■■■臨死体験■■■
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マザーは結核療養のためダージリンに向かったはずだが、 それが治癒したという話が見つからない。 もしかして結核ではなかったとか? その可能性は十分ある。たとえば、36歳という年齢だったことから、 女性を捨てるかどうかの瀬戸際にいた。終身宣立したとはいえ、 それでいいのかどうか真剣に悩んでいたはずである。そして体調を崩す。 そう考えれば、マザーの見た幻覚の意味も少しは見えてくる。 イエスはマザーに、修道院から出て次の行動を起こせと繰り返し、 マザーのことを「わたしの伴侶」とまで呼んでいる。 このあたりのやり取りには、神という全能者の面影などまったくなく、 説得力の無さに焦っているイエスをほうふつとさせる。^^ その後のマザーの成功は、霊界側の多大な援助のお陰かもしれない。 キューブラーロスは、マザーテレサとは対照的な人生を歩んでいる。 1926〜2004、78歳没。スイス生まれ。→ プロテスタント? 女ばかり三つ子の長女。父は医学部進学に反対だったから、 専門学校で学んで検査技師になり、働きながらチューリッヒ大学の医学部を 31歳で卒業。32歳の時、同大に留学中のアメリカ人と共に米国へ。 夫婦の間には、男と女の子供二人がいる。 キュブラーロスは、あまり家庭的ではなく、その後も勉学や研究に没頭し、 そのことでついには夫と離婚することになる。 『死の瞬間』の著者 〜 死の受容プロセスを発表する。 1 否認 → 2 怒り → 3 取引 → 4 抑うつ → 5 受容 ホスピス施設を作って活動、実質的なホスピス活動の創始者。 キュブラーロスは、「感覚遮断タンク」で対外離脱を体験している。 感覚を遮断することが神秘体験のベースにある。 全身麻酔の経験があれば、感覚の遮断によって手術時の痛みが消える ことを知っているだろう。感覚がなくなれば意識も消える。 簡単な話、静かで真っ暗な部屋で坐禅をし、雑念を退治すれば 想受滅を体験できる。ただし十中八九確実に死ぬ。 全身麻酔は医者が管理しているが、医者が失敗すれば死ぬ。 感覚遮断タンクも同様、誰かが見張っているが失敗する危険性が高い。 イエスに祈る場合は、イエスへの思いが続いている間は大丈夫。 求聞持法も真言を唱えている間は大丈夫。 通常の夢なら、夢を見て死ぬことは絶対にないだろう。 『人生は廻る輪のように』 角川文庫 2003年6月発売 キューブラーロス、71歳のときの自伝だが、ネットで検索したら 同書に対する簡単な紹介ブログが二つあった。 それを読むと、ロスはキリスト教洗脳から解放されていたようだ。 そうであれば、ロスが神に対して、「あなたはヒットラーだ」 「ヒトラー並だ」と呼びかけたことも納得できる。 >>66 この点がマザーとの違いで、マザーは心の闇を抱え込んだまま、 最後までカトリック信仰から離れられなかった。 ロスは、人生の先輩から教えて頂くという姿勢で話を聞いたという。 マザーは、キリスト教を強制せず、死者が信じる宗教で弔ったという。 自分の親族でも簡単ではないのに、 死にゆく者への敬意や奉仕の精神で行動したんだろうね。 イエスの黄金律 マタイ 7:12 だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、 人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである。 孔子の『論語』 巻第八 衛霊公第十五の二四 子貢問うて曰く、一言にして以って終身これを行うべき者ありや。 子の曰く。其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。 ----------------------------------------------------- 死にかけている者は、いまさら何かを学びたいとは思わない。 ヒンドゥー教徒なら、キリスト教式の弔いなど望まない。 ロスもマザーもその態度は、イエスの教えではなく、 孔子の教えに従ったものになっている。 自分が望むからと言って、相手が望むとは限らない。 相手が嫌がる可能性に配慮した、孔子の教えの方が優れている。 黄金律は「自分教」ではないのか。 自分が善いと思うことを相手にするのだから。 キリスト教徒は自分たちを正しいと信じ、 キリスト教を世界中に強制、世界を暴力的に植民地にしていた。 が、その動きはアメリカを中心に未だ続いている。 もしかするとその身勝手さは、 イエスの説いた「黄金律」も関係しているのかもしれない。 キリスト教は、イエスという男を神にした時点で破綻している。 それはパウロの妄想から始まるが、 神を男だ女だと考えること自体が思考の混乱ではないだろうか。 この妄想の意味を洞察したのが、ローマ帝国のコンスタンチヌス大帝。 民衆を支配するには、民衆の頭を混乱させた方が容易い。 そこでキリスト教を国教にして民衆に武力で強制した。 そのうえ、教会以外に救いがないとウソをつき、民衆を教会に通わせ、 信じたかどうかを教会にチェックさせた。 こうすれば、教会を支配することで民衆を支配することができる。 混乱と矛盾に満ち満ちたキリスト教は 領土支配の道具としてローマで採用された @ 暴力で強制し、民衆の頭を混乱させる A その民衆を教会に通わせ、教会で管理させる B 教会に特典を与え、ローマの支配下に置く C 死後の救済があれば、民衆は戦争を恐れない 白人の多くは、キリスト教の洗脳から いまだに解放されていない TT マザーテレサ(リジューのテレサから名前をつけている)に限らず、 アビラのテレサもイエスとの合一体験をしているようだ。 もしかするとジャンヌダルクも体験したかも。^^ イエスが男だから、女の場合はそういった幻覚に落ちて行くのだろう。 まして修道女は、イエスに身を捧げるわけだから。 しかし男の場合、イエスとの合一体験は起こりえない。 聖職者がそういった神秘体験をしたという話は皆無ではなかろうか。 これは神を男にした当然の結果である。 イエスという男が本当に神であるなら、 女は救われるかもしれないが、男は救われないのではないだろうか。 神との合一が不可能なのだから。 そのため、女になれば救われるのではないかという幻想が生まれる。 その幻想がホモ的な男を作り出すのではないだろうか。 キリスト教は、神を男にするから男を女性化してしまう。 またひとつ利口になった。^^ 30歳くらいで急にイスラエル・ユダヤの田舎(ガリラヤ地方)に現れて、3年ほど布教して 33歳あたりで処刑されただけの、いわゆる大工の息子が、未だに世界一の有名人。 全世界総計約30億人ともいわれるキリスト教を信仰する人間の数。 聖書は現在もベストセラー継続中。人名も文化も戯曲も芸術も近代憲法まですべてが聖書を参考にされ、 とりわけイエス・キリストの影響が散見される。彼が生まれる前に書かれた旧約聖書には、 数え切れないほどのイエス・キリストに関する的確な預言・・・・たった3年だけ活動した人を ダンテ、ゲーテ、ダヴィンチ、ドストエフスキー、ニーチェ、パスカル、ニュートン、アインシュタイン、 そしてジョン・レノンが嫉妬するだろうか? アメリカ大統領の宣誓式で新約の入った聖書を使うだろうか? イギリス王室がキリスト教の洗礼式を行なうだろうか? またモーセを苦しめたエジプトのファラオ、古代イスラエル王のダビデ、息子ソロモン、あるいはネブカドネザル、 キリストを裁いたピラト総督、ヘロデ王、同時代のバラバ、サロメ、アグリッパ王、パウロ、 後の時代の アウグスティヌス、ルター、ヤン・フス、フランチェスコ、マザー・テレサ・・・・みな実際に存在した。 歴史上の事実である。 信仰者数12億人ともいわれるイスラム教においても、旧約の聖書は啓典とされ、 イーサー(イエス)は偉大な預言者であり、wikiによれば、「イーサーは殺されることも磔にされることもなく、 生き続けて天国に上がったとされる。イスラームの伝承では、イーサーは最後の審判が近づけば地上に戻り、 司法を復活させて偽のメシア(al-Masīḥ ad-Dajjāl 。偽メシア、反キリスト) を打ち負かすと考えられている。 いずれにせよ、実際に我々が使用しているイエス・キリストを分水嶺に存在する西暦ひとつをみても・・・・ もしイエス・キリストの存在が嘘で未だに世界最大の影響力を示し続けているというなら、 あるいはそのほうが天文学的な確立の奇跡と言わねばなるまい。 こぴぺ🐼 何がすごいって、 今も生きて働いておられるところ。 旧約はユダヤ民族の神話でしかない。 新約は、刑死したイエスを神にする、パウロの作り話でしかない。 それをローマ帝国が民衆(白人)に対して強制した。 強制は近代までえんえんと続き、キリスト教は白人社会の深層に根付き、 たとえば神道のように、違和感なく受け入れられるに至っている。 それを否定すれば、本能レベルの抵抗感、恐怖感が生じるのだろう。 白人だけでなく、日本人や韓国人などの信者が、 刑具である十字架をうっとり拝むようになれば洗脳の完成だ。^^ かれらは自分が奇妙なことをやってることに気づかない。 キリスト教徒は毎週、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲んでいる。 何も知らない人が聞いたらビックリしてしまうが、 人肉食を模した行為を聖餐と称してやっているわけである。 一般人から見ると妙にグロテスクだ www 聖餐はパウロの作り話だったw これに関する記述は、一コリ 11:23-25、マタ 26:26-29、 マコ 14:22-25、ルカ 22:14-20、に登場する。 これらはどれも、パウロの贖罪説を肯定している。 かりに贖罪説が成立するならば、 イエスが山上の垂訓で説いた教えはすべて無意味になる。 行為義認ではなく信仰義認なのだから。 何を言っているのかのぅ。 奥の奥を見抜けない人は難儀じゃのぅ。 いつまでやってるのかのぅ。 何年やってるのかのぅ。 悔い改めから入らない 教えも実践しない それではキリストのことなどわかるはずもなかろう。 キリストに出会う体験がないんだね。 どのような人に姿を現すと聖書に書いてあるか。 ヨハネ福音書にも人肉食のたとえ話があるではないか。 もう牧師も神父も言い逃れできないね。^^ はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、 あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を 終わりの日に復活させる。 ヨハ6:53-54 教会の聖餐式に参加すれば、永遠の命を得るだと??? そんな簡単なわけないだろ、ペテン師め、詐欺師めw 聖餐式はイエスを冒涜するものであり、 神を冒涜するものだwww イエスは、神への祈り方をマタイ6:6で教えている。 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの神に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられる あなたの神が報いてくださる。 教会で祈れとは書いてないね。 キリスト教の聖職者や信徒には、この個所が見えないのだろうか。 見れども見えず、ということか。 イザヤの召命 イザヤ 6:9-10 行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。 目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。 近代スピリチュアリズムは1850年頃、 物理的心霊現象としてアメリカやイギリスで開始されている。 臨死体験、前世の記憶などもこの流れの下にある。 1850年頃から霊界側の働きかけが強化された背景 @ 産業革命が一巡、欧米が物質優先社会へと走り出した。 A 貧富の差が拡大し、共産主義が誕生、急速に成長していた。 B 物質優先による世界の対立激化が予想された。 C 価値観を「物質優先から精神優先に」作り替える必要があった。 D しかし、従来の間違ったキリスト教ではまったく役に立たない。 E 手遅れになるので、もはや人間の側に任せておけない。 F こうして霊界側からの介入がスタートした。 >>134 人の子(キリスト)の肉と血〜のくだりはシンボリックな表現だと思うけどね 火と水による洗礼なんかもそうだけど、それを文字通りに受け取ると訳のわからないことになる シルバーバーチなどの霊界通信は、 人間は死後、霊界で生きることになると伝えている。 臨死体験では、生きている人間が死後の世界をかいま見るわけだ。 聞いた話ではなく自分で体験するのだから、 少なくてもその人は死後の世界を疑うことはできない。 これが真実なら、キリスト教の「最後の審判」など妄想でしかない。 人は死後、すぐに裁かれる。www キリスト教徒にとっては残念なお知らせですが、 イエスを信じていたかどうかなどまったく役に立たない。 ご愁傷さまでした。^^ >>138 わたしが過去、読解に苦労したのは、 パウロの『ローマ書』と、竜樹の『中論』でしたね。 要するに詭弁の連続だと思いました。 ご指摘の個所は、むしろパウロの本音かと思います。 パウロはテント職人ですが、聖書研究家であり、メシア研究家です。 かれはユダヤの、ローマ帝国からの独立しか願ってません。 その非常手段が、人間イエスを神に祭り上げることだったのかと。 精神と物質 〜 精神主義・精神優先とは何か 人間は精神と物質からできている。 子供時代は自分の欲望に従って物質中心に生きる。 欲望を導きにして成長していく。 子供のうちから聖人君子では成長できずに夭逝してしまう。 しかし、異性に目覚め始める思春期にもなれば、 自分の欲望ばかりでは思うようにならないことを自然に自覚する。 相手にも欲望があり、周囲にも欲望があるからだ。 欲望とは結局、自分の欲望でしかないのだ。 この段階では、精神は物質以外の認識対象を何も持っていない。 物質を否定すれば、必然的に自分自身の精神を否定することになる。 欲望を否定し、物質を否定すれば生きていけない。 妥協とか、バランスとか、要領よくとかいろいろ思いつくが、 このジレンマから脱け出すのは容易ではない。 世間ではこの状態に落ち込んだ人たちを、落ちこぼれとか、 引きこもりとか、精神分裂とか、統合失調とか言ってマイナス評価する。 しかし仮に物質以外の認識対象があれば? すべては180度反転する。それが「神との出会い」である。 精神は物質以外の認識対象を見つけたのだ。 欲望を否定したら生きられないじゃないか、などと文句を言ったら、 神とは永遠に出会えない。 神に会いたければ、欲望を死ぬほど嫌悪する以外にない。 神と出会えれば、精神は喜んで神を対象にする。 物質への欲望は二義的になり、 物質優先から精神優先へと転換することになる。 「メタ天文(ブン)学」 🐼 *改訂版 この宇宙は無限大と無限小の間に在る この宇宙の両極は無限大と無限小である 無限大空間の背後は メタ空間異世界であり 無時間世界である 無限小空間の背後は メタ時間異世界であり 全時間世界である 「メタ時・空反応」が この宇宙の全現象であり 「メタ時・空落差」が この宇宙の全エネルギーである ビッグバンはメタ時・空異世界の出会い・反応であり 素粒子はメタ時・空異世界反応の定在波(渦)である 重力は物質に流れ込むメタ空間異世界の作用であり 光は物質から放射するメタ時間異世界の作用である 無限大は無数の無限小で埋め尽くされており 両者は対等で表裏一体的「メタ構造」を成している 🐼 寄生虫のお話し 爺のお気に入り 🐼 アルテミアという普段は透明な体で単体行動するエビの仲間は条虫に寄生されると 赤色に変色し何メートルもの大きさの集団行動をする その訳は条虫がアルテミアの肉体/行動を支配し 条虫が唯一繁殖出来るフラミンゴ の体内に入る(食べられる)為にフラミンゴに見つかり易くしてしているのだ ハリガネムシの幼虫を食べたコオロギも同様に支配され ハリガネムシの 交尾/産卵が水中である必要性から沼などを見つけると飛び込み自殺する 寄生蜂に卵を産み付けられた芋虫は 他の虫が近付くと繭を守る為に激しく体を くねらしているが 実は寄生蜂の幼虫の数匹が芋虫の体内に残っていて 繭の中の寄生蜂の幼虫を守る為のオトリ行動をとらせている エメラルドゴキブリ蜂は体内に受精卵を持つとゴキブリを見つけ特殊な針で ゴキブリの脳を感知し脳内に在る2ヶ所の神経節に特殊物質を注入して 大人しくさせて犬の散歩の様にゴキブリの触覚を引きながら巣にお持ち帰りする ゴキブリの体内に卵を産み付けられた幼虫は生きたままの宿主を食べつくす トキソプラズマは様々な哺乳類に寄生するが生殖は猫の体内のみ可能で ネズミに入り込んだトキソプラズマはネズミを支配し猫の尿の匂いを 嗅ぎ付けると「食ってくれ」と言わんばかりに猫を追尾する ペラ論理を超えた神秘を感じるんょ(^こ^) 何であれ行き過ぎれば反動がじる。 そのため、右に行ったり左に行ったり、右往左往することになる。 全体の流れは足して2で割った平均値のように見えるが、 それを超えた摂理が奥底にあるのかもしれない。 それにAという生物にBという生物が寄生して、 Aの運命をほどほどに左右してしまうという現実を知れば、 生命現象の奥深さに目が眩むばかり。 ガンとかアレルギーとか自家中毒とかもよくわかっていない。 まだまだ、わからないことだらけですね。 147の訂正 × 反動がじる → ○ 反動が生じる ペラ神など居らんやろょ 🐼 w 神と言えば やっぱメタやろょ w (=^・^=) 国語辞書によれば<精神>とは・・・「対象を区別し、判断し、 記憶する、心の活動を総合したもの。」だそうである。 これに対して<意識>とは・・・「@自分の現在していること、 置かれている立場や状況などが自分ではっきりわかっている状態。 A気にしたり、こだわったり、思い込んだりすること。罪の意識。 目的意識。自意識過剰。」だそうである。 従って、精神とは心の活動のことであり、 意識とは精神のひとつの現象であると解釈できる。 両者の関係は精神>意識である。 精神と意識の関係がわかれば話を先に進められるーー すると、人間の精神は次のように展開する。 @ 0歳〜潜在的には、精神は(神ー精神ー物質)の関係にある。 A 1歳〜そのままの状態で、基本的な生存能力を身につける。 B 4歳〜精神は周囲を発見、物質に対して意識的になる。 C 思春期〜異性を意識すると、精神はこれまでの生き方に疑問を抱く。 ー欲望に従うから物質優先になってしまう。 ー欲望に従っている限り、何をしても自分中心主義でしかなく、 ーそこには他者への愛などまったくないことを悟った。 D 絶望〜それがわかったときは、もう生きていても意味がないから ー死んでしまおうと心底思った。 ーならば、その命を使ってみようかともふと思った。そしたら突然、 ー昼間なのに、目を開いているのに目が見えなくなった。 E 神との出会いは衝撃的だった! 最初に横倒しになった「中」という漢字が頭に浮かび、 次の瞬間、命の雫が一滴、頭の中、額の真ん中辺りに落ちてきた。 えー何だ何だとびっくりしたが、それが神であることは即座にわかった。 それは愛であり、赦しであり、永遠であり、真理であり、叡智であり、 すべてであった。神としか言いようがない存在だった。 わたしは一瞬で、唯物主義者から有神主義者に変わってしまった。 神を自分の目で見たのだから、神は精神の対象であり、 精神は物質による拘束から基本的に解放された。 何が起きたのかと言えば、潜在的だった(神ー精神ー物質)の関係が この時から顕在的になったようである。 神は人間が心底悔い改めた後に、人間の心の中に流れ込む。 人間の心を知っている神が、勝負がついてから祝福するのだから、 神が祝福相手を間違えることなどありえない。 悔い改めない人間や、悔い改めの足りない人間が祝福されることはない。 いくら信じても信じるだけでは永遠に救われない。 欲望を根こそぎにできた者だけが神に出会うことができる。 少しづつ欲望を減らそうと思ってもできるものではない。 そうではなく、欲望を心底嫌うことで根こそぎにするのである。 毛嫌いすることが根こそぎにするコツである。 己に克つに、時々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。 兼て気象を以って克ち居れよと也。 by 西郷南洲遺訓22 根底が無原因というのは 「全知気取り三流ペラ妄想」と見做すのが理に適ってんょ(^こ^) 御意 >🐼 w 無原因は悪魔の証明で不可能 ゆえに悪魔の断定w (^こ^) 御意 >(=^・^=) w 神ー精神ー物質のうち、神と物質は明らかになったが、 <精神>がいまだに不明である。精神とはいったい何なのか。 神との出会い後、神の書だと言われる聖書から読み始めた。 それと同時に、流布本の天台小止観を参考に、独学で坐禅を始めた。 たまたま住居の中に、静かで真っ暗な空間を作ることができ、 さらに目を閉じ、数息観で最初から一時間ほど坐ることができた。 それから半年後に、幸い十牛図・人牛ぐ忘を成就する。 ★ いま思うと相当危険であり、絶対マネしないでください。 ★ ほどほどの明るさの中、半眼で坐るのが正式の作法らしいです。 十牛図・第三図 〜 見牛体験 (見性体験) 精神が、欲望に従うことで物質に拘束されていることを知る。 そのことに気づけば、欲望をコントロールしようとする。 ゆえにそれから、第四図・得牛、第五図・牧牛、第六図・騎牛帰家、 第七図・亡牛存人というプロセスをたどることになる。 しかしわたしの場合、見牛体験をした瞬間に欲望を毛嫌いし、 たとえ一瞬でも欲望を根こそぎにできたから、 いきなり第八図・人牛ぐ忘を体験することが可能になったようである。 これは坐禅で言う想受滅(滅尽定)の後で生じる現象だが、 その人の「霊魂」が身体から脱け出した状態なので、その「霊魂」が 再び身体に戻れるかどうかがきわめて重大な問題になる。 戻れなければ死んでしまうからだ。 もうすでに<精神>の正体は明らかになった。 坐禅で体験する第八図・人牛ぐ忘、「霊魂」に他ならない。 「霊魂」とは透明な丸い球であり、繊細なシャボン玉のようでもあり、 絶対に壊れそうにない水晶玉のようでもある。 そこに必要に応じて五感が生じ、対象を認識する意識が生じ、 善悪を判断することも可能である。これが究極の<精神>なのである。 問題は、その状態からどうやって地上に戻るかにある。 わたしの場合は、見牛体験、先に神との出会いをやったことが 想受滅に入れた前提になっており、「霊魂」状態から地上に戻る 前提にもなっている。要するに見牛体験が先行することで、 人牛ぐ忘体験が可能になり、地上へも戻れたのである。 要するに、見牛体験 → 人牛ぐ忘体験という順序が肝心であり、 これ以外の方法はすべて邪道ということになる。 四句分別 〜 ベン図による整理 ビッグバンによって神と物質が誕生した。 そこで神をA、物質をBとして長方形の中にベン図を描く。 すると世界は次のように整理できる。 A 〜 神(命そのもの・永遠・真理・叡智・時間も空間もない) B 〜 物質(時間と空間・因果の法則が支配する) AかつB 〜 生き物(人間には霊魂がある・動物?植物?) AでもなくBでもない 〜 霊界(天使と死者の霊が住む想念の世界) 子供に既成宗教を強制してはならない。 どの宗教も完全ではなく、間違ったところが必ずあるからだ。 それに子供を聖人君子にしたら育たずに夭逝してしまう。 子供の仕事は遊びだから、子供にあまり干渉しないのがよい。 悪いことをしたら軽く叱る程度にしておこう。 わたしは小3の頃、神話や童話を自然に読み出した。 学校図書館ばかりでなく、近くにあった児童図書館も利用した。 そこに書かれている、この世ならぬ不思議にわくわくしていた。 これで読書慣れしたせいか、学校の成績も急上昇してしまったのだ。^^ 今になっても、神話や童話が役に立ったとつくづく思う。 西郷南洲遺訓 〜 遺教・一家親睦のいましめ 翁、遠島中、常に村童を集め、読書を教へ・・・のたまふ、 「汝ら一家むつまじく暮らす方法はいかにせばよろしと思ふか」と。 ------------------------ 「早速手を下すには、欲を離るゝ處第一なり。一つの美味あれば、 一家挙げて共にし、衣服を作るにも、必ず善きものは年長者に譲り、 自分勝手を構えず、互いに誠を尽くすべし。ただ欲の一字より、 親戚の親しみも離るるものなれば、根拠するところを断つが専要なり。 さすれば慈愛自然に離れぬなり。」 人類の価値は人類だけのものだが その価値には如何なる絶対性も無い - -; 証明し得るものは一瞬のペラバブル(現実) 証明し得ぬものは永遠のメタ実在(本質) ?ペラ 🐼 メタ? /.-=・- -・=-.\ < ぇ? これが分りゃ ペラ卒業? ( (__人__) ) \ ` ⌒´ / せゃょ >(^こ^) w >>166 神との出会いとか、霊魂との出会いとか、 同じようなことを宗教板で繰り返し書いてきたからかもしれません。 繰り返すたびに鮮度がなくなって行くようです。 それにいくら書いてもなかなか理解されないこともあります。 コトバだけで体験を伝える難しさもあります。 さて、精神(心)は一様ではなく、その究極に「霊魂」がある。 ーーフロイトは、心を意識と無意識に区別した。 ーー仏教の唯識は、心を日常意識・マナ識・アラヤ識に区別した。 ーー実際にはどうなのだろう? ーー自分で坐禅をして確かめればよい。 坐禅のプロセス @ 日常の自分・・・日常意識が働いている。 坐禅を開始して雑念を退治 → 非想非非想処 → (魔境へ入る) A 魔境の中にいる自分・・・日常意識が消え、マナ識が働き出す そこにいる自分にも五感があり、意識・認識・判断ができる。 夢の中の自分と同じ状態。 B 魔境に現れた生きた死体・・・アラヤ識とは前世の自分である。 それは三途の川に沈んだ状態で流れて来た。それが自分だとわかった瞬間 強い嫌悪感が生じ速攻見捨てる。→ 意識がバチンと切れ想受滅へ C 突如、神界に「霊魂」として浮上・・・その中に自分の意識があり、 猛スピードで走り出すが、そこは爽快で、痛いほど清浄な世界だった。 しかし、神と出会ったときのような至福感がなく、違和感が生まれ、 これが地上に帰るきっかけになった。「霊魂」が急停止する。 D 地上への帰還・・・夜空に浮かんでいた満月が落ちて来て、 地上で坐禅をしていた自分がそれに飲み込まれる。 → 坐禅終了 (まとめ) 人間は入れ子構造であり、その精神は重層的である。 @ 日常的な身体・・・6識、日常意識 A 夢や魔境に登場する身体・・・7識、マナ識 B 過去世の身体、生きている死体・・・8識、アラヤ識(沈黙する識) C 霊魂・究極の精神・・・9識、究極の意識 わたしは唯識のように、すべての事物は心が作り出した表象に 過ぎない、とは考えない。従って、マナ識・アラヤ識という用語は、 世親の『唯識三十頌』から借用してはいるが、自分の体験を整理する のに便利だからに過ぎない。たとえば次のようなイメージ。 アラヤ識・・・異なって熟したもの(過去世)、輪廻を担っている。 マナ識・・・精神的対象を認識する識。アラヤ識に執着している。 六識・・・物質的対象を認識する識。 ーー偏計所執自性・依他起自性・円成実自性などは完無視。 もっと適切な用語があれば唯識との混乱も避けられるが、 いまのところ思いつかない。唯識とも共通する所があるから難しい。 唯識だと生じる矛盾などなど @ 霊魂(アートマン)を想定しないから、アラヤ識を消滅させて 解脱するとその後には何も残らない。生きて解脱不可。 A アラヤ識の消滅と共にマナ識も消滅するらしいので、 想受滅に入ると想受滅から帰れなくなる。想受滅で必ず死ぬ。 B それにも関わらず、釈尊は生きて解脱した。 霊魂を認める以外に説明できない。 C 唯識を説いた世親は、霊魂体験をしてなかったわけね。^^ D 霊魂は、三途の川の生きている死体、アラヤ識の中にある。 それを見捨てるから想受滅に入り、霊魂体験が可能になる。 E 坐禅中の身体には、脱魂してもマナ識がかろうじて残っている。 それが霊魂を呼び戻し、満月のような霊魂を夜空に見上げる。 龍樹も世親も、矛盾したことを難解に語って信者を煙に巻いた。 この二人を土台に、他力信仰の大乗仏教が誕生した。 パウロもローマ書で独特の詭弁を弄し、キリスト教の土台を築いた。 これも大乗と同じ他力信仰である。 こういった連中を担ぐ宗教団体のネライは、 信者に何も理解させないように、金だけを出させることにある。 それが何かを理解したら金を出さなくなるから。 お幸せなら良いんです。 幸せじゃなきゃ意味がないから。 あなたの言ってること、体験、全部話りますよ。 唯物科学万能信者が 脳細胞を素粒子レベルにまで観察しても 意識が生じる仕組みは明かせない - -; 物質で意識を語る論理は存在し得ない - -; G公理 意識・生命の誕生機序を明かせない限り神秘は否定出来ない - -; 意識創発現象は人智を超えた大いなるメタ異世界の作用である 🐼 シヴァ神 〜 自力救済をシンボル化している ーー 個人的な独断と偏見で推理 額にある第三の目 〜 神の霊を受けたことを意味する。 首を巻く毒蛇 〜 その際に死の試練を受けたことを意味する。 青色の身体 〜 蛇の毒で死に損なったことを意味する。 (身体に灰を塗る行者たち 〜 その意味は上記と同じ。) 踊りの王 〜 物質的な拘束から自由になった精神を意味する。 性的リンガ 〜 欲望に従属した性 → 欲望を超越した性へ。 (シヴァの愛はアガペーであり、妻への愛は永遠である。) (それを象徴するのが、妻と合体した両性具有神。) ヨーガの神様 〜 ヨーガスートラに登場するイーシュバラである。 三日月の冠 〜 太陽との混同を避け、満月ではなく三日月にされた。 ヴィシュヌ神 〜 他力信仰の頂点にシンボル化されている 多数の変化神がいる 〜 他の祭神を自分の変化神にして吸収する。 (釈尊もヴィシュヌの変化神になって吸収されている。) 南インドではヴィシュヌ派よりシヴァ派が目につくという。 そのため、シヴァ神が青色の身体なのは、 先住民ドラヴィタ人の肌が黒いことに由来するとも言われている。 だったら黒くすればいいのに、黒だと地獄を思わせるから 青色にしたのだと補足して説明する。 ーーこの話はたぶん、ヴィシュヌ派のフェイクだろう。 ーー青色はやはり、死を暗示したものだろうと思われる。 シヴァ派は、中部インドで生まれ、カシミールや南インドへと発展する。 従って、先住民の宗教に由来するとは一概に言えない。 シヴァ派には二つの大きな流れがある。 @ カシミール・シヴァ派 〜 不二一元論(神を認めない) A シャイヴァ・シッダーンタ派 〜 二元論(神を認める・南インドだけ) シヴァ派最古の、パーシュパタ派 シャイヴァ・シッダーンタ(聖典シバ派)と思想上深く関連をもち、 身体に灰を塗り、人間のドクロを連ねて首飾りにしたり、衆人の前で 奇行を行って、わざわざ恥辱を求めることをその修行法としている。 その起源は相当古く、2世紀、クシャーナ朝の時代には、 かなりの勢力を持っていたようである。仏典には自在天(イーシュバラ) ないし大自在天(マハーシュバラ)の名で登場する。 この派は、精神を最高位の存在に隷属させる神学で知られた ヴィシュヌ派に反対する。その理由は、他者に依存しつつ独立できる ときを待ち望む者は、自分自身以外のものに依存しているのだから、 決して依存対象から離脱できないと考えたからである。 精神は「苦痛の全ての芽」から解放されたとき、至高の神性と同じ 特性を持つようになるという。師匠不要。個人的な救済も可。 ヒンドゥー教のテーマは、どの派においても精神に付着した 「物質の汚れ」を落とすことにある。 @ヴィシュヌ派〜神へのバクティ(信仰)で落とす。不二一元論。 Aパーシュパタ派〜師につき修行して落とす。2世紀 Bシャイバ・シッダーンタ派〜師につき、師から儀礼を受け解脱する。 ーー王や教団が師となって介入、キリスト教と似ている。 ーー中インド6〜7世紀、南インド6〜9世紀。 Cカシミール・シヴァ派〜シヴァ神へのバクティ。9世紀。 ヒンドゥー教では精神に付着した「物質の汚れ」を落とす。 仏教では同じことを別の視点から、物質への「欲望・執着」を落とす。 ユダヤ教ではエデンの園〜「自分の善悪」から「自分」を落とす。 キリスト教ではイエスが身代わりになって「原罪」を落とす。 シヴァ神の頭髪から聖なるガンジス河が流れ出ている。 その理由は、シヴァ神が「悔い改め」によって神と出会い、 その出会いによって神になったことにある。← 不二一元論 水は汚れを落とすものの象徴だが、 すでに「悔い改め」が終わっているシヴァ神にとっては、 ないに等しいものでしかない。 ないに等しいのだから、シヴァ神は女神ガンガーを頭髪の中に 封じることもでき、そこから解放することもできる。 まだ「悔い改め」の終わってない人々にとっては、 その水は精神に付着した汚れを落とす、 シヴァ神によって吟味された天国行きの聖なる水なのである。 >>184 の訂正 仏典には自在天(イーシュバラ) ないし大自在天(マハーシュバラ)の名で登場する。 ↓ 仏典には自在天(イーシュバラ) ないし大自在天(マハーシュバラ)を崇拝する人々で登場する。 ヒンドゥー教ではヴェーダの権威とバラモンの権威を認めないと 正統派哲学には参加できない。従って正統派でありたければ、 必然的にカースト制度を認めなければならない。 同時に、不可解な身分差別を正当化するための理論も欠かせない。 そのために用意されたものが、輪廻とカルマ(業)である。 ★ シャイヴァ・シッダーンタの新しさ、あるいは居直り この世の身分差別は、過去のカルマ(業)によって決められた カーストへ生まれ、それによって古いカルマ(業)から救済されるために 用意された神の恩恵なのだと、捉え直したところにある。 ーーシヴァ派はやはり自力救済か? 1950年1月 インド共和国成立。 インド憲法17条 〜 カーストによる差別禁止、差別用語も禁止。 バラモンの私塾に代わって新しい学校制度がスタート。 少しづつではあるが、変わり始めているようだ。 それまでは上位3カースト(バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ)しか バラモンの私塾に入門できなかった。 ここでヴェーダを学び、輪廻やカルマ(業)などの正統派哲学を徹底的に 教え込まれてから社会に巣立っていく。 → カースト制度の再生産! さらにもう一つ、『マヌ法典』がカースト制度を明記し、 四住期を説いたこともカースト制度の再生産につながった。 子供たちは幼い頃から洗脳されていたのだ。 学生期は(8ー12歳)で始まり古代には12年間。 家長期は、仕事につき結婚して後継者(男子)を作るのが義務。 林住期は、家督を譲る日を見ながら遊行に備える時期。 遊行期は、解脱を求め、乞食をしながら遊行する。 この流れを見れば、かりに遊行期に解脱できたとしても、 年齢的にも金銭的にも、その内容を社会に伝えることは不可能だ。 何か言っても相手にされず、黙して死んで行く以外にない。 そういった解脱者が数多くいた可能性もある。 釈尊は解脱して布教できたわけだから、きわめて稀なケースである。 カピラ城の王子だったこと、35歳で解脱したことが幸いした。 釈尊が何を悟ったかは原始仏典から多少は推測可能である。 バラモン教は「精神に物質的汚れが付着している」と考え、 この汚れを落とすために、輪廻とかカルマ(業)を説くに至っている。 カースト維持が前提だからこそ導かれる結論である。 これに対して釈尊は、「欲望を根こそぎ」にすることを説いた。 欲望を根こそぎにすれば、物質的な汚れを落とすことができる。 心の在り方を変えることで解脱できるのだと。 ーー これは、カルマ(業)に基づくカースト制度の全否定だね! メタ構造論(霊魂説)の正しさは 最も身近な「意識創発機序」を説明出来ないペラ三科学が 身を以って証明してんじゃんょ(^こ^)w ニューロンネットワークと その素粒子群がどうなれば意識になるん? (=^・^=) ニューロンネットワークと その素粒子群がどうなれば意識を感じるん? 🐼 釈尊は、カースト制度を否定しバラモンの権威を否定した。 同時代に誕生したジャイナ教も、同じようにカースト制度を否定し バラモンの権威を否定した。 それゆえヒンドゥー教は、仏教とジャイナ教を異端として退ける。 中村元訳 『ブッダのことば』 岩波文庫の註では、釈尊の教えと ジャイナ教の教えがきわめて似ていることが何度も指摘されている。 しかし、両者は異なる宗教に区別される。 何が異なり何が同じなのかを少し整理しておこう。 釈尊の教え(慈悲) → ジャイナ教(アヒンサー 〜 不殺生) 欲望を精神的に断つ→行為として断つ(僧侶は性交禁止、菜食と断食) 中道を歩み苦行を否定する → 苦行を積極的に行う 修行としての乞食 → 無所有(その究極がジャイナ教裸行派) 欲望を根こそぎにする → 精神に付着した物質的汚れ(業)を落とす 釈尊の教えは乞食を修行の一環として位置づけている。 そのため、信者から布施された食事なら肉が入っていてもいただく。 精神的な汚れは、その人自身の心の問題だからである。 釈尊はジャイナ教徒に問いかける。あなたがたは、精神に付着した汚れ (カルマ=業)を実際に見たのか。見たことがないのに、それがあると 言うのは想像であり、妄想ではないのかと。ジャイナ教徒、黙して答えず。 確かにその辺にジャイナ教の問題があるかと思うが、 結果的にはジャイナ教徒にも、神や霊魂との出会いがあるらしい。 ジャイナ教のニルヴァーナ(経典に見られる記述) 苦痛も快楽もなく、苦しみも生もなく、生まれることも死ぬこともない 場所、それが解脱である。 感覚器官も、驚きも、眠りも、渇きも、飢えもない場所、 それが解脱である。 カルマもなく、心配事もなく、・・・いかなる種類の思考もない場所、 それがニルヴァーナである。 ーー 霊魂との出会いを思わせる。 ーー 神との出会いをしているから、霊魂との出会いが可能になる。 ジャイナ教開祖マハーヴィラが存命中、教団を指揮したガウタマの言葉 あらゆる観点から見ても安全だが、到達しがたい場所があり、そこでは 年を取ることも死ぬこともなく、苦しみもなければ病気をすることも ない。ニルヴァーナ、あるいは苦痛からの解放、あるいは安全性と呼ば れている場所こそがあらゆる観点から見て完全で、幸福で、静寂な 場所であり、偉大な聖者たちがそこに到達できる。そこはあらゆる観点 から見て永遠の場所であるが到達しがたい。そこへ到達した賢者は悲しみ から解放され、存在の流れを終わらせる。 *個別性の問題 解脱後も個別性が失われることはない。 ニルヴァーナには、シッダ(成就者)が無数にいる。 *人間として生まれること 解脱は人間としての生においてのみ到達できる。 人間として生まれること → 得がたく貴重 → 賢い選択をすべし。 ジャイナ教の開祖マハーヴィラは、仏典で六師外道と非難された 相対論者のニガータ・ナータプッタである。 かれは「これである」「これではない」という断定的表現を避け、 常に「ある点からすると」という限定を付すべきだとする。 ーー Aさんの真理とBさんの真理は異なるからである。 ーー これを考慮して再度、釈尊の教えと比較してみよう。 釈尊の教え → ジャイナ教の教え @ 苦集滅道 → 無所有と肉体的な苦行 A 縁起の理法 → 相対主義 B 中道 → 修行から断食死へ進むのが理想とされる カルマ(業)が精神に付着している、というジャイナ教の考えは バラモン教と同じである。この考えでは、いつカルマが落ちるかが 明らかにならないから、修行に終わりがなくエスカレートする。 ジャイナ教には白衣派と裸行派があるが、 2001年現在、合計450万人、全人口の0.5%にも満たない。 ジャイナ教徒は、事実上の一つのカースト(職業的内婚集団)であり、 その結束はきわめて固い。 ジャイナ教の寺院は華麗で壮大なものが多い。 その理由はジャイナ教にある。かれらはアヒンサーから商業を選び、 宝石や貴金属を扱う豊かな者が多くいる。そのうえアヒンサーや 菜食主義で外出も控え、無所有が戒律にあるから質素な生活を送る。 こうして残した大金が寄進になって寺院へと流れ込む。 ーー 日本にも神戸に寺院があるという。 菜食主義の源流はインドにある 釈尊は生きとし生けるものへの幸せを願った。 ジャイナ教はアヒンサー(不殺生)を戒律にしている。 後にヒンドゥー教も菜食主義を受け入れた。 インドの菜食主義にはその背後に輪廻思想がある。 ーー牛はカルマ的には、人になる一歩手前の生き物らしい。 熱帯雨林だったりで、食糧が豊富であることも欠かせない条件だ。 ーー寒冷地では必然的に肉食主義になる。 ーーこういった地域では逆に輪廻思想を受け入れない。 ーー寒冷地の人間は一般的に暴力的である。 日本人は、仏教伝来から明治に至るまで菜食主義を貫いた。 ーーそれは、栄養不足で体が小さくなるほどの徹底ぶりであった。 ーー日本の菜食主義は千年以上の伝統を持つ。 現実(ペラ)を誕生させたのは メタ(非現実)である - -; G公理 三流ペラ論理で 『「『全て』」』 を語れると思うのが 三流ペラ洗脳の成就 - -; その妄想の愚かさは 自身の意識創発機序を語れない事で証明される 🐼 w 神秘の意識でも 意識の神秘は解けない - -; 意識の発生史 〜 試論・〔*〕内は潜在状態を意味する @ ビッグバン ・ 神(いのち) ← 〔無〕 → 物質(因果法則が支配) A 霊魂誕生 ・ 神 → 霊魂(神を対象にした究極の意識) →〔物質〕 B マナ識の発生 ・・・ 天使の誕生 ・〔神〕→ 霊魂 → マナ識(霊的認識力がある) →〔物質〕 C アラヤ識(本能)の発生 ・・・ 生物の誕生 ・〔神〕→〔霊魂〕→ アラヤ識(本能) → マナ識 →〔物質〕 D カルマ(業)の発生 ・・・ 下等生物、夢を見ている状態 ・〔神〕→〔霊魂〕→ アラヤ識(カルマ) → マナ識 →〔物質〕 E 逆転して神を意識する段階へ ・・・ 高等生物、学習能力あり ・〔神〕→〔霊魂〕→〔アラヤ識〕→〔マナ識〕→ 日常意識 → 物質 なぜマナ識がアラヤ識より先に発生するかと言えば、 神から離れた霊魂が下降して霊界の存在になった時、霊的なものと 物質的なものとを見分ける能力が最初に必要になるからだ。 アラヤ識はその後、実際に物質世界で生きることで発生し、 本能となりカルマ(業)になるのではないだろうか。 それが物質世界と関係したものならば、ジャイナ教の説くように、 精神に付着した繊細な物質的汚れと解せなくもない。 ただし、そんな汚れを苦行で洗い流せるのかどうかは疑問だが。 確かにアラヤ識はカルマ(業)なのかもしれないが、 それより本能と解し、本能から生まれた食や性への欲望を断つほうが、 解脱の努力目標が明確になってベターだろう。通常、その人の欲望や カルマ(業)は、その人の個性とか人格とか呼ばれるものである。 >>202 のEからわかるように、 人間はアラヤ識という「過去世」を抱えた状態で生まれて来る。 従って、社会生活が不十分で日常意識が未発達なうちは、 「過去世」のことを思い出す可能性がある。 しかし、成長して日常意識が発達すれば自然に潜在化してしまう。 過去世の記憶があったとしても何の役にも立たないし、 何か問題があったから輪廻して生まれ変わったのであり、 アラヤ識(過去世・欲望・カルマ)を切り捨てることが解脱なのだと 知らなければならない。過去世など知らなくてもいい。 意識の発生史は(マナ識→アラヤ識)なのに、 精神の構造は(アラヤ識→マナ識)になっている。 ここに人間の救いがある。 精神構造が(アラヤ識→マナ識)だから、転倒妄想が生じる。 他方、アラヤ識を消滅させ、神に出会うことも可能だ。 この構造の中に、人間の「自由意志」がある。 マナ識は日常意識に残された最後の「良心」である。 マナ識→アラヤ識→日常意識だと、 良心がアラヤ識に覆われてしまい日常意識に届かない。 天使は存在するのか否か 天使は存在する。天使を見たのだから間違いない。 天使は霊的な存在であり、霊界生き通しである。 知らぬが仏で、人間は何気に生きているが、 この天使と守護霊が人間の運命に大きな影響を与えている。 言葉はウソをつくことがあるが、 体験はウソをつかない。 輪廻は存在するのか否か アラヤ識自体の存在が輪廻を証明している。 アラヤ識に出会うには、坐禅をし、想受滅を体験しないと不可。 そこまでやれたら出会えるが死ぬ可能性があり、 求めて体験できるものでもない。 わたしの場合は偶然体験してしまった。 それが想受滅だったことは、宗教板でどなたかに指摘されて知った。 何も意識しないで、機が熟し、たまたまなのがよかったかも。 死んだら お地蔵さまが助けてくださる。 オンカカカビサンマエイソワカ そもそも、この横槍が問題なのである 要するに、この横槍が、このバイセクシャルのホモ豚と 同一人物がという疑惑につながるのである >>204 の訂正 × アラヤ識(過去世・欲望・カルマ) ○ アラヤ識(過去世・本能・カルマ) 欲望は日常意識に属していた。 食欲や性欲や金銭欲などは日常的に意識できる。 だからこそ、欲望をコントロールしようとすることにつながる。 もちろん簡単ではない。 しかし、精神に付着した物質的汚れを落とすよりやりやすい。 努力目標を具体的イメージで設定できるのだから。 これからはヅラとメタやで ヘビメタからヅラメタや 臨界点超えるでw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる