>>334 神も仏も名無しさん 2018/06/20(水) 18:47:59.05 ID:pA0fIzYM
>ところでブッダを尊崇する批判側の諸君は、当然ながら師の言葉に恐怖心を持つだろうから、今後は(も)、絶対に成功じゃなかった"性交”はしないよね

私も深山さんも仏教徒などではないと何度も言明してきたのに、どうして不邪淫戒のみならず不淫戒まで要求されるのか理解に苦しむのだが、
今回のレスはそんな話ではなく、あなたは昔からこちらが釈尊の仏教を引き合いに出すことが面白くないのか、今度は仏教に騙されたなんて言うなよ式の
捨て台詞を昔から吐いていた。
そこで恐怖心に対しても釈尊の仏教とて共通ではないか?という問題提起がされたものとして考える。
結論を言うと釈尊の仏教とて、その教えに恐怖心を感じるならば、それを直視すべきでしょう。
なぜなら仏教では常に己、自分自身を洲とせよとあるからです。
だから初期仏教は教条的ドグマは説かなかったとされているのは、かつて最古層の経典こそが道しるべだという論文を推したあなたなら理解できるでしょう。
教えは教えなんだが、日大式に強制的に鵜呑みにさせることはせず、自分の頭で理解させる。
霊魂の問題のように一昨日説かないと無記を示す話もある。こういう話は自分が説かないことは説かれないままに捨て置けと捨置記を示す。
しかしこれは矛盾でもなく、無記、捨置記にする理由も述べて自分の頭で考えさせている。
戒律の問題、地獄の話などに恐怖心を覚える信者がいれば、その己の恐怖心を直視すればよいだけです。
一方桐山さんの教えは実は自己を主体の拠り所にせよとしていないところが問題なのです。
自分の中の赤の他人、知性と行動は無関係であるとか、密教占星術1の選択の原理の解説でも自己を頼りないものに貶めている。
こんな話は単に無責任人間を作り出すだけの百害あって一利なしだと私は思う。
同じ恐怖心との対処でも桐山教義は教義自身に問題があるのです。自己なんて否定されてしまう。