■■■臨死体験■■■
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なぜマナ識がアラヤ識より先に発生するかと言えば、
神から離れた霊魂が下降して霊界の存在になった時、霊的なものと
物質的なものとを見分ける能力が最初に必要になるからだ。
アラヤ識はその後、実際に物質世界で生きることで発生し、
本能となりカルマ(業)になるのではないだろうか。
それが物質世界と関係したものならば、ジャイナ教の説くように、
精神に付着した繊細な物質的汚れと解せなくもない。
ただし、そんな汚れを苦行で洗い流せるのかどうかは疑問だが。
確かにアラヤ識はカルマ(業)なのかもしれないが、
それより本能と解し、本能から生まれた食や性への欲望を断つほうが、
解脱の努力目標が明確になってベターだろう。通常、その人の欲望や
カルマ(業)は、その人の個性とか人格とか呼ばれるものである。 >>202 のEからわかるように、
人間はアラヤ識という「過去世」を抱えた状態で生まれて来る。
従って、社会生活が不十分で日常意識が未発達なうちは、
「過去世」のことを思い出す可能性がある。
しかし、成長して日常意識が発達すれば自然に潜在化してしまう。
過去世の記憶があったとしても何の役にも立たないし、
何か問題があったから輪廻して生まれ変わったのであり、
アラヤ識(過去世・欲望・カルマ)を切り捨てることが解脱なのだと
知らなければならない。過去世など知らなくてもいい。 意識の発生史は(マナ識→アラヤ識)なのに、
精神の構造は(アラヤ識→マナ識)になっている。
ここに人間の救いがある。
精神構造が(アラヤ識→マナ識)だから、転倒妄想が生じる。
他方、アラヤ識を消滅させ、神に出会うことも可能だ。
この構造の中に、人間の「自由意志」がある。
マナ識は日常意識に残された最後の「良心」である。
マナ識→アラヤ識→日常意識だと、
良心がアラヤ識に覆われてしまい日常意識に届かない。 天使は存在するのか否か
天使は存在する。天使を見たのだから間違いない。
天使は霊的な存在であり、霊界生き通しである。
知らぬが仏で、人間は何気に生きているが、
この天使と守護霊が人間の運命に大きな影響を与えている。
言葉はウソをつくことがあるが、
体験はウソをつかない。 輪廻は存在するのか否か
アラヤ識自体の存在が輪廻を証明している。
アラヤ識に出会うには、坐禅をし、想受滅を体験しないと不可。
そこまでやれたら出会えるが死ぬ可能性があり、
求めて体験できるものでもない。
わたしの場合は偶然体験してしまった。
それが想受滅だったことは、宗教板でどなたかに指摘されて知った。
何も意識しないで、機が熟し、たまたまなのがよかったかも。 死んだら
お地蔵さまが助けてくださる。
オンカカカビサンマエイソワカ そもそも、この横槍が問題なのである
要するに、この横槍が、このバイセクシャルのホモ豚と
同一人物がという疑惑につながるのである >>204 の訂正
× アラヤ識(過去世・欲望・カルマ)
○ アラヤ識(過去世・本能・カルマ)
欲望は日常意識に属していた。
食欲や性欲や金銭欲などは日常的に意識できる。
だからこそ、欲望をコントロールしようとすることにつながる。
もちろん簡単ではない。
しかし、精神に付着した物質的汚れを落とすよりやりやすい。
努力目標を具体的イメージで設定できるのだから。 これからはヅラとメタやで
ヘビメタからヅラメタや
臨界点超えるでw 瀕死体験ならあるでぇー(^こ^)
子供の頃 赤痢にかかって 田舎医者が症状把握出来んで危うかったんょ🐼
国立病院を退院した時には 悪ガキから誠実謙虚なガキに変身しとっただょ - -; 臨死体験とは、事故や病気により、精神が身体的拘束から解放される
ことで生じる、偶発的・受動的な神秘体験のことを言う。
宗教上の悟り体験とは、人生の意味を探求するなかで、精神が身体的拘束
から解放されることで生じる、意志的・能動的な神秘体験のことを言う。
両者の共通点は「精神が身体的拘束から解放される」ところにあり、
本質的には同じタイプの神秘体験だと考えられる。 輪廻転生については下記のサイトを検索してください。
スピ系の諸説をまとめて解説している。
シルバーバーチの霊訓の画期的な通信内容
5章 再生説 植物はわからないが、
愛情表現ができる動物には霊魂があると思われ。 >>216 再生説の終わりに、再生には二つの目的があるという。
@ カルマの清算と
A 類魂全体の霊的成長
再生は事実だが、過去の人格がそっくり機械的に再生するのではなく、
その人の意識の総体の、別の部分が再生するという。
しかしこれには同意できない。
カルマの清算は個人的なものだから類魂には関係しないはずである。
過去世のアラヤ識がそのまま再生した方がカルマ的には合理的だろう。
また類魂の話は、霊界に限られるのではないか。
地上でも類は友を呼ぶ。物質的なものが脱落した霊界では、
それ地上以上に「類は友を呼ぶ」ことが想像される。 持論とも呼べない ただの空予測だが (^こ^);
人格は国会決議の様に多種の派閥議員(個々の霊性)の集合体であり
(天使と悪魔が同居したり多重人格や酩酊で人格豹変したり・・・etc.)
その精神世界で構築された「霊性の質」により 死後世界での振る舞いが決まる - -;
強固な「真我」に成長した主体と 周辺の雑多で虚ろな霊性とは行く末も異なる - -;
個人に集合していた無数の霊性は その死後様々に分散し
様々な「生き物」に新たに参加集合する可能性も否定できない - -; >>219
猫から人へ再生とか、いろいろなパターンがあるかも。
猫顔とかキツネ顔の人がいるものね。^^
>>220
× それ地上以上に → ○ それ以上に >>220
誰が何を基準にしてカルマを清算するの? >>223
横からだが 「大いなる摂理」と言っとけば無難かな? - -; >>224
根拠は?
もしかして貴方の脳内で作り出した妄想ですか? >>221
難しい話ですね。もしかして憑霊現象ですか。
>>223
自分のカルマ(アラヤ識)は自分で落とす以外にないです。
それを落とすことが悟りですね。 欲望を否定することで神に出会う。
これ以外の道はない。
それゆえ、金を求め豊かさに執着し、ハーレムを作るような宗教家は、
どれもこれもニセモノだということがわかる。 >>227
根拠は?
もしかして貴方の脳内で作り出した妄想ですか? アラヤ識(過去世)は、生きている死体、沈黙の識である。
アラヤ識を落として消去することが悟りだから、
悟った人は過去世とさらに遠ざかる。
悟った人は「六神通」という超能力を獲得するとも言われるが、
これはフェイクである。そんな能力を得たと公言すれば、
悟っていないことが逆にばれてしまう。^^
神足通〜機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行する。
天耳通〜普通聞こえることのない遠くの音を聞くことができる。
他心通〜他人の心を知る力。
宿命通〜自分の過去世(前世)を知る力。
天眼通〜一切衆生の過去世(前世)を知る力。
漏尽通〜自分の煩悩が尽きて、今生が最後だと知る力。 自分の前世もわからないのに、他人の前世を語る人がいる。
そんな人は真っ赤なペテン師だと断言できる。
調べようがないから、適当な作り話をしているだけだ。
あの人も、あの人も、あの人も、金儲けのためにウソをついている。
そんな人にだまされるのは自業自得ではあるが。 >>228
欲望があるから、うそをつき、盗み、淫行し、人を殺す。
欲望を否定すれば精神的に死んでしまう。
しかし、精神的に死ねたとき、神に出会って救われる。
その神は命そのものである。命以外の神などいるはずもなく、
命の代わりに物質で造られた偶像を拝むわけにはいかない。
また命は命であり、特別の名前をつける必要性もない。
原始仏典『スッタニパータ』を読めば、
釈尊が欲望を捨てることを力説していることを知るだろう。
欲望があるからこそ、人間の苦しみも生まれるのだ。 >>221 仏教の「空」には同意できません。
霊魂の有無は、いくら議論しても結論には至れません。
坐禅をし、想受滅から霊魂体験をしないと謎は解けません。
神の有無も同様、実際に神に出会わないとわかりません。
日常意識・マナ識・アラヤ識・霊魂の関係は次のようになります。
目覚めている時は、日常意識が自分自身だと思ってます。
夢を見ている時は、マナ識が自分自身だと思ってます。
霊魂の時は、霊魂が自分自身で、他のことをまったく思い出しません。
四つの意識は相互に関係しあっているはずですが、
時点時点の意識はどれか一つがすべてを代表し、
複数の意識が同時に働いて分裂状態になることもありません。
ーー 多重人格は憑霊現象ではないかと思われます。 キリスト教の原罪も、やはり「欲望」ではないだろうか。
創世記3章、アダムとエバは園にある「善悪の知識の木」からその実を
取って食べるが、食べると目が開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はイチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
この話のポイントは、食欲と性欲という欲望と、(神の命令に背いても)
欲望に屈服してしまう自分たちを善とする判断にある。
すなわち、欲望に負け、欲望に屈服してしまうことが原罪なのである。
そうだとすれば、イエスの十字架で贖えないことは即座にわかる。
欲望は個人的なものであり、イエスを信じても、
欲望すなわち原罪はそのままその当事者のもとに残っている。
だからイエスが死んでも、世の中は何一つ変わらなかったのである。
もともとイエスの贖罪説はパウロの作り話だったわけだ。 キリスト教信者は、教会で洗礼を受ければ救われるとカン違いしてる。
しかし、そんなことで欲望を支配することはできない。
人間は天邪鬼だから、むしろ逆に欲望に火がついてしまうこともある。
欲望が原罪だから、欲望をそのままにしているキリスト教信者は、
天国に入れないことを覚悟した方がいいだろう。
欲望を支配することは、生涯の大事業だと言っても過言ではない。 創世記3章エデンの園には、「命の木」をテーマにした後半がある。
その実を「善悪の知識の木」から取って食べたアダムとエバが、
命の木からも取って食べないように、エデンの園に住んでいた神々は
命の木に至る道を守るために園の番人を置いた。
その実を食べると、永遠に生きる者になることを恐れたからである。
この話は逆に、アダムによって人類に入り込んだ「罪」が救済できる
ことを暗示しているではないだろうか。命の木の実を取って食べることが
できれば、「永遠の命」を得ることになるのだから。
この話が真実であれば、ここに人類救済の秘密が隠されており、
これが解ければキリスト教はやがて崩壊する。イエス・キリストとは
関係なく、人類は原罪から救済されるからである。 命の木の謎は解けた ^^ → 神は「命」そのものである
前半の「善悪を知る知識の木」は欲望を象徴していた。>>233
そうであれば、欲望を消滅すれば、「命の木」の実を取って食べる
ことができる。理屈の上ではそうなる。そして実際そうなる。
命の実とは「命」そのものであり、これが「永遠の命」である。
命の木とは命の実をつける「神」本体のことを象徴する。
園の番人とは、神によって創造された霊界の高級天使である。
園にいる「神々」は、この神話を作ったどこかの祭司たちである。
創世記がバビロン捕囚後に追加されたことを考慮すれば、
ユダヤ神話ではなく、バビロンで採集された神話の可能性が高い。 イエスがキリストであることを信じれば救われる ???
それも死んだ後の話なんだってさー ???
よくこんな怪しげな宗教を信じられなー ???
キリスト教を国教にされ弾圧され、聖書も読めなかった時代の
ローマやヨーロッパの民衆なら仕方ないだろう。
しかし今や、信教の自由が保証されている。
キリスト教という邪教を信じる理由などまったくない。
神国アンド仏教国の日本人の世界史的役割は、
キリスト教やイスラム教やユダヤ教などの一神教の批判にある。
ざっと見渡しても、日本以外に批判できそうな国はない。^^ ーー 多重人格は憑霊現象ではないかと思われます。
↑ 国に喩えれば 党首交代 政権交代 クーデター・・等かも - -; ヒントは、
イエスの教えを守ること、ですよ。
また、
わたしは道であり、命であり、真理である >>238
話題が無くなって困ったなと思っていると、
マスターのレスが入るので大助かりしてます。(^−^)
多重人格の憑霊現象は、どの段階の意識に憑霊するのか?
神の息である霊魂や、過去世や本能であるアラヤ識には憑霊できない。
それらは個体の中枢部分を形成する意識だからである。
かといって表層意識に直接憑霊することもできない。
そんなことが可能なら、この現実で生きられなくなるからである。
表層意識への憑霊は、神の摂理によって赦されないようだ。
だとすれば、マナ識への憑霊によって多重人格現象が生じる。
それも複数の悪霊が取り憑く現象である。福音書にもその例がある。
マタイ 8:28−34 悪霊に取り憑かれたガダラの人をいやす
同書 12:43−45 汚れた霊が戻って来る 表層意識のひとつ下にマナ識がある。夢や魔境に現われる識だが、
催眠術は、表層意識にコトバによって働きかけ、マナ識をコントロール
しようとする技術である。退行催眠による前世療法もあるという。
憑霊現象はこれらと異なり、悪霊が直接マナ識に働きかける現象である。
悪霊が近づくのは、その人の精神が汚れているからに他ならない。
その意味では、その人がやった行為は、その人に記憶がなくとも、
その人の責任になる。たぶん憑霊した悪霊も責任を取らされるのだろう。
憑霊現象は、その人の表層意識を悪霊が支配するため、
当人には現実の記憶が基本的に失われる。
悪霊の支配が不完全なら、多少の記憶が残っている可能性はある。 人間には通常、守護霊が憑いていると言われている。
この他にもヨブ記のヨブように、高級天使が憑く場合もある。
こういったケースも憑霊現象に分類できるだろう。
いずれにしろ、マナ識を通して働くので表層意識には把握できない。
善霊にしろ悪霊にしろ、自分以外の存在に運命を左右されている
としたら、もっともっと謙虚に自分を見直す必要がある。
相手の姿が見えないから戦いづらいが、どちらであっても一本槍、
【欲望を否定する】ことで勝利者になれることだろう。 人格が内部分裂して党首交代する多重人格は心理学的事象とされるのに対して
憑依霊による多重人格があるなら それは超常的な神秘現象と呼ばれるだろう
実際には(科学的にも)意識自体が宇宙最大の神秘現象なのだが (笑)
内部分裂と外的憑依での「内・外」は精神世界のそれであり
物理世界の「内・外」の様に明確な境界定義も無く解釈が困難である
意識と無意識と集合無意識などの分類では「内・外」の概念が希薄になる
感じとして 言語・概念の絶対性に固執すればその分感性が萎む気がする 🐼 欲望の否定を実践すれば、悪霊が遠ざかり多重人格は消える。
しかし今度は、守護霊、高級天使がやって来て試練に遭うが、
この場合は幸い、多重人格にはならない。
守護霊・高級天使は悪霊を遠ざけ、本人の霊的成長を促進する
目的で試練を与える。本人のための試練だから、本人の意識を破壊する
ような多重人格は起こさない。
どちらも無意識無自覚だから、そういった現象が通り過ぎてから、
ああ、あれはそういうことだったのかと気づく程度である。
欲望を否定しようとすれば、遅かれ早かれ体験できることであり、
実際に体験すれば納得せざるを得ないだろう。 憑霊現象の具体例はいくつかある。
自動書記は、大本の出口なお、天理の中山みき
口述霊媒は、出口王仁三郎の『霊界物語』、スピ系の霊界通信多数
エドガーケーシーのアカシックレコード?
アラヤ識ではないかとの説(ウィキ)もあったが、憑霊現象だろう。
自分の過去世(業)が自分の日常意識を乗っ取ることなどありえない。
影のようなものはあるのだろうが。 「空」についての補足
宇宙がビッグバンによって「無」から生じたなら、事物は「空」である
と考える余地もあるかもしれない。しかし、事物は有の世界の側にあり、
その中で人間は生きている。
インドでは仏教が滅びている。「空」という戯論が、民衆の苦しみを
救うのに役立たなかったからである。日本の仏教も同様であり、
いつ滅びてもおかしくない状況になっている。
どうしたらよいか。「空」という戯論を捨てて、
仏教の原点 〜 苦集滅道、縁起の理法に戻る以外にない。 「G現象界」 >🐼 (メタ現象界)
「絶対無」を 如何なる領域も 如何なる可能性も無い非存在と定義し
「絶対無」以外の如何なる存在も G現象界であると定義すれば
「G現象界」の「絶対無限」が論理確定する - -;
G現象界の「原初」を想定しても 常に原初が生じる可能性が
『それ以前に存在する』 ゆえに 「原初」 は否定され
G現象界が 「原初の無い永遠」である事が論理確定する - -;
唯一絶対無限の存在に外は無く 外部からのエネルギー供給は
不可能であり G現象界が「永久機関」であることが論理確定する - -;
時間/空間/可能性/摂理/法則/意識/生命 等は
物理現象として説明不可能な 物理以前の存在であるから
この世界が メタ異世界から成る 複合世界である事が論理確定する - -;
以上の事から
G現象界の「無原初絶対無限メタ複合構造永久機関」が論理確定する 🐼
「メタ天文(ブン)学」 🐼 (=「G現象界」の局所薄皮)
この宇宙は無限大と無限小の間に在る
この宇宙の両極は無限大と無限小である
無限大空間の背後は メタ空間異世界であり 無時間世界である
無限小空間の背後は メタ時間異世界であり 全時間世界である
「メタ時・空反応」が この宇宙の全現象であり
「メタ時・空落差」が この宇宙の全エネルギーである
ビッグバンはメタ時・空異世界の出会い・反応であり
素粒子はメタ時・空異世界反応の定在波(渦)である
重力は物質に流れ込むメタ空間異世界の作用であり
光は物質から放射するメタ時間異世界の作用である
無限大は無数の無限小で埋め尽くされており
両者は対等で表裏一体的「メタ構造」を成している 🐼 巨人の坂本が打てなくなっている
バッティング霊の早めの夏休みかねぇ - -; 神と天使と霊の使い分け 〜 暫定的な私論です
神は、命そのものであり、神のいる仮想空間を神界という。
ーー 神から分離した命を神霊or神の霊という場合もある。
ーー たとえば、エデンの園の「命の実」を神の霊と言うように。
天使は、霊界に住む、霊界生き通しの霊である。
ーー 天使は、神に仕え、人間には仕えない。
ーー その任務は、神界が物質に汚されるのを防ぐことにある。
霊は基本、霊界に住んでいる、死者の霊をいう。
ーー 生きている人間に対しても霊を用いることがある。生き霊。
ーー 天使も霊界に住んでいるから、霊の仲間に分類される。 これが正しければ、次のようなことが言えるかもしれない。
守護霊 〜 死者の霊であって、地上で生きている人間を導くために
類魂集団から派遣される。血族・祖先であるとは限らない。
ある特定個人に憑いて霊的成長を促すことを主たる任務にするが、
本人が欲望に囚われ、影響力を行使できない状態になれば、
距離を置くことがある。その代わりに悪霊が近づいて来る。
高級天使 〜 人間が欲望から離れようとすれば悪霊が離れる。
しかし今度は、高級天使による試練が始まる。なぜなら、欲望から
離れようと思ったぐらいでは、物質的な汚れが山ほどついているからだ。
高級天使は、あらゆる霊に対して試練を与えるのではない。
神や神界を目指そうとする人間(生霊・死霊)に対してだけ試練を与える。
ーー 守護霊はいいが、守護天使という言い方は誤りである。 *神は命そのものだが、
「神は、法則なのか、それとも人格神なのか?」
この問題は、神という永遠にして普遍的な存在が、
人間という有限にして個別的な存在に関係することで生まれる。
神に好き嫌いがあっては神とは言えないから、
そういう意味では、神は法則であって人格神ではないだろう。
他方で、人間という有限で個別的な存在が神と出会えば、
自分の個別性で神を理解するから、神を人格神と感じる余地がある。
神の愛は、神と自分との間に生じた限定的な愛なのである。
結局、法則神も人格神も正解だとも言えるし、
どちらも間違っているとも言える。 聖書には、神との出会い話があるようで意外に少ない。
ただ単に、神と出会った、では参考にならない。
神と出会う方法や、高級天使のことを知りたいのである。
それでも参考になるのは、エデンの園、ヤコブとエサウの話、ヨブ記、
マタイ3、4:1−11あたりだろうか。
その点、分厚い本なだけに物足りなさが残る。
それに聖書には、自分との出会い〜霊魂体験への言及がない。
輪廻も一か所を除き同様である。意図的にカットされた印象を受ける。
ーー エリヤの生まれ変わりが洗礼のヨハネ、マタ11:14 ヤコブとエサウの話ではベヌエルの格闘(創31:22 - 32:32)
ヤボクの渡しを前にしてヤコブは、背後をラバン(妻二人の父)に
ふさがれ、行く手には兄のエサウが400人を連れ迫って来る。
ヤコブは進むことも退くこともできず、ヤボクの渡しで一夜を過ごす。
そこで彼は何者かと夜明けまで格闘した。その人はヤコブの腿の
関節を打ったので、腿の関節がはずれた。
ーー ヤコブが格闘した相手は、ヤコブ自身である。
ーー ヤコブは自分の欠点に気づいた。周囲を出し抜くことである。
ーー ヤコブは自分で自分の腿を打って悔いた。
ーー その瞬間、ヤコブは神に祝福される。
その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと
呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 創32:29
ーー 神は話さないから、これは物語作者の解説だと思われる。 ヨブ記は31:35-37,40
ーー 自分は絶対に正しいという思い込み
ーー 世の中の人は全員がこんな状態になっている
ーー 欲望に従って生きることを悪いことだとは思っていない
全能者よ、答えてください。
わたしと争う者が書いた告訴状を
わたしはしかと肩に担い、
冠のようにして頭に結び付けよう。
わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、
君主のように彼と対決しよう。
ヨブは語り尽くした。 ヤコブに対する「試練」の始まりと終わり
ヤコブは兄エサウとトラブルになり、母の兄・ラバンの家に向かった。
その途中、石を枕に寝ている時、不思議な夢を見る。
天から地に向かって階段が伸び、神の御使いたちがそれを上ったり
下ったりしている。ヤコブはその地をベテル(神の家)と名づけた。
ーー これが天使の「試練」を受け始めるきっかけである。
ヤコブは、ラバンに酷使されること20年、
ついに妻子や家畜を連れてラバンのもとから逃げ出した。
ーー これがラバンの追跡、ベヌエルの格闘へとつながる。>>253
ベヌエルの格闘で正体不明の何者かに勝利して「試練」が終わり、
ヤコブ改めイスラエルに変わり、高級天使が仕えるようになる。 ヨブに対する「試練」の始まりと終わり
ヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。
それゆえに高級天使の「試練」を受けることになる。
ーー そういった人々は神に近づこうとするから試練に遭う。
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。
ヨブ記42:5-6 〜 試練の終わりは神との出会い
しかし、この詩の意味は微妙である。AからBではないだろうか。
@ 神を見たから悔い改める 〜 それでは当たり前過ぎる
A 悔い改めたから神を見る 〜 まず自分の誤りに自分で気づく
B それによって神を見たから、衝撃を受け、再度深く悔い改める 神に仕える高級天使は人間にも仕えるのか 〜 マタイ4:1-11
イエスは高級天使から試練を受けている。
ーー イエスが神なら、悪魔に試されるわけがない。
ーー 悪魔が高級天使なら、試練に遭うイエスとの関係が理解できる。
ーー この個所のイエスは紛れもなく人間である。
そこで、悪魔は離れ去った。
すると、天使たちが来てイエスに仕えた。マタイ4:11
ーー 天使が人間イエスに仕えることは基本的にありえない。
ーー しかし、人間に仕える可能性は考えられる。
ーー 天使がその人間を神だと認めればその人間に仕えるだろう。
ーー 高級天使はイエスから離れ、イエスを神とは認めなかった。
ーー このテーマは天使論の奥義だよ〜ん。^^ 神の傑作である天使は、なぜ神に仕えているのか?
天使は霊界生き通しの霊的存在である。
ということは、神→霊魂→マナ識という精神構造になっており、
過去世、カルマ(業)、本能を担うアラヤ識が欠けている。
人間の精神は神→霊魂→アラヤ識→マナ識であり、
アラヤ識が霊魂に覆いかぶさっている。
マナ識は精神世界を認識する能力だが、アラヤ識があることで
神や霊魂とはそれだけ隔てられ、遠ざかることになる。
両者を比較すれば、神や霊魂と近いのは天使であり、
人間の精神はアラヤ識の分だけ、天使に劣ることになる。
これが、人間が天使に劣っている理由である。 その天使がなぜ神に仕えるのか。それは、人間が持っている
アラヤ識や物質的なものへの執着を、汚れとして認識するからである。
天使は霊魂しか知らず、純粋で清浄な世界を生きている。
その天使からすれば、人間の物質的汚れは絶対に許せないのである。
だから、神が黙っていても、天使は自動的に神に仕えることになる。
天使が人間に試練を与えるのは、人間が神界を目指す時に限られる。
人間が欲望に支配されて物質世界を生きている限り、
その人間の精神は物質で覆われ、天使の目から隠されるからである。
しかし、もっと誠実に生きようとか、霊的に成長しようとかすれば、
天使の試練が始まり、塗炭の苦しみを経験することになる。
本人が退却すれば、それ以上の試練は経験しないで済む。
進むも退くも本人次第だから、何があっても本人の責任で自業自得。
ーー たどたどしかったが、神の経綸はこんな感じだろうか。 信じられないかもしれないが、
これだけ天使のことが書けるのは、
三途の川で天使に出会ってるからだよ。
臨死体験してるんだね。 間違った教えを信じたり、
お金を貰って間違った教えを説いている人は、
救われるどころか地獄に落ちるかも。
信者より教師の方が罪深いらしい。
教師は死後、間違った教えを信じた人たちを訪ね、
一人一人に謝罪することになるらしい。
赦してもらえるかどうかは相手次第で定かではない。 人間は天使の上位になれるか
天使の精神は神→霊魂→マナ識になっている。
この構造だと霊魂のことはわかるが、神のことは永遠にわからない。
天使には物質的な試練がないからである。
人間の精神は神→霊魂→アラヤ識→マナ識→物質であり、これであれば、
まず物質的な欲望を否定することで「神に出会う」ことができる。
次に想受滅でアラヤ識を消去できれば、「霊魂に出会う」ことができる。
人間が天使と出会う場所は坐禅中の魔境である。
ここで神の愛アガペーを示せたら、天使がその人間に仕え始める。
今まで知る術のなかった愛に出会えたからである。 この観点から、悪魔の誘惑(マタイ4:1-11)を検証してみよう。
イエスは悪魔から誘惑を受けるため、(神の)霊に導かれて荒れ野に
行かれた。そして四十日間、夜も昼も断食した後、空腹を覚えられた。
すると誘惑する者が来て、イエスに言った。
@ 神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。
→ 人はパンだけで生きるものではない。
→ 神の口から出る『一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。
A 神の子なら、飛び降りたらどうだ。
→『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。
B 世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて、
--『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。
→ 退け、サタン。
→『あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ』と書いてある。 問題点@ イエスは、悪魔(天使)に神の愛アガペーを示さない。
これだけで失格、イエスに天使が仕えることはない。
問題点A イエスは三つとも、旧約聖書から引用して答える。
その重要性が理解できてないから、まるで他人事のような答え方である。
悪魔(天使)が仕えてくれるかどうかというのに。
問題点B 夢の中で聖書のコトバなど思い出さない!
悪魔(天使)が現われるのは、深層意識、たとえば夜の夢とか
坐禅中の魔境とかである。コトバは表層意識に属しているから、
聖書をいくら学んでも悪魔(天使)対策には役に立たない。
結論 〜 この話は下手な作り話としか思えない。 もしかするとキリスト教は、天使の試練を避けるために、
物質的な欲望をそのままに温存しているのかも。
洗礼がすめば、もう天国に行けるものだと思い込んでいる。
でも欲望まみれだと、死者の霊である悪霊が寄って来るんだよね。
それでなくても処刑具を拝み、人肉食のマネゴトまでやってるし、
ヒェー、教会は恐い〜恐い〜場所なのかも〜〜 ^^ ペラ観察とペラ分析を限りなく捏ね回したペラ論理が
(意識創発機序」の触りも語れんのは
(当然だが) 笑えるばぃ(^こ^)w 御意 >🐼 w 話の内容が違うが、いったいどっちが本当なのか
それとも同じことを言っているのか
ヨハネの黙示録 〜 最後の裁き 20:15
その名が「命の書」に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
エレミヤ書 〜 新しい契約 31:33
来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、
と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、
彼らの心の中にそれを記す。わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。 神の手元に「命の書」という書物が存在するとは考えられない。
神は命そのものであって、物質的なものではないからである。
そうすると、エレミヤ書で語られている方が本当そうだ。
人間の心の中に刻んで置けば、裁きを間違えること決してない。
生きている間に心の中へ刻まれるとしたら、生きている間に
神の民であることを自覚し、神の民として生きることもできる。
心の中に記された、刻まれたという自覚がないのに、
命の書に自分の名が書いてあると妄想する人々も減ることだろう。 いつ頃から、人間は神に出会えるようになったのか。
ーー その条件はいったいなんだろうか。
まず人間が、神→霊魂→アラヤ識→マナ識→日常意識→物質世界という
精神構造になっていなくてはならない。
ーー その理由は後で説明する。
しかしそれだけでは足りない。コトバと、それを記録する文字がなくては
ならない。そうすると、BC3千年前後であり、場所的には四大文明周辺が
考えられるだろう。それ以前は記録が無いから調べようがない。
人間の精神構造と、コトバと文字があれば、神に出会うことができる。
何もしないで黙示録の、地球最後の日をじっと待つことはない。 神との出会いは気づきだから、神との出会いに
コトバとか文字とかが欠かせないことは当然である。
そしてもうひとつ、人間の精神構造の中のアラヤ識も欠かせない。
アラヤ識の役割を否定することで神と出会うのだ。
アラヤ識は、過去世とかカルマ(業)とか本能のことであり、
ここから物質への執着心が湧いて来る。生物の原点は食と性であり、
生物はこれがあるからこそ生きていられるし、子孫を残せる。
アラヤ識は、30億年前に地球に生物として登場した時代から
現在に至るまでの、物質への執着心が蓄積された膨大な倉庫である。
そういったものが人間や動物のアラヤ識なのである。
だからそれは、過去世であり、カルマ(業)であり、本能なのである。 人間の日常意識は、アラヤ識の働きを「欲望」として把握している。
かりに「欲望」を否定できれば、アラヤ識の役割を否定できる。
アラヤ識の役割が否定できれば、霊魂はアラヤ識に覆われているから
霊魂も消える。(← これが次に坐禅に向かう伏線なのかも?)
欲望を否定すれば死ぬから、死を本気で決意できさえすれば、
カッコの中の精神構造と物質が消える。
神→(霊魂)→(アラヤ識)→マナ識→(日常意識)→(物質)
目を開いているのに目が見えなくなり、頭の中、額の真ん中あたりに
命の雫が一滴落ちて来る。
これが神との出会いであり、それをマナ識(心眼)で見る。 ★ 神秘体験には順序がある
神に出会った後、自分が何を体験したのかを知りたくなり、
すぐに聖書を読み始める。それと並行して、なぜか坐禅をスタートした。
神の霊に導かれたのかもしれない。半跏趺坐で数息観。
それから半年ぐらいで、想受滅から霊魂体験をやることができた。
わたしは神を信じ切り、坐禅が危険なことなどまったく知らず、
神への絶対帰依だけで坐禅をやった。一日一時間程度で一禅のみ。
だいぶ後になってヨーガスートラを読んだら、シヴァ神である
イーシュバラへの信仰だけで究極の境地に到達できると書いてあった。
これも導かれたのだろうが、坐禅の道理に適っていたことになる。
マンションの一室にいたので、廊下があり、部屋との間にある戸を
閉めると、無音で真っ暗な空間を作ることができた。
その頃、たまたま無職だったのも、自由に時間が使えて幸いした。 (神)→霊魂→(アラヤ識)→マナ識→(日常意識)→(物質)
アラヤ識が消滅すれば霊魂に出会えるはずである。
そして神と出会う際、すでにアラヤ識の役割を否定できている。
ということは、アラヤ識消滅の予行演習をやっている。
そのうえ心眼(マナ識)も開いている。
だから短期間で、想受滅から霊魂体験へと進めるのである。
大乗仏教の禅は、神霊体験→霊魂体験の順番を無視、
いきなり坐禅を始める。その結果、いくら坐禅をしても効果がない。
だいたい、神を認めないし、アートマンである霊魂も認めない。
最初から誤った設定だから不毛なこと、この上もない。
いくら坐禅をしてもヒマ潰しでは情けない。 マナ識は「夢」や「坐禅の魔境」でも働いている
神と出会い、霊魂体験が終われば、後は霊界との関係になる。
その時に働くのがマナ識であり、神と霊魂以外に、
天使や死者の霊などの、霊的現象全般を対象にする識である。
霊魂体験をした後、なぜか非想非非想処に入るのが困難になった。
そのため坐禅をやめようかと何度も思ったが、それでも続けたのは、
まだ何かあるかもしれないという感触があったからだ。
そしてそれが的中し、坐禅中に高級天使に出会うことができた。
さすがにもうないだろうと思い、しばらくして坐禅をやめた。
その後は仕事探しを始め、あっという間に生活が楽になった。^^ 神秘の意識でも 意識の神秘は解けない - -; G名言 意識の要約
日常意識(物質世界を対象)→→感覚器官→→自然界
意識喪失←←感覚喪失←←全身麻酔
*** 全身麻酔は坐禅の想受滅に近い?
マナ識 ( 精神世界を対象)→→アラヤ識(過去世・カルマ・本能)
*** マナ識はアラヤ識に執着→→ここから転倒妄想が生じる
【欲望否定】→→アラヤ識消滅→→マナ識で神・霊魂に出会う
*** 転倒妄想の消滅、正見の成立
人間は基本、転倒妄想する動物なんですね。 >>277
女は現実的だから、男の方が転倒妄想がひどいかもしれない。
これがひどくなると、肝心なことに限って逆にやってしまうから恐ろしい。
思い当たる人は、欲深くなってないか反省するといい。
これは欲深すぎるという神からの警告です。 神 ← 虚無 → 物質 ・・・ ビッグバン
神 → 霊魂 → 物質 ・・・ 霊魂誕生
この関係が、わたしが想定する原初の存在様式である。
従って、霊魂(プルシャ) イコール 物質法則(ブラフマン) という
ヒンドゥー教の梵我一如の立場には同意できない。
そこに神が考慮されていないからである。
すでに述べて来たように、霊魂には他者を認識できる意識がある。
しかし問題は、いかにして霊魂が誕生したかにある。
霊魂を産んだ存在は神以外にいないのだが、神は形のない命であり、
限定されない存在のはずである。それなのに霊魂という形を持った。
どうして形を持つことができたのか。
神がそれを希望したから ・・・ それが神の意志だから
としか言いようがない。 神と物質の次元は異なっている。次元が異なっているからこそ、
形のない命と、形のある命が同時に存在できる。
命が形を持ったのは、物質宇宙に誕生するためである。
命が丸い球、透明な霊魂になったとき、
そこに自分以外のものを他者として認識できる意識が誕生する。
この霊魂(アートマン)は、神が自らを限定することで誕生する。
自己と他者の関係ができれば、意識が成立する。
神は自らを限定できたから意識が誕生し、
神が人間を意識するから、人間も神を意識することができる。 神と霊魂とは次元が違うから同一視はできない。
しかし、神から霊魂が誕生したなら、霊魂は神由来ということになる。
肉的で物質的なものに覆われた人間の意識は、
まだまだ粗くて愚鈍だが、神の意識が反映したものだとも言える。
神はいったい何をやっているのだ?
人間や生き物を苦しめるためなのだろうか。
それとも、この地上を神的な楽園にしたいのだろうか。
後者だと思いたいものである。 神はどこにいるのか?
神と物質宇宙との次元が異なるならば、
人間が神にいくら祈っても、その祈りは虚しいのかもしれない。
神がいると言っても、いないのと同じなのかもしれない。
神にすれば、物質宇宙に自分がいなくても済むように、
地上の管理人として人間を送り込んだつもりなのかもしれない。
しかし、人間にその自覚がなく、人間同士で争い、
他の生き物を巻き込んで、この地上を地獄と化している。
管理人どころか、地上の破壊者が人間だ! そんな時のために神が用意したもの
それが天使だ!
天使は神の傑作、霊界生き通しの霊的な存在である。
神の直接関与は次元が異なって無理だから、人間は間接的に、
天使に対して祈願するようになっている可能性もある。
ということは、気付きによって、神に出会うだけでは足りない。
坐禅による霊魂体験で、自分に出会ったとしても足りない。
さらに坐禅を続け、天使に出会う必要がある。
ーー そうしないと天使の存在を確信できないからだ。 ーー まず天使の試練に勝つ
ーー 天使が仕えてくれないと話にならない kamiと宗教 宗教と宗教団体は 其々別ものである - -;
爺ごときが言わねばならんほど巷は短絡思考で満ちてんょ (^こ^); やぁ、今日はこっちで遊ぼうかな
身体が滅して心だけになった状態を仮に死後の世界としてみる。
さて、君たちに僕の身体が認識できるか? 僕に君たちの身体が認識できるか?
心臓が動いているのか、脳波が停止しているのか、
そんな事はここではどうでもいいね、つまり身体が無くて心だけ、考えだけ、意識だけ、そんな処だね、ここは。
つまり死後の世界があるとしたら、ここはそのシミュレータと言ってもいいのかな?
丹波哲郎氏は、こうおっしゃています。
死後の世界では、悪は悪、善は善、ひがみやねったみ、明るさや思いやり そういった性質はその人の本性のままにエスカレートするそうです。
死後はしばらく精霊界に留まり、そこで本性をむき出しにされるそうです。
そしてその性質に従って死後の行き場所が決まるそうです。 そこが天国とか地獄とか呼ばれる場所なんでしょうね。
みなさん、どうですか、 ここだけと思っていい加減な言動を繰り返してると心に焼き付いて、それがあなた自身になりまっせ
信じるか信じないかは貴方次第 天使が仕えてくれるとしたら、どんな場合に仕えてくれるのか。
天使の使命が物質から神界を守ることにある以上、
物質的な願いは当然拒否されるだろう。
では物質的な願い以外にどんな願いがあるというのか。
生きているといろいろな問題に出会う。
そんな中で追い詰められ、八方塞がりになることもある。
強く自己主張しないタイプだとなおさらだが、どうしようかと悩み
苦しんでいると、偶然に問題が解決してしまうことがある。
それも暗から明への大逆転である。
これが天使の介入を感じる時の基本パターンだが、
死の淵に追い詰められることに、天使が反応しているような気もする。
天使に祈るとか、天使に願うとかは、効果がないのかもしれない。
精神的にどれだけ自分を追い込めるかが肝心なのかと。 神に祈る???
神は異次元に存在するから、物質宇宙とは基本的に関係ない。
その神にいったい何を祈るのか。
自分の物質的欲望を祈っても、神は何もしないし、何もできない。
そうであれば、神に祈っても何の役にも立たないではないか。
ーー 神を知ることは決定的に大切なんだが・・・
天使に祈るのもスジが違う。
天使は神に仕えているのであって、人間には仕えていない。
人間が試練に勝てば、人間に仕えることもあるが、
だからといって人間の物質的欲望に仕えるわけではない。
天使は仕えたいときに仕えるのだから、天使に祈っても意味がない。
ーー 天使の立ち位置は微妙である。
ーー 中道(霊主体従)なら、物質的欲望でも認める感じがある。 <自分自身の不幸なら深刻に悩む>
特に祈らなくても、これが天使出動の前提条件である。
天使の任務は、その人を傷つけることなく生の側へと導くことにある。
天使はそれを中道、霊主体従によって、ほどよく実現する。
必要以上の物質的繁栄を与えるものではない。
** 霊主体従 〜 霊的なものが主、物質的なものが従ということ
<他人の不幸には力を発揮できない>
祈ると言っても、他人のために祈ることは難しい。口先だけである。
自分の天使が動くには、他人の不幸を自分のものとして感じ取り
深刻に悩む必要がある。しかしこれが簡単ではない。
可能性としては考えられるが、他人の不幸には基本、無力である。 霊力によって他人の運命には干渉できない、という意味で、
この方が摂理なのかもしれない。 神が存在し、かつ、この地上を直接支配しているなら、
なぜWW1、WW2を見過ごし、米国の原爆投下を見過ごしたのか。
このことだけで、神は存在するにしても、
この地上を直接支配していないと断言できると思う。
しかし、人間を野放しにしているわけでもない。
天使と良心、そして遺伝子が常に見張っている。
ただし個人的レベルでしかない。
それらの中枢に個人的レベルの中道(霊主体従)があるが、
それから先は人間の「自由意志」に委ねている。 神は人間の「自由意志」を認めている。
人間が少人数で暮らしているなら、これで特に問題は生じない。
神の摂理が働いて平和な生活を営める。
だが、キリスト教やイスラム教やヒンドゥー教などの宗教洗脳の下で
集団規模が大きくなれば、人類の破滅も予想されるようになる。
この原因はいったいどこにあるのか。
今の宗教がことごとく誤りで、神を冒涜するものだからではないか。
今の世界状況は神のタタリではないのか。 弱肉強食の闘争原理も大いなるシステムの主要摂理のひとつなんょ - -; >>295
基本その通りですが、天使がそれをひっくり返します。
でもそれは、ごく稀な、個人的な出来事です。
かりに自力救済型の人間が多数いて、利害を共通にできれば、
大規模なひっくり返しも可能かもしれません。^^ 中道の意味すること
ビッグバンによって、命そのものと物質宇宙ができ、
命そのものから霊魂ができ、霊魂と物質が合体して生物が誕生する。
この経緯が事実であれば、生物は霊魂と物質から成るが、
どちらにも偏しない生き方を良しとし、これを仮に「中道」と名づける。
ところで、精神の究極に霊魂が存在するが、霊魂を見た人がほとんど
いないので、霊魂の代わりに「霊的なもの」を用いたい。
この方が、霊魂や精神的なものよりも、イメージしやすい感じがある。
すなわち中道とは、霊的なものと、物質的なものとの中間になる。 なぜ「中道」を生きるべきなのか。
命そのものを神という。その神が霊魂を造り、
その霊魂が物質と合体して、人間(生き物)になる。
そうであれば、霊的なものと、物質的なものとの合体は、
神の意志ということになる。
ゆえに人間(生き物)は中道を生きるべきである。
*中道から一歩を進めて「霊主体従」という理由
神は、地上を生き物の楽園にしたいから、地上を目指す。
さらに、生き物の成長や進化から、単なる中道ではなく、
生き物の霊的な成長を意図していることもわかる。
霊主体従は、この意図を汲んだものである。 「祈」の意味
〔解字〕 形声。示と、音を表わす斤キン
(キは変わった音。ねがう意→幾)とで、神に願い求める意。
〔意味〕 @いの-る。いの-り。神に願って幸いをもとめる。
Aねがう。もとめる。 かりに神(命そのもの)を父、物質(大地)を母にたとえよう。
そうすると人間は、父と母の子になるだろう。
このとき、子は父母に祈って何かを願うだろうか。
祈りはしない。どうしても欲しければ父母に直接言うはずだ。
祈ったりしたら、かえって父母を怒らせる。
父母に対して他人行儀だし、
父母を道具扱いすることになる。
神に祈ることにはもっと慎重になった方がいい。
祈りが聞かれないばかりでなく、神の怒りを招きかねない。
安っぽい、口先だけの祈りなどもってのほかである。 いま西日本の豪雨で大変な被害が出ているが、
全国のキリスト教会はいったい何をやっているのか。
祈りの効果などまったくないではないか。
偉そうなことを言っても、役立たずなことおびただしい。
まるで神社仏閣並みだ。
他方で、個人的にボートを出して救助活動をする人々もいる。
口先ではなく、こういった勇敢な行動が人命を救う。 祈りの歴史は古そうだ。
人類はそれこそ、歴史のあけぼのから祈っている。
それはたぶん、言葉の歴史と重なっている。
言葉のない動物に祈りがないことからもわかるだろう。
言葉はもともと、事物や行動を指し示すために誕生した。
事物や行動があって → 言葉がある。
それがいつのまにか、言葉があって → 事物や行動へと転倒する。
ーー 転倒のきっかけは、動詞活用のひとつ、命令形かも。
この転倒から、言葉には事物や行動を生み出す力があるという妄想が
生まれる。この転倒妄想こそが人類特有の精神病の原因である。
言葉のない動物に精神病がないことからもわかるだろう。
残念だが、祈りも言霊信仰も・・・。^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています