■■■臨死体験■■■
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以前、これを扱った海外のドキュメンタリー 映画観たことある。やたらイエス・キリストが 出てきた記憶。東洋では、お釈迦様や観音様とか 死んだ家族が出てくるんだろうね。三途の川で まだその数は微々たるものだが、 医療の発達で臨死体験をする人々が徐々に現われるようになった。 かりに臨死体験者の話が真実ならば、 既成宗教はことごとく消滅すべきことになるから大変である。 既成宗教に洗脳されていた人々は、 臨死体験を頭から無視する以外にないことになる。 そこのあなたwww あなたのことですよw 臨死体験は脳内で作られるとも言うよね? でも、上から医師や看護婦や家族の話を 聞いていて、いわゆる死の淵から帰って、 それらの人たちの話と証言が一致した という話もある。この場合インチキだと すると関係者全てグルと言うことになる。 まぁ、その話ホントなの?と言われたら それまでの話。 臨死体験も医学的なのとオカルトと わけたほうがいいのかな? かいまみた死後の世界 光の彼方に レイモンド・ムーディ 臨死体験は救急医療が発達してきたごく最近の話である。 体験者にとってはリアルな真実であっても、 体験したことのない人々にとっては???・・・・・なんだろうね。 もしかして体験者も???・・・かもしれない。 ネットで「臨死体験事例集」を検索すれば、信じられなくても、 それがどんなものかは理解できるだろう。 >>5 臨死体験者は、事故や病気などで受動的に、 たまたま死後の世界と接近遭遇したに過ぎない。 かれらの臨死体験は、かれらにとっての真実であって、 他人に信じてもらう必要は1ミリもない。 それなのに疑われたら、あまり話さなくなるだろうね。 金銭的メリットも皆無だし。 ケガや病気などで死にかけてる人なら ある程度は説明はできると思う。 死にかけてるわけだから脳も身体も わかってると思う。当然、クリスチャン にはイエス・キリストが出てくるだろうし 仏教信者なら男なら観音様が出てくるかもしれない。 わからないと言うか説明出来ないのが オカルト的な体験のほう。自分は全て否定 するものでもないし、信じないわけでもない。 だからこそ興味がある。 >>10 臨死体験は、イエス・キリストや観音様や阿弥陀様との出会いではなく、 光の存在や死んだ親族との出会いのようです。 臨死体験とオカルトの違いは、「体験」の有無ではないでしょうか。 臨死体験は、語り手自身が見たり聞いたりした「体験」であり、 その人自身にとっては動かし難い事実なのです。 これに対してオカルトは、体験を欠落させた、荒唐無稽な話になります。 聖書やコーランや仏教書でも、これはオカルトに分類した方がいいのでは・・・ と思うような個所にいくつも出会います。 本の中の「ことば」や誰かから聞いた「ことば」を、 そのまま信じるわけにはいかない。 それはウソかもしれないし、オレオレ詐欺かもしれないからである。 このように、「ことば」はもともときわめて不確かなものである。 それを前提に、相手を信じるより前に、 その「ことば」の真偽を吟味することが日常的に欠かせない。 「ことば」の世界こそは、ペテン師が暗躍している場所なのである。 聖書や仏教書などをそのまま信じるわけにいかないし、 新聞やTVなども同様である。 臨死体験の場合にも、「ことば」がないわけではない。 ただし「こっちに来るな」と言うような緊迫した強いメッセージであり、 有無を言わせぬ、全身全霊の、死者の側からの命令だった。 恐ろしい目でにらみつけられ、 信じれば救われる、というような生ぬるいものではなかった。 わたしはそれをテレパシーで受け取った。 <夢に見た三途の川> 街角を右に曲がると、その先に大きな川が流れていた。 その川はヒザぐらいで、それほど深くなく歩いて渡れそうな感じだった。 どうしようか迷っているうち、後ろから来た20人ほどの若者に追い超された。 丁度今ごろの時期だったのか、かれらは春めいた軽装であり、 服を着たままバラバラと川に入って行った。 私は後ろから追い抜かれたので、かれらの顔を見ていない。 ー後から不思議に思ったのは、川に入ったとたん、かれらの姿が消えたことか。 私は歩いて川を渡る気がなくなり、渡れそうな場所を探して下流へと向かった。 しかし、下流だから当然、川はどんどん水かさを増していく。 もう渡れそうもないぐらいの濁流になり、不安でたまらなくなった時、 橋を見つけてほっとした。ああよかったと橋に近づいて橋の行き先を見た。 すると、橋の向こうから二人連れが歩いて来た。 ひとりは最近死んだ親族だった。 親族は怒ったようにテレパシーで、「こっちに来るな」と伝えていた。 了解する以外にないのですぐに了解したが、 もうひとりの人がいったい誰なのかがさっぱりわからない。 その人の顔がよく見えない。見えそうになったり、消えたりしている。 その輝きから、その人格が相当高いことはわかった。 誰なんだろう? と見つめているうちに、残念だが目が覚めてしまった。 霊は、まるで足がないかのようにスーと移動する。 橋の向こうからやってきた二人もそうだったし、 川に入った若者たちもそうだったし、私自身もそうだったのだろう。 どうやら幽霊に足がないと考えるのはまちがいのようだ。 もう一人の霊格の高さは、死んだ親族との比較ですぐにわかった。 輝き方がまるっきり違う。私の親族は輝きがなく、うす汚れた感じだったが、 もう一人の方は、透明な光に包まれながら強く弱く輝いていた。 その後、これはどういうことかと考えていたが、 もう一人の方が私を説得するために、 嫌がる親族を無理やり連れて来たのではないかと思い至った。 実際、この夢を見てからは死にたいと思わなくなった。 この方が私の守護霊様だったり・・・ (^−^) 守護霊様が死んではいけないと説くより、 死んだ親族が現われて「こっちに来るな」と怒った方が早いものね。 なにしろ断るわけにいかない。 >>1-2 だけど 海外のドキュメンタリー映画では死んだ? とされたあとトンネルのような中を上昇 して行くところが全て共通していた。 そのあとは全てではないがイエス・キリスト が出てきて、まだダメだというような仕草 で、そこから行かせない。これが日本じゃ 死んだ家族や知人なんだよね。仮に事実 として、守護霊ともとれる。守護霊は先祖や 死んだ家族がなることがあると言う人 もいるからね。 自らも臨死体験をしたレイモンド・ムーディは、臨死体験後に起こる意識や 生活の変化をいくつかにまとめている。それは次のようなものである。 @ 死に対する不安が減少すること。 A 愛の大切さに気づくこと。 B 宇宙に存在する一切のものとつながっている感じをもつようになること。 C 学ぶことの大切さを認識すること。 D 自らの生き方に対して、これまで以上に責任を感じるようになること。 E 人間の命は短くはかないが尊いものであり、それに対し人間はあまりに莫大な ーー破壊力を手にしてしまったという危機感を持つようになること。 F 世俗的・物質的な事項よりも、霊的な事項に関心をもつようになること。 ムーディは臨死体験の研究をもとに、「体験の結果、非常に根底的なレベルで 前向きの変化を遂げなかった者に会ったことはない。」と言い切っている。 かれ自身も自殺未遂で臨死体験をしている。 レス番19と20は下記より引用している。 臨死体験事例集 → 臨死体験の世界 → 臨死体験・いのちと悟り → 第1章「臨死体験の不思議」 → 3 「光」との出会いと「悟り」体験 同じ論文の第7章「悟りと臨死体験」は、興味深いので是非一読あれ。 相手のコトバを鵜呑みにしたら必ずヤケドする。 コトバはウソをつけるからだが、その典型がオレオレ詐欺だ。 なんでウソをつくかと言えば、自分の欲望を実現するために決まってる。 そのためにウソをつき、脅し、決断を急がせる。 ペテン師、悪徳宗教家などにだまされないためには、 自分の「体験」をベースに、よく調べてから判断する以外にない。 何にしろ、急がないのが良い結果をもたらすことだろう。 相手が自分のことを思っていてくれるなら、急がせないはずである。 コトバだコトバだと単調に繰り返すのは、 キリスト教関係者、それも神父や牧師などの聖職者に多い。 かれらが言っているコトバはもちろん、聖書の中のコトバである。 かれらは、疑問点を指摘されても説明を拒否し無視する。 聖書のコトバに合理的根拠がなくても、 聖書の中で相互に矛盾していても、まったく知らんふりをしている。 ペテン師を自覚しているから無視することができるのだろう。 要するに、聖職者自身が聖書など信じてないのだ。 信者をだまし、金儲けの手段に聖書を利用しているに過ぎない。 不道徳な聖職者たちよ、いずれ罰を受けるだろう。 臨死「共有」体験、というのがある。 しばしば懐疑論者は臨死体験とは脳内ホルモンで説明できるとか、 厳格に過ぎないと否定するわけだが、 まさに今亡くなろうとしている患者を見守っている家族や友人が、 まったく同じ臨死体験をするケースが山ほど報告されている。 今まで聞いたこともないような天国の調べとでもいうべき、 言葉ではとても説明できないようなあまりにも美しい音楽を、 死にゆく患者を傍で見守っているだけの家族も一緒に聴いたり、 聖なる存在がまさに病室に出現したことを明確に感じ取ったり。 臨死体験が、患者の脳内でのみ起きている幻覚なのであれば、 このような報告例について説明することはできなくなってしまう。 >>23 臨死共有体験という現象はまったく知りませんでした。 さっそく検索したら、これもレイモンド・ムーディ博士(共著)ですね。 ーー『生きる/死ぬ その境界はなかった』 2012/5 発刊 検索サイトの一つから、共有体験の7つの要素を参考のため引用しておきます。 (これらのうち、いくつかの経験をする。1つだけの場合もある。) @ 空間が変容して見える A 神秘的な光を見る B 音楽が聞こえる C 体外離脱する D 人生の回想を共にする E 天的な領域に入る F 遺体から上がる煙のようなものを見る F の煙については、それらしき記述が仏教の原始経典に出てくる。 中村元訳 『悪魔との対話』 岩波文庫 第W篇第三章第三節 ゴーディカ 10 そこでゴーディカ尊者はこのように思った。−ー「わたしは六度までも、 精神統一にもとづく心の解脱から退いたのだから、もはや刀を手にしたら どうだろう」と。 12 そのときゴーディカ尊者は、刀を手にした。 14 そこで尊師は、諸々の修行僧たちに告げられた、−−「修行僧たちよ、 さあ、仙人の丘の山腹の黒曜岩に行こう。そこで立派な人・ゴーディカは 刀を取ったのだ」と。 16 そこで尊師は、多数の修行僧たちとともに 仙人の丘の山腹の黒曜岩のところに赴いた。尊師はゴーディカ尊者が床座の 上で肩をまるめて上向きに臥しているのを、遠くから見た。 17 そのとき、煙のような、朦朧としたものが、東に行き、西に行き、 北に行き、南に行き、上方に行き、下方に行き、中間の四維に行った。 19 「修行僧らよ、これは、悪魔・悪しき者が、立派な人ゴーディカの 識別力を探し求めているのだ。−−『立派な人・ゴーディカの識別力は どこに安住しているのであろうか?』と。しかし立派な人・ゴーディカは 識別力が安住していないで、完全なニルヴァーナに入ったのだ」と。 21 尊師いわく、−−「かれは・・・妄執を、根こそぎにえぐり出して、 ゴーディカは完全に消えうせた。」 >>20 で引用した論文(第7章)は次のように指摘している。(少し編集) 事故や病気によってひん死の状態になった時、その人の心から 体(欲望)への思いが消滅すると、その結果として受動的に臨死体験する。 他方で、江戸時代の禅者、至道無難の 「我なくて見聞覚知する人を 生き仏とはこれをいうなり」という歌を 仏教の悟りの例としてあげる。つまり悟りとは、我執に彩られた小さな自己の フィルターから、自由に見たり聞いたりすることだと言う。 この場合は、自分の心から欲望(身体)を能動的に消滅させている。 両者を比較すれば、受動的・能動的(意志的)という違いはあるが、 どちらも同じような心的状態から生じていることがわかる。 ここに、臨死体験と悟り体験との共通性がある。 瀕死臨死は死んでみたわけではない。 脳が正常ではない状態四苦八苦で見た妄想。 >>28 歩んでる道が違うようだから、話しても時間のムダですね。 あなたの人生はあなたのものです。 あなたの考えてるように、好きなように生きてください。 臨死体験と悟り体験を比較する場合は、 悟り体験をもう少し具体的に定義しないと曖昧になり、混乱する。 大乗仏教であれば、 臨済宗と曹洞宗と真言宗あたりを踏まえたものにしたい。 そこで個人的な独断で、「十牛図」によって悟り体験を定義したいと思う。 これならネットで検索できるし、マンガみたいなものだから、 キリスト教徒にもイスラム教徒にもわかるだろう。 さて「十牛図」を始めよう。最初に注意して置くが、 ネットの解説だけでなく、各図についた序と頌もスルー、読まない方がいい。 図だけを眺め、その意味を自分の頭で考えてほしい。 ポイントは二つある。 牛が象徴するものは何か。第八図の白い円が象徴するものは何か。 (以下、個人的な独断と偏見による十牛図解釈です。) 第三図 見牛体験 ・・・ ここで牛の全体が姿を現す。 生きることに苦悩していた青年は、自分の中に牛(欲望)がいたことに 強い衝撃を受ける。それによって自分という殻が砕け始め、 そのすき間から霊的な光が差し込んで来る。 自分という殻の砕け方は、抱えていた苦悩に応じており、 苦悩が大きければ大きく砕け散る。 自分という殻が完全に砕ければ、牛(欲望)もまた完全に砕かれ、 一瞬、「神」と出会うことができる。 神に出会えば、出会った瞬間にその人の人格が一変する。 これは釈尊の「苦集滅道」そのままである。 臨済宗の公案も、見牛体験を目指しているものと思われる。 臨済の師から「牛とは何か」と聞かれ、「真の自己なり」と答えたら、 いきなり警策棒で叩かれ、「この大バカ者め」と怒られそう。^^ 空海伝『御遺告』の「明星が口に入った」という話も同じかもね。 その話を事前に知って、これを織り交ぜ、 ウソの明星体験を語っても速攻でばれてしまう。 おそらく、この話はウソを見抜くための仕込みなのだろう。 実際には、落ちてきた光の球に体全体が包まれる。 @ ヤホニュ- >🐼 死ぬってどんな感じ? アメリカ政府によると、この地球上では1時間に約7000人が死亡しています。 当然ではありますが、私たちは死という体験についてあまり知りません。 死ぬとき、私たちの体と心にはいったい何が起こるのでしょうか? いろいろな情報を総合すると、それほど恐れることはなさそうです。 身体に起こること 死に方は実にさまざま。そこでこの記事では自然死を前提とします。 最初に強調しておきたいのが、正確な「死の瞬間」というものは存在しないこと。 死とは一連のプロセスであり、私たちにはわからないグレーな領域もたくさんあります。 とはいえ、法律上の死は2段階に分けられます。 最初に訪れるのが「臨床死」と呼ばれる状態で、心拍、呼吸、血液が止まります。 その後、「生物学的死」が訪れるまでの4〜6分間、体の細胞は生き続けます。 生物学的死を迎えると脳細胞が死にはじめ、蘇生が不可能になります。 では、そのプロセスにおいて、私たちは何を感じるのでしょうか? スタンフォード大学で緩和ケアを専門とするJames Hallenbeck氏によると、 最後の数日は「アクティブ・ダイイング」(積極的死亡)段階と呼ばれているそうです。 その間に、次のような順序で欲求と感覚が急速に失われていきます。 1.お腹が空かなくなる。 2.喉が渇かなくなる。 3.言葉が話せなくなる。 4.目が見えなくなる。 5.耳が聞こえなくなる。 6.触られた感覚がなくなる。 A ヤホニュー >🐼 BuzzFeedBlueによると、ほかにも「息切れ」「抑うつ」「不安」「極端な疲労」 「精神錯乱(おそらく酸素不足のため)」「便秘あるいは失禁」「吐き気」などの 症状が表れます。 基本的に脳は、延命を図るために重要度の低いものからゆっくりと機能を停止します。 死の兆候は、皮膚にも表れます。 皮膚が冷たく青白くなり、場合によっては斑点が出ることもあります。 やがて、咳や飲み込みができないほど弱ってきます。 息をすると、喉の後ろのほうで濁った不快な音がしはじめます。 これは、「死前喘鳴(しぜんぜんめい)」と呼ばれるもの。 他者からは非常に苦しそうに聞こえますが、The Atlanticによると医師が判断できる 範囲では死前喘鳴に痛みは伴わないようです。 ただ、死ぬときの痛みまでは医師にもわかりません。もちろん、焼死や銃殺は 痛いでしょうが、自然死の場合は何ともいえません。 通常であれば、死ぬ直前の痛みは医療関係者が管理してくれます。 最後の数時間は意識がないことが多いので、おそらく痛みは感じないでしょう。 ついに身体に死が訪れると、わずかに残されていた脳の機能が急速に失われます。 Gizmodoによると、脳は身体を抑えきれなくなり、尿や便が出たり、 ごくまれに射精をすることもあるそうです。 そう聞くだけで不快感と恐怖を覚えるかもしれませんが、実は脳には秘策があるのです。 ⓷ ヤホニュー >🐼 心に起こること 身体が死にはじめると同時に、脳もあの世に行くための準備をはじめます。 最後の瞬間、多くの人は幽体離脱し、穏やかな場所で親戚とランデブーし、 トンネルの向こうに明るい光を見るといわれます。 でも実際、何が起きているのでしょうか? そのような精神状態では、自分に起きている現象を怖いと思うことはなさそうです。 ノースカロライナ大学チャペルヒル校の研究では、末期患者と死刑囚に 死ぬことを想像してもらい、そのときの精神状態を比較しました。 その結果、死が近づくほど、ポジティブな展望を持つことがわかりました。 その理由は、死が具体的になるにつれて現実として向き合わざるを得なくなり、 受け入れられるようになるからと考えられています。 あるいは、平和な夢や幻想を見ているからかもしれません。 ニューヨーク州バッファローのホスピスセンターで行なわれた研究では、 死が近い人は通常よりも夢を多く見ていることがわかりました。 研究に参加した人の88%が、通常の夢よりもリアルに感じられる夢や幻想を 見たことがあると答えたそうです。 その内容は「すでに死んだ知人との再会」「どこかへ旅立つ準備をしている夢」 「人生の重大な出来事の追体験」などでした。多くの人にとって、 それらの夢や幻想は心地よく、死の恐怖を和らげるものでした。 C ヤホニュー >🐼 臨床死がはじまると、脳は過熱状態になります。BBC Newsによると、急に電気が流れ、 脳全体のさまざまな部位の活動が活発になります。 やがて通常よりもはるかに強い興奮を引き起こす神経化学物質が放出されはじめます。 「明るい白い光」が見えるのはこのときです。 学術誌Journal of Near-Death Studiesに掲載された論文によると、 臨死体験をした人は、文化的・宗教的信念によって変わるものの、 同じものを目撃する傾向があるそうです。 別の学術誌Frontiers in Human Neuroscienceの論文では、 そのような体験が起こる時期や順序は人によって異なるそうです。 ですから、以下に記す体験が、順不同で起こると考えてください。 ・意識の異常な覚醒状態。起きているときでも夢を見ているときでも起こりえます。 ・幽体離脱体験。通常は自分の体の上を飛んでいる形で訪れます。 原因は、側頭頭頂接合部(TPJ)が酸素不足で損傷したためと考えられています。 ・走馬燈。多くの人が、人生の重要な瞬間のプレイバックを見ます。 ・先立たれた家族との再会。会ったことのない先祖に会うこともあります。 不思議な世界を訪れ、光でできた生き物と会う人もいるようです。 脳の酸素不足により、幻覚が見えていると考えられます。 ・圧倒的な安らぎと安心感。エンドルフィンの分泌によるものと考えられています。 ・トンネルの先に明るい光。視覚系が過剰に興奮すると二酸化炭素が増え、 光への感度が高まります。また、短時間ですが、他の感覚も強化されます。 D ヤホニュー >🐼 全部を体験する人もいれば、一部だけの人もいます。 いつ起こるのか、どの順序で起こるのかはわかりません。 臨死体験者に聞くと、これらの体験によって死を受け入れられるようになるばかりか、 歓迎すらできるようになるそうです。 心がお別れの儀式を終えると、準備完了です。死後の世界があったとしても、 私たちはそこに何があるかを知ることはできません。 ただ、少なくとも脳は、できるだけ快適な死を迎えようとするようです。 死後世界に備えて 🐼 人生の目標を「魂(心)磨き」に定めておけば 幸福な人生を送れる確率が高くなります (^こ^) 【^J^】< 魂(心)磨きを心掛けましょう >【^c^】 _/ ̄ ̄\_ // \ヽ fY Y| | | /\)(/ヽ | | (V <・)| (・> V) | ー | ー | | \ ^^ / | 輝く魂は \ ヽ /\ / / この人生をも照らします /\____/\ | | VL∧/ | | 証明し得るものは一瞬のペラ泡沫(現実) 証明し得ぬものは永遠のメタ実在(本質) ペラ 🐼 メタ /.-=・- -・=-.\ ( (__人__) ) ぇ? ペラ メタ ? \ ` ⌒´ / 今更ながら ペラって何なん? (=^・^=); 【^i^】 永遠無限メタ複合構造の薄皮(『ペラ』)の一瞬の現実を 唯一絶対と見做す軽薄(ペラ)な三流唯物論的科学的感性界隈ょ (^こ^) 証明し得るものは一瞬のペラ泡沫(現実) 証明し得ぬものは永遠のメタ実在(本質) ペラ 🐼 メタ /.-=・- -・=-.\ ぇ? ( (__人__) ) これが分かりゃ ペラ卒業? \ ` ⌒´ / 時間/空間/可能性/摂理/法則/意識/生命 等は 物理現象として説明不可能な 物理以前の存在であるから この世界が メタ異世界から成る 複合世界である事が論理確定する - -; 「メタ天文(ブン)学」 >🐼 この宇宙は無限大と無限小の間に在る この宇宙の両端は無限大と無限小である 無限大空間の背後は メタ空間異世界であり 無時間世界である 無限小空間の背後は メタ時間異世界であり 全時間世界である この「両端異世界」の落差反応が この宇宙であり その「両端落差」がこの宇宙の全エネルギーである 無限大は無数の無限小で埋め尽くされており 両者は対等で表裏一体的「メタ構造」を成している ビッグバンはメタ時/空異世界の出会い/反応であり 素粒子はメタ時/空異世界反応の定在波(渦)である 重力は物質に流れ込むメタ空間異世界の作用であり 光は物質から放射するメタ時間異世界の作用である +電位はメタ空間異世界 の作用であり −電位はメタ時間異世界 の作用である 🐼 「G現象界」 >🐼 (メタ現象界) 「絶対無」を 如何なる領域も 如何なる可能性も無い非存在と定義し 「絶対無」以外の如何なる存在も G現象界であると定義すれば 「G現象界」の「絶対無限」が論理確定する - -; G現象界の「原初」を想定しても 常に原初が生じる可能性が 『それ以前に存在する』 ゆえに 「原初」 は否定され G現象界が 「原初の無い永遠」である事が論理確定する - -; 唯一絶対無限の存在に外は無く 外部からのエネルギー供給は 不可能であり G現象界が「永久機関」であることが論理確定する - -; 時間/空間/可能性/摂理/法則/意識/生命 等の非物質の作用は その存在機序が不明であるのに この物質世界を支配しているから この世界が メタ異世界から成る 複合世界である事が論理確定する - -; 以上の事から G現象界の「無原初絶対無限メタ複合構造永久機関」が論理確定する 🐼 なんだ、ここもGスレでしたか。^^ スレ建てに感謝しつつ、遠慮なく使わせてもらいますね。 第八図 人牛ぐ忘体験 ・・・ 人であることも牛であることも忘れる。 従来の仏教は、ここを「空相」を表わすものだと解釈する。 その根拠は、八宗の祖・龍樹の『中論』第24章18節にある。 「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。 それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」 しかし、第八図を理解するベースに、第七図→第八図という流れがあり、 これを無視するわけにはいかない。そこで第七図を見れば、 もはや青年とは呼べない男性が、夜空の満月を家の中で手を合わせ 眺めている。その流れから言えば、第八図の白い円は満月を 表現したものだと考えられないだろうか。 釈尊は坐禅の最中に、満月を見て成道したとも言われている。 この満月は、空相ではなく、霊魂の象徴ではないのか。 それが霊魂であるかどうかは、実際に体験してみないとわからない。 幸いそれを体験する方法があって、それが「坐禅」なのだ。 ただし、いきなり坐禅を始めると命を落とすこともある。 まず第三図の見牛体験をしてから、坐禅をスタートすべきである。 神との出会いをしてから、自分との出会いに挑戦する。 これが十牛図の順番であり、悟りの順番でもある。 曹洞宗は最初から坐禅をするが、これでは霊魂体験は無理だろう。 空海は求聞持法で、たまたま霊魂体験をしたにすぎない。 結局、仏教の「悟り体験」は二種類あって、 第三図の「見牛体験」と、第八図の「人牛俱忘体験」ということになる。 特に第三図の見牛体験をしっかりやること。 そうすれば、第八図の人牛俱忘体験も短期間で通過できるでしょう。 それに比べたら、第四図から第七図などはたいしたことない。 十牛図は、もともとは八牛図だったらしい。 第九図 返本還源はともかく、悟ったことをアピールするつもりで 第十図 入てん垂手を絶対マネしないでください。 こんなものをマネたらピエロです。 臨死体験は死んでしまった人でなく生き返った人からしか聞かれない。 だから死後の世界ではない >>51 それはその通りですね。 しかし今や、死者の話を霊界通信によって知ることができます。 もし興味があれば下記を検索してください。 スピリチュアリズム・ブックス 『霊の書』 『霊媒の書』 〜 アランカルデック 『シルバーバーチの霊訓』 東京スピリチュアリズム 『不滅への道』 〜 マイヤーズによる霊界通信 >>52 昔は確か心の道場っていう名前だったよね 名称が変わったんだね 心の道場の頃はシルバーバーチ教なんて揶揄されてたくらい、 排他的で頑ななイメージだったんだが、 今はまた違った雰囲気になってるのかな? なんだ、ここもGスレでしたか。^^ スレ建てに感謝しつつ、遠慮なく使わせてもらいますね。 ↑ 全然 爺スレではおまへんょ 【^c^】 大々的にアピールしただけッスょ (^こ^); 唯物論洗脳教育にガッツリ嵌っていた(30歳前の)爺を 一夜にして 180度思想反転しても 現象界は説明出来るのだと 思い至らせた名書籍なんょ 🐼 → >>7 >>53 , >>57 臨死体験に興味をもったのはごく最近なので、 キューブラー・ロスも、レイモンド・ムーディも読んでません。 断捨離中なので基本、ネット検索で済ませています。 >>54 心の道場の頃は知りません。 それにシルバーバーチの霊界通信はすでに終了しました。 従って、同じ霊界通信からの翻訳になり、話し方はていねいだが、 自分の主張を譲らないという点は以前同様、排他的で頑固になるでしょう。 でも、納得できる個所を受容するだけなら問題はないかと。 >>55 心身脱落によって臨死体験ばかりでなく、 十牛図の第三図 見牛体験をすることになりますね。 第八図 人牛俱忘体験も心身脱落になります。 この場合は「坐禅」ですが。 >>59 なるほど。 自分が書いたことの意味は、シルバーバーチそのものではなく、 あのサイトを主催されている方たちの個人的な信念体系が、 ニューズレターだったかな、そのコラムに記述されていて、 そこにある種の頑迷さや排他性が見て取れたので、 当時はちょっと敬遠していた、という意味です。 例えば神との対話という本や江原啓之さんのことを かなり辛辣な言葉で批判していて、そういった表現の仕方は シルバーバーチの教えと矛盾していないのかな、と当時は思っていました。 ただあの当時ニューズレターを書かれていた担当者の方が、 今でも活動されているのか、ということはわかりませんけどね。 結構な高齢者の方もいらっしゃったようだし、 一部のメンバーの方はすでに鬼籍に入られているようですしね。 とにかくシルバーバーチの霊訓そのものは、あるレベルの人たちにとっては 避けて通れない、必修文献であることは疑いようがないと思います。 >>61 そういうことでしたか。それなら、おっしゃってる意味がわかりました。 たぶん関係者は、シルバーバーチを神様のように固く信じていたのでしょう。 物事の草創期では、行き過ぎるぐらいの激しい情熱が、 おのれの仕事を押し進める原動力にもなります。 しかし他方、そういった情熱が、頑迷さや頑固さを生み出す原因ですね。 日本語で、スピという言葉自体がマイナスイメージで使われるのは、 日本人にとって残念だし、日本人にとって不幸なことです。 今日は某ブログからBSドキュメンタリー 「最後のレッスン 〜 キューブラー・ロス かく死せり」 を見た。 すでに見た人は多いと思うが、なんだか感動してしまった。 近いうちに再度見よう。 【断捨離】は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、 ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、 ・断:入ってくるいらない物を断つ。 ・捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。 ・離:物への執着から離れる。 として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、 自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが 目的である。 ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。 wiki なーるほど、断捨離はヨーガの行法なんですね。^^ ここ数年、暮れの大掃除では水が冷た過ぎるので省略、 暖かくなった春の連休を中心にやっている。 努力の甲斐あって不用品を大量に処分したが、そのお蔭で 捨てる時のことをイメージしながら買い物をするようになってきた。 今時はただで処分できないものが多いので油断できない。 修理して寿命を延ばしたり、簡単なものなら自分で作ったりもする。 最近の自慢は、段ボールで作った書見台で毎日のように活用している。 キューブラーロス(1926〜2004、78歳亡)は、公的活動から引退した、 1995年に脳梗塞で半身不随になり病床生活に入った。 >>63 のBSドキュメンタリーよれば、彼女は神に次のように言ったという。 「あなたはヒトラーだ」と呼びかけた。「ヒトラー並だ」と言ったのに 神はただ笑ってた。それでますます頭に来たわ。40年間も神に仕える 仕事をしてきて、やっと引退しようと思ったら脳卒中で 何にもできなくなってしまった。 じつはマザーテレサ(1910〜1997、87歳亡)も同じように、 神(イエス)に絶望的な思いを抱いている。 それがローマ教皇庁の神父との手紙のやり取りから明らかになった。 『Come Be My Light』 2007年出版 その詳細は次のサイトを検索してください。 霊性進化の道-スピリチュアリズム → スピリチュアリズム・ニューズレター → バックナンバー50号 → マザーテレサの「心の闇」の問題 個人的には、スピリチュアリズムに完全に同意してるわけではない。 しかし、いい意味で、マザーの再評価のためにお薦めです。 >>68 ヨブは最後の最後で神に祝福されています。 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 ヨブ記42:5−6 ヤコブもモーセもエリヤも神に祝福されてます。 旧約の時代にすでに、罪から救われた人々がいたということは、 イエスの十字架が人類の罪を贖ったというパウロの主張は、 大ウソになってしまいませんか。 イエスの最後のコトバは福音書ごとに異なってます。 マタイ 27:46では、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 これは、わが神、 わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という意味である。 マルコ 15:34では、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 ーー意味はマタイと同じ。 ルカ 23:46では、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 ヨハネ 19:30では、「成し遂げられた。」 マタイとルカでは、十字架の死を神に抗議しているようですが、 キリスト教は詩編22を持ち出して弁解します。それにしても読む側は、 どれが本当なのかわからないではありませんか。 最後のコトバは、どれもこれも作り話なのかもしれません。 マザーテレサと、キューブラーロスから、 いまさらながら宗教の深刻な問題に気づかされる。 どんな宗教も「信じれば救われる」という前提を持ってるから、 信者はその時の心の状態で丸ごと受容される。 そのため、利己的なものがそっくりそのまま温存されてしまう。 その利己的なものを消滅させることこそが最大の課題なのに、 宗教自体がブレーキになって、それを温存させている。 どうしたらいのか。既成宗教から離れたらいいのではないだろうか。 この問題に関しては、釈尊が2500年前に答えを出している。 ーー 「耳ある者どもに甘露(不死の)の門は開かれた。 ーー 〔おのが〕信仰を捨てよ。」 by 『悪魔との対話』 梵天勧請 仏教にしろキリスト教にしろ、 信仰すること自体が、神との出会いを逆に遠ざけてしまう。 希望や願望は欲望から生じている。 既成宗教によって欲望を温存したら、神との出会いはいつまでも生じない。 釈尊は「信仰を捨てよ」と言っている。この意味をよく考えよう。 既成宗教を信じている信者たちは、自分たちこそ救われている、 救われるはずだと信じているようだが、その根拠は何? 時間には限りがある。過ぎてしまえば一瞬だ。 つまらないことから足を洗おう。 変化は見えるが時間は見えない 目盛りは見えるが空間は見えない 神経細胞群は見えるが意識は見えない 無数の現象は見えるが可能性は見えない - -; 臨死体験なんて当てになりません。 たとえば、 大邸宅の門を入って すぐに出てきたのと同じです。 門を入ったら、 花壇があった! それだけです。 仏様も神様も顔を出しません。 まだ死なないのは明白だからです。 死後の世界がある証拠にはなるでしょうけどね。 「生まれ変わり」や「前世の記憶」などの学術調査もあり その結論は 「生まれ変わり若しくは超能力」という事だったが 爺的には (多重人格にも関連しそうな)霊的憑依も考えられるかと - -; >>75 臨死体験は、十牛図の第三図・見牛体験に属する神秘体験です。 しかし、見牛体験にはピンからキリまであって、 神に出会うこともあり、死者の霊に出会うこともありえます。 神秘体験には、神との出会い、霊魂との出会い、天使との出会い、 守護霊・死者の霊との出会いなどいろいろあります。 わたしの場合、 @ 目を開いたまま体験したのは神との出会いでした。 A 坐禅で体験したのは霊魂との出会い、天使との出会いでした。 B 夢で体験したのは守護霊・死者の霊との出会いでした。 神秘体験には決まった順番があるのかもしれません。@→A→B いずれにしろ、どのくらいの深度で精神的に死ねるかによって、 神秘体験の内容が決まるのではないかと思います。 そんなことは死んでからやればいいじゃないか、 と思っている人はカン違いしてますね。 死後の世界には「試練」がないので、 神との出会いも、霊魂との出会いも永遠に不可能なのです。 輪廻だけが救いになるでしょう。 われわれは物質世界で欲望に拘束されているからこそ、 神と出会い、自分の霊魂と出会うことも可能になるのです。 欲望を根こそぎにすれば神と出会えます。 精神的にほんの一瞬、死ねたら神と出会えるのですが・・・ 塗炭の苦しみをすることになります。 >>76 さすがマスターG。盲点を指摘されたような思いがします。 少し考えさせてください。 どのくらいの深度で精神的に死ねるか ← 爺も「人其々では?」と思ってんょ (^こ^) 霊魂なんぞありゃせんわww ↑ 科学が尻尾も掴めん君の意識原理の呼び名ゃ (^こ^) 前世の記憶は事実なのか否か 憑霊タイプは、憑霊されることによって本人の意識が消えます。 そのため記録係と、できれば審神者役が必要になります。 このタイプで有名なのは、神功皇后、エドガーケーシー、出口王仁三郎、 シルバーバーチの霊媒になったモーリス・バーバネラなどがいます。 子供がウソをついている可能性は、そんな話をしても損するばかり 何の得もなく、ほとんど考える必要もなさそうです。 また、誰かが入れ知恵した可能性は慎重に調査すれば防止できます。 残るは超能力ですが、前世の記憶をそう言うならばそうなんでしょう。 結論として、前世の記憶はきわめて信ぴょう性が高いものだと考えます。 わたしは十歳のころに転機があり、自分を特別な存在だと 思い込んだことがある。そしてそれを示さなければと、たまたま家にあった 1センチ幅の革のヒモを左肩から右斜めにぶら下げて、学校に行った ことがある。それがまた掛けたくなるような丁度いい長さだった。 朝の校庭を校舎へ向かって歩いている時、あれ、変なことしてるなと気づき 慌てて外した。幸い誰からも何も言われずに済んだが危なかった。^^ 大人になってからバラモン教に「聖紐」なるものがあることを知り、 ああ、これだったかもしれないと思うようになった。 バカモンと言われそうだが、 わたしの前世はバラモンだったかもしれないのだ。^^ 普通の人には理解しがたい多重人格も、 憑霊現象の仕組みがわかれば不思議ではないですね。 心理学と心霊学は 精神世界の同じ対象を別の言語体系で表現してんょ (^こ^) 一部のキリスト教会では、「異言」という奇妙な現象を発生させます。 説教やら音楽やらで信者の気分を高揚させて行くと、 意味不明な言葉をごにょごにょ呟くそうです。 彼らはこの現象を、神から聖霊を受けた証拠だと誇りにします。 しかし憑霊現象の仕組みがわかってくると、異言は 死者の霊が取りつく前段階、前触れではないのかと思われ 心配になります。死者の霊には悪霊もいるからです。 大本の王仁三郎は、鎮魂帰神法で依代に憑霊させると、 その後、精神状態が悪くなる者も現われ、同法を封印したそうです。 常識的に考えても、人が見えない霊を操ることなど不可能です。 コントロールできないなら、最初からやめてほしいですね。 マザーテレサと、キューブラーロスの話を読んで、 男と女の違いは何かと気になった。 女はより感覚的だから、必然的に現実的・唯物論的な考え方になる。 それゆえ女の信仰は、宗教団体や、聖書や仏典そのものへと向けられ、 そこで見たり聞いたりしたものを中心に形成される。 また、生まれ育った家庭の影響を強く受け、生涯的に支配される。 これに対して男は、幼い頃から、生きるためには周囲との戦いが 必要なことを意識する。あるいは意識させられる。 周囲との戦いを意識すれば、「死」とどう向き合うかが問題になる。 従って男は、より哲学的な傾向を帯びる。 根が哲学的だから、現実そっちのけで考えごとに耽りがちである。 ーー もちろん、女と比較すればの話ですが。 死後の世界の考察という事で、 かなり信ぴょう性が高い本を参考にすると、 アラン・カルデックの『天国と地獄』や、 下記のHPの後半部分で紹介されてる『末期ガンでの昏睡状態から臨死体験後、急激・奇跡的にガンが消滅したアニータという女性の本』なんかが参考になるけど、 もし現世で真面目に生きていたら、アノ世は超快適な世界で、 逆の場合は、しばらくの間は想念的に苦しむ世界でもあるのかもしれないと思った。 《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》 https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome >>89 出版社の方ですか? このスレで『神との対話』の宣伝はやめてください。 神はコトバを話さないし、話す必要もないし、話す口も舌もない。^^ >>90 だとしたら、シルバーバーチも他の霊界通信も、 同様にウソということになります。 神との対話の神が、どういう意味での神なのかはさておき、 大切なのはメッセージの中身です。 そのメッセージによって救われる人がいるのなら、 それはその人にとっては有益なものと考えればいいんです。 バシャールやラムサなどのチャネリングものも同様です。 『神との対話』 --------------------------------------------- 神との対話 批判 神との対話 嘘 --------------------------------------------- 上記で検索するとその正体がわかります。 いわゆるステマですね。 死後世界に備えて 🐼 (念のため) 人生の目標を「魂(心)磨き」に定めておけば 幸福な人生を送れる確率が高くなります (^こ^) 【^J^】< 魂(心)磨きを心掛けましょう >【^c^】 _/ ̄ ̄\_ // \ヽ fY Y| | | /\)(/ヽ | | (V <・)| (・> V) | ー | ー | | \ ^^ / | 輝く魂は \ ヽ /\ / / この人生をも照らします /\____/\ | | VL∧/ | | 世界の四大聖人と言えば、釈尊・孔子・ソクラテス・イエスでは ないだろうか。マホメットは憑霊型の預言者なので聖人とは違う。 ところで、この中になぜ女の名前がないのか、ということを考えたい。 女には、人格高潔とか清廉潔白という言葉は似あわない。 その理由は、女が感覚的であり現実的であり、 精神的なことより物質的なことを優先するからに他ならない。 物質への依存性、執着、欲望が男より断然強いのだ。 聖人は欲望を捨てるが、女は逆に自分から欲望へどっぷり浸かる。 女が下等だからではない。その背景には出産と子育てがある。 その必要から、女の特性(感覚的・現実的)が生まれる。 女は社会で作られるのではなく、受胎した瞬間に女になるのである。 そんなことは絶対にありえないが、女が聖人になったら、 出産も子育てもできない。これは運命的なもので変えられない。 昔から、女の目標は良妻賢母に決まっている。 女は力が弱いから、ひとりでは生き憎い。 子供がいれば、なおさらだ。そのため周囲とのつながりを大切にし、 場所や組織に定着、場合によっては大家族主義的にもなる。 このように女は、人間同士の依存関係に頼らざるを得ないことから、 精神的に自立するのがきわめて難しい。 これに対して男は、新参者である限り、場所や組織の中で必ず損をする から、これを嫌って放浪者的になりがちだ。 結婚するにしても、より自由な核家族を望む。依存関係を嫌うことで 依存心から離れ、自立心を養うチャンスを得ることもできる。 周囲の人間関係に左右されるようでは聖人とは言えない。 これも、女の聖人が生まれない理由になるだろう。 聖人になるために最低、欲望を根こそぎにする必要があるが、 そのためには塗炭の苦しみをすることになる。 精神的に死なないと、欲望を根こそぎにすることはできない。 肉体的に死んだら本当に死ぬから、肉体はそのままの状態で精神的に 死ぬわけだが、より哲学的・精神的な男でも至難の業なのに、 より感覚的・物質的な女にはまったく不可能だと考えた方がいいだろう。 男も女もそれぞれの役割があり、それぞれの役割を果たすことで 幸せになれるように神によって最初から造られている。 女の役割は、結婚し出産して子育てをすることの中にある。 神探しは男の役割なのです。それも女を幸せにするために・・・ ^^ 男は愛する女のために戦う。家族のために戦う。 友のために戦う。組織のために戦う。国のために戦う。 そのために備えて、いつ死んでもいいように神探しを始める。 神と出会えれば、後のことは神に任せ、心置きなく戦い、 死んで行くことができる。 マザーテレサの神秘体験 @ ・・・ ニューズレターより >>67 1946年9月10日、ダージリンに向かう列車の旅の途中、マザーが 列車の中で祈りをしていると眼前に突如、十字架につけられた 現実さながらのイエスの姿が現われました。そしてイエスはマザーに WI THIRSTWと叫びました。十字架につけられたイエスの傍らには 母マリアや使徒ヨハネやマグダラのマリアの姿も見えました。 思いがけない光景に遭遇してマザーは混乱しました。やがてマザーを 乗せた列車はダージリンに到着しました。 マザーテレサの神秘体験 A ダージリンでマザーが、列車の中での神秘体験をどのように考え 受けとめてよいのか分からず一心に祈りをしていると、聖母マリアが 現われて「イエスの言われることにWはいWと言って従いなさい。 今はわからなくてもその言葉に従いなさい」と語りかけます。その後、 決心が固まらないマザーに対して、イエスは再び現れて呼びかけます。 イエスの声は、早く次なる行為に移るように催促します。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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