マインドフルネス瞑想 Part9
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part8
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1519401863/
メンタルヘルス板
【瞑想】マインドフルネス 6【気づき】 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1508008965/ 主体の正体
虚妄分別とは・・^^
たとえば,《ウパニシャッド》文献に端を発するベーダーンタ学派,
サーンキヤ学派の考えによれば,われわれが経験するこの世界は,
われわれが自己の本体(アートマン)が何であるかを知らないこと(無知,無明)が
きっかけとなって展開したものであり,
つまりわれわれの日常的認識(分別,迷妄)が作り出したものであるとする。
これは仏教でも基本的には同様であり,《華厳経》の〈三界唯心〉,
瑜伽行派の〈唯識無境〉〈識の転変〉なども,
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている。世界はいわば〈観念〉の所産であることになる。… ところが、仏教では、この分別がくせ者であり、仏道の障りとされる。
「虚妄分別」(邪まな世界を作り出す分別)という言い方に代表されるように、
この分別によって、私たちに苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方である
。仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し
、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。
この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。
仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論(言葉によって固執の世界を虚構する
こと)によって生まれる」と説かれる
。私たちの世界は言葉によって虚構され、その虚構によって自己と自己の所有に
対する固執が生じ、勝れた他と比較して劣等感を抱いたり、劣った他と比較して
優越感を抱いたりする。その分別によって煩悩(苦悩)が生まれる。
人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する
。そうした分別の本質が明らかになるとき、分別は分別のままにそれに固執しない智慧の
世界が開かれる、それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。
それは分別のない世界ではなく、分別の本質を知見し、分別が障りとならなくなる世界である。 うん?
その主体の正体が・・^^
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている
とこうなる^^
なにか問題でも?
自分で書くと何時間もかかるんだよな^^ う〜〜ん^^
マイオンドフルネスを超えたかもしれん^^ ・・・ではこのスレから去るか・・^^
ではでは^^ 私がこの肉体と言う物質であったならどうでしょう。
肉体を構成する物質は、約3年に1回入れ替わります。では、3年前の私は、今の私ではないのでしょうか。また、3年後の私は今の私ではないのでしょうか。
私の肉体を構成する物質は、少しずつ入れ替わって行きます。では、将来の何時の時点で、今の私ではなくなるのでしょうか。私とは、今の肉体を構成している物質の内のどれなのでしょうか。 うん?
>>522 さん・・・^^
「雑念だらけ」って言われてるよ^^ マインドフルネス瞑想を簡単に言えば・・
対向車線の車が想念だとすると・・^^
そっちに気が取られ今運転していることを忘れ・・
前を注意してみていない^^
つまり・・^^
対向車線の車・・想念は受け流すだけでいいんだよな・・^^
前をみて注意しないと^^
前を見て注意して運転しろ・・ということだな・・^^
つまり・・「今ここ」・・・^^ 意識的にしろ無意識的にしろネットに書き込んでしまう人なんだろうな おまいらは・・・^^
対向車線の車に注意をとられ・・^^
下手すれば・・それに突っ込んでいる状態^^
「ちゃんと前を見て運転しろ」・・こうなる^^ >>528
>>522 さんのこと悪く言うなよ・・・^^ でだ^^
車の運転をうまくするにはどうしたらいいのか・・^^
まずは車の構造を調べる^^
時にはメンテナンスをする^^
運転中の集中力を高める・・・ まぁ・・・^^
実際乗ってみなければわからないんだけれどもね^^ そうなると・・・^^
はじめは教官が必要なのか^^
うむ〜〜^^ おまいら叩かれる^^
「なんでやねん^^」
となる^^ かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。
厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである」 つまりやな・・^^
五蘊の執着から開放されたら解脱にいたると・・^^
こういうことや・・^^
そこから・・
五蘊皆空かでてきたのかもしれん^^ マインドフルネスを簡潔に
「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく
能動的な注意を向けること」と定義している 今ここでの経験に
→ 価値の役割
評価や判断を加えることなく
→ 距離をおくスキル
能動的な注意を向けること
→ 注意のコントロール 簡単に言えば・・^^
「妄想すんな」・・ということか・・^^ おまえらは・・・^^
スルーする技術が未熟だからな・・^^
想念が湧いたらスルーしろと・・^^
簡単や^^ けど・・・^^
これではまだ不十分や・・^^
「なぜ想念が湧くのか?」まで突っ込まんとあかん^^ そこがマインドフルネス瞑想と仏教の違いやな・・^^
仏教では「なぜ想念が湧くのか?」まで教えてくれている^^ 想念が湧いてきてスルーするにも限界がある^^
もとを断たんとあかん^^ そういえば・・・^^
この板で人気のあるスマサなんとか長老の動画がなんかあったな・・^^
探してみるか^^ スマナサーラ長老「悟りを開く瞑想について」
https://www.youtube.com/watch?v=SiqcshhHDJs
これかな・・・^^
自我も幻覚か・・・^^
思考もバイアス・貪・瞋・癡
思考を止める・・^^
だいたい2週間で成功する・・^^
思考を止めたら悟れる^^
簡単でしょ^^
思考止めるには今の瞬間に気付く^^
いいこと言うね・・・^^
見直した^^ 生まれ落ちた瞬間に100%のシステムを兼ね備えている
それに気づくことだ
そのシステムを叩き壊そうとするウィルスが蔓延している
絶対に感染しないように心得るべきだ マインドフルネスA 脳(ココロ)のエクササイズ
https://www.youtube.com/watch?v=yNNPr6gQ0yw
ウィルスというより・・副作用な気がするんだが・・・^^ ^^ を全板でNGワード登録した方がいいよ
どの板でも気分で荒らしてくるから 道元著『正法眼蔵 坐禅儀』には、
「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」
という一文がある。
そのまんまマインドフルネス瞑想やんけ^^
坐禅は、精神統一や瞑想のための手段としての“習禅”ではない。
命と心を開放する安心の教えの門である。
不染汚心(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。
悟りの上での修行を信じ、確かめ続けていくということである。
不染汚心で坐るということはどういうことであろうか。
坐禅には、今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。
いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。
期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停め「ただひたすら坐る」ことである。 「今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。 」
この分別を仏教では虚妄とみてるんだよな・・^^
ここ重要^^ 「いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。
期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停め「ただひたすら坐る」ことである」
つまりや・・・^^
おいらが何を書いてもスルーする能力が大事や^^
おまいらを鍛えるために書き込んでいるといっても過言ではない^^ 不染汚心(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。
う〜〜ん^^
道元ちゃんは分っておる^^ >>550
君はアホタレである
そもそも病気もないし当然クスリも必要ない
副作用?
麻薬を取り込まなければよいのだ
生まれ落ちた途端に100%の完璧なのだ
クスリを取り込まなければ副作用もないのだ 道元禅師は「修証不二」を説かれます。
修は修行、証は悟りのことです。その修行と悟りがへだたりがなく一体だということです。
常識的には修行が先で、悟りは後で、修行の結果お悟りがひらけることだと思いますが、
そうなると修行しながら悟りを待ち望むようになりかねません。
禅では、修行と悟りを対立させてその間にいろいろの思慮分別をさしはさむことを
「染汚」(ぜんな)といって、とても嫌います。
修行は汚れのない事が、不染汚の行でなくてならないのです。
修行のときは、求める心を投げ捨て、身も心も修行に打ち込むことが、
そのまま悟りだというのです。
う〜ん^^
色蘊は空寂なりの清浄の句義は是れ菩薩の句義なり。
受想行識蘊は空寂なりの清浄の句義は是れ菩薩の句義なり。
これに近い^^^ 資本主義という麻薬、共産主義という麻薬、
民主主義という麻薬、社会主義という麻薬
優れているという麻薬、劣っているという麻薬
肥えているという麻薬、貧弱という麻薬
全て捨ててしまえばよいのだ 正解を知っているだろう
しかし正解を実行することができない
麻薬に侵されているからだ
自分という幻
それが失われる苦しみ
苦しみから解き放たれる快楽
全て幻
生まれ落ちた途端に100%である
それに気付け 道元禅師 普 勧 坐 禅 儀
さて、坐禅するには、静かなところがよろしい。飲食の量は節度が大切である。
種々の縁(とらわれ)を放って、心ゆるやかにして静かならしめ、万事のいとなみを
休息(とりや)め、善悪是非の分別にかかずらわない。
心がはたらき動くのを停(や)め、一切思量をめぐらすことなく、また仏に成ろうと図ってはならない。
作仏は、迷妄の日常生活の上の坐臥に拘わるものでなく、「坐臥を脱落すべし」である。
巌のように不動のかたちで坐し、箇の不思量底を思量せよ。不思量底で、どう思量なのであろう。
思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量。人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、
ただ打坐のみである。
不思量に止(とど)まり居る処のみを任運に、そのまま不思量底であるところ、本来の相としての非思量に在る。
これが、まさに坐禅の要術である。
坐禅は、禅定に習熟することではない。ただ本来おちつくべきところにおちつく、この上ない安楽の法門(おしえ)である。
究めつくしている仏のいのちはたらきそのまま、すなわち、修行即実証(さとり)の相(かたち)である。 「人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、ただ打坐のみである。 」
マインドフルネス瞑想・・・^^
道元ちゃんのまねしやがった^^ 「箇の不思量底を思量せよ」
動画が確かあったな・・^^
探すか^^ 「坐禅は習禅にはあらず、. 大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」 17/04/09 マインドフルネスとは「習禅」ではなく、「非思量」そのものだった
| 一法庵 : http://www.onedhamma.com/?p=5906
17/03/26 「これまでの何十年の人生がすべて間違っていた」という良き知らせ
| 一法庵 : http://www.onedhamma.com/?p=5878 因○果もうええで
お前おもんないから
これ以上スベリ続けたいんやったら好きにしたらええけども せっかく仏教や瞑想を知ったのにそれでもわざわざ遠回りする人は縁がないんだろうな
まあでもその人の道というか業やカルマなのかね
善友になれない他人は放っといて犀の角のようにただひとり歩むのがよいかな コテをつけて人を見下す人間と仲良くするよりは
犀の角のようにただひとり歩むのがよいだろうね 仏典 聖典に触れるのは多くの場合は害になることが多いような気がするけれど 意味はわからないのに何故か気になる 認識に影響を与える場合も多々あります 自己責任ですね
方法もたくさんあるでしょう 歴史に残っているマスター達は自己を観察する瞑想をしていたか といわれればそうではありません 帰依 明け渡し 完全な絶望の方が多いかも
ただ自己を観察する方法は普通の人である私たちにとっては確実な方法です 強力です それは何故か
雑念 想念をも丸ごと引っくるめて否定せず ただただ観察すれば良いからです 加えて途中途中でやる気の出るイベント サプライズがある
楽になりたい 真実を知りたい そんな人は続けて欲しいですね >>440
10日で得られると書かれているもの(roop-nahm)とは身体や心を観る認識が変わるものです。ちょっと説明しにくいですが、その段階まで行けば自分で認識が変わったとはっきりわかります。たぶん他の流派の名色分離智と同じだと思います。
ティエン師は10日で得られると書かれていますが、それは24時間気づきを保つことができる人です。自分には2年かかりました。
タイで瞑想を学んでもう5年以上ですが、苦滅には至ってません。在家で、仕事が忙しくて24時間気づきを保つほどのガッツが残されてませんからね。
それでもストレスや悩み苦しみは以前の100分の1くらいまで減りましたけどね。
ダンスでもいいですよ。気づきを保つことができるなら、ですが。 そう気づきが全ての入り口だった。
ここからはじまるなんて
書いてあるように気づき続ければよいだけ ドア開けっ放しにして喜んでる変な改行の人、習禅やってる感強い。 瞑想で智慧というのが得られると頭が良くなるの?
智慧と知恵でどう違うの? スマナサーラさんのところでは呼吸で生じる感覚を見るやり方はヴィパッサナーだけど、
ゴエンカさんのところではアーナパーナなんだよね。見る場所が違うだけで。
一方、ゴエンカさんのところでは感覚に集中することを推奨し、プラユキ・ナラテポーさんのところでは
感覚に集中することは推奨しない
それぞれのよさがあるんだろうけど、どれも「ヴィパッサナー」というとなると、
いったいヴィパッサナーってなんだろう
みなさんはどれをやってますか? >>575
ドアの人ですが、習禅なんて用語もあるんですね たぶん禅でいえば座っているそのままが悟りで
それに気づかないであれこれ工夫したりするな 的な意味なのかな
それは難しかったですね 5年も6年もやりましたけど幻覚はどんどん出るし自律神経は壊れるし
それも気にせずにいたけど ヴィパサナをしたら2年で小悟までいったんで今は次の段階です
>>574
そうです!気付くだけです!
良くなろう 改善しようとも考えずに気付くだけ
自分がどんな要素 何を恐れて嫉妬して喜んで望んで等に気付くだけ
>>576
普通の知恵との違いは その得られ方の違いがまず上げられるかなと
また内容は自分と世界の正体に関しての認識がハッキリするという意味だと思います
まだ私は自分の正体しかわかっていないので世界に関しては想像ですけど
その他 日常生活で我を失うことがないので冷静に判断できたりというのはあるけれど
知能指数は上がらないと思うw >>578
ヴィパサナという言葉がたまたまあるだけなので定義は気にしなくても良いかと
枝分かれした流派の人が よし ボンカレという独自の名前 ジャワカレという
名前を付けようとなっていなかっただけのこと
それでも気になるのであれば共通する特徴 内容を上げて自身で再定義してみるのが良いと思います
もっと簡単なのはどっちもやってみること どのみち進んでいくと宗派を問わない自分だけの 観る
が始まると思いますよ 1108 「世人は何によって束縛(そくばく)されているのですか?世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」
1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」
1110 「どのようによく気をつけて行なっている人の識別作用が、止滅(しめつ)するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行なっている人、の識別作用が止滅するのである。」
http://suttanipata.com/acyaafeafaea/
五蘊による感受に喜ぶのをやめた人は識別作用は止滅するので安らぎ(ニルヴァーナ)に到達する模様 >>579
>ドアの人ですが〜(中略)〜我を失うことがないので冷静に判断できたり
できてませんやんw >>582
ああ なるほど そっちのほうに目が行くわけですね
その場合でいうと昔の私だったらドアが空いてるのに気づいたら
ドキ!!と確実にしていたと思います バイクなんかも何台も盗難された記憶がありましたからね
どちらかというと何かを認識した後の心 思考の動きの話です
ドアは締めるべきなのかな? どうして締めるべきなのでしょう?
どう思われますか? >>583
毎回ドアを開けっ放しにしてるわけではないんでしょ?
その時たまたま締め忘れただけで、いつもはきちんと締めているんでしょ
締めるべきだとあなた自身が考えているから締めているんじゃないんですか >>578
自分の体験では、
ゴエンカ師のメソッドでは、自分の心の深いとこまで見れたけど日常は大して変わらなかった。
プラユキ師のメソッドでは、あまり心を深く見ることはないけど、日常は楽になる感じ。
要は目的次第かと。 >>580
>>586
ありがとうございます。腑に落ちるレスです。
「要は目的しだい」「自分なりの観るがはじまる」確かに
同じ真理の法則を使って、目的にあったメソッドが多種あるわけですね
自分はメソッドに囚われすぎていたかもしれないなぁ
日常楽になりたいというのがあるので(そうすれば周囲にも好影響がでるだろうし)、
プラユキさんのメソッドも学んでみたいなぁ
手動瞑想?
ありがとうございます。 >>578
夫々のヴィパッサナー瞑想で、お釈迦様が成道に至るためにおこなった瞑想だと言われているんでしょうが、
でも、結局どの「ヴィパッサナー」も、本当にお釈迦様が行っていた瞑想の通りのものなのか疑わしい。
なにせ、2500年も前のことなんだし・・・。
結局どの方式が一番自分に向いているかとか、好みであるかで選ぶしか無いと思う。
ゴエンカ式は、心の奥底まで浄化するとか言われているが、心の浄化という点では、それ程効果的な
瞑想だとは思えない。
ゴエンカ式を長く行い、指導的立場の人を見るにつけ、表面上はそれらしく振る舞っているが、心の
中に傲慢さを強く残している人が多い。
>>585氏が、間違った瞑想をするとおかしな人になってしまう例 ・・と言っているが、ゴエンカ式の指導者
には、一般常識からややかけ離れた「心」の人が多い。
ゴエンカ式では謙虚さとか自省心は養われ難い。その意味では吉本伊信氏の内観法をおこなってから
ヴィパッサナーに入ると、非常に効果的。 >>583
横から
オープンの幌しめない派だけど
別にどうにかなったことはないから
ドアあいてても平気平気〜
自分の車だと思って乗ったら人の車だった、とかならドキッとするかな
て関係ないな
ドアは閉めるべきかどうかか…
ルームランプつきっぱなら2日でバッテリー上がるから閉めたほうがイイけど元々点けなきゃいい話だし、
一昔前に流行ったナビまるごと盗難とか遭っても…そもそも別にナビいらんというか保険かかってたらむしろ持ってけドロボーだし、
ETCカード盗難とかそもそもなんに使うのかわからんし…
閉めなくてもさして問題にはならんな、うん。
そういや普通グローブボックスには鍵ついてないか。
防犯グッズ仕掛けといたら? 駐車場でみんながドアを開けて駐車してたらどうなるか想像してみ
他の車の通行にめちゃくちゃ邪魔になるな
それでも閉めなくてもさして問題にはならんか?w みんながドア開けて駐車してたら通行の邪魔だとか思わないだろう? 屁理屈はいい
お前は駐車場でドアを開けたままにすればいい
俺は締めるから マインドフルネスってのは考えることを放棄してバカになることではないんだよ 昔のトラウマのせいで毎日が辛い・・・
マインドフルネス客観視?で消せるのかな?
徐々に思い出せなくなるって聞いたけど いまに身体を気づいているように
心がければ良いんですよ
自らをよりどころとするんです >>595
いや思い出せなくはならないよ
むしろ抵抗が外れるのか必要になればめっちゃ明瞭に思い出せる
でもまったく気にならない @ERcUp5PO2AGVtWh: 有心のマインドフルネスを通らずして無心のマインドフルネスをやろうとすすると、ただ動物化してしまうという罠があるように思いますね。
@neetbuddhist: これは全くそのとおりで、私が「感覚に開かれて、それの告げるままに生きればいいの♪」みたいなお気楽言説に抵抗し続けているのは、
そのようなナイーヴなスタンスに基づいた実践は、多くの場合において本人が単に自身の傾向性の奴隷になり下がること、換言すれば「動物化」を帰結してしまうからです。 実は慈悲はとんでもないものなんです。
だからしつこく慈悲慈悲と書いてある >>589
おおっ なるほど ごく真っ当 正当な考え方ですね
多くの人はそんなもんに理由はない! 閉めるのが当たり前で理由もクソもない!というのが普通のような気がします
実はドアの開け閉めはどうでも良いんです その無意識にやっている行動 習慣化している行動の裏にどのような思考 気持ちが潜んでいるかが重要です
ドアを閉め忘れたと思考が起こった時に ドキっとする人は 何かの恐怖がそこに潜んでいます 私または私の大事な何かが失われてしまうと心身が大騒ぎを始めるんですね
私の名誉 存在意義 財産 能力 所有物 それらが苦しみの原因です 実際は放棄しなくてもよくて心理的な放棄で良いんですけどね >>587
頑張って下さい
それに方法というのは段階的なもので 普通の指導者は万人向けに段階を設けた教え方をすると思います
自分の心と対峙するあたりからが面白いので 深く観れるようになるまでは練習だと思ってやってみて下さい
面白いですよ 感動的ですよ 自分にビックリしますよ〜
集中!精神統一! >>588
>一般常識からややかけ離れた「心」の人が多い。
今までいろんな人見てきたけどこれはある、確かに。
ゴエンカ式だけじゃなく、グリーンヒルも変な方向に行く人が多い印象。
スマナサーラさんやプラユキさんのところの人は比較的バランス取れてるように見える。
初心者が多いせいかもしれないけどね。 スベってるスベってるスベってる
では気を取り直して
なんか般若心経スレに賢そうな文章あったなそういえば…
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1522314305/
なかなかエスプリの効いた巧みな文章だと思わないかい君たち
666 神も仏も名無しさん[] 2018/04/24(火) 03:59:31.37 ID:sFSqpfZN
大海で風が波を掻き立てている時、安全な陸の上から、海上にいる他人の苦労をながめていのは面白い。
他人が困っているのが面白い楽しみだと云うわけではなく、自分はこのような不幸にあっているのではないと自覚することが楽しいからである。
とはいえ、何ものにも増して楽しいことは、賢者の哲学を以て築き固められた平穏な知的高所にいて、人々を見下し、彼らが人生の途を求めてさまよい、あちらこちらと踏み迷っているのを眺めていられることである。
能力を競い、人間関係に悩み、日夜甚だしい辛苦を尽くし、あくせくしている愚かな人々を眺めていられるのは、本当に楽しいことである。 うぉっ、間違えてスレ誘導してしまった…
まいっかぁウペッカーでしょマイフルは
667 神も仏も名無しさん[] 2018/04/24(火) 04:01:09.16 ID:sFSqpfZN
幸せをよぶ人は、日常の生活が安らかで静かであることはいうまでもなく、
夢みる魂までも、和やかである
不幸をよぶ人は、日常の言動が悪どいことはいうまでもなく、
その声音や笑い声までも、まるごと人の心を逆なでする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています