■■■臨死体験■■■
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一瞬死んで魂が抜けた、その魂を見た。 そんな感じでしたね。 普通 横たわっている自分を見るが 「魂を見た」は初めて 悟るには二つの体験が欠かせない。 二つあること、これが悟りを難しくし、悟りの話を難しくする。 神との出会い → 自分との出会い あるいは、神霊体験(命の雫) → 霊魂体験(満月) 釈尊 〜 甘露(不死)の門 → 坐禅修行における想受滅(満月?) ーー 梵天勧請 >>415-417 想受滅 >>428 ーー 梵天懇請より、梵天勧請が一般的なので訂正する。 十牛図 〜 第三図 見性(牛) → 第八図 人牛俱忘(満月) 空海 〜 (欠落) → 霊魂体験(明星来影す) 夢窓国師 〜 (欠落?) → 霊魂体験(満月?) 霊魂体験は、満月なのか、明星(金星)なのか? 南伝仏教は、釈尊の誕生日・成道日・入滅日をすべて「満月」にする。 おそらく釈尊の悟り内容に基づいた伝承ではなかろうか。 北伝仏教は、釈尊は実際の「明星」を見て大悟したと説く。 しかし、釈尊が想受滅に入れば、肉眼で夜空を見るのは不可能である。 空海の場合も同様、そのうえ求聞持法は岩屋内での行法だから、 実際の「明星」とは無関係だったと考えなければならない。 わたしの場合、昼間、真っ暗にした空間で霊魂体験をしている。 もちろん「明星」ではないが、その大きさから「満月」のように見えた。 わたしに体験できたのに、釈尊に体験できないわけがない。 ーー 結論。釈尊は「満月」、すなわち霊魂体験をした。 ーー 明星の話は、異教に影響された作り話なのかもしれない。 釈尊の悟りを「明星」にする経典もある。← たぶん偽経 中国に伝わった最古の仏伝『修行生起経』には、「明星が出た時、 釈迦は確然として大悟した。」とあるらしい。 空海の「明星来影す」の「明星」はいったい何だろう? 本当は「満月」だが、本当のことを書くとマネをする偽者が登場する。 そこで、それを見破るためのフェイクである可能性が高い。 碧巌録 四十七則 〜 公案 >>430 参照 僧雲門に問う、「如何なるか、これ法身」 門伝く、「六不収」 → (意味) 六根六識には収まらない ーー 著語(短評) 八角磨盤、空裏に走る ← 霊魂のことだろう! >>430 の訂正 夢窓国師と大燈国師を混同しました。m(__)m わたしが読んだのは夢窓国師の『夢中問答』であり、 禅宗と旧仏教との宗論ではなく、天皇と夢想との対話でした。 そこでは、「如何なるか、典外の法」「八角磨盤空裏を走る」だった かと思う。手元に本がなく、変だなと思いつつ間違えました。 <公案禅はやったことがない> わたしは、自分の何が悪いのか、人間は何で生きているのか、 をテーマに10歳から20年間、ひどい苦労をしている。 その甲斐あって、30歳の時に神秘的な体験をすることができた。 ・唯物弁証法 + フロイト心理学 → 神との出会い、神霊体験 ・数息観による坐禅 → 想受滅 → 自分との出会い、霊魂体験 わたしが自らに課したテーマは、これを解かない限り、前に進めないと 思っていたから、諦めることなく、執拗に追求できたのだろう。 それにしても、宗教知識がないのに、釈尊の縁起の理法と苦集滅道を 実践し、神霊体験をやったことになる。 逆に言えば、釈尊の教えが宗教と無縁の合理的なものだからこそ、 結果として釈尊の教えに合致したのかもしれない。 ・隻手の声を聞いてこい ・犬に仏性有りや無しや ・父母未生以前の本来の面目を見てこい ・・・ などなど 公案禅の問題は、 公案がその人にとって切実な問題にならないことだろう。 その人の苦と離れたら、釈尊が教えた苦集滅道の出る幕がない。 縁起の理法もまったく無用だ。 これでは釈尊の教えがまったく役に立たないではないか。^^ かりに公案禅を認めるにしても、 それは十牛図での第三図 見牛(神霊体験)を対象とするのであり、 第八図 人牛俱忘(霊魂体験)ではないのではないかと。 それとも公案禅は、いきなりの霊魂体験をめざしているのか? 坐禅をしながら公案に没頭、ひたすら考え続ける ・・・ 答えのない公案を考え続けるうちに → 想受滅に入ってしまう。 そして霊魂体験(満月)をしてしまう。<解けた!!!> という思いが、白い霧の世界に雷のように轟き、地上に生還する。 これだと夢窓国師のような、神霊体験なしの霊魂体験になる。 禅者にとっては、この霊魂体験が強烈な自信になるのかもしれない。 求聞持法の空海と似たような体験だとも言える。 >>440 ああ、霊魂体験の満月ってキリストのことね。 五蘊とは仏教において、人間の肉体と精神を五つの集まりに 分けて示したもの。→ 色・受・想・行・識 色 〜 物質的存在 ← 触れる → 受想行識の発生 受 〜 感情 〜 感受作用 想 〜 知覚 〜 表象作用 行 〜 意志 〜 志向作用 識 〜 意識 〜 認識作用 ← 「わたし」という主体の働き 坐禅の目的は、意識の正体を追及し、発見することにある。 意識は物質ではないので、坐禅以外の方法では発見できない。 坐禅を重ねると、意識は次の四つの層に区別できる。 日常意識 〜 目覚めている時の意識。 マナ識 〜 寝ている時、夢の中に現れる自分の意識。 アラヤ識 〜 坐禅中の魔境に現われる、過去世の、沈黙の意識。 霊魂(アートマン) 〜 究極の「わたし」。これが意識の正体。 五蘊仮和合説 〜 個々の事物は、因縁によって五蘊が仮に集まって できたもの。従って、我として執著するような実体は無い。 仏教における無我説の根拠のひとつ。三法印(諸法無我)。 五蘊仮和合説の誤り @ 「わたし」という意識は、識にのみ存在し、五蘊の仮和合は不要。 A 坐禅体験がなく、意識が四重構造であることに無知。 B 五蘊仮和合説〜BC2世紀後半の「ミリンダ王の問い」に出てくる。 ミリンダ王の問いに、車のたとえ話が出てくる。 車を分解して部分に解体したら、いったいどこに車があるのか。 車という実体などないではないかと。 この話のトリックは、車を造った人、車を解体した人のことを除外する ところにある。その人が実体なのに。 五蘊の場合も同じ。色受想行識の「識」に実体がある。 それなのに、その「識」を頭から「空」にするところにトリックがある。 445.意識、は人間存在である。 それを否定したものとは何か。そこが問題である。宗教の誕生である。 「般若心経」は空や無を説いている。 たぶん中国の偽経なのだろう。 この経は、日蓮宗、浄土真宗以外で現在使用中。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。 舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。・・・・・ >>446 何だと思いますか? 世親(200-300頃)の『唯識三十頌』 すべての事物は、心が作り出した表象に過ぎない、という主張は、 世親の死後も事物が存在したことによって否定される。 ーー これで唯識を否定したことになると思うが、どうだろうか。 そこで唯識から借用した用語や意味などを整理しながら、 意識の四重構造を定義し直したいと思う。 ・日常意識 → 変更なし(欲望をここに入れる) ・マナ識 → 「無意識」(夢や魔境における識、本能をここに入れる) ーー 無意識がカルマ識に執着するのは唯識説と同じ ・アラヤ識 → 「カルマ(業)識」・・・過去世が異熟したもの ・霊魂 → 変更なし 相互の関係は、霊魂を中心にした四個の同心円になる。 イメージとしては、小さな円を大きな円が包み、覆っている。 (日常意識(無意識(カルマ識(霊魂)カルマ識)無意識)日常意識) この関係から言えば、霊魂自体は清浄そのものだが、 過去世の汚れた識であるカルマ識が覆い尽くしていることになる。 従って、このカルマ識を捨てることができれば解脱する。 カルマ識を捨てると想受滅に入り、霊魂体験をする。 解脱後の意識構造は、霊魂→心眼の開いた無意識→日常意識に なって非常に鋭いが、2〜3週間もすればかなり鈍くなる。^^ わたしの印象から言えば、 カルマ識(アラヤ識)は過去世で解脱できなかった識であり、 汚れた識にしか見えなかった。だから、自分だとわかった瞬間に 見捨てることもできた。でも善か悪かは不明。有覆無記。 無意識(マナ識)は、解脱前はカルマ識に執着しているから、 カルマ識の汚れに影響されて汚れに覆われる。 しかし、解脱後はカルマ識がなくなり、清浄な霊魂に執着するから 汚れも消える。そういう意味では、無意識は執着するものに影響され、 その本体は汚れてないのかもしれない。無覆無記。 識か 死ぬ前の楽しみとしてとっておこう 生きてるうちは、普通の識でいよう 得体の知れないものにつきまとわれたくないんで マナ識 → 「無意識」より「潜在意識」の方が意味的にピッタリする。 そこで早速だが、「潜在意識」に変更したいと思う。 ★ カルマ識を見捨てると想受滅に入る その理由は、潜在意識はカルマ識に依存するだけでなく、カルマ識に 包まれ、覆われている霊魂にも依存している。そのため、カルマ識を 見捨てたら、同時に霊魂も見捨てることになり、その結果として、 潜在意識の存立基盤が完全に失われるからである。 ーー 霊魂は神に依存し、神が人間の、最終的な存立基盤である。 ーー だからこそ、神霊体験 → 霊魂体験の順序になる。 ーー 想受滅自体、神イーシュバラへの絶対帰依によって成功する。 坐禅中に天使を見たことがあるが、天使は霊界生き通しの存在であり、 そのため過去世がなくカルマ識を持たない。それゆえ、 天使の精神構造は、霊魂 → 潜在意識 → 日常意識になっている。 人間を始めとする生き物は、霊界から地上にやって来たのだから、 その精神構造の基本は天使と同じでなくてはならない。 地上生活をするようになって、カルマ識が誕生したと考えられる。 ・天使の構造 霊魂 → 潜在意識 → 日常意識 ・人間の構造 霊魂 → カルマ識 → 潜在意識 → 日常意識 この由来が、カルマ識が有覆無記、潜在意識が無覆無記の理由だ。 潜在意識(マナ識)の方が、カルマ識(アラヤ識)より清浄になる。 ーー 命が地上に根付くには、カルマ識の方が重要である。 ーー それでいて、解脱の可能性が最初から用意されている。 ーー 利己的なカルマ識が固定されていたら、人間は確実に滅亡する。 悟ると欲望(食欲・性欲)がなくなる? そんなことはないw カルマ識を落としても、潜在意識に本能があれば問題ない。 それに、生活していると再びカルマ識が芽吹いてしまう。^^ 悟後の修行が欠かせない理由でもある。 もうひとつ重要なお知らせがある。 キリスト教の悪魔の正体は → 人間だった、ということ。 霊界生き通しの天使は、物質的な欲望がゼロだから、 悪魔になりたくも悪魔になりようがない。 昔から今に至るまで、悪事を働いて来たのは人間だけだ。 キリスト教徒は、自分の悪事を悪魔のせいにし、 悪事を働いてはならない。 「潜在意識」に変更したいと思う。 ← 「背後(メタ)意識」ならもっと良いw 🙋 キリスト教徒は悪魔の正体は悪欲だと知っとるわ!(笑) >>455 ぜひ採用させてください。 マナ識は一義的でなく、幅のある名前の方がベターですね。 日常意識 → 「背後意識」 → カルマ識 → 霊魂 さて天使が登場したので、ついでに天使の話にも触れよう。 わたしは坐禅中、龍神様に出会ったことがある。 非想非非想処を超えた、魔境という世界での出来事である。 龍神様はわたしを乗せ、三途の川に沿った形で、 そのはるか上空に停止した。わたしは向こう岸の草原に魅かれ、 行きたくてたまらず、行け行けと龍神様に言っている。 しかし龍神様はピタリと停止、微動もしない。何で行かないのだと じれったくなると禅定が緩み、乗ったままで坐禅が終了した。 それが何だったのか。ずいぶん考えて来たが、最近、 龍神様と出会ったのは、「梵天」のいる場所であることを知った。 もしかすると「梵天」だったのかもしれない。 背後意識・カルマ識・霊魂 ← 爺的には区分け定義不可の不明世界領域 🙎; 梵天を理解するための予備知識 仏教は、宇宙を器世間(自然界)と有情世間(生物界)に区別する。 有情世間は、下は無間地獄から上は非想非非想処に至るまで、 さまざまな生存状態で存在する。 この有情世間に、欲界(貪欲に束縛された世界) → 色界(清らかな物質からできた世界) → 無色界(ただ精神的なもの のみが存在する世界)がある。 欲界 → 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天(六欲天がある) 色界 → 深まりゆく禅境を天(十六の天)に喩える。初禅〜第四禅 無色界 → 禅定が四つあり、その頂点が非想非非想処である。 梵天は色界の初禅天に登場する。 初禅天の下から、梵衆天・梵輔天・大梵天になる。 大梵天が自在神イーシュバラであり、ヒンドゥー教のシヴァ神である。 そして宇宙の創造神、ブラフマンでもある。 梵天は欲界(貪欲に束縛された世界)を超えてはいるが、 色界(清らかな物質からできた世界)の最初に登場する生物である。 坐禅を開始すると初禅に現われる。 ただし、初禅から第四禅までは観禅であり、止禅(サマタ)ではない。 ーー 参考文献、三枝著『世親』講談社学術文庫 観禅(瞑想禅)であるところがミソ。 頭の中だけで、梵天との会話が可能かもしれない。 ーー 空想なのか真実なのか、はっきりしない。 わたしの場合は、数息観の止禅(サマタ)だけで非想非非想処に到達。 色界の四禅も、無色界の三定も知らず、まったく省略した。 そして、非想非非想処から魔境に入り、ここで龍神様に会っている。 わたしが見た世界は、清らかな物質からできた世界だったから、 そこは色界になるのだろう。しかし、非想非非想処を超えているから、 無色界でもなく、この世の世界ではないことになる。 ではどこなんだろう? たぶん「霊界」ということになるのだろう。 うーん、梵天が龍神様である可能性を探ってみたが違うようである。 しかし、霊界生き通しの天使であることはまちがいない。 天使には愛らしいイメージがあるのに、巨大な龍神様が天使とは! ーー ヨブ記に出てくるレビヤタンが天使だったんだね。TT では梵天とは何だろうか。 梵天は、欲界を超えた色界の最初の初禅天を居場所にしている。 色界は観禅(瞑想禅)の世界である。ということは・・・ わたしの最初の神秘体験は神との出会いである。 その時、あることをテーマに脳みそを絞るようにして考えていた。 そしたらその謎が解け、命の雫が一滴、頭の中に落ちて来た。 今思えば、集中して考えていたので自然と瞑想状態に入ったのだろう。 この体験なら、梵天が自在神イーシュバラ、ヒンドゥー教のブラフマン などであることも理解できる。・・・ 梵天が神と言うことになる。 しかしこれだと、梵天勧請の梵天にイメージが重ならない。 梵天は釈尊に、教えを説いてくださいと合掌・敬礼して頼んでいる。 神なら自分でやればいいのに。それとも神ではないのか。 ーー そこまで言うなら、やってやろうじゃないか。 釈尊は梵天に、「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。」 と呼びかける。by サンユッタニカーヤU、第W篇 ここの梵天のイメージは、行け行けと言っても三途の川の上で ピタリと停止した龍神様のイメージに近い。 経典や諭書などでは、イメージが混乱している可能性も考えられる。 体験的に整理すると、 色界「初禅天」の梵天 → 神のごとき存在、命の雫 梵天勧請の梵天 → 龍神様 >>465 汚いですね。 >>466 汚い心が汚い物質を育てます。 神霊体験をした直後、大地のオーラが見えたよ。 太陽光線はまぶしかったのに、それよりも厳かで穏やかな光が 大地や建物を覆っていた。 それは透明だったが、明らかに太陽光線が背景に退いていた。 えっと思って改めて見直すと、道行く人の周囲は逆にへこんでいた。 ただし、気にしないでいたら、いつの間にやら見えなくなった。 🐍 と 🐉 蛇はかっては崇拝されていた、という説がある。 蛇は、地上を這い、水中を泳ぎ、樹木を登り、木から木へと飛ぶ。 小さな穴があればどこまでもしつこく追いかけ、 毒牙で相手を倒し、丸呑みにし、その後何日も食べないでいられる。 雌雄の性交も身体をシメ縄のようにエネルギッシュに絡ませる。 その上さらに、神秘的な脱皮までやっている。 人間は蛇を忌み嫌い、恐れながらも、 食と性に特化した姿や生き方や、蛇の生命力に畏れの念を抱く。 しかし、蛇に愛情を抱くのではなく、敬して遠ざけていたのではないか。 興味は抱くが、愛情をもって信仰していたわけではないだろう。 🐍 と 🐉 東洋には古くから龍神信仰がある。 龍神様は、蛇をベースにした想像の産物だという説が主流か。 実際に見たことがなければ当然である。 しかし、坐禅の中で龍神様に会えるとしたらどうだろう。 坐禅の伝統がある東洋では、龍神様を見た人が少なからずいた、 とすれば、龍神信仰が東洋にあっても不思議ではない。 釈尊をコブラの集団が護っている石像もある。 これなんかは、蛇信仰であって龍神信仰ではないだろう。 臨死では酸欠の妄想に過ぎん せめて脳死でも体験して来い <神秘体験は下記の順番になる> 神霊体験 → 霊魂体験 → 龍神体験 神霊 → 霊魂 なのは、地上へ無事生還するため。 霊魂 → 龍神 なのは、解脱したか否かの最後の試練だから。 神霊体験、霊魂体験をすれば悟りだが、 そこで坐禅をやめてしまうのはダメ。龍神様の試練に合格すれば、 龍神様が仕えてくれるので坐禅を継続するのが吉。 ーー 悟ってしまうと、競争社会で生きるのが困難になる。 ーー そのため龍神様に守護される必要がある。 守護霊・死霊体験は、死から命を守る最後の砦になっている。 いわゆる臨死体験がこれに該当する。 オーラの形 ○ 実際のオーラ 〜 静かな光を全身から放っているかも ^^ △ 仏像 〜 後ろに半円形の大きな光背がある × キ教の聖者像 〜 頭の後ろだけに丸い円 ← ありえない形 帰ってこなかった人も変だが、臨死というと死に臨むと書いて、 帰ってくる人がいるだろう?別に死ぬ必要が現代にないのだが、 割合怪我や軽い病気などでも体験できるのではないかな。 僕はあるけど、何かが変わった感じはしなかったが、 色々イメージが湧いて、面白い体験ではあると思うな。 人により体験が違うんだろうな。でも共通する部分も人類にはあるというね。 九次第定・・・南伝の大般涅槃経(釈尊臨終時の禅定) 坐禅の経過、深さを表わすものに「九次第定」というものがある。 これは色界の四禅に、無色界の四定に、想受滅を加えたものである。 無色界の頂点が非想非非想処(有の頂天)である。 すでに釈尊の時代には定式化されていたというから、 九次第定が古くからのヨーガ行者たちの到達点であったのだろう。 初禅→第二禅→第三禅→第四禅→ 空無辺処→識無辺処→無所有処→非想非非想処→想受滅 非想非非想処までは釈尊もすぐに到達できたが、 その先の想受滅の体験者が釈尊の時代に一人もいなかったらしい。 釈尊の貢献は、その「想受滅」を体験したことにある。 釈尊が想受滅を体験したことは経典にも残っているが、 想受滅を体験したからには、霊魂体験をした可能性も高いことになる。 静かな夜、ひとり林の中で坐禅をして想受滅に入れば、全身麻酔をされた 状態と同じで何の意識も働かず、そのままだと生還できない。 しかし、釈尊は想受滅から生還している。 ということは、釈尊は霊魂体験をしていたことになる。 釈尊はなぜ霊魂体験をしたと明確に語らなかったのか。 当時はバラモン教だけでなく、新興宗教も登場して覇を競っていた。 釈尊の高弟だったモッガラーナは敵対勢力に殺されている。 あまり明確に語って他教を刺激するのは危険だった。 これが釈尊を自重させ、明確に語らなかった理由ではないだろうか。 明確にしたくても、諸般の事情で明確にできなかったのだ。 釈尊がもうひとつ明確にしなかったことがある。 梵天勧請に「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた」とあるが、 ここにある「甘露」とは何だろうか。 わたしに言わせれば、これが釈尊の神との出会い、神霊体験である。 スジャータの乳粥を受けた時、自分の誤りに気づいたのだろう。 釈尊は神霊体験をしたからこそ、その後すぐに成道し、 想受滅からも無事生還できたのである。 乞食や中道を修行に据えたのも、この経験があったからこそである。 釈尊はなぜそれを詳しく語らなかったのか。 意識の成り立ちも正体も本質も科学領域の外にある 意識創発機序を語る科学論理は存在し得ない - -; 釈尊が自分自身の甘露体験を語らなかった理由 @ 個人的な苦や不幸を世間に公表する義務はない。 A 概念化すれば苦集滅道である。→ これは説いてもよい。 B 方法論的に整理すれば、苦集滅道と縁起の理法の二つである。 C この二つは、梵天勧請の前半に要約的に記述されている。 D ゆえに、梵天勧請の話だけで「甘露の門は開かれた」ことになる。 十牛図がそうだったように、釈尊の悟りは二段階である。 @ 神との出会い 〜 気づき → 甘露体験 A 自分との出会い 〜 坐禅 → 想受滅からの霊魂体験 甘露体験をすれば → 中道の意味も明らかになる。 苦の原因は、精神それ自体の在り方に起因している。 神を知り、精神の在り方を正しくするならば苦は解決するだろう。 快楽主義も苦行主義も苦を解決することにはならない。 わたしが釈尊なら、下記のようなことを説くだろう。 @ 中道(○霊主体従、×足して2で割る) A 四諦(ものごとの因果関係、結果→原因、原因→結果) B 縁起の理法(此れがあるから彼れがある、此縁性) C 坐禅(○数息観による止禅サマタ、×九次第定は説かない) D 坐禅経過に魔境を追加する。 (非想非非想処→「魔境」→想受滅→霊魂体験→地上に生還) 八正道は説かない。 四諦は、苦集滅道の、道諦を八正道だと説明する。 しかし、武道や茶道は、武の道や茶の道である。 これと同じように、苦集滅の道が苦集滅道であると解したい。 道が八正道だというのは、後世の下手クソな追加。 ーー 解脱前には何が正しいのか不明なのだから。 従って、四諦を廃し、苦集滅道を常に使用することにする。 ☕ コーヒーブレイク ☕ @ 阿弥陀仏とは誰ですか 〜 死霊だが、下級霊を導く教師である。 A イエス・キリストとは誰ですか 〜 やはり死霊だが、高級霊の一柱 B キリスト教によれば、人間は善悪の知識の実を食べた罪人である。 では、命の実を食べた人間はいますか 〜 釈迦が食べたかも ^^ 今日のヤホニュー >🙋 KIDさんの元夫人 MALIA悲痛 「頭も心も整理がつきません」 三ペラには困難な 「脳と心」の識別認識! 🙌 w 夢の話〜高級霊に会う 三途の川の橋の上に、高級霊と低級霊を見たことがある。 高級霊を見た瞬間、非常に清らかな、聖者のような風格を感じた。 静かな光に包まれ、それが強くなったり弱くなったりしている。 そのせいか顔がよくわからない。誰なんだろうと思って、 じっーと見つめていたら目が覚めてしまった。 場所が場所だから、二人が死霊であることは間違いない。 問題は高級霊だが、霊界で阿弥陀仏やイエスキリストに出会えたら、 たぶんこんな感じになんだろう。スーパーサイヤ人風。 知の巨人・世親の主張は二つある。 @ 我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法のみある。 A すべての事物はこころが作りだした表象にすぎない。〜唯識論 これらの主張に対しては、すでに反証が終わっている。 @ 霊魂体験は我の存在証明に他ならない。 A 世親の死後も、すべての事物はそのまま残存した。☀も🌙も★も 『中論』の根本的誤り 残るは大乗仏教の牙城、竜樹の『中論』だが、 これを否定できれば大乗仏教は屋台骨を失って空中分解する。 @ 竜樹は有と無を縁起させる。しかし、無は何もないことだから、 意味のある縁起は成立しない。有がそこにあるだけである。 → 従って、中道を意味する「非有非無」が成立しない。 A 見るはたらきは自らの自己を見ない。自己を見ないものが、 どうして他のものを見るのであろうか。中論V−2 → この主張は、坐禅によって自己を見ることができるので誤り。 B 竜樹は、我(アートマン)の存在を否定する。 → これも、坐禅によって我(アートマン)を体験できるので誤り。 『中論』は、説一切有部を批判した竜樹の論争の書である。 説一切有部は、その名の通り、一切の有(実体の存在)を説いていた。 一切には、名称・句集・文章なども入る。 竜樹は、名・句・文などを有にする説一切有部の矛盾を突き、 運動や時間を否定、さらには主体を否定し、 一切は無、世界は無我であり、空であると主張することになる。 一切有も誤りだが、その裏返し一切無も誤り、どっちも誤りだが、 どっちがより罪が重いかと言えば、竜樹の方ではないか。 大乗仏教は竜樹にだまされ、2千年間、不毛な時間をさ迷った。^^ アートマンが存在することは → それを体験すれば、その人にとっては存在することになる。 アートマンが存在しないことを証明するのは → 不可能。 詭弁家・竜樹が挑戦したのは、 あろうことかアートマンの不存在証明だったwww 無我や空を目標に修行していては悟れないかもしれない、 そんな思いがチラッとでも掠めたろうか。 たぶん大乗仏教の修道論では一生解脱できないだろう。 では、南伝仏教の修道論ならどうか。これも疑問だ。 わたしは宗教に無関心、30歳頃まで宗教書を読んだことがない。 それなのに考えごとの最中、いきなり神霊体験をした。 それから半年後に霊魂体験、さらに半年後に龍神体験をしている。 体験が先行し、体験の意味はなかなかわからなかったが、 最近ようやく解脱していたことがわかってきた。 各種宗教の修道論を読むと、そんなことをやってたら一生 悟れないと思うようなことを平気でやっている。これからもミスリードが 続き、解脱者がひとりも出ないのではないかと心配になる。 わたしの方法でよければ公開するので質問があればどうぞ〜 >>489 一連の出来事・解脱とは、一体何のためにあるかわかりますか? >>490 ご質問ありがとうございます。箇条書きにしてお答えしますね。 最初のテーマ @自分の何が悪いのか A何で生きているのか A 神霊体験(命の雫) 〜 テーマ@の解決 ・・・ 苦の滅 B 霊魂体験 〜 自分を悟り、神(命)とは異なる存在だと知った。 C 龍神体験 〜 運が良くなり、生活するのが楽になった。 D 守護霊体験 〜 テーマAの解決 ・・・ 死への願望が消滅 A〜Cの間は、死後の世界の方が魅力的で、死ぬことを恐れていません。 しかしDの体験で、死ぬことよりも生きることを選ぶことにしました。 その理由は、神(命)の意志は地上を命の楽園にすることにあると 感じたからです。何で生きるのかと言えば、それが神の意志だからです。 そういう意味で、人間は神(命)の戦士なのです。 人間の役割は、地上の命のために働くことではないかと考えます。 この世界は楽園にはなり得ない構造になっている つまり 究極的に食うか食われるかの構造だから 寧ろ 楽園では無い事こそがこの世の存在価値なのでは?とさえ思えて来る 👴 >>491 解脱したが衆生を救うためにまた戻っていくというストーリーを組み立て社会に出ていく。というのは共通してある意識ですが、 あなたにとってその一連の体験前後で変化したことは身体的には何もないということてすか? >>492 植物は基本、他者に依存しない。 動物は胃袋に合わせて狩猟し採集する。 しかし、人間の欲は際限がない。 ーー 何億円持っていても満足しない。 ーー 人間の欲がこの世を地獄にしている。(TT) >>493 神霊体験をする前は、しばしば偏頭痛に悩まされてました。 頭をワッカのようなもので締められ、息をするとズキンズキンと痛む。 ちょうど孫悟空のワッカのようでした。→ 観音様の懲らしめ? 神霊体験をしたら、それが嘘のようにピタリと治りました。 以前より全般的に健康になったとは思いますが、 気がついた変化はこれぐらいです。 >>495 ありがとうございます。 解脱直後はどんな気分でしたか? >>496 神秘体験をしたとき、宗教知識がまったくなく、いったい何を体験した のかわかりませんでした。貴重な体験をしたことは直感したのですが、 どう貴重なのかがわからなかったのです。そこで慌てて聖書や仏教書を 読み出したのですが、こういったことに相当時間がかかりました。 なかでもパウロの『ローマ書』と竜樹の『中論』には手こずりました。 そんなこともあって、素直に解脱したと思えるようになったのは、 ごく最近です。いろいろな宗教の修道論に多少目を通してからです。 そこで何を感じたかと言えば、やるべきことを成し遂げたかも、 というしみじみした幸せですね。(^−^) >>152 1週間ほど額に違和感はでましたか? その頃の思考回路はどうでしたか? 仏典には三十二相を説いたものもある。でも100%作り話ですね。 悟りは、肉体的な次元ではなく、精神的な次元における現象だからです。 従って、健常者も、そうでない人も、悟る可能性を持ってます。 要するに、欲望を根こそぎにすれば、悟れるのです。 スッタニパータを読めば繰り返しそう書かれています。 簡単な話ですね。でも、それを実行するのが至難の業なのです。 今、目の前に「悟りという山」があったとして、 その距離やら苦労やらを喩えるなら、神霊体験が頂上になる。 霊魂体験と龍神体験は折り返しで一気呵成に達成できる。 ただし、守護霊体験は夢なので、チャンスに恵まれないと難しい。 スタート・登り→→→→→→→→→→気づき→頂上・神霊体験↓下り 解脱←←夢・守護霊体験←←←←←←龍神体験←霊魂体験・坐禅 以上のように悟りには四段階のステップがある。 これに若い人でもやる気の出るような現代的な名前をつけたい。 仮称だが、修行の目的を表示した名前はどうだろうか。^^ T ファースト 〜 神探しのステップ U セカンド 〜 自分探しのステップ 〜 霊魂禅 V サード 〜 龍神探しのステップ 〜 龍神禅 W フォース 〜 守護霊探しのステップ ペラ世界の無限小は「事象の無」に到達するというのが ペラ感覚の常識かと思われるが メタ感性では 減少する空間領域に比例して「時間密度」が高くなるという想定の極限として メタ異世界が開口するという可能性を不定しない - -; (「メタ天ブン学」 🙋) ・ステップ → ステージに変更します。 ・守護霊探しは、偶然に左右されるので「隠し奥義」とします。 ・『命と物質の二元論』を、話全体の仮題にします。 仮題 『命と物質の二元論』 T ファースト・ステージ 〜 神探し U セカンド・ステージ 〜 自分探し 〜 霊魂禅 V サード・ステージ 〜 龍神(天使)探し 〜 龍神禅 ー 隠し奥義 〜 守護霊探し 【吉澤ひとみ被告コメント全文】 今日のヤホニュー 👰 私、吉澤ひとみは、この21日間独りでこれまでの人生を振り返り、自分自身と向き合う中で、 自分の弱さと未熟さを自覚しました。今回の私の行動は、決して許されることではありません。 なにより、怪我をされた方々に深くお詫びを申し上げます。 そして、一日も早く回復され、元の生活に戻れる事を心から祈っております。 今後は自分が犯した罪を償い、一社会人として母として恥ずかしくない行動ができるよう、 一歩一歩進んで参ります。また、今まで18年間お世話になった芸能界からは引退致します。 今回の件で、ご迷惑をおかけした全ての関係者の皆様にも心よりお詫び申し上げます。 今日まで応援し支えて下さったファンの皆様、ご支援いただいた皆様には、 裏切るような結果となってしまったこと、本当に、本当に申し訳ございませんでした。 死後世界に備えて 🐼 人生の目標を「魂(心)磨き」に定めておけば 幸福な人生を送れる確率が高くなります (^こ^) (アル中になる事もない と思う 🙋) _/ ̄ ̄\_ // \ヽ fY Y| | | /\)(/ヽ | | (V <・)| (・> V) | ー | ー | | \ ^^ / | 輝く魂は \ ヽ /\ / / この人生をも照らします /\____/\ | | VL∧/ | | (「即物人種」には「魂磨き」という概念さえ確立出来ない) ・「命と物質の二元論」の変更 → Life & Matter Theory ー→ 略して L&M セオリー ・隠し奥義 ー→ 隠れ奥義に変更します ・その他、若干の修正あり L&M セオリー T ファーストステージ 〜 神探し U セカンドステージ 〜 自分探し 〜 霊魂禅 V サードステージ 〜 龍神探し 〜 龍神禅 ーー 隠れ奥義 〜 守護霊 あきずに空や無我を主張し続けている人がいる。 そんなもの体験できるわけがない。それは本人もわかっている。 ではなぜ主張するのか。「信仰」や「思い込み」があるからだろう。 かれらは、経典にそう書いてある、竜樹や世親がそう言ってる、 仏教はそういったものだ、などと言い訳をし続ける。 もしかすると、仏教を商売にする学者や僧侶なのかもしれない。 まあ何にせよ、空や無我を主張した時点で、 口先だけの「凡夫」であることがわかる。そういった意味で、 空や無我はその人の正体を知るリトマス試験紙だと言ってよい。 空や無我が成立しない概念である以上、 それに基づいた仏教系のすべてが虚構の教えとなる。全滅www 大乗も密教も上座部もチベット仏教も・・・ (TT) もう一度、釈尊の教え〜原始仏教に戻らなければならない。 ダンマパダ、スッタニパータはもちろんだが、 釈迦最後の旅、『大パリニッパナー経』にも注目してほしい。 これは釈尊の侍者を勤めたアーナンダの話である。 もともと後世の改ざんを許さない性質があって、割に信頼できる。 そこに釈尊最後のコトバとして「自灯明・法灯明」がある。 この言葉は、梵天勧請の「信仰をやめよ」に通底している。 釈尊の最初と最後のコトバが同じなのである。 今日のヤホニューで 🙋 【6174"カプレカ数"の不思議】という記事で初めてった - -; どんな4桁の数字も同じ操作を繰り返せば必ず「6174」 という数になる不思議 - -; 数の世界には爺も知らない多くの不思議な法則摂理があり それは10進法に限らず何進法でも其々に現れる筈だが 何故そうなるのかは大いなる摂理であり天才数学者にも明かせない 👴 涅槃 〜 やすらぎ(ニルヴァーナ)とは何か 中村訳、サンユッタ・ニカーヤU-Y-1-1 梵天勧請より 話の概略ー縁起の道理(これを条件としてかれがある)と、 苦集滅道で妄執(欲望)を根こそぎにする。これによって、 やすらぎ(ニルヴァーナ)という真理に到達した。→ 梵天勧請へ ⇊ 耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。 おのが信仰を捨てよ。 ーー 甘露とは命の雫であり、神(命)のことである。 ーー 話の流れから、ニルヴァーナとは神との出会いを意味し、 ーー 釈尊は神(命)と出会っていたことになる。(◎_◎;) 釈尊は、自分との出会い、霊魂体験もしたのか。 スジャータに助けられた後じきに、坐禅中、満月を見て成道する。 わたしの経験から言えば、大きくて綺麗な満月を見たはずだ。 これが釈尊の霊魂体験であり、輪廻からの解脱である。 自分との出会い、霊魂体験をするには、 事前に神(命)との出会い、甘露体験しておかなければならない。 甘露体験がないと生還できない。甘露体験 → 坐禅開始 → 非想非非想処 → 魔境 → 霊魂体験 → 地上に生還の順序。 この坐禅は止(サマタ)であり、数息法だけを使う。 ちなみに観はどのステージでも使わない。止観の止だけを使う。 >>511 基本、自己責任なので、どんな方法であっても自由です。 ただし、釈尊が5〜6年近く修行に明け暮れても悟れず、 スジャータに助けられてじきに成道したことも参考にすべきです。 釈尊の流れは、気づき→甘露体験→止の坐禅→想受滅→霊魂体験。 スジャータから乳粥を受けた時の、 釈尊の気持ちをいろいろ想像してみてください。 甘露体験をするまでやってください。 これが公案とは違った、自己の気づき方です。 お釈迦さんに対して 信仰的態度で接することと 仏教の教えは違いそうですね スッパニパータ 236-238 にも、三宝(仏法僧)に帰依する話が 出てくる。釈尊が自分からそうしろと言うはずもないので、かなり 早い段階で、釈尊と仏教教団の乖離が始まっている。 三宝に帰依する話以外にも、疑問に思うものがいくつもある。 たとえば、八正道、四念処、十二因縁、五蘊仮和合など。 早くから空や無我を目標に教義や修行が体系化されているので、 釈尊の真実を発掘するのは容易ではない。 仏教の歴史を簡単に要約すれば、悟りで釣って、 悟らせないようにすることだった。TT --------------------------------------------- 真実の発掘 〜 釈尊の説く「中道」とはいったい何か。 ーー 四区分別で検証すると次のようになる。 T 快楽主義 〜 王子時代 U 苦行主義 〜 出家時代 V 快楽かつ苦行 〜 これは同時には成立しない? W 快楽でもなく苦行でもない 〜 これが釈尊の中道である。 ーー 釈尊の定義が、中論の中道、非有非無の背景にある。 もちろん、(快楽+苦行)÷2 = 中道ではない 快楽と苦行の二項で否定的に定義された、中道の中身は曖昧だ。 偏ったことに気づいたら、その都度修正するのだろう。 ーー 体が快楽を求め、霊が苦行を求めるのだから、その人の ーー 内なるエネルギーのせめぎ合いと見て、中道=霊主体従かも。 V 快楽かつ苦行 ドストエフスキー『地下室の手記』に、歯痛にも快楽を感じる話がある。 マゾっぽい話だが、快楽と苦行は同時に存在するみたいだね。 快楽だって浦島太郎のように、何年も続いたら飽きてしまって嫌になる。 ということは、快楽と苦行を貫く「自我」が存在していることになる。 Tの快楽主義にもVの苦行主義にも、同じ「自我」が存在している。 ではWの、快楽でもなく苦行でもないケースはどうなのか。 これも判断主体「自我」が存在しないと、適切な行動が不可能になる。 以上から、釈尊の中道は「自我」という主体を前提にしている。 これに対して『中論』の中道は、「自我」のいない非有非無であり、 釈尊の中道とはまるで異なっていることがわかる。 竜樹は最初からアートマンを無視している。 ちなみに竜樹の四区分別 ・・・ 有と無を相互依存させる T有 U無 V有かつ無(〜具体的イメージが何も湧かない ^^) W 非有非無 〜 有でもなく無でもない → 空=縁起=中道 中論24-18 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。 中論25-10 師(ブッダ)は生存と非生存を捨て去ることを説いた。 それ故に『ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず』というのが正しい。 中村博士の反論 『龍樹』 p291 ここで竜樹の議論には若干の飛躍がある。われわれは生存に執着して、 妄執によりあくせくしてはならない。しかしまた非生存(断滅)にとらわ れて、人生を捨てて虚無主義になってはならない、と原始仏教が説いて いたことは事実である。しかし、そこからいきなり、「ニルヴァーナは 有でもなく、無でもない」といえるかどうか。 ーー わたしも同感ですね (^−^) 竜樹がなぜダメなのかと言えば、 釈尊の説いた「縁起の理法」と「苦集滅道」を台無しにし、 ニルヴァーナを破壊、悟りを不可能にしたからである。 竜樹にとって、事物は一切皆空で実体が無いから、相互依存、 因縁によって仮に存在しているだけになる。そういう存在であれば、 苦楽もなく、生死もない。→ 空になりきれば悟りなのである。 さらに、因果関係を説く苦集滅道も実体がないから空になり、 竜樹の説く空に吸収してしまう。手品のように苦集滅道を消滅させる。 そんなわけで、竜樹こそは仏法の大破壊者ということになる。 では、釈尊の説いた「縁起の道理」とは何か。 梵天勧請の「これを条件としてかれがあるということ」だけでは、 いまひとつピンと来ない。しかし、釈尊の縁起の道理は失われている。 そこで、わたしが使ってきた縁起を紹介しよう。 縁起するものは、真偽、善悪、美醜などの判断基準に限定する。 それ以外の、精神と物質のすべての思考対象に、 因果関係(原因→結果、結果→原因)を使う。 この使い分けができれば、ニルヴァーナに至ることも可能です。 検査済みなので保証書付。たぶん釈尊と同じ方法だろうと推測します。 苦集滅道 〜 苦の意味 なんで楽ではないのか。楽して悟れたら最高ではないか。 ところが、苦しまないと悟れない仕組みになっている。 ヨブ記のヨブのように、苦しみに苦しまないと神に出会えない。 この世への執着が完全に消えた時に自我が消滅する。 だが、砕かれた心を神は侮らない。 心が砕かれた瞬間、神の甘露が上の方から落ちて来る。 これが神との出会い、ニルヴァーナである。 だから苦であり、苦集滅道なのである。 この世に愛された人々には決して味わえない至福の境地である。 貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々 心の清い人々は幸いである。あなたがたは神を見るだろう。(^−^) なぜ楽は許されないのか それでなくても許されないのだから、空だとか無我だとか言って、 悪いことを積極的にやる人はなおさら許されないだろう。 その理由は心の仕組みにある。 心の仕組みは下記のようになっている。 神(命)→心【霊魂→カルマ識→背後意識→日常意識】→現実への執着 人間が神に近づくには、矢印を逆向きにしなければならない。 楽を感じる人間が、どうして現実に背を向けられるだろうか。 苦を感じる人間だけが、苦を生む現実に背を向けることができる。 心がこういった仕組みであるのは神秘としか言いようがない。 ーー それは人間を創造した神(命)の意志なのである。 AI上に自意識や感情を構築する愚か過ぎる(不可能な)夢は いざ実現すれば「不吉な娯楽」以外には何の使い物にもならない 笑w 🙋 釈尊の憂慮 ・・・ by 梵天勧請 苦労してわたしが「さとり」得たことを 今説く必要があろうか。 「貪りと憎しみ」にとりつかれた人々が、 この真理をさとることは容易ではない。 これは【世の流れに逆らい】、微妙であり、 深遠で見がたく、微細であるから、 「欲を貪り」闇黒に覆われた人は 「見ることができない」のだ。 人間の中には常住と無常とが同時に存在している。 人間存在は、無常でもないし常住でもない。 非有非無の中道が常に成立している。中論27−17、18 常住 → (神-命も常住)〜霊魂-アートマン 無常 → カルマ識・背後意識・日常意識〜(身体・現実も無常) これらの真理を探求する方法が二つある。 苦集滅道 → 原因・結果から現象の因果関係を明らかにする。 縁起 → 善悪・真偽などの縁起で、自分の思い込みを発見する。 ーー これが縁起の正しい使い方であり、それは無意識の世界に ーー 潜って行く潜水艦のサーチライトである。 わたしは坐禅の「観」をまったくやっていない。 その代り、フロイト心理学と唯物弁証法に熱中した。 詩や小説や画集などを、作家の経歴から鑑賞するようにもした。 こうすると作家の個性がわかって得るものが大きかった。 こんなことをしていたら、神との出会いを偶然やってしまった。 坐禅は神との出会いをした後、自然にやりたくなったので始めた。 それから天台小止観の流布本を見つけ、数息法の「止」だけをやった。 やり始めて半年ぐらいで想受滅から霊魂体験をする。 いま思えば、意味もわからないうちに体験だけが先行した。 宗教に無知、師もいないから、体験の意味を知るのにむしろ苦労した。 こんな経過から、師は不要、生活全体で観、観→止の順序を薦めたい。 坐禅では観を省略、数息法の止だけを行う。 神との出会いをしてから坐禅を開始する理由は、 @ 魔境→想受滅を体験するためであり、 A 霊魂体験から地上に無事生還するためでもある。 観をやるなら生活全体でやり、坐禅は止のみに限定する。 この方が安全であり、より短期間で悟れる可能性大。 どんな宗教であれ、止→観の修行体系であったら誤りである。 止→観を小刻みに繰り返すタイプも誤り。 密教やチベット仏教は坐禅の観を重視するようだが、邪道である。 観の誤用であり、誤って想受滅に入る危険もある。 坐禅の目的は、霊魂=アートマン体験にある。 心の仕組み(>>523 )の反対のことをやる。 現実への執着から離れ、意識を心の奥底へと向けるのが坐禅である。 それゆえ坐禅は、「止」オンリーでやるべきものである。 もともと坐禅は不自然な格好である。 不用心この上もないことをやるのだから、できるだけ短時間がよい。 坐禅をして考えるなら、目を開けて考えた方が安全である。 心に浮かんだ想念を、「観」で変容していく宗派もあるようだが、 妄想とか白日夢と何が違うのだろうか。坐禅の乱用だと言っていい。 「観」は坐禅ではなく、生活全体で行うべきものである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる