【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 死ぬ人は肉体が死ぬだけで精神的に死んでない
未練や執着、価値観や欲を残したまま死ぬ
それと精神的な私が死ぬのはまた別
肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
肉体が死のうと精神的な私が死んでなければその精神性(個我)が輪廻してしまう 生きながらにして死ぬ事の中には
生まれ、そして死んで行くという行程は当てはまらない。
生きる事と死ぬ事は等しいのだ。 因果からの形としての解脱はない。時間軸で生きている以上それはない。一切の修行は時間軸上に展開しているから。時間の上で行ったことの結果は時間の上にしか展開しない。
どんな素晴らしい瞑想でもそうです。
時空を超えているのは意識のみで「不昧因果」です。そこを修行によって異質なものに変化すると考えるのは「迷信」です。 しかし考えてみてほしい。
あなたが身体でも思考でも感情でも心でさえもない時、あなたは何だろうか?
意識、或いは気づきではないだろうか?
あなたではないものが剥がれ落ちたところでは世界もまた無いのだ。
世界が幻想ならば時空も幻想となる。
事実、今この瞬間に距離はない。
宇宙が誕生する以前から今この瞬間は、
たった今この瞬間であり、永遠に瞬間であり続けるだろう。
無論、森羅万象は諸行無常だ。
形あるものは時間の中で容赦なく変化し滅びて行く。
しかしあなたは形なきものだ。
異質なのは「時間の中にいる私」という考えであって
実際はあなたの中に時空があり世界があるのではないだろうか? >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >>137
そう?
知り合いに名声欲しさにボランティアを立ち上げ
会う人会う人に自分はいかに良い人間かを語る人がいた
憐れみよりもウンザリしたよ
だって哀れんで聞いてたら何十回も同じ話をされるんだぜ
それは自分を否定されたからウンザリするのではなく時間の無駄だからウンザリする
同じ様に悟ってない人ほど他人に言いたがるからな
憐れみはむしろ人を見下してるだけなのかもしれないしな >>678
>それは簡単な事ではない。
死が怖いのは分かるけど、必然的にいずれ皆死ぬんだから、簡単な事だと思うんだけど。
つまり、生きている時に修行する必要なんて無い事になる。
>「死」と「私からの離脱」は同じものだ。(>>670)
>>679
>肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
苦からの解放=>(私からの離脱)する事=>悟り・解脱
この考え方では、社会の中で生活する事など現実不可能ですよね。
世俗を離れ、自給自足して仙人のような生活でもしない限り、実生活の上では、仕事をして、家庭を持って、子どもを育てて.
..
そんなことが、「私から離脱した人間」に可能なのでしょうか?
悟らなければ、不幸になるのでしょうか?
ブッタは一切衆生を救済するために法を説きました。
救済は菩薩行だと思います。
苦からの解放は「(私からの離脱)」しか、他に方法は無いのでしょうか?
釈迦仏の前世による因縁を明かした「ジャータカ」に説かれる物語には釈迦の菩薩行が数多く説かれてあります。
座して瞑想というより、むしろ積極的に行動を起こして自身の命を犠牲にしてまでも人を救っていくような物語が多いです。
仏法者として姿勢の在り方を考えさせられます。
大乗仏教から学んだ私には、テーラワーダ仏教の修行の在り方が真反対に思えるし、仮に瞑想で自身の安穏を得られたとしても
、人を救うことは出来ないのではないでしょうか?
自分だけの幸福はあり得ないし、他人だけの不幸もあり得ない。自他供の幸福を祈る事こそ仏法者のあるべき姿のように思いま
す。 私(個人性)を自分と思わなければ私から離脱してるし世俗で生きようと何するのも別に可能なんじゃないの?
心身が心身のまま自然に生きて自分はそれを自分だと同一視せずただ観てるだけ
家庭を持つかもしれないし持たないかもしれないしどのように生きようと他人の人生のように生きるだけ
人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
他人や覚者や教えは救われるきっかけにはなるけど
結局本人次第 >>686
>人を救いたければ救えばいいし救わなくてもいいし
>でも人は自分自身で救われるものであって他人が救うもんじゃないよね
なるほど。原始仏教を信奉される方々は大抵同じような事を言われます。
私はどうもその考え方には馴染みません。
仏陀もそうした考え方だったのだろうか?と疑問に思えて仕方がないのです。
釈尊の「誰人も見捨てない」という仏の慈悲の振る舞いとは、かけ離れていると思えるからです。 仏法というのは決めつけを廃して、洞察智を鍛える取説のような側面はないかな?
洞察力が働いている間は「私から離脱」しているし、他者に対する悪意の起こりようもない >>687
彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
ブッダは菩提樹下で無上正等覚に達してから他人を教え導きました。
それまではご自身の修行に専念していたのでは。 無私の奉仕は価値が分かりやすいけれども
無我の修行は世間的な尺度で価値を計れないものですから、
仏教徒でも理解できない人は多いのではないかと思います。 無私 ←世俗の価値観の尺度。方向性としては天(欲六界の上方)へ向かう。
無我 ←出世間の尺度。方向性としては彼岸へ向かう。
無私は、福徳。生天の方向。
無我は、功徳。解脱の方向。
自分が解脱したら、他人を解脱に導けるでしょう。
その方がずっと価値があると思いますけどね。 生天の教えは此岸。 次第説法の前半部。世俗の人に向けた説法。
解脱の教えは彼岸。 次第説法の後半部。悟り・解脱を志すよう促す仏道の本義。 そもそも他人を救うって他人の一体何を救うのさ
色界で何を救おうと他人の欲や我を救うだけだし、自分もまた他人を救ったという欲や我が生じてるだけでしょ
本当の救いとはその人が悟ることだけなんだし悟ってもない人が他人を悟りに導くことなんて偶然でしかできないし まず、ちゃんと瞑想してくださいとしか言いようがないのでは?あと、なるべく他人の
怒りや欲を引き起こさないようにしゃべるとか、それくらいしか自分には方法が見つからない。 悟りの智慧(瞑想による智慧)がないと、人は欲界善のことしか理解できん。 テーラワーダ仏教は魂の存在を認めていないのか
お釈迦様は認めていた気がするけど、矛盾してないかね その前に、君のその理解が正しいか検証する必要がある。 魂は巨大妄想の産物である
ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
byスマナサーラ長老 魂という言葉をどういう意味で使ってます?
輪廻の主体として、肉体とは別に存在する自我意識の塊のことを言っているのか
名色における精神現象のことを指しているのか。 仏教でも輪廻があるというから過去生未来生に相続するものがあるという意味で魂って言っちゃうんだろうね
どういう意味で魂というかというと、何が相続されるのかってことになる
例えば今生の自分の性質が相続されるとして、性質を自分だとみなしてる人からすると自分という魂が続くと見えちゃうし、
性質は無常で自分ではないと思う人からすると、輪廻するのは性質であって魂であるとか自分といえる何かはないということになる ブッダは、業報輪廻は説いたけど、魂が生まれ変わるとは言ってないでしょう。
五蘊無我だから。 >>693
慈悲の瞑想やってます?
あまり頭でっかちにならないように 【サティ】
729 :神も仏も名無しさん :2018/07/24(火) 22:17:34.86 ID:Q8eSm54r
さくらさん、これやって結果教えて!
面白いよw
自己顕示欲の強さを診断! 自分をアピールしすぎて嫌われてない? テストしてみよう
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465
ちなみに俺の結果はこれ↓
https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465/result?total_point=0
【自己顕示欲:かなり弱い】逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
逆に、絶対に目立ちたくないタイプ
あなたは自己顕示欲がかなり低いタイプのようです。「目立ちたい」「注目されたい」という気持ちはまったくなく、逆に「まわりに自分のことをあまり知られたくない」「放っておいてほしい」という気持ちを持っています。
そのため、本当はすごい実力を秘めているのに影に隠れてしまい、まわりから認識される機会を失っていることもありそうです。せっかくなので、得意なことだけでも自分からアピールしていくようにするようにしてみては?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523599761/729 大念処経を読むと、生活のすべての時、すべての局面において、
正しいことを、適切に行うように指導されていると思います。
修行者にとって、対人関係における正しい対処とは何か、また
適切な方法とはどういう在り方なのか。
実践としての仏法を、日常生活でどれだけ活かせるか、どれだけ
身についているかが表れる局面ではある。
センスが問われている。 自分のことだけ心配すればいい
そんな、無慈悲な教えが仏教だとは到底思えないのですが。
>>689
>彼岸に渡っていない人が、他人を彼岸に導けるでしょうか。
人を救うというのは、「解脱」に導くだけではありません。
歴史に名を残す偉人は、自身の生涯を、人々の救済の為に捧げました。
彼らは仏法者では無かったけれども、偉大な人間だと思います。
少なくとも、自身の幸福より、苦しむ人々の救済のために生きました。
彼らにとっては、「苦からの離脱」や自身の幸福など眼中には無かったと思います。
ただ、苦しんでいる人を何としても救いたい。彼らが幸せになっていく姿を見ることが、
自身にとっての最大の幸福であったに違いないと思うのです。
その振る舞いや姿勢は「ジャータカ」に見られるような釈尊の過去世の菩薩行(因位の修行)と完全に一致します。
たとえば、子どもを虐待し見殺しにする親が最近ではニュースで世間に物議を醸しています。
もはや畜生にも劣る極悪人です。
しかし、それを知っていて見て見ぬ振りをする人間がいたら、同じように悪人です。
「悪い事をする」事と、それを見ていながら「良い事」をしないのは、同じく悪なのです。
子どもを橋から突き落とし溺れさせる悪人、それを見ていながら、見て見ぬ振りで通り過ぎる普通の人
それが、仏教者としてのあるべき姿のでしょうか? 私が思うに、幸福は「苦しみが無い、悩みがない事ではない」と思えるのです。
むしろ「苦悩」が自身の境涯をより仏に近づけていく糧となるように思えます。
苦難を避けるのではなく仏法により乗り越える中で自身の生命が鍛え上げられるのです。
仏法ではこの事を「煩悩即菩提」と言います。
考えてみてください。
境涯が低ければ(生命力が低い)小さな悩みも、これ以上にない悩みに思えてしまいます。
逆に境涯が高まれば、それが大した悩みでもなかったかもしれません。
素人にとっては、平凡な登山でも苦痛に思えるでしょう。
熟練した登山者にとってみれば、険しき山々を悠々と、まわりの景色を楽しみながら登っていけます。
困難や苦悩を避ける生き方ではなく、むしろ五濁悪世のこの娑婆世界に自ら飛び込んで、
人々の救済のために、社会の繁栄と世界の平和の為に、この尊き仏法を教え弘めていく菩薩行こそ、
仏法者としてのあるべき姿に私は思えるのです。 智慧と慈悲は同じものなのだけど、人間の分別思考が別々のものとして認識してしまうのだと思う。
何が言いたいかというと、自利と利他は、最終的に同じことではないか、ということ。 釈尊が蓮華の花(仏法の象徴)を捻ったエピソードがありましたね。
拈華微笑。
大乗仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから上座仏教が間違いに見える。
上座仏教を好む人は、そのパラダイムを通してみるから大乗仏教が間違いに見える。
ところだどちらも同じ蓮華の花なんでしょう、きっと。 ブッダは、菩薩行もしたし、禅も修した。
此岸の価値観の尺度でも価値のあること(奉仕や貢献)をしていたし、
彼岸の価値観の尺度でも価値のあること(戒律や瞑想)もしていた。
自分も含めて、どちらかだけの人は、まだ仏法の全体像を知らんの
だから、別の乗り物(大乗、上座、チベットなど)を批評するのは
慎重になった方がいいと思う。 禅僧は禅をやってる最中は、山に籠もります。
どんな名医も、名医になる前は大学の医学部に籠もります。 医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。 霊魂説は、たしか涅槃経で否定されていたように思います。
生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
転生するのでもなければ、生まれ変わるのでもない、そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
ただ、来世には自身の「業」に見合った環境と姿で生まれてきます。
1000万円借金をした人間が、一晩寝て目が覚めても、借金は変わらないのと同じです。
大宇宙そのものが、ひとつの生命体です。
この大宇宙の生命を離れて私たちの生命はないのです。
釈尊は、この大宇宙と人間及び一切の有情無情の生命を生命ならしめている「法」(能生の根源)を説いたのです。
ただ直接言葉にできないので、仏は一切衆生の説き示す為に夢中の言語を駆使して究極の「法」へと誘引し、悟らせようとしたのです。
これを「方便」と言います。
....と大乗仏教では教えています。 人として立派な行いをすることを否定するわけじゃないんですが、
悟りや解脱は、人として立派な行いの延長にあるわけじゃないですよ。
王子にとっての人として立派な生き方は、王として責務を果たすこと
でしょうが、ブッダはその道を選びませんでしたよね。
それは此岸のこと。欲界の善。人として正しい生き方です。
四諦八正道としての仏道は、彼岸への道。欲界からの離脱。人を超える道です。 瞑想してる人たちは、方便の源である智慧を、直接自分で観てるんですよ。 自分でというか、自分はその時いませんから
自分が見てるという言い方は正確ではないと思いますがね。 >医学部でてない素人が、医療行為をするのは無謀です。
仏法は「心の不思議」を説いたものです。
大切なのは「なんとかして救ってあげたい」という心が大切なのではないでしょうか?
見放したり、傍観したりするのは、やはり仏法者とはかけ離れていると思います。
キング牧師の歴史的名言。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。」
「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」
「確かに、服従することは、安易な道である。しかし、道徳的な道ではない、臆病者の道だ。」
「圧制者の方から自由を自発的に与えられることは決してない。しいたげられている人間の方から要求しなくてはならないのだ。」
「最後には、我々は敵の言葉など思い出すことはない。思い出すのは友人の沈黙である。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「敵を恐れるな−かれらは君を殺すのが関の山だ。
友を恐れるな−かれらは君を裏切るのが関の山だ。
無関心な人々を恐れよ。 かれらは殺しも裏切りもしない。
だが、彼らの沈黙の同意があればこそ、地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。」
(ブルーノ・ヤセンスキー「無関心な人々の共謀」/江川卓・工藤幸雄訳 日本仏教って、禅定波羅蜜を修めてるところ、まだありますかね。
わたしは見たことないです。
達磨大師だって、龍樹菩薩だって瞑想(禅)を修めてますよ。 社会問題を解決しても、生老病死は解決できません。
でも、八正道は生老病死から人を救い出せます。
八正道だけがそれをなし得ます。 社会問題は、特に政治の問題は、人の心が作り出すものです。
人間ひとりひとりの心が変われば、必然、その社会の問題も消えて行くでしょう。
人間の心が変わらないのに、その社会の一員となって同じゲームを続けていても
社会そのものを根底から変えることはあり得ないと思います。
問題の原因がそのままだからです。 他人の為と思って何かしてもその人は嫌がり苦痛かもしれない
為とか思わず普通に接してもその人にとって良い接し方でその人は喜ぶかもしれない
結局その人がこだわり(執着)をなくすことでしかその人の幸福はないでしょ
他人の幸福なんて考えなくても自分が幸福になれば自然に振る舞えて他人が心地よく過ごせる確率も増えるし
いちいち他人のこと考えてる人なんて大抵は不自然でまわりも息苦しい まあ他人のために何かしたいって人は存分にそうしたらいい
そうせずにいられないんだろうしね >桃太郎
>生命が三世永遠であることは、仏教の基本です。
それは仏教ではなくて学会の基本だろう?
>そのままの自分が続くと考えて良いでしょう。
無我はどこにいっちゃったの?
五蘊仮和合くらい学会でも教わるんじゃないの。
あなたの言っている考え方はバラモン教の梵我一如だよ。
まあ日蓮さんは密教の影響が強いからそうなるんだろうな。 生老病死から抜け出すのが仏道による本当の救いだと思うのだが、どうなんですか。
病院で病気や怪我を治してあげるとか、そういうことも尊いけれど、それはあくまで
生老病死の世界の中でのことでしょう。 まあそうだろうね
病気が治って喜んでも老いるし死ぬ
老いて死ぬことが苦なら病気が治ったことなんて一時の気休めにすぎないし、本人が生老病死が苦でなくならないと本当の救いではないだろうね 生老病死の外のことなんて
ほんとにあるのかって話でしょ
仏教信者のだれもが
結局お釈迦さんという
だれかさんの言ったことを
信じて実践してみてるだけだよね 信じて実践してる人もいるだろうけど俺は実践してみてなるほどと思えたので信じるようになってきただけだな
生老病死の苦がもちろん完全になくなったわけではないがずいぶん少なくなった 生老病死を超えなければならない。
生きながらにして死ぬ事だ。
それがニルヴァーナだ。 >>728
わかるよ。
禅僧たちは、そのために座禅やってるわけ。
戒定慧の三学のこととも言えるし、それはそのまま八正道のことと言い換えることもできる。 智慧(般若)にも大別して二通りある。
ひとつは経般若。勉強したり考えたりして分かること。
ひとつは般若。瞑想によって感得するもの。
考えたり勉強したりして分かるのは”分別智”。
座禅で分かってくるのは”無分別智”。 毎年、日本だけでも自殺者は約2万人。自殺率世界第6位
男性は女性の3倍の約15,000人。
その原因は、生老病死でいうならば、「生、病」にあたるのではなかろうか?
「生きること自体の苦しみ」。それに耐えられず、苦悩からの解放を求めて、自らの命を絶つ。
彼らにとってみれば、「死」は唯一「一切の苦から解放してくれるもの」であるから、
もはや恐怖を通り越していると言える。
問題は、死によって本当に苦から解放されるのだろうかという事だ。
もし、解放されなければ無駄死にという事になる。
そもそも、瞑想して「私からの離脱」を成功させて、
生老病死の苦から解放される人が何人いるのだろうかと疑問に思う。
「私からの離脱」出来たと思うや否や、現実は世俗の縁に触れ、すぐさま「貧瞋癡」の煩悩に苛まされるのではなかろうか。
大乗仏教では「生老病死」は避けるものではなく、むしろそれらを見おろして、悠々と乗り越える法を説いている。
植物から蟻まで一切の生命体で仏法を学び、実践できるのは「人間」だけです。
人として生まれてくること自体が過去世からの福運を証明しています。
もし、猫や牛に生まれていたならば、仏法を知ることすら出来なかったでしょう。
「生きながらにして死ぬ 」? そんな人生に何の意味があるのでしょうか?
この偉大な仏法を多くの人に伝えて、苦しみを乗り越え幸せになってもらい、この世界から悲惨の二字を無くし
平和な社会を築いていく為に生きていく方がよほど充実した人生を送れると思います。
この菩薩の生き方に「生老病死」を乗り越える重要なカギがあると大乗仏教では説いています。
>>708 >>734
大切なことにお気づきだと思います。
生老病死を乗り越えること = 「私からの離脱」です。
仏道を実践していると段々と概念を超えた部分が観えるようになります。
各所で用いる方便は違えど、各所で同じものが見て取れるようになります。
実践していくと、疑念は自ずと晴れます。
正に仏道は自分で真実を確かめられる道なんですね。 境涯(生命力)を高めるについては知識がないけど
物への執着とか欲を少なくしようとする方法をとっている人が一定数いるはずだし
見返りを求めず他人に慈しみを覚えるのは心を穏やかにしたり欲も少なくしそうだから、
在家の場合、喜捨のつもりの募金とかボランティア、他人のために動くことは
そこの上座部のやり方とはあいそうなイメージもあったんだけど。
自分を整えるの優先にしても。
肯定的じゃないんかな。 >>735
「私からの離脱」
この表現ソースは何でしょうか。
どこかの教団でこのような表現を多用しているのでしょうか。 >>737
これは単に私が表現しただけです。
無我と同義です。
無我だと、固定的なイメージを持つ方もおられる方もいらっしゃるかもしれないと思い、別の角度から感覚的に表現してみました。
返って誤解を招いてしまったかも知れません。
申し訳ありません。 >>734
テーラワーダも同じですよ。
表面的な部分が、あたかも違うかのように見えるだけだと思います。
その自殺寸前の人が、仏道に出会ったとしてみて下さい。
その人がまず自分自身を迷いから救い出すことが否定されますでしょうか。
そういう在り方も仏道のひとつの在り方ですし、しかし全てではありません。
仏道は道ですから、道を歩む過程で慈悲の道に転じることもあります。 自分自身も救うべき衆生のひとりだと思います。
他人と分ける必要があるでしょうか。 そう
なぜ自分をまず救わないのか意味がわからない
一番身近な他人なのに
自分も他人も同じように救ううなら一番身近で救いやすい自分から救うのが当然でしょう
それは自分に甘いとか自利とかいうことではない
自分の為、他人の為、全ての為にまず自分を救うのが一番の近道
自分を差し置いて他人を救おうと思うのは英雄にでもなりたいかただ傲慢なだけ
それに気づかないこと自体これまで自分をないがしろにしてきた証拠 正に「自己中心的」なのと「自分を救う」は全然違うという事ですね。
そもそも「自分を救う」には、「利己的」な側面を乗り越える必要があるわけで、「自分を救う」= 「自己中」は成り立たないと。 自分の街からみえる富士山が一番綺麗だと思うのと一緒。
自分の立ち位置から見える仏教が“正しい仏教”で、他の仏教は“正しい仏教”じゃないと思う。
これ、人間の知覚と思考の構造的に不可避なので、みんなやる。
自我の思考が捉えた仏教は、しょせん概念でしかなく、あくまで見(ditthi)だから。 三乗はいずれも方便だと思う。
本質的には仏道、涅槃への道はただひとつ。
ひとつの道における智慧の側面をみるか、慈悲の側面をみるか。
それだけの違い。 ツォンカパは、チベット仏教ゲルク派の開祖。
歴代のダライ・ラマはここに所属。
ゲルク派の僧はまず顕教を学び、それが終了した段階で意欲があり、
かつ師が認めた者だけが次の密教の研修に進めるが、それは全体の約一割だという。 大乗仏教でも、菩薩になるひともいれば、菩薩に救いを求める人もいる。 人それぞれ、仏道への関わり方や立場に違いはある。素質も違う。
涅槃への道の歩み方も、ある程度の差異はあると思う。
しかし、涅槃や勝義がいくつもあるわけではないでしょう。 >>741
へえ
じゃあ川で大勢の溺れてる人がいて
救助の綱が投げ入れられても他の人にそれを回して
溺れ死んだ実在の人物は傲慢で英雄になりたい愚か者なんだ
そんな考え方をするあんたを軽蔑するわ >>744
この人の意見が一番正しいと思う
仏教、キリスト教、哲学などどの道でもある程度の悟りへの道に通じてるが
全ては方便にしか過ぎない
地上にいる人間がありのままを理解できるはずはないのだからね
だから2500年前に説かれる教えとしては最高峰だけれども
今現在としては方便として捉えた方がいい
壮大な人類への対機説法をそれ以上発展の余地のないものとして捉えても仕方がないでしょう
次の世界宗教が立ち上がるのを待ちましょう >>748
そういう状況になったときに的確に行動できるように心を整えておくのが自分を助けるってことなんじゃないですか?
そういう状況にもなってないのに自分「より」他人をなんて考えて自分の心を整えることをしていない人を英雄願望や傲慢だと言ってるんですよ
まず自分の心を整えてないとそういう状況になってもあたふたするだけではないでしょうか
そういう状況で多くの人を助けるためにもまず自分を救ってくださいという話です 菩薩とは...「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」
仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他共の幸福を願うのが菩薩の心です。
二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。
本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また「成仏に到る実践」にあります。
その実践こそ「菩薩行」なのです。(不軽菩薩は過去世における釈尊の因位の修業の姿です)
そして、この菩薩行の振る舞いの中に「六波羅蜜」つまり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくというのです。
フランスの文豪ロマン・ロランは叫んでいる。
「自分の魂が救われるか救われないかということにばかりこだわっていれば、救われることからかえって遠ざかる。君が君自身を救いたいなら、人間を救え!
もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ! そうすれば、それ以外のたいせつなことはみな君につけ加わって来るだろう」(『内面の旅路』片山敏彦訳 みすず書房)
まさしく、菩薩の精神そのものです。
そして、この生き方にこそ「生老病死」を根本的に超克する鍵があるのです。
釈尊は「妙法」という生命の根本法を説いて「生命の尊厳観」を説きます。
大まかに言えば「生命の平等性」と「生命の永遠性」です。
生命次元での「空」の観点から一切衆生を俯瞰して見れば差別など無意味であろうはずもないのです。
差別自体が人間の作り上げた都合の良い妄想なのです。実相は無分別です。 仏の教えは、一部の選ばれた人間の為にあるのではない。一切衆生を平等に誰一人見捨てる事なく救う教えです。
ゆえに、自分だけの安穏や幸福はなく、他人だけの不幸も仏法の教えにはないのです。
しかし、釈迦在世のインド社会は古代のヒンドゥー教(バラモン教)が主流であったし、厳しい差別社会でした。
一切衆生に皆平等に仏の生命が備わっている事など、だれも信じなかったでしょう。
※仏の生命にも九界を包含し、九界の生命にも皆「仏界」の生命がそなわっている。(十界互具)
※つまり、仏と九界の衆生は隔絶した存在ではなく、仏は人間以上でも以下でもない。人間そのものが本来、尊極な生命の当体であるという教え。
そこで、釈迦仏は様々な比喩や方便をもって衆生を実大乗教(正法)へと誘引します。
小乗教=>権大乗教=>実大乗教
ちなみに「嘘も方便」という言葉はありますが、仏は「不妄語戒」の人ですから、方便は「皆真実」なのです。
仏の方便にも様々ありますが、ここでは割愛させて頂きます。
私達は多くの人々の支えによって今を生きている事を知らねばなりません。
電気もガスもないジャングルの中で裸のままで、仙人のように木の実を拾って生活しなくて済んでいるのは、そのお陰なのです。
ゆえに、仏教では恩を報ずることが仏道修行に於いて極めて重要位置づけとなっています。
畜生(動物)ですら主人の恩を報ずるのに、まして人間でありながら不知恩の者となるは畜生にすら劣ると厳しく叱責されるのです。
四恩の中でも「主師親の三徳」とは
主人は従者を庇護する徳を有し、師匠は弟子を教導する徳を有し、親は子に慈愛をもって育む徳を有する。
「守り」、「導き」、「育む」
これらの恩を報じていく事は、仏法者としての基本中の基本です。
親をも救えない人間が自分を救える訳がないのです。 であるならば、自身の小さな安穏と幸福に頑なに執着する生き方ではなく。
ロマン.ロランが叫んだように「君が君自身を救いたいなら、人間を救え! もっと的確に言うなら、ほかの人々の中へ、君自身を忘れ去れ!」という菩薩の生き方こそ
仏の真実の教えではないかと思うのです。
それを成し遂げる中で、自身の生命の変革と境涯の高まりを自ら感ずることができるし、自身の小さな悩みなど吹っ飛んでしまいます。(解脱)
そして、やがて、この世を去るときが来たとき、多くの人々を救ってきたという自負が一点の曇りもなく自身の生命の充実と安らぎをもたらしてくれる事でしょう。
実大乗仏教(法華経)では、成仏とは、特定のゴールを指すのではなく、絶え間なく仏道に精進する自身の「一念」(生命流)を言うのです。
仏になったからと言って、世俗を離れた安穏な世界で呑気に傍観している仏などいないのです。
極論するならば仏とは「慈悲以外に生きるすべを知らない」完成された人格者といえるでしょう。
その慈悲の眼差しは、光となって苦悩に沈む人々の闇を照らし救っていくのです。
人間は何のためにこの世界に生まれてきたのでしょうか?
法華経には「衆生の遊楽する所」と説かれてあります。
人として生まれ「仏法」に巡りあうことは、極めて難しいのです。
その尊き生命尊厳の哲学を学びとり、その哲学をこの世の人々に教え弘めながら、時には泣いたり、笑ったり、楽しんだり、素敵な大自然の景色に感動したり、
恋をしたり、子どもの成長に目を細めながら喜んだり、ありのままの自分で自分らしく悔いない人生を謳歌することです。
他人と自分を比べる必要もない!「桜梅桃李」の人生を生き抜けば良いんです。 インド文化にバラモン教の色眼鏡があるように、
日本や中国には儒教と道教の色眼鏡があるとは思いませんか。 >差別など無意味であろうはずもないのです。
>差別など無意味で、あろうはずもないのです。
意味がぜんぜん違ってきますね。w ゴータマ仏陀が無上正等覚に達して如来となられた直後に説かれた方が四諦八正道。
一切智者の如来が一番弟子に一番に説いた教え。
これは、彼岸、解脱ということが分かる人に向けた教え。
後世になって、ほとんどの人は此岸の価値観しか分からんような状況になったので
此岸の価値観(情などの人間的な道徳、欲界における価値観の尺度)で理解できる
大乗仏教という方便が優勢になってきたのだと思う。
それは大乗仏教の上位に密教が位置付けられていることからも読み取れる。
密教では結局、四諦八正道や勝義を再び教えていませんか?
釈尊が説いた四諦八正道が理解されないので、大乗仏教の上位に位置する
高度な教え、密教として、名前とパッケージを変えて再び四諦を教えているの
ではありません? とにかく、まっすぐ悟りに向かおうと出家して禅の修行に専心する僧侶を、
小乗呼ばわりする人は、仏教を分かってないということだけははっきり言いたい。
それが小乗なら、悟りに達するまでここを動かぬと決意して座っていた仏陀を
どう説明するのかと。 解脱しない限り、みんな輪廻の海で溺れてるんだよ。
生老病死に飲み込まれ、流されない人はおらんでしょう。
本当に助けてやりたかったら、まず自分が解脱しないと助けてあげられないんですよ。 本当のところ、あなたはまだ輪廻があるのかないのか分からないと思っていませんか。
だから世俗の価値観だけが判断の尺度になるのです。
無我だ空だと言いながら、本当のところこの肉体、我が身こそが自分自身だと思っていませんか。
それは有身見でしょう。
別にそのことは責めませんよ。
禅の修行をしていない人は、仏教であってもみな有身見に捕らわれていますから。
禅定波羅蜜と言いましたね。
本当に禅定波羅蜜があったら、輪廻転生も無我も観測事実として分かることなんです。 >>760
解脱してたら新幹線の中で刃物を振り回して女性を襲う暴漢から女性をどうやって救うの? みんな、根本的に間違ってる。
「解脱」というものを、「個人の苦悩・不安の解消」と位置付けるなら、
(というか、それしかない筈なんだがw)
暴漢から人を救うのは、体術と勇気であり、宗教的要素・仏教的要素、
ましてや悟りや解脱なんて必要ない。
せっせと、身体を鍛え、技を磨くことに専念すべきだと思うが? >>762 >>759
亡くなったことは残念だなと思うよ
ただ女性がたすかったのは結果であって、その男性がたすけようとしたせいで逆に亡くなってたかもしれないし、
あるいはどうしようと全員亡くなってたかもしれないし、全員たすかってたかもしれない
あなたは結果が出たことに対して言及してるけど、元々の話は自分より他人をたすけようとするかどうかの心持ちの話でしょ
もし仮に下手にたすけようとしたせいで女性2人が死んでしまってたらあなたはなんて言うの?
それにその男性の命と女性の命とどちらが重いかあなたは言えるの?
女性が生きて男性が死ぬのと、男性が死んで女性が生きるとの、あなたの中では重みが違うの? そんなに自分より他人を救いたいならこうしてる間にも困った人を探して助けたらいいじゃない
自分の持ち物も最小限にして全部困ってる人にあげたらいいじゃない
でもたぶんそうしてないんだよね >>763
どうやって?
ってか「おそらく」などと前置きしているから分からないのだろう?
>>764(セブンか?)
まあその通りだわな >>766
君は女性を救って犠牲になった男性を冒涜してるのか?
それ以前にそのニュースについてあまり詳しくはないようだが >>768
あなたはこの事件の亡くなった男性ではないでしょう?
なぜ他人の行為で自分の考えを正当化しようとしてるのですか?
虎の威を借る狐にしか思えません
あなたが自分より他人を大切にしたいならいますぐ「あなたが」そう行動したらいいと思いますよ
できることはいっぱいあるでしょう 解脱も悟りも、人間的な道徳観の延長線上にあるわけじゃない。 人間的な道徳観を否定しているわけじゃない。
尺度が違うと言ってるだけ。
人間的な道徳観(此岸の価値観)がX軸として、
解脱悟りへの道(彼岸の価値観)がY軸だとすると、
修行者はY軸方向に進んでいるんであって、X軸を進んでいるわけじゃない。
そうかといってX軸を否定している(X軸上のマイナス方向に進む)わけじゃない。 大乗仏教だけが正しくて、禅宗や上座部を小乗仏教と蔑む人たちは
そもそもY軸、つまり彼岸とか悟りとか解脱ってものがあることを知らない。
大乗仏教の経典から学んだ、概念的な理解しか持ち合わせていない場合が
非常に非常に多い。 大乗仏教でも、他者への奉仕や貢献を通して、
私とか、私の考えとか、私のものという思いをすべて完璧に捨て去ることができれば
体験智としての無分別智を経験できるのだと思う。
それは素晴らしいと思うし、そういう素質の人は、そうすればいいと思う。
だども、四諦八正道も本質的には同じことをやってますし、というか禅の方がずっと
効率的に私から抜け出せると思います。 身体を動かしたり、他者とコミュニケーションとりながら考えを捨てるの難しいし
ぜったい自分の価値観とか入ってくるでしょ。 >>769
もちろん亡くなった男性のした行為は俺には多分出来ない行為だが、
君はこういう死を自分も救済できてないくせに他人を救おうとするからこうなると考えているのか、
それとも自分には出来ないから尊敬すると考えているのかどちらかなのかということ 解脱とは完全な離欲であって、それは欲界善をなすことではない。
そこは多くの人が勘違いしてると感じる。 >>775
その人が自他の観念なく助けてたなら素晴らしいと思いますし、
自他の観念を持って助けてたなら助けても助けなくても同じようにしか思いません
男性にしろ女性にしろ誰か亡くなったら残念だと思います 他人を救おうって思うのはある意味怖いことなんですよ
オウムだって無明に落ちている他人を自分たちなりに救おうと思ってやったせいであれだけ残酷な事件になった側面があるわけでしょう
そもそもまだ悟ってない者が何をしたらいいかなんてちゃんとはわからないはずなんですよ
自分が何をしたらいいかちゃんとわかるためにまず自分が悟らないといけない
でも他人を救おうと思ってる人は自分自身が何をしたらいいかわかる存在だと過信してる
自分は善悪もわかるしそれゆえ善を為すことができると思ってしまってる
他人も救うことができると思ってる
だからオウムみたいなことでもそれが正しいと思い込んでやってしまうわけでしょう
自分が何もわかってないと謙虚に思えるならまず自分を整えること、自分を救うことをすべきではないでしょうか
本当に他人を救える人、救う力を持ってるひとはいくらでもそうしてください、そうしたらいいと思います
ただそんな人がそんなにいるんでしょうかね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています