■■■臨死体験■■■
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梵天懇請
わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、
絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところであ
る。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに
耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。
さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを
嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがあるということ>
すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまる
こと、すべての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、
止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。
だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたし
のいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。
わたしには憂慮があるだけだ。 苦労してわたしがさとりを得たことを、
今説く必要があろうか、
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、
この真理をさとることは容易ではない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、
深遠で見がたく、微細であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々には見ることができないのだ。
釈尊がこのように省察しておられるときに、何もしたくない
という気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。 そのとき釈尊は梵天の懇請を受け、生きとし生ける者へのあわれみ
によって、さとった人の眼によって世の中を観察された。・・・
見終わってから、世界の主・梵天に詩句をもって呼びかけられた。
耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。
梵天よ、人々を害するであろうかと思って、
わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。
(中村元訳『サンユッタ・ニカーヤU』第Y篇梵天に関する集成より) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています