。しかし悟れない人たちの言い訳のように聞こえる。 ・大乗仏教の空の思想 〜 空や無我が悟りだとカン違い。 現世肯定というより、衆生を迷わす有害な思想なのかもしれない。 ・唯物主義 〜 空の思想と似た、利己的な現世肯定である。 中国や北朝鮮などを見れば、ある種の宗教思想だと言ってよい。 ・神道 〜 教義が曖昧で把握しがたいが、死を穢れとして扱う以上、 厭世的な宗教ではない。神社は自然との共存をイメージさせる。 神霊体験と霊魂体験をしたら阿羅漢(アルハット)である。 阿羅漢は応供であり、尊敬し供養するに価すると言われている。 その理由は、欲望を根こそぎにしたので、弱肉強食の欲望社会で 上手に生きられないからに他ならない。 では、本当に尊敬され供養されるかと言えばそんなことはない。 むしろ逆、人の良さを利用されるだけである。^^ そんな阿羅漢がどうやって社会の修羅場を潜り抜けるのか。 信じられないだろうが、自分の力ではなく、龍神という天使の力である。 そんなわけで、解脱には龍神体験が欠かせないのである。 しかし、こんなことが悟る前にわかろうはずがない。 たまたま龍神体験をしただけで、結果的に必要不可欠だったのである。 何も知らないで坐禅を続けたからこその貴重な体験であった。 たぶん釈尊も龍神体験をしたはず。それが梵天勧請なのかもしれない。 どっちが正しい? 〜 一元論 それとも 二元論 世界を素直に眺めれば、生物か無生物しか存在しない。 その本質は命と物質である。これが世界の究極であるから、 命と物質の二元論が正しいことになる。 二元論を超える多元論はない。 逆に言えば、一元論なら → 誤りであることが即座に決定する。 神の一元論 〜 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・不二一元論など 物質の一元論 〜 唯物論・資本主義・共産主義など 霊魂は進化するのか否か? 「神智学」は、人類の進化を根源人種として展開する。根源人種には 第1から第7まであるが、現時点の頂点は第5のアーリア人だという。 「人智学」もほぼ同じだが、第5のゲルマン民族を頂点にする。 どちらも転生で個性を失わず、霊魂は直線的に進化し向上して行く。 それ以外の人種や民族は、日本人を含め第4根源人種の生き残りであり、 アーリア人、ゲルマン人の前に滅び去るのだと主張している。 このように神智学・人智学は、霊魂レベルで人種差別を正当化する。 人種差別と、ダーウィンの進化論に影響された霊魂の進化とを一体化し、 動かし難い真実であるかのような差別思想を構築している。 しかし、それが正しいかどうかは、霊魂の進化が可能かどうかで決まる。 かりに霊魂が進化するならば、 不変の個性を備えたままで転生することはできないだろう。 霊魂は肉体と同じ無常な存在になるからである。 かりに霊魂が進化しないならば、霊魂+カルマ識として、 カルマ識に生前の個性を備えたまま輪廻することも可能である。 生前の能力の違いは、脳の物理的化学的な質と量に支配されている。 そうなると、すべての動物の霊魂はまったく同じになるから、 人間は人間だけでなく、あらゆる動物に輪廻する可能性が出てくる。 人間が人間に輪廻できるか否かは、カルマ識の内容次第になる。 どんな人生を送るかで、来世は動物になる可能性がある。 神の視点から見れば、この方が平等であり公平ではないだろうか。 何だか恐ろしい話になって来たかも。(^−^) 霊魂は素粒子ぐらいの大きさである。 なぜかといえば、霊魂には記憶装置が必要ないからである。 だからこそ、ごく小さな虫の脳ミソにも入ることができる。 人間の霊魂だからと言って大きいわけではない。 大きいのは脳ミソだけである。 人間は人間以外の生き物に輪廻する可能性がある。(TT) そこから解脱する以外に助かる道はない。 どうやって? → それが釈尊の教えに他ならない。 想受滅から霊魂体験に入るが、 霊魂は痛いほど清浄な霧の中を猛スピードで走り抜ける。 霧の一粒一粒が数えられるぐらい、超がつく視覚と触覚があり、 意識もはっきりしているのに、何も考えず何も反省しない。 なぜだろうか? 霊魂に記憶装置が存在しないからである。 そのため、ただひたすら感受しながら走り続ける。 何時間、何日走ろうが、ほんのわずかな時間にしか感じない。 これが想受滅の恐さであり、生きて帰れなくなる理由である。 神霊体験(観) → 霊魂体験(止)の順序でやってください。 観は坐禅ではなく、生活の全体で行うこと。 L&Mセオリーは、次の問いを公案として採用したい。 「自分の何が悪いのか」 「人間は何のために生きているのか」 公案は自分にとって切実な問いでなくてはならない。 それを考え続けることが、人格向上につながるものであるかどうか。 ーー 生活全体で取り組もう。解けるまで坐禅禁止。 宗教板を見渡せば、参考になりそうな人がゴロゴロしている。 ーー その人の何が悪いのかをじっくり考えよう。 ーー 人の振り見て我が振り直せ 559.善悪の問題ではない。バカ丸出し、である。大爆笑である。 人生を楽しんでいる人は、公案に何の興味も示さないだろう。 逆に公案が解ければ解脱し、苦しみから卒業できる。 L&Mセオリーの公案は、苦しんでいる人々のためだけにある。 何があっても絶対にあきらめない。ひたすら苦しみに耐える。 そうすれば、神に出会えることだろう。(^−^) 神についての考察 霊魂は物質ではない。物質ではないから記憶が成立しない。 神も物質ではない。物質ではないから記憶が成立しない。 神には過去の記憶も未来の計画もない。 あるのは今だけ。えー (◎_◎;) それだから、神に「永遠」を感じるのかもしれない。 ビッグバンが150億年前なら、神は150億歳になるはずである。 しかし神は、一瞬の中に、無始無終の「永遠」として出現する。 神の懐で生まれたから、「永遠」だと感じるのだろうか。 人間には、永劫の先も見えないし、150億年前の過去も見えない。 しかし、そこまでわかったとしても何の意味もない・・・ わたしたち人間は、「神とともに歩めたらそれでよし」としよう。 神にも意識があるのか 霊魂には想受滅の最初から意識が先住している。 ただし、意識の対象がない間、意識が作用しないだけである。 意識の対象が出現すれば、想受滅から霊魂体験へと即座に移行する。 意識が作用する条件は、自と他が区別できる状態になる。 では神にも意識があるのか。霊魂に意識がある以上、然りである。 なぜなら、霊魂に先住する意識の由来が説明できないから。 神に意識があるとするなら、神にとっての自と他はいったい何だろうか。 宇宙の始まりがビッグバンなら、自は命であり、他は物質になる。 ここにも、命と物質の二元論を強化する証拠があった。^^ 神の居場所 神(命)にとっての「他」が物質だからといって、神がこの物質世界に 存在するわけではない。神と物質は反物質と物質の関係であり、 同時に存在することはできない。同時に存在すれば両方とも消滅する。 そのため神は、物質とは異なる別次元に移動した。 人間を含めた生き物は、この地上にある物質世界を生きている。 日常意識は、この物質世界を認識するための道具である。 ここに、この世界でいくら神を探しても見つからない理由がある。 ・逆に言えば、神は日常意識に降臨できない。 ・過去世が異熟したカルマ識(アラヤ識)にも降臨できない。 ・神が造った完璧な霊魂にも降臨できない。 ☆彡 神は背後意識(マナ識)のみに降臨する ☆彡 人類を見守る神を想像するなら それは「人類の守護霊(守護神)」と呼ぶのが妥当な気がする 👴 神は叡智である 物質は、意識も思考力もなく鈍重なだけである。 だからと言って、物質に何らかの罪があるわけではない。 物質が存在しなければ、生物も誕生しないし、 誕生しても生きて行く場所がない。 神は叡智そのものであり、物質の反対を想像したらよい。 神が造った霊魂には、この物質界で生きて行くための、必要な叡智が すべてつまっている。あらゆる生き物はこれによって生まれ、 あらゆる変化に対応しながら、これによって進化する。 ーー 原爆や水爆はどうなんだろう。人類の狂気かもしれない。 物質世界を支配する法則は 〜 原因結果の因果関係 神の世界を支配する法則は 〜 真偽・善悪・美醜などの縁起 因果関係は時間があって成立する → 物質世界を支配する法則 縁起は時間のない世界で成立する → 神の世界を支配する法則 人間がこの世で苦労する意味の一つは、因果関係を学ぶことにある。 死後の霊界は想念の世界であり、因果関係が基本的に成立しない。 それでも因果関係を貫くことで霊界の秩序が形成される。 >>565 神は、人類だけでなく、あらゆる生き物を見守っています。 この宇宙の、あらゆる生き物の命です。 臨死はあったかもしれないが、とどのつまりなぞ解きに夢中で、気付いたら救急病院に運び込まれていました。転落事故でね。戦死の経験も。 堕ちたときに霊力が発動して、目くるめく面白い体験でした。 宗教体験と重なってね。言霊と可も。 偶然死ぬべきで、好事家みたいに臨死を語り臨死を作り出してはいけません。 誰にでもあるごく普通の事なのでね。 >>569-570 いろいろ体験してきたようですね。ゆっくりでいいので、 もっと詳しく、このスレへの書き込みを期待します。 神の愛とは、いったいどんなものなのか 神(命)は、霊であって物質ではないから、何も記憶していない。 それゆえ神は、人間の過去の過ちをまったく問題にしない。 これが神の赦しである。今現在を問うだけで、過去の罪は赦される。 神は、汚れきった人間の心を、雪のように真っ白にされる。 神は、神御自身の体(命)をもって、心の傷を癒される。 神の全体は一様で均質だから、ほんのわずかな甘露であっても、 それは神であって、無残な心の傷を一瞬で癒し切る。 神は御自身の体(命)をもって癒される。 打ち砕かれた悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 by 詩編51 唯物論で意識(メタ現象)は解けない 分かってんやろ? 👴 意識誕生機序は? 🙋 生命誕生機序は? 🙋 時間誕生機序は? 🙋 空間誕生機序は? 🙋 法則誕生機序は? 🙋 摂理誕生機序は? 🙋 機能誕生機序は? 🙋 可能性の機序は? 🙋 ペラ現実の基本構成要素の正体は何一つ明かせない w 🙌 つまり 現実は背後(不可知)の永遠無限メタ複合構造総体に因っている w 👴 輪廻転生はあるのか否か ビッグバンによって神(命)と宇宙(物質)が誕生した。 それゆえ、この宇宙が滅びない限り、神(命)も滅びることはない。 そういう意味で、神(命)は永遠である。 ところで、人間の実体は霊魂(命)であるが、神に由来する霊魂も 滅びることはできない。しかし、物質への執着に覆われた霊魂は、 神の住む神界に帰ることはできない。 なぜなら、神は物質的なものと直に共存できないからである。 ではどこへ行く? 滅びることのできない霊魂は、 死者の住む霊界に行くか、輪廻転生する以外にないのである。 ここに、輪廻転生する可能性が見えてくる。 執着(欲望)に囚われた霊魂は、当たり前の話だが死後、 その囚われによって物質界へと近づいて行く。そしてその結果として 物質界へと輪廻する。畜生への輪廻もありうるのだ。(TT) 輪廻が嫌なら、それを避ける道がある。 まず執着(欲望)を根こそぎにして神霊体験をする。 次に坐禅によって、非想非非想処→魔境→想受滅→霊魂体験をし、 解脱できたら、高級霊界に住み続けることも可能である。 *輪廻の観点から見れば、坐禅のポイントは二つある。 @ 魔境に現われたカルマ識(執着の正体)を見極め、見捨てる。 A 想受滅→霊魂体験 〜 自分の、真の正体を知る。 霊魂の居場所は → 霊魂の墓場なのかもしれない 霊魂は白い霧の中を猛スピードで走る。そこは爽快この上もないが、 痛いほど清浄な世界でもある。霊魂には意識があり、霧の一粒一粒を 数えられるような、超がつく視覚と触覚である。 わたしは偶然、神霊体験をした後に霊魂体験をしたので、 そこに神霊体験の至福感がないことに気づいて生還することができた。 しかし、神霊体験がなければ、自分の力では地上に帰れない。 そうすると永遠に走り続けるか、走ることをやめるかである。 何らかの理由で走ることをやめた霊魂が霧の一粒一粒ではないのか。 そこに神の気配はなかったから、そこは霊魂の墓場なのかも〜。😱 先がいくらも見えないような深い霧だったから、 涅槃だと思って入り込んだ霊魂が無数にあるということなのか。 魔境とは、この世とあの世とが重なっている場所である。 魔境は坐禅でしか体験しないが、半眼でやる人、集団でやる人、 短時間の坐禅、非想非非想処に届かない初心者なども心配無用である。 絶対安全なのはもちろん、坐禅をやらないことである。 坐禅→非想非非想処→魔境→想受滅→霊魂体験の目的は、 カルマ識(偽の自分)を消滅させ、霊魂(真の自分)を知ることにある。 霊魂体験ができたら、長居は無用、さっさと地上に戻るべきである。 そのためには神霊体験が欠かせない。 人間は死後、生前の思いと行いで次の行き先が決まる @ 輪廻から解脱する → 霊界の高級霊になる → 神にはなれない A 輪廻から解脱するが → 想受滅のまま、霊魂の墓場で永遠に生きる B 輪廻する → 霊界に行くが再び地上へ誕生する → 畜生もあり C 輪廻するが → まず地縛霊 → 次にB or 畜生もあり 神への道と輪廻への道 人生を苦だと感じる人へは、神への道が用意されている。 狭い道だが、あきらめずに探せば、神も霊魂も見つけることができる。 神が命であると知れば、小さな命でも大切にするだろう。 命を大切にすれば、宗教の戒めなど自然に守れるようになる。 人生を楽しみ、欲望を優先させて生きる人へは、 輪廻への道が用意されている。輪廻の道は広々としているが、 神を否定する人に対する神の落とし穴である。 輪廻の恐さを知れば、悪いことを自然に控えるようになるだろう。 人生は苦 → 神(命)や霊魂への道 人生は楽、欲望優先 → 輪廻への道、畜生への道 神(命)は地上を目指している 神は、荒涼とした大地を命の楽園にしたいのである。 それが神の意志だから、人間は神の意志を自分のものとし、 神の戦士にならなければならない。 神が地上を目指している証拠は、 人間の感覚や器官が外の世界を対象にしていることにある。 それらは、外の世界に向かって生きろ、と指示している。 それ以外の意識や精神は、問題が生じた時の非常用である。 ーー 苦とは非常ベルのようなものだ。^^ 581.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。 爺の身体の9割以上は過去に近所のスーパーで売られていたものだが 誰もその様に爺を認識しないのは 爺の意識・生命主体が存在するからw 👴 >>583 そう言われてみれば、なるほどーですね〜 ユニークな発想に笑いました。^^ 釈尊の教えは厭世的だと言われている。それは確かにあるが、 インドの四住期に関係するのではないだろうか。 カーストのシュードラを除く上位三つは、子孫を作れば出家して遊行、 解脱を目指すことになる。孤独な老人の乞食生活である。 そんな状況だから、想受滅で死ぬのは望む所ではなかったか。 病院も老人ホームもないから、まだ動けるうちに死にたい。 日本風に言えば、老人が雪山に昇って凍死するようなものである。 彼らは、解脱し、安らかに死ぬことだけを目的にしている。 魔境や想受滅の危険性など何も教える必要がなかったのだろう。 そんなことから、仏教はどうしても厭世的にならざるを得ない。 お年寄り向きの宗教だと言えるかもしれない。 人間が「輪廻」する可能性は限りなく大きい。 ーー 霊魂が不滅ならば、霊魂の行き先がなければならない。 行き先としては、スピ系の霊界通信が語る「霊界」がまず考えられる。 ーー これは昔から、黄泉の国として語られてきたものである。 ーー 霊界の存在は、死霊を実際に見た人々にとっては事実である。 想受滅から霊魂体験をすれば、「霊魂の墓場」にも気がつくだろう。 ーー ここに落ちると、想受滅状態で死んだように永遠に生きる。 霊界の死霊のうち、物質への執着が強い霊は物質界へと「輪廻」する。 ーー 輪廻については、古代エジプトでも古代インドでも信仰されている。 ーー 最近では、前世を記憶する子供たちも見つかっている。 もはや「輪廻」を認めない宗教は完全に破綻している。 悪いことを考え、悪いことをやっている悪人たちの宗教なのである。 爺の身体のほとんど全てが 過去に近所のスーパーで売られていたものだが 自他共にその様に認識しないのは 爺の意識生命主体が存在するからである 😄 >>589 傑作ですねー。吹きそうになるので要注意。 口の中に、飲み物・食べ物が入っていると悲惨なり。TT 無や無我の思想は根本的に誤っている この宇宙はビッグバンによって誕生した。 「無」が物質と反物質に爆発分離することで、物質が宇宙になり、 反物質は次元を移動させて「命」となり、「神」になった。 これが宇宙の始まりだから、「無」はどこにも存在しない。 人間は常に「有」の世界を生きているのである。 世界は常に変化しているから、「無」ではないかと思うのも当然だが、 常住なるものが、物質を超えたところを貫いている。 命や霊魂や意識は常住であり、宇宙が消滅しない限り「有」である。 人間は「霊魂」であり、神でもなく物質でもない。 それは「中道」であり、「無」ではなく「有」なる存在である。 ☆彡 霊魂の墓場は → 霊魂誕生の場所かもしれない ☆彡 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか by ゴーギャン イエスとニコデモ 〜 ヨハ3:3-8 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」 「あなたがたは新たに生まれねばならない。」 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、 それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。 霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 ゴーギャンの問い >>592 → 想受滅から霊魂体験をすれば解決する。 ーー この問い自体は、グノーシスに起源ありという説もあり。 イエスとニコデモ >>593 → これは聖霊体験の話になるのだろう。 ーー 水と霊。水は悔い改め、霊は聖霊を意味する。 霊魂が見た霧の世界は、ライプニッツのモナド説に近いかもしれない。 ーー ウィキを流し読みした程度なので確かなことは言えないが。 宗教の功罪 完全なる宗教はない。どんな宗教も真理と虚偽の混ぜ物である。 仏教もキリスト教もユダヤ教もイスラム教もそうである。 そんな宗教がいったん信者を増やして社会的勢力になると、 その宗教は組織化され、教団を導くリーダーばかりでなく、 政治家や学者やマスコミなども巻き込んで活動するようになる。 こうなると教義や組織が硬直化、簡単には修正できなくなる。 なぜなら、何かを変えようとすると、それに反対する利害関係者に 潰される恐れがあるからである。その宗教で地位や金銭を得、 それで食べている以上、その宗教に反対できない道理ではないか。 その結果、いくら批判されても簡単には誤りを訂正できなくなる。 これが功罪のうちの罪を産み続けている。 >>555 根源人種には 第1から第7まであるが、 何の根拠があってこんなデマ言うんだ?見て来た様なうそを書くな この考え方降伏あたりが言っているデマの亜種だろ 信仰をやめよ 〜 自灯明法灯明 自分で体験したことはウソをつかない。 謎の果物Xを食べたことがある人は、Xを知った者になる。 ところが信仰は違う。 信仰とはだれかの言葉を信仰するわけだから、 それが真実かウソかは明確ではない。 言葉はウソも語るからだ。 だまされてからでは遅い。即刻、信仰をやめよ。 信仰をやめることが悟りへの第一歩だ。 二大宗教の根本的欠陥を指摘しよう キリスト教 〜 人間にはもともと原罪などない。 それなのに、原罪ありと妄想するところに根本的欠陥がある。 天使のような赤子を罪人にするなんて頭がおかしい。 本当にそう思うなら、子供を作らないのがスジではないか。 そうすればキリスト教は自然に滅びてしまう。(^^♪ 空や無我を説く仏教 〜 人間の究極は空や無我ではない。 いったいどこのだれが、それを確認したのか。 確認できたら、空や無我ではないことになる。 念のために言うが、竜樹の『中論』は詭弁だから証拠にならない。 空に基づく大乗も上座部もチベットも全滅、空になる。(^^♪ 終わりの日がやって来る キリスト教徒は、終わりの日を待ち望んでいる。 その日、神とイエスの裁きが行われ、人類が滅び、地球が滅び、 自分たちの天国が出現することを夢見て疑わない。 かれらには人類破滅願望がある。 かたや仏教徒は、空や無我を信じ、 人類や地球が滅びようがどうしようが、どうでもいい。 いまや人類の将来は風前の灯ではないか。 キリスト教徒の罪は重い。天国どころか地獄に落ちるだろう。 その罪を問われたくなければ、何をなすべきだろうか。 すぐにキリスト教から遠ざかったほうがよい。 聖書自体に原罪を否定している個所があったwww ^^ 子供を祝福する 〜 マタイ19:14 イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来る のを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 各人の責任 〜 エゼキエル書18:20 子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。 正しい人の正しさはその人だけのものであり、 悪人の悪もその人だけのものである。 時間機序 空間機序 可能機序 法則機序 摂理機序 意識機序 生命機序 創発機序 ↗ これら 不可知体が 現象基本原理だから 神秘領域を否定する論理は存在し得ない 🙋 人間は、愛される側から→愛する側へと成長しなければならない。 子供時代は愛される側でよい。そうでなければ育たない。 しかし、思春期にもなれば、愛する側に成長する必要性が出てくる。 子供時代とは正反対の役割が要求されるのである。 この転換は、人間だけでなく、あらゆる動物の宿命でもある。 この転換がスムーズならば、まずは順調に社会適応したと言える。 そうでなければ、自分と社会との間にズレが生じ、そのズレに悩む。 これは人間存在における本質的な問題である。 愛する側にならなければ、社会の一員になれないのだから。 人間の苦悩は、究極的には愛の問題しかない。 生か死か、それが問題なのだ。(^−^) 極一部にウケてる様なのでもう一度 🙋 w 爺の身体を構成する素粒子群の殆どが 過去に近所のスーパーで売られていたものだが 自他共にそんな気がしないのは 爺の「意識生命主体」が存在するから 🙏 >>604 読むたびに、それはないだろ〜 おいおい^^と思うのですが、 そこがおもしろいですねえ。 人間にとって究極の問題が愛であるなら、 愛とは何かを徹底的に考え抜くべきではないだろうか。 愛を考えるのは愛の欠落を意識するからであり、 愛を探すこととイコールでもある。 その問題意識を「自分の何が悪いのか」と問うことは、 手袋をひっくり返したような問いかけになる。 愛を自分自身の問題として一層引き付けることになる。 わたしが成功したのは、このひっくり返しにあるかもしれない。 ☆彡 自分の何が悪いのか ☆彡 キリスト教で言えば「原罪」を考えることになる。 しかしそれは、「原罪」ではなく、「神の衣」創3:21なのである。 神が用意した子供用の衣、すなわち体の殻・心の殻である。 生き物の子供はすべて、神に守られてこの世に誕生する。 そして体が成長し、体の殻が破れた時が、心の殻も破られる時なのだ。 愛される側から→愛する側に巣立たなければならない。 この巣立ちがうまく行かない人は苦しむことになる。 どうしたらいいかと探しても、間違った教えがまん延しているから、 どこを探しても答えは見つからない。自分で考えるしかない。 その糸口が、「自分の何が悪いのか」という問いにある。 わたしが見つけたものは自分自身の「欲望」だった。 死ぬほどの苦労をしたからこそ、それを一瞬で根こそぎにできた。 そしたら、目を開いているのに目が見えなくなり、頭の中、 眉間の辺りに「命の雫」がほんの一滴落ちて来た。 それが神であることはすぐにわかった。 これまで宗教とはまったく無関係に生きてきたが、 慌てて聖書を読み始めた。まず福音書を読み、次に旧約の最初から 読んだ。全部読むのに三か月ぐらいかかったと思う。 その中で印象に残ったのは、山上の垂訓とエデンの園だった。 特にエデンの園が自分の体験にピッタリ重なっていた。 体験だけでは、自分が何を体験したのか十分にわからないものだ。 宗教書はウソも多いが、体験を理解する手段として役に立つ。 自分に体験があれば、宗教書の真偽を区別しながら読むことができる。 それでそれが何なの? いつまでそんなことに固執してるの? 善悪を知る実を食べると・・・・ その人の欲望によって善か悪かの色分けがなされるから、 欲望に支配され、自分中心に生きることになる。 しかし、これが許されるのは子供時代だけだ。 子供時代を卒業するには、欲望を支配しなければならない。 欲望を根こそぎにできれば、神に出会えるし、欲望の支配もできる。 ーー 欲望を少しづつ減らして行くのはかえって難しいと思う。 ーー 苦しくても、苦悩が熟して自然に落ちるのを待つべきかも。 欲望を根こそぎにすべきことは釈尊も説いている。 おそらく釈尊もまた、神との出会い、神霊体験をしたのであろう。 神霊体験→想受滅・霊魂体験の順序から言っても妥当である。 神の罰は、エデンの園以来、現在に至るまで何も変わってない。 女は男を求め、男は女を支配する。 女は苦しんで子を産む、 男は生涯食べ物を得ようと苦しむ。 土に返るときまで。 こんなこと、生きている以上、当たり前の話だと思う。 イエスの十字架から現在に至るまで何も変わってないから、 贖罪説はパウロの作り話だったということになる。 ーー 信者は、救われるどころか、キ教犯罪の遺産相続者になる。 ーー そして地獄行きの巻き添えを食らう。逃げろー (^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる