0343神も仏も名無しさん
2018/04/17(火) 11:36:45.29ID:qg1rPMjV結局プロテは恩寵が全て!でその義認をどう確かめるか!が歴史の営みの全てのだと思ってる
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改革派のウェストミンスター信仰基準では聖化は
2 この聖化は、全人に行きわたるけれども(1)、この世にある間は未完成である。どの部分にもなお腐敗の残部が残っている。
そこから、絶え間のない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲がみたまに反し、みたまもまた肉に反するのである。
3 この戦いにおいて、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る。
それで聖徒たちは、恵みに成長し、神をおそれて聖潔を完成して行く。
とある
これが意味するところは、聖化したものでも罪への傾倒の働きは依然としてある。しかしいろんな紆余曲折はあれど「最終的には救われ得る」ということだ。
聖化されても過ちは犯し得ると、改革派は定義する
そして、ドルト信仰では確かに「一般恩寵」と「特別恩寵」を分けるが、それはあくまでも結果論であり、聖化された信徒が過ちを犯し得ることを語っている。
ドルト信仰では一時的な信仰の後退を認める、これもウェストミンスター信仰基準と変わらない立場
その上で、聖化は生きてるうちは完成されることはないと定義もされている。
これらが意味することも「生きている限り」聖化は完成されない、ようするに聖化された人間も罪を犯し得る、ようするに結果を見ないと分からないとなる
以上