■■■臨死体験■■■
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意識の成り立ちも正体も本質も科学領域の外にある 意識創発機序を語る科学論理は存在し得ない - -; 釈尊が自分自身の甘露体験を語らなかった理由 @ 個人的な苦や不幸を世間に公表する義務はない。 A 概念化すれば苦集滅道である。→ これは説いてもよい。 B 方法論的に整理すれば、苦集滅道と縁起の理法の二つである。 C この二つは、梵天勧請の前半に要約的に記述されている。 D ゆえに、梵天勧請の話だけで「甘露の門は開かれた」ことになる。 十牛図がそうだったように、釈尊の悟りは二段階である。 @ 神との出会い 〜 気づき → 甘露体験 A 自分との出会い 〜 坐禅 → 想受滅からの霊魂体験 甘露体験をすれば → 中道の意味も明らかになる。 苦の原因は、精神それ自体の在り方に起因している。 神を知り、精神の在り方を正しくするならば苦は解決するだろう。 快楽主義も苦行主義も苦を解決することにはならない。 わたしが釈尊なら、下記のようなことを説くだろう。 @ 中道(○霊主体従、×足して2で割る) A 四諦(ものごとの因果関係、結果→原因、原因→結果) B 縁起の理法(此れがあるから彼れがある、此縁性) C 坐禅(○数息観による止禅サマタ、×九次第定は説かない) D 坐禅経過に魔境を追加する。 (非想非非想処→「魔境」→想受滅→霊魂体験→地上に生還) 八正道は説かない。 四諦は、苦集滅道の、道諦を八正道だと説明する。 しかし、武道や茶道は、武の道や茶の道である。 これと同じように、苦集滅の道が苦集滅道であると解したい。 道が八正道だというのは、後世の下手クソな追加。 ーー 解脱前には何が正しいのか不明なのだから。 従って、四諦を廃し、苦集滅道を常に使用することにする。 ☕ コーヒーブレイク ☕ @ 阿弥陀仏とは誰ですか 〜 死霊だが、下級霊を導く教師である。 A イエス・キリストとは誰ですか 〜 やはり死霊だが、高級霊の一柱 B キリスト教によれば、人間は善悪の知識の実を食べた罪人である。 では、命の実を食べた人間はいますか 〜 釈迦が食べたかも ^^ 今日のヤホニュー >🙋 KIDさんの元夫人 MALIA悲痛 「頭も心も整理がつきません」 三ペラには困難な 「脳と心」の識別認識! 🙌 w 夢の話〜高級霊に会う 三途の川の橋の上に、高級霊と低級霊を見たことがある。 高級霊を見た瞬間、非常に清らかな、聖者のような風格を感じた。 静かな光に包まれ、それが強くなったり弱くなったりしている。 そのせいか顔がよくわからない。誰なんだろうと思って、 じっーと見つめていたら目が覚めてしまった。 場所が場所だから、二人が死霊であることは間違いない。 問題は高級霊だが、霊界で阿弥陀仏やイエスキリストに出会えたら、 たぶんこんな感じになんだろう。スーパーサイヤ人風。 知の巨人・世親の主張は二つある。 @ 我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法のみある。 A すべての事物はこころが作りだした表象にすぎない。〜唯識論 これらの主張に対しては、すでに反証が終わっている。 @ 霊魂体験は我の存在証明に他ならない。 A 世親の死後も、すべての事物はそのまま残存した。☀も🌙も★も 『中論』の根本的誤り 残るは大乗仏教の牙城、竜樹の『中論』だが、 これを否定できれば大乗仏教は屋台骨を失って空中分解する。 @ 竜樹は有と無を縁起させる。しかし、無は何もないことだから、 意味のある縁起は成立しない。有がそこにあるだけである。 → 従って、中道を意味する「非有非無」が成立しない。 A 見るはたらきは自らの自己を見ない。自己を見ないものが、 どうして他のものを見るのであろうか。中論V−2 → この主張は、坐禅によって自己を見ることができるので誤り。 B 竜樹は、我(アートマン)の存在を否定する。 → これも、坐禅によって我(アートマン)を体験できるので誤り。 『中論』は、説一切有部を批判した竜樹の論争の書である。 説一切有部は、その名の通り、一切の有(実体の存在)を説いていた。 一切には、名称・句集・文章なども入る。 竜樹は、名・句・文などを有にする説一切有部の矛盾を突き、 運動や時間を否定、さらには主体を否定し、 一切は無、世界は無我であり、空であると主張することになる。 一切有も誤りだが、その裏返し一切無も誤り、どっちも誤りだが、 どっちがより罪が重いかと言えば、竜樹の方ではないか。 大乗仏教は竜樹にだまされ、2千年間、不毛な時間をさ迷った。^^ アートマンが存在することは → それを体験すれば、その人にとっては存在することになる。 アートマンが存在しないことを証明するのは → 不可能。 詭弁家・竜樹が挑戦したのは、 あろうことかアートマンの不存在証明だったwww 無我や空を目標に修行していては悟れないかもしれない、 そんな思いがチラッとでも掠めたろうか。 たぶん大乗仏教の修道論では一生解脱できないだろう。 では、南伝仏教の修道論ならどうか。これも疑問だ。 わたしは宗教に無関心、30歳頃まで宗教書を読んだことがない。 それなのに考えごとの最中、いきなり神霊体験をした。 それから半年後に霊魂体験、さらに半年後に龍神体験をしている。 体験が先行し、体験の意味はなかなかわからなかったが、 最近ようやく解脱していたことがわかってきた。 各種宗教の修道論を読むと、そんなことをやってたら一生 悟れないと思うようなことを平気でやっている。これからもミスリードが 続き、解脱者がひとりも出ないのではないかと心配になる。 わたしの方法でよければ公開するので質問があればどうぞ〜 >>489 一連の出来事・解脱とは、一体何のためにあるかわかりますか? >>490 ご質問ありがとうございます。箇条書きにしてお答えしますね。 最初のテーマ @自分の何が悪いのか A何で生きているのか A 神霊体験(命の雫) 〜 テーマ@の解決 ・・・ 苦の滅 B 霊魂体験 〜 自分を悟り、神(命)とは異なる存在だと知った。 C 龍神体験 〜 運が良くなり、生活するのが楽になった。 D 守護霊体験 〜 テーマAの解決 ・・・ 死への願望が消滅 A〜Cの間は、死後の世界の方が魅力的で、死ぬことを恐れていません。 しかしDの体験で、死ぬことよりも生きることを選ぶことにしました。 その理由は、神(命)の意志は地上を命の楽園にすることにあると 感じたからです。何で生きるのかと言えば、それが神の意志だからです。 そういう意味で、人間は神(命)の戦士なのです。 人間の役割は、地上の命のために働くことではないかと考えます。 この世界は楽園にはなり得ない構造になっている つまり 究極的に食うか食われるかの構造だから 寧ろ 楽園では無い事こそがこの世の存在価値なのでは?とさえ思えて来る 👴 >>491 解脱したが衆生を救うためにまた戻っていくというストーリーを組み立て社会に出ていく。というのは共通してある意識ですが、 あなたにとってその一連の体験前後で変化したことは身体的には何もないということてすか? >>492 植物は基本、他者に依存しない。 動物は胃袋に合わせて狩猟し採集する。 しかし、人間の欲は際限がない。 ーー 何億円持っていても満足しない。 ーー 人間の欲がこの世を地獄にしている。(TT) >>493 神霊体験をする前は、しばしば偏頭痛に悩まされてました。 頭をワッカのようなもので締められ、息をするとズキンズキンと痛む。 ちょうど孫悟空のワッカのようでした。→ 観音様の懲らしめ? 神霊体験をしたら、それが嘘のようにピタリと治りました。 以前より全般的に健康になったとは思いますが、 気がついた変化はこれぐらいです。 >>495 ありがとうございます。 解脱直後はどんな気分でしたか? >>496 神秘体験をしたとき、宗教知識がまったくなく、いったい何を体験した のかわかりませんでした。貴重な体験をしたことは直感したのですが、 どう貴重なのかがわからなかったのです。そこで慌てて聖書や仏教書を 読み出したのですが、こういったことに相当時間がかかりました。 なかでもパウロの『ローマ書』と竜樹の『中論』には手こずりました。 そんなこともあって、素直に解脱したと思えるようになったのは、 ごく最近です。いろいろな宗教の修道論に多少目を通してからです。 そこで何を感じたかと言えば、やるべきことを成し遂げたかも、 というしみじみした幸せですね。(^−^) >>152 1週間ほど額に違和感はでましたか? その頃の思考回路はどうでしたか? 仏典には三十二相を説いたものもある。でも100%作り話ですね。 悟りは、肉体的な次元ではなく、精神的な次元における現象だからです。 従って、健常者も、そうでない人も、悟る可能性を持ってます。 要するに、欲望を根こそぎにすれば、悟れるのです。 スッタニパータを読めば繰り返しそう書かれています。 簡単な話ですね。でも、それを実行するのが至難の業なのです。 今、目の前に「悟りという山」があったとして、 その距離やら苦労やらを喩えるなら、神霊体験が頂上になる。 霊魂体験と龍神体験は折り返しで一気呵成に達成できる。 ただし、守護霊体験は夢なので、チャンスに恵まれないと難しい。 スタート・登り→→→→→→→→→→気づき→頂上・神霊体験↓下り 解脱←←夢・守護霊体験←←←←←←龍神体験←霊魂体験・坐禅 以上のように悟りには四段階のステップがある。 これに若い人でもやる気の出るような現代的な名前をつけたい。 仮称だが、修行の目的を表示した名前はどうだろうか。^^ T ファースト 〜 神探しのステップ U セカンド 〜 自分探しのステップ 〜 霊魂禅 V サード 〜 龍神探しのステップ 〜 龍神禅 W フォース 〜 守護霊探しのステップ ペラ世界の無限小は「事象の無」に到達するというのが ペラ感覚の常識かと思われるが メタ感性では 減少する空間領域に比例して「時間密度」が高くなるという想定の極限として メタ異世界が開口するという可能性を不定しない - -; (「メタ天ブン学」 🙋) ・ステップ → ステージに変更します。 ・守護霊探しは、偶然に左右されるので「隠し奥義」とします。 ・『命と物質の二元論』を、話全体の仮題にします。 仮題 『命と物質の二元論』 T ファースト・ステージ 〜 神探し U セカンド・ステージ 〜 自分探し 〜 霊魂禅 V サード・ステージ 〜 龍神(天使)探し 〜 龍神禅 ー 隠し奥義 〜 守護霊探し 【吉澤ひとみ被告コメント全文】 今日のヤホニュー 👰 私、吉澤ひとみは、この21日間独りでこれまでの人生を振り返り、自分自身と向き合う中で、 自分の弱さと未熟さを自覚しました。今回の私の行動は、決して許されることではありません。 なにより、怪我をされた方々に深くお詫びを申し上げます。 そして、一日も早く回復され、元の生活に戻れる事を心から祈っております。 今後は自分が犯した罪を償い、一社会人として母として恥ずかしくない行動ができるよう、 一歩一歩進んで参ります。また、今まで18年間お世話になった芸能界からは引退致します。 今回の件で、ご迷惑をおかけした全ての関係者の皆様にも心よりお詫び申し上げます。 今日まで応援し支えて下さったファンの皆様、ご支援いただいた皆様には、 裏切るような結果となってしまったこと、本当に、本当に申し訳ございませんでした。 死後世界に備えて 🐼 人生の目標を「魂(心)磨き」に定めておけば 幸福な人生を送れる確率が高くなります (^こ^) (アル中になる事もない と思う 🙋) _/ ̄ ̄\_ // \ヽ fY Y| | | /\)(/ヽ | | (V <・)| (・> V) | ー | ー | | \ ^^ / | 輝く魂は \ ヽ /\ / / この人生をも照らします /\____/\ | | VL∧/ | | (「即物人種」には「魂磨き」という概念さえ確立出来ない) ・「命と物質の二元論」の変更 → Life & Matter Theory ー→ 略して L&M セオリー ・隠し奥義 ー→ 隠れ奥義に変更します ・その他、若干の修正あり L&M セオリー T ファーストステージ 〜 神探し U セカンドステージ 〜 自分探し 〜 霊魂禅 V サードステージ 〜 龍神探し 〜 龍神禅 ーー 隠れ奥義 〜 守護霊 あきずに空や無我を主張し続けている人がいる。 そんなもの体験できるわけがない。それは本人もわかっている。 ではなぜ主張するのか。「信仰」や「思い込み」があるからだろう。 かれらは、経典にそう書いてある、竜樹や世親がそう言ってる、 仏教はそういったものだ、などと言い訳をし続ける。 もしかすると、仏教を商売にする学者や僧侶なのかもしれない。 まあ何にせよ、空や無我を主張した時点で、 口先だけの「凡夫」であることがわかる。そういった意味で、 空や無我はその人の正体を知るリトマス試験紙だと言ってよい。 空や無我が成立しない概念である以上、 それに基づいた仏教系のすべてが虚構の教えとなる。全滅www 大乗も密教も上座部もチベット仏教も・・・ (TT) もう一度、釈尊の教え〜原始仏教に戻らなければならない。 ダンマパダ、スッタニパータはもちろんだが、 釈迦最後の旅、『大パリニッパナー経』にも注目してほしい。 これは釈尊の侍者を勤めたアーナンダの話である。 もともと後世の改ざんを許さない性質があって、割に信頼できる。 そこに釈尊最後のコトバとして「自灯明・法灯明」がある。 この言葉は、梵天勧請の「信仰をやめよ」に通底している。 釈尊の最初と最後のコトバが同じなのである。 今日のヤホニューで 🙋 【6174"カプレカ数"の不思議】という記事で初めてった - -; どんな4桁の数字も同じ操作を繰り返せば必ず「6174」 という数になる不思議 - -; 数の世界には爺も知らない多くの不思議な法則摂理があり それは10進法に限らず何進法でも其々に現れる筈だが 何故そうなるのかは大いなる摂理であり天才数学者にも明かせない 👴 涅槃 〜 やすらぎ(ニルヴァーナ)とは何か 中村訳、サンユッタ・ニカーヤU-Y-1-1 梵天勧請より 話の概略ー縁起の道理(これを条件としてかれがある)と、 苦集滅道で妄執(欲望)を根こそぎにする。これによって、 やすらぎ(ニルヴァーナ)という真理に到達した。→ 梵天勧請へ ⇊ 耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。 おのが信仰を捨てよ。 ーー 甘露とは命の雫であり、神(命)のことである。 ーー 話の流れから、ニルヴァーナとは神との出会いを意味し、 ーー 釈尊は神(命)と出会っていたことになる。(◎_◎;) 釈尊は、自分との出会い、霊魂体験もしたのか。 スジャータに助けられた後じきに、坐禅中、満月を見て成道する。 わたしの経験から言えば、大きくて綺麗な満月を見たはずだ。 これが釈尊の霊魂体験であり、輪廻からの解脱である。 自分との出会い、霊魂体験をするには、 事前に神(命)との出会い、甘露体験しておかなければならない。 甘露体験がないと生還できない。甘露体験 → 坐禅開始 → 非想非非想処 → 魔境 → 霊魂体験 → 地上に生還の順序。 この坐禅は止(サマタ)であり、数息法だけを使う。 ちなみに観はどのステージでも使わない。止観の止だけを使う。 >>511 基本、自己責任なので、どんな方法であっても自由です。 ただし、釈尊が5〜6年近く修行に明け暮れても悟れず、 スジャータに助けられてじきに成道したことも参考にすべきです。 釈尊の流れは、気づき→甘露体験→止の坐禅→想受滅→霊魂体験。 スジャータから乳粥を受けた時の、 釈尊の気持ちをいろいろ想像してみてください。 甘露体験をするまでやってください。 これが公案とは違った、自己の気づき方です。 お釈迦さんに対して 信仰的態度で接することと 仏教の教えは違いそうですね スッパニパータ 236-238 にも、三宝(仏法僧)に帰依する話が 出てくる。釈尊が自分からそうしろと言うはずもないので、かなり 早い段階で、釈尊と仏教教団の乖離が始まっている。 三宝に帰依する話以外にも、疑問に思うものがいくつもある。 たとえば、八正道、四念処、十二因縁、五蘊仮和合など。 早くから空や無我を目標に教義や修行が体系化されているので、 釈尊の真実を発掘するのは容易ではない。 仏教の歴史を簡単に要約すれば、悟りで釣って、 悟らせないようにすることだった。TT --------------------------------------------- 真実の発掘 〜 釈尊の説く「中道」とはいったい何か。 ーー 四区分別で検証すると次のようになる。 T 快楽主義 〜 王子時代 U 苦行主義 〜 出家時代 V 快楽かつ苦行 〜 これは同時には成立しない? W 快楽でもなく苦行でもない 〜 これが釈尊の中道である。 ーー 釈尊の定義が、中論の中道、非有非無の背景にある。 もちろん、(快楽+苦行)÷2 = 中道ではない 快楽と苦行の二項で否定的に定義された、中道の中身は曖昧だ。 偏ったことに気づいたら、その都度修正するのだろう。 ーー 体が快楽を求め、霊が苦行を求めるのだから、その人の ーー 内なるエネルギーのせめぎ合いと見て、中道=霊主体従かも。 V 快楽かつ苦行 ドストエフスキー『地下室の手記』に、歯痛にも快楽を感じる話がある。 マゾっぽい話だが、快楽と苦行は同時に存在するみたいだね。 快楽だって浦島太郎のように、何年も続いたら飽きてしまって嫌になる。 ということは、快楽と苦行を貫く「自我」が存在していることになる。 Tの快楽主義にもVの苦行主義にも、同じ「自我」が存在している。 ではWの、快楽でもなく苦行でもないケースはどうなのか。 これも判断主体「自我」が存在しないと、適切な行動が不可能になる。 以上から、釈尊の中道は「自我」という主体を前提にしている。 これに対して『中論』の中道は、「自我」のいない非有非無であり、 釈尊の中道とはまるで異なっていることがわかる。 竜樹は最初からアートマンを無視している。 ちなみに竜樹の四区分別 ・・・ 有と無を相互依存させる T有 U無 V有かつ無(〜具体的イメージが何も湧かない ^^) W 非有非無 〜 有でもなく無でもない → 空=縁起=中道 中論24-18 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。 中論25-10 師(ブッダ)は生存と非生存を捨て去ることを説いた。 それ故に『ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず』というのが正しい。 中村博士の反論 『龍樹』 p291 ここで竜樹の議論には若干の飛躍がある。われわれは生存に執着して、 妄執によりあくせくしてはならない。しかしまた非生存(断滅)にとらわ れて、人生を捨てて虚無主義になってはならない、と原始仏教が説いて いたことは事実である。しかし、そこからいきなり、「ニルヴァーナは 有でもなく、無でもない」といえるかどうか。 ーー わたしも同感ですね (^−^) 竜樹がなぜダメなのかと言えば、 釈尊の説いた「縁起の理法」と「苦集滅道」を台無しにし、 ニルヴァーナを破壊、悟りを不可能にしたからである。 竜樹にとって、事物は一切皆空で実体が無いから、相互依存、 因縁によって仮に存在しているだけになる。そういう存在であれば、 苦楽もなく、生死もない。→ 空になりきれば悟りなのである。 さらに、因果関係を説く苦集滅道も実体がないから空になり、 竜樹の説く空に吸収してしまう。手品のように苦集滅道を消滅させる。 そんなわけで、竜樹こそは仏法の大破壊者ということになる。 では、釈尊の説いた「縁起の道理」とは何か。 梵天勧請の「これを条件としてかれがあるということ」だけでは、 いまひとつピンと来ない。しかし、釈尊の縁起の道理は失われている。 そこで、わたしが使ってきた縁起を紹介しよう。 縁起するものは、真偽、善悪、美醜などの判断基準に限定する。 それ以外の、精神と物質のすべての思考対象に、 因果関係(原因→結果、結果→原因)を使う。 この使い分けができれば、ニルヴァーナに至ることも可能です。 検査済みなので保証書付。たぶん釈尊と同じ方法だろうと推測します。 苦集滅道 〜 苦の意味 なんで楽ではないのか。楽して悟れたら最高ではないか。 ところが、苦しまないと悟れない仕組みになっている。 ヨブ記のヨブのように、苦しみに苦しまないと神に出会えない。 この世への執着が完全に消えた時に自我が消滅する。 だが、砕かれた心を神は侮らない。 心が砕かれた瞬間、神の甘露が上の方から落ちて来る。 これが神との出会い、ニルヴァーナである。 だから苦であり、苦集滅道なのである。 この世に愛された人々には決して味わえない至福の境地である。 貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々 心の清い人々は幸いである。あなたがたは神を見るだろう。(^−^) なぜ楽は許されないのか それでなくても許されないのだから、空だとか無我だとか言って、 悪いことを積極的にやる人はなおさら許されないだろう。 その理由は心の仕組みにある。 心の仕組みは下記のようになっている。 神(命)→心【霊魂→カルマ識→背後意識→日常意識】→現実への執着 人間が神に近づくには、矢印を逆向きにしなければならない。 楽を感じる人間が、どうして現実に背を向けられるだろうか。 苦を感じる人間だけが、苦を生む現実に背を向けることができる。 心がこういった仕組みであるのは神秘としか言いようがない。 ーー それは人間を創造した神(命)の意志なのである。 AI上に自意識や感情を構築する愚か過ぎる(不可能な)夢は いざ実現すれば「不吉な娯楽」以外には何の使い物にもならない 笑w 🙋 釈尊の憂慮 ・・・ by 梵天勧請 苦労してわたしが「さとり」得たことを 今説く必要があろうか。 「貪りと憎しみ」にとりつかれた人々が、 この真理をさとることは容易ではない。 これは【世の流れに逆らい】、微妙であり、 深遠で見がたく、微細であるから、 「欲を貪り」闇黒に覆われた人は 「見ることができない」のだ。 人間の中には常住と無常とが同時に存在している。 人間存在は、無常でもないし常住でもない。 非有非無の中道が常に成立している。中論27−17、18 常住 → (神-命も常住)〜霊魂-アートマン 無常 → カルマ識・背後意識・日常意識〜(身体・現実も無常) これらの真理を探求する方法が二つある。 苦集滅道 → 原因・結果から現象の因果関係を明らかにする。 縁起 → 善悪・真偽などの縁起で、自分の思い込みを発見する。 ーー これが縁起の正しい使い方であり、それは無意識の世界に ーー 潜って行く潜水艦のサーチライトである。 わたしは坐禅の「観」をまったくやっていない。 その代り、フロイト心理学と唯物弁証法に熱中した。 詩や小説や画集などを、作家の経歴から鑑賞するようにもした。 こうすると作家の個性がわかって得るものが大きかった。 こんなことをしていたら、神との出会いを偶然やってしまった。 坐禅は神との出会いをした後、自然にやりたくなったので始めた。 それから天台小止観の流布本を見つけ、数息法の「止」だけをやった。 やり始めて半年ぐらいで想受滅から霊魂体験をする。 いま思えば、意味もわからないうちに体験だけが先行した。 宗教に無知、師もいないから、体験の意味を知るのにむしろ苦労した。 こんな経過から、師は不要、生活全体で観、観→止の順序を薦めたい。 坐禅では観を省略、数息法の止だけを行う。 神との出会いをしてから坐禅を開始する理由は、 @ 魔境→想受滅を体験するためであり、 A 霊魂体験から地上に無事生還するためでもある。 観をやるなら生活全体でやり、坐禅は止のみに限定する。 この方が安全であり、より短期間で悟れる可能性大。 どんな宗教であれ、止→観の修行体系であったら誤りである。 止→観を小刻みに繰り返すタイプも誤り。 密教やチベット仏教は坐禅の観を重視するようだが、邪道である。 観の誤用であり、誤って想受滅に入る危険もある。 坐禅の目的は、霊魂=アートマン体験にある。 心の仕組み(>>523 )の反対のことをやる。 現実への執着から離れ、意識を心の奥底へと向けるのが坐禅である。 それゆえ坐禅は、「止」オンリーでやるべきものである。 もともと坐禅は不自然な格好である。 不用心この上もないことをやるのだから、できるだけ短時間がよい。 坐禅をして考えるなら、目を開けて考えた方が安全である。 心に浮かんだ想念を、「観」で変容していく宗派もあるようだが、 妄想とか白日夢と何が違うのだろうか。坐禅の乱用だと言っていい。 「観」は坐禅ではなく、生活全体で行うべきものである。 九次第定(くしだいじょう) by 大パリニッバーナ経第六章 釈尊は初禅から滅想受定に至り、そこから順番に初禅へ戻り、 再度、初禅から第四禅に至ってニルヴァーナに入られた。 (色界) 初禅→第二禅→第三禅→第四禅 (無色界) 空無辺処定→識無辺処定→無所有処定→非想非非想処 (無為界) 滅想受定 九次第定は釈尊が説いたわけではない。後の教義が持ち込まれている。 中村博士の訳注160を参照のこと。 それに禅定の区分が抽象的で曖昧、こんな区分では非想非非想処には 決して到達できない。悟れなかった教団幹部による、保身のための、 悟りの棚上げ作戦なのかもしれない。そうならば姑息で罪深い改ざんだ。 また、坐禅経験があればすぐにわかることだが、禅定の行ったり来たりは 不可能である。禅定を緩めると、坐禅そのものが一挙に終了する。 サンユッタニカーヤ U-Y-1-1 「梵天勧請」ニルヴァーナに続き、 同書Y-2-5 「全き安らぎ」パリニッバーナがあり、そこにも九次第定 の話がある。読み比べると、安らぎを二種類に区別している。 A 神との出会い→甘露体験→安らぎ→ニルヴァーナ B 自分との出会い→霊魂体験→全き安らぎ→パリニッバーナ つまり、甘露体験だけでは不十分、坐禅によって霊魂=アートマン体験 を追加することで「完全な悟り」になるわけだ。この違いを区別しないと 混乱する。AとBの両方を体験しないと悟ったことにならないのだ。 この区別ができれば、中村訳『感興のことば』ウダーナヴァルガ、 第26章 安らぎ(ニルヴァーナ) を理解できるだろう。 1〜23節までは、甘露体験・ニルヴァーナ 24〜30節は、霊魂体験・パリニッバーナの話である。 まず甘露体験、次に霊魂体験という順序が文章構成に反映している。 後半の、霊魂体験の描写は興味深い。釈尊の話ではなさそうだが、 霊魂体験をした人の話であることは間違いないだろう。 そこが空や無我の境地でないことを読み取ってほしいものである。 有余涅槃 〜 死ぬ前は肉体の束縛があって完全な悟りは得られない。 無余涅槃 〜 完全な悟りは死んだ後に得られる。 これなんかも、釈尊の悟りを棚上げにしよう、という逃げを感じる。 想受滅から霊魂体験をすれば、生前も死後も関係なく、 甘露体験と霊魂体験が揃って完全な悟り、パリニッバーナなのに。 昔は今と違って、口伝えで手探りだったという事情もあり、 なかなか悟れなかったのだろう。気の毒に思う。 今の人は、やる気次第で悟れるという時代を生きている。 その幸運を活用した方がいいだろう。(^−^) プログラムの無いAIは動きまへん 🙎 正解w 🙋 まことは、無料掲示板をオモチャと勘違いしているのじゃ 釈尊の視点から、ヒンドゥー教を少し考えてみよう。 ヴェーダーンタ学派はシャンカラの「不二一元論」を継承している。 かれらはブラフマン=アートマンという主張をしている。 ブラフマンは現象界(物質現象と生命現象)のことであり、 アートマンは人間存在の実体のことである。 かれらは、この二つが同一であり、本来等しいものだと考えている。 ーー 釈尊ならどう突っ込むかを想像してみよう。 あなたがたは、ブラフマンを体験したのか、アートマンを体験したのか。 体験した上でそれらが同一だと主張しているのか。 それともそう考えただけなのか。 → 恐れ入りました。 m(__)m >>538 > ブラフマンは現象界(物質現象と生命現象)のことであり、 > アートマンは人間存在の実体のことである。 まずこれから間違い ついでに、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の信者にも 突っ込みを入れよう。 あなた方は、あなた方が信じている神を見たことがあるのか。 もし見たというなら、どんな神を見たのか。 → 聖書(経典)に書いてあります。 それを読んだだけで、実際に見ることなく信じているのか。 → 見れるものなら見てみたいです。 気の毒な人たち。その気のある者はついて来なさい。 神を見る方法を教えてあげよう。(^−^) >>539 調べてから書いてますが、どこがどう間違っていますか。 言いがかりをするなら、その理由を書くのが礼儀だと思いますよ。 >>542 何で調べたのか教えてくれ そしたら教えてあげる ジャイナ教は、神を認めず、霊魂(多我説)の宗教である。 ブラフマンを認めず、アートマンだけを認めている。 かれらは、霊魂に業物質が付着し、それが霊魂に浸透することで輪廻が 生じる、と考える。物質への執着が業物質を付着させるので、まず五感を 制御する。さらに「苦行」によって、霊魂に浸透した業物質を払い落とす こと(止滅)で輪廻から解脱しようとする。 かれらはその教義から、苦行・瞑想・不殺生(アヒンサー)・無所有 などの戒律を守っている。また不殺生から菜食主義を選ぶ。 六師外道のうち今に残るのはジャイナ教だけである。 不殺生 → 貴金属商に進出 → 無所有から教団への寄進が莫大 → その結果としてジャイナ教の寺院は豪壮華麗である。 ジャイナ経典に記載された霊魂体験の解説 苦痛も快楽もなく、苦しみも生もなく、生まれることも死ぬこともない 場所、それが解脱である。感覚器官も、驚きも、眠りも、渇きも、飢え もない場所、それが解脱である。カルマもなく、カジカルマもなく、 心配事もなく、いかなる種類の思考もない場所、 それがニルヴァーナである。 ジャイナ教導師ガウタマによる霊魂体験の解説 あらゆる観点から見て安全だが到達しがたい場所があり、そこでは年を 取ることも死ぬこともなく、苦しみもなければ病気をすることもない。 ニルヴァーナ、あるいは苦痛からの解放、あるいは完全性と呼ばれている 場所こそがあらゆる観点から見て安全で、幸福で、静寂な場所であり、 偉大な賢者たちがそこに到達できる。そこはあらゆる観点から見て永遠の 場所であるが到達しがたい。そこへ到達した賢者は悲しみから解放され、 存在の流れを終わらせた。 ジャイナ教は、「甘露体験なしに」想受滅から霊魂体験をする。 これだと死ぬ可能性があるが、それをどうやって防いだのだろう? A 指導者を置き、時間を決めて集団で瞑想(坐禅)したか。 B それとも、解脱したものとして放置、その死をむしろ祝福したか。 C 一人でやるなら、求聞持法のごとく何かを唱えながらやるか。 ーー Aのケースだと、ストップされるタイミングで体験内容が変わる。 ーー ニルヴァーナの種類が四つあるらしいので、これかもしれない。 いきなり霊魂体験を目指す欠点は、死ぬ可能性が生じるだけでなく、 甘露体験が不可能になることである。死ねば当然不可能だが、 死なずに霊魂体験できれば終わり、それ以上のものを探さないだろう。 もともと甘露体験を知らないのだから。空海がそうだった。(TT) >>546 空海ってそうなの? 甘露体験ってどんなの? 言語 概念 定義 解釈の流動不定性を鑑みて ペラ事象下のペラ神は居ないでおK?w 🙋 ・ジャイナ教は厭世的だ。苦行しないと解脱できない。 苦行しても必ずしも解脱できるわけではない。それに苦も楽もない 場所では魅力がない。それでもジャイナ教が滅びなかったのは、 その教義とカーストが結びつき、裕福な信者を確保できたからだろう。 インドだから発生し、インドだから存続している宗教だとも言える。 ・キリスト教も厭世的だ。人間全員を罪人扱いし、イエスを信じないと 救われないと脅し、黙示録ではこの世の破滅が預言されている。 ・イスラム教も、創世記や福音書を共有するから、キ教と同じ厭世的な 宗教である。しかし、いったん信徒になるとやめられないし、政教一致の 前近代的な社会だから、キ教の欧米側が目の敵にしている。 ・ユダヤ教も厭世的。人間を罪人と見なし、613の戒律を課している。 これほど多くの戒律から逃れられる人は誰もいない。今は別のユダヤ人、 白人系のアシュケナージがイスラエルを建国、実効支配している。 >>548 わたしたちが探して見つかるものは、命と霊魂しかない。 誰もが生と死は違うものだとわかっている。わかっているのに、 その違いをはっきり指摘できないもどかしさがある。 自分の視線の中にも、自分の思いの中にも、 「わたし」という統一された意識を感じるのに、 これが「わたし」だと指摘できないもどかしさがある。 自分の中で素通りしない以上、何らかのものが必ず存在している。 そして宗教とは無関係に、偶然見つけたものが命と霊魂だった。 どちらも物質ではない霊的存在ですね。 現世肯定の宗教思想は存在するのか? ・菩薩道 〜 悟って阿羅漢になってしまうと輪廻から解脱してしまう。 これでは衆生済度ができなくなるから、あえて阿羅漢にならずに利他行を 目指す。これを菩薩道と言うが、その考え方は釈尊の前世物語ジャータカ を起源としている。しかし悟れない人たちの言い訳のように聞こえる。 ・大乗仏教の空の思想 〜 空や無我が悟りだとカン違い。 現世肯定というより、衆生を迷わす有害な思想なのかもしれない。 ・唯物主義 〜 空の思想と似た、利己的な現世肯定である。 中国や北朝鮮などを見れば、ある種の宗教思想だと言ってよい。 ・神道 〜 教義が曖昧で把握しがたいが、死を穢れとして扱う以上、 厭世的な宗教ではない。神社は自然との共存をイメージさせる。 神霊体験と霊魂体験をしたら阿羅漢(アルハット)である。 阿羅漢は応供であり、尊敬し供養するに価すると言われている。 その理由は、欲望を根こそぎにしたので、弱肉強食の欲望社会で 上手に生きられないからに他ならない。 では、本当に尊敬され供養されるかと言えばそんなことはない。 むしろ逆、人の良さを利用されるだけである。^^ そんな阿羅漢がどうやって社会の修羅場を潜り抜けるのか。 信じられないだろうが、自分の力ではなく、龍神という天使の力である。 そんなわけで、解脱には龍神体験が欠かせないのである。 しかし、こんなことが悟る前にわかろうはずがない。 たまたま龍神体験をしただけで、結果的に必要不可欠だったのである。 何も知らないで坐禅を続けたからこその貴重な体験であった。 たぶん釈尊も龍神体験をしたはず。それが梵天勧請なのかもしれない。 どっちが正しい? 〜 一元論 それとも 二元論 世界を素直に眺めれば、生物か無生物しか存在しない。 その本質は命と物質である。これが世界の究極であるから、 命と物質の二元論が正しいことになる。 二元論を超える多元論はない。 逆に言えば、一元論なら → 誤りであることが即座に決定する。 神の一元論 〜 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・不二一元論など 物質の一元論 〜 唯物論・資本主義・共産主義など 霊魂は進化するのか否か? 「神智学」は、人類の進化を根源人種として展開する。根源人種には 第1から第7まであるが、現時点の頂点は第5のアーリア人だという。 「人智学」もほぼ同じだが、第5のゲルマン民族を頂点にする。 どちらも転生で個性を失わず、霊魂は直線的に進化し向上して行く。 それ以外の人種や民族は、日本人を含め第4根源人種の生き残りであり、 アーリア人、ゲルマン人の前に滅び去るのだと主張している。 このように神智学・人智学は、霊魂レベルで人種差別を正当化する。 人種差別と、ダーウィンの進化論に影響された霊魂の進化とを一体化し、 動かし難い真実であるかのような差別思想を構築している。 しかし、それが正しいかどうかは、霊魂の進化が可能かどうかで決まる。 かりに霊魂が進化するならば、 不変の個性を備えたままで転生することはできないだろう。 霊魂は肉体と同じ無常な存在になるからである。 かりに霊魂が進化しないならば、霊魂+カルマ識として、 カルマ識に生前の個性を備えたまま輪廻することも可能である。 生前の能力の違いは、脳の物理的化学的な質と量に支配されている。 そうなると、すべての動物の霊魂はまったく同じになるから、 人間は人間だけでなく、あらゆる動物に輪廻する可能性が出てくる。 人間が人間に輪廻できるか否かは、カルマ識の内容次第になる。 どんな人生を送るかで、来世は動物になる可能性がある。 神の視点から見れば、この方が平等であり公平ではないだろうか。 何だか恐ろしい話になって来たかも。(^−^) 霊魂は素粒子ぐらいの大きさである。 なぜかといえば、霊魂には記憶装置が必要ないからである。 だからこそ、ごく小さな虫の脳ミソにも入ることができる。 人間の霊魂だからと言って大きいわけではない。 大きいのは脳ミソだけである。 人間は人間以外の生き物に輪廻する可能性がある。(TT) そこから解脱する以外に助かる道はない。 どうやって? → それが釈尊の教えに他ならない。 想受滅から霊魂体験に入るが、 霊魂は痛いほど清浄な霧の中を猛スピードで走り抜ける。 霧の一粒一粒が数えられるぐらい、超がつく視覚と触覚があり、 意識もはっきりしているのに、何も考えず何も反省しない。 なぜだろうか? 霊魂に記憶装置が存在しないからである。 そのため、ただひたすら感受しながら走り続ける。 何時間、何日走ろうが、ほんのわずかな時間にしか感じない。 これが想受滅の恐さであり、生きて帰れなくなる理由である。 神霊体験(観) → 霊魂体験(止)の順序でやってください。 観は坐禅ではなく、生活の全体で行うこと。 L&Mセオリーは、次の問いを公案として採用したい。 「自分の何が悪いのか」 「人間は何のために生きているのか」 公案は自分にとって切実な問いでなくてはならない。 それを考え続けることが、人格向上につながるものであるかどうか。 ーー 生活全体で取り組もう。解けるまで坐禅禁止。 宗教板を見渡せば、参考になりそうな人がゴロゴロしている。 ーー その人の何が悪いのかをじっくり考えよう。 ーー 人の振り見て我が振り直せ 559.善悪の問題ではない。バカ丸出し、である。大爆笑である。 人生を楽しんでいる人は、公案に何の興味も示さないだろう。 逆に公案が解ければ解脱し、苦しみから卒業できる。 L&Mセオリーの公案は、苦しんでいる人々のためだけにある。 何があっても絶対にあきらめない。ひたすら苦しみに耐える。 そうすれば、神に出会えることだろう。(^−^) 神についての考察 霊魂は物質ではない。物質ではないから記憶が成立しない。 神も物質ではない。物質ではないから記憶が成立しない。 神には過去の記憶も未来の計画もない。 あるのは今だけ。えー (◎_◎;) それだから、神に「永遠」を感じるのかもしれない。 ビッグバンが150億年前なら、神は150億歳になるはずである。 しかし神は、一瞬の中に、無始無終の「永遠」として出現する。 神の懐で生まれたから、「永遠」だと感じるのだろうか。 人間には、永劫の先も見えないし、150億年前の過去も見えない。 しかし、そこまでわかったとしても何の意味もない・・・ わたしたち人間は、「神とともに歩めたらそれでよし」としよう。 神にも意識があるのか 霊魂には想受滅の最初から意識が先住している。 ただし、意識の対象がない間、意識が作用しないだけである。 意識の対象が出現すれば、想受滅から霊魂体験へと即座に移行する。 意識が作用する条件は、自と他が区別できる状態になる。 では神にも意識があるのか。霊魂に意識がある以上、然りである。 なぜなら、霊魂に先住する意識の由来が説明できないから。 神に意識があるとするなら、神にとっての自と他はいったい何だろうか。 宇宙の始まりがビッグバンなら、自は命であり、他は物質になる。 ここにも、命と物質の二元論を強化する証拠があった。^^ 神の居場所 神(命)にとっての「他」が物質だからといって、神がこの物質世界に 存在するわけではない。神と物質は反物質と物質の関係であり、 同時に存在することはできない。同時に存在すれば両方とも消滅する。 そのため神は、物質とは異なる別次元に移動した。 人間を含めた生き物は、この地上にある物質世界を生きている。 日常意識は、この物質世界を認識するための道具である。 ここに、この世界でいくら神を探しても見つからない理由がある。 ・逆に言えば、神は日常意識に降臨できない。 ・過去世が異熟したカルマ識(アラヤ識)にも降臨できない。 ・神が造った完璧な霊魂にも降臨できない。 ☆彡 神は背後意識(マナ識)のみに降臨する ☆彡 人類を見守る神を想像するなら それは「人類の守護霊(守護神)」と呼ぶのが妥当な気がする 👴 神は叡智である 物質は、意識も思考力もなく鈍重なだけである。 だからと言って、物質に何らかの罪があるわけではない。 物質が存在しなければ、生物も誕生しないし、 誕生しても生きて行く場所がない。 神は叡智そのものであり、物質の反対を想像したらよい。 神が造った霊魂には、この物質界で生きて行くための、必要な叡智が すべてつまっている。あらゆる生き物はこれによって生まれ、 あらゆる変化に対応しながら、これによって進化する。 ーー 原爆や水爆はどうなんだろう。人類の狂気かもしれない。 物質世界を支配する法則は 〜 原因結果の因果関係 神の世界を支配する法則は 〜 真偽・善悪・美醜などの縁起 因果関係は時間があって成立する → 物質世界を支配する法則 縁起は時間のない世界で成立する → 神の世界を支配する法則 人間がこの世で苦労する意味の一つは、因果関係を学ぶことにある。 死後の霊界は想念の世界であり、因果関係が基本的に成立しない。 それでも因果関係を貫くことで霊界の秩序が形成される。 >>565 神は、人類だけでなく、あらゆる生き物を見守っています。 この宇宙の、あらゆる生き物の命です。 臨死はあったかもしれないが、とどのつまりなぞ解きに夢中で、気付いたら救急病院に運び込まれていました。転落事故でね。戦死の経験も。 堕ちたときに霊力が発動して、目くるめく面白い体験でした。 宗教体験と重なってね。言霊と可も。 偶然死ぬべきで、好事家みたいに臨死を語り臨死を作り出してはいけません。 誰にでもあるごく普通の事なのでね。 >>569-570 いろいろ体験してきたようですね。ゆっくりでいいので、 もっと詳しく、このスレへの書き込みを期待します。 神の愛とは、いったいどんなものなのか 神(命)は、霊であって物質ではないから、何も記憶していない。 それゆえ神は、人間の過去の過ちをまったく問題にしない。 これが神の赦しである。今現在を問うだけで、過去の罪は赦される。 神は、汚れきった人間の心を、雪のように真っ白にされる。 神は、神御自身の体(命)をもって、心の傷を癒される。 神の全体は一様で均質だから、ほんのわずかな甘露であっても、 それは神であって、無残な心の傷を一瞬で癒し切る。 神は御自身の体(命)をもって癒される。 打ち砕かれた悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 by 詩編51 唯物論で意識(メタ現象)は解けない 分かってんやろ? 👴 意識誕生機序は? 🙋 生命誕生機序は? 🙋 時間誕生機序は? 🙋 空間誕生機序は? 🙋 法則誕生機序は? 🙋 摂理誕生機序は? 🙋 機能誕生機序は? 🙋 可能性の機序は? 🙋 ペラ現実の基本構成要素の正体は何一つ明かせない w 🙌 つまり 現実は背後(不可知)の永遠無限メタ複合構造総体に因っている w 👴 輪廻転生はあるのか否か ビッグバンによって神(命)と宇宙(物質)が誕生した。 それゆえ、この宇宙が滅びない限り、神(命)も滅びることはない。 そういう意味で、神(命)は永遠である。 ところで、人間の実体は霊魂(命)であるが、神に由来する霊魂も 滅びることはできない。しかし、物質への執着に覆われた霊魂は、 神の住む神界に帰ることはできない。 なぜなら、神は物質的なものと直に共存できないからである。 ではどこへ行く? 滅びることのできない霊魂は、 死者の住む霊界に行くか、輪廻転生する以外にないのである。 ここに、輪廻転生する可能性が見えてくる。 執着(欲望)に囚われた霊魂は、当たり前の話だが死後、 その囚われによって物質界へと近づいて行く。そしてその結果として 物質界へと輪廻する。畜生への輪廻もありうるのだ。(TT) 輪廻が嫌なら、それを避ける道がある。 まず執着(欲望)を根こそぎにして神霊体験をする。 次に坐禅によって、非想非非想処→魔境→想受滅→霊魂体験をし、 解脱できたら、高級霊界に住み続けることも可能である。 *輪廻の観点から見れば、坐禅のポイントは二つある。 @ 魔境に現われたカルマ識(執着の正体)を見極め、見捨てる。 A 想受滅→霊魂体験 〜 自分の、真の正体を知る。 霊魂の居場所は → 霊魂の墓場なのかもしれない 霊魂は白い霧の中を猛スピードで走る。そこは爽快この上もないが、 痛いほど清浄な世界でもある。霊魂には意識があり、霧の一粒一粒を 数えられるような、超がつく視覚と触覚である。 わたしは偶然、神霊体験をした後に霊魂体験をしたので、 そこに神霊体験の至福感がないことに気づいて生還することができた。 しかし、神霊体験がなければ、自分の力では地上に帰れない。 そうすると永遠に走り続けるか、走ることをやめるかである。 何らかの理由で走ることをやめた霊魂が霧の一粒一粒ではないのか。 そこに神の気配はなかったから、そこは霊魂の墓場なのかも〜。😱 先がいくらも見えないような深い霧だったから、 涅槃だと思って入り込んだ霊魂が無数にあるということなのか。 魔境とは、この世とあの世とが重なっている場所である。 魔境は坐禅でしか体験しないが、半眼でやる人、集団でやる人、 短時間の坐禅、非想非非想処に届かない初心者なども心配無用である。 絶対安全なのはもちろん、坐禅をやらないことである。 坐禅→非想非非想処→魔境→想受滅→霊魂体験の目的は、 カルマ識(偽の自分)を消滅させ、霊魂(真の自分)を知ることにある。 霊魂体験ができたら、長居は無用、さっさと地上に戻るべきである。 そのためには神霊体験が欠かせない。 人間は死後、生前の思いと行いで次の行き先が決まる @ 輪廻から解脱する → 霊界の高級霊になる → 神にはなれない A 輪廻から解脱するが → 想受滅のまま、霊魂の墓場で永遠に生きる B 輪廻する → 霊界に行くが再び地上へ誕生する → 畜生もあり C 輪廻するが → まず地縛霊 → 次にB or 畜生もあり ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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