【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。
>>583
>> 9秒くらいまでなので
> これはどういうこと?
たとえば上座部とかの場合は
ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html
呼吸を見るときに
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないように
というような決まりがあるけど
自分(おじゃる)の場合は
9秒くらいまでしかできない
という意味でつ
道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐
このような妄想、思考が入らない状態を維持して
30分〜1時間
呼吸を観察せよ
という意味でつ
それが何秒?何分?できるのか?という意味でつ
>>584
>坐りたいと思った時に気軽に行って坐れるようだと、気づきも多い
手放して → 気づく
([今この瞬間]に)気づいて → そして手放していく
最終的には
仮設としての
縁起している世界を手放して → 涅槃
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
面倒くさいので全部読んでないけどとりあえず
ttp://science-and-buddhism.com/chapter-5/
今のあなたたちに
『四諦、八正道、十二縁起』という筏はもう必要ありません
あなたたちは科学技術という船に乗って悟りを目指しなさい
今の
これからの
『科学は正しい』と洗脳されている人なのかしらん?
もっとも
創価信者の人達も
ある特定の人物とかが『正しい』と洗脳されていると思うけど…
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(『これからの科学は素晴らしい』というような想いも含めて)
仮設としての
縁起している世界を手放し超えて
激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
仮設としての
『これからの科学は素晴らしい』
というような想いも手放し超えて → 涅槃
>>587
誤爆でつ
失礼いたしました
この上座部スレに
創価信者の人は
たぶん来ないと思うけど
もし創価関係の「あらし」が来たら スマソ m(_ _)m 夢幻に拒絶反応起こしてる人には、
机との 「(一枚の)紙の表裏の喩え」 を提示した方がいいかな?
ログ漁って出てくるかわからんけど。 >>585
> 9秒くらいまでしかできない
それぐらいだろうね。
童貞並みだけど。。。
1泊のものでいいから、合宿にでも行ってみれば?
実際には、言語による思考を停止しても、大小様々な想念が生じるから、
それらもありのままに観察して受け流すようにする。
>>591
>それら(妄想、思考)もありのままに観察して受け流すようにする
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
正確に説明すると
たとえば
自分(おじゃる)の場合は
心意識・念想観を止めてるのではなくて
大乗1.0の世界観
[仏そのもの]の世界から観照する
というような感じで
雑念が出てきたことに気づいても
この雑念を自然に手放して
その辺りに漂わせておくようにして
というような感じで
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
今のところは↑これを13秒くらいまで おじゃる
(フォーカシングは心理療法 おじゃる) >>585
道元でキミに必要なのは、「只管打坐」の先の「心身脱落」。
それにはキャパを超える経験をしないと。
キミは抱えているものが多いから。
3.0だの一切の如来の足だのクンダリーニだのと。
>>593
> 抱えているものが多いから
> 3.0だの一切の如来の足だのクンダリーニだのと
自分(おじゃる)の場合は
小学4年の頃の
『落武者の霊を見た!』と今でも引きずっていて
そして、元々は
オカルトスレから → 仏教議論スレへ
そして
今ここの上座部スレに来てるけど
なかなか
掴もうとしている『想いの手放しをするのは難しい』でつ
元々は
オカルトスレから来てるので
やはり
『チャクラだ!クンダリニーだ!』という感じでつ
_ _ _
自力で往生などしようとしないで
無明薫習している
すべて一切の物事を阿弥陀仏にお任せして
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
↓オウム信者と勘違いされるかもしれないけど
ttps://www.kosei-shuppan.co.jp/book/b274452.html
新アジア仏教史9 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ参照
…
チャンダーリの火
臍のチャクラに宿る熱
この熱の力で風(ルン)を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り留まり溶け込むことに習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に四段階の歓喜が生じ
最終的には
源初から存在する(倶生)
大楽を元に楽空無別の智慧を獲得する
↑チベット密教系で おじゃる クンダリニー上げるの失敗すると最悪死ぬよ。テーラワーダからすると、もともと無いとか
言いそうだけど。釈迦の頭頂の膨らみって特殊なヨーガやったから出来たとか言われてるけど。
>クンダリニー上げるの失敗すると最悪死ぬよ
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
三十二相(さんじゅうにそう)
31. 頂髻相(ちょうけいそう)
頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)
↑これでつね?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
光り輝いている智慧と慈悲が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
[ 頭を裂け落とさせる ] ものである >>595
精液は菩提心と同一とみなされるから、一滴も漏らさないようにするんだろ?
ご苦労な話だ。
ツォンカパは、密教を、顕教の学習の後に研修すべきものとした。
高度な心身のコントロールが必要になるから。
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
ツォンカパ
アティーシャの『菩提道灯論』に範をとって主著『菩提道次第論』を著し…
アティーシャ
ヴィシュヌ派、シヴァ派、ヒンドゥー教の
タントラを始めとする多くの教義を学び…
無著、世親による弥勒菩薩の法脈(唯識派)、龍樹
月称による文殊菩薩の法脈(中観派)を学んでいる
月称(チャンドラキールティ)
帰謬論法の有効性を主張し、中観派における
中観帰謬派と中観自立派の二派対立の端緒になった
主著の『入中論』においては、克明な唯識批判を行った
そうだったんでつか↑知りませんでした
ヒンドゥー、タントラ、唯識とかの
アティーシャ師匠の勉強もしたいと思いまつ
たとえば
中観帰謬派の
世俗の次元においても自性(我)を否定する
根本仏典(上座部 2.0)も
世俗の次元においても我を否定する
それゆえに
スレチではない。ということでつ、一応念のため…
>ツォンカパは、密教を、顕教の学習の後に研修すべきものとした
↓これでつね(ツォンカパの師匠?)
ttps://www.jangchuplamrim.org/wp-content/uploads/2012/09/Lamp_Path_Japanese_MRinchen.pdf
菩提道灯論
アティーシャ・ディパンカーラ・シュリジュニャーナ
15
[仏そのもの]の世界から観照して
根本仏典(上座部 2.0)の
戒・定・慧の
三学を守りなさい
39
煩悩障と所知障をすべて滅するために
35
36
37
38
[仏そのもの]の世界から観照して
根本仏典(上座部 2.0)の
(止観の)止をもって
智慧の完成(止観の観)をもって
煩悩障・所知障とかの障りをなくす
↑密教の世界観として唯識も混ざってるけど、とりあえず… ツォンカパは、チベット仏教ゲルク派の開祖。
歴代のダライ・ラマはここに所属。
ゲルク派の僧はまず顕教を学び、それが終了した段階で意欲があり、
かつ師が認めた者だけが次の密教の研修に進めるが、それは全体の約一割だという。 仏教密教は大乗仏教にのみ生じたもので、テーラワーダ仏教にはないね。
>まず顕教を
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
とりあえず
(ウィキペディア参照)
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものである
近代の文献学上は
原始経典さえも
釈迦の言説が明確に記録されているか明らかでない
それでも、とりあえず
スッタニパータ
第4〜5章
この部分がもっとも古く、元は独立した経典だった
らしいので
これからも
上座部 2.0としての導きも進めていきたいと思いまつ
戒・定・慧・解脱・解脱智見
慈悲の冥想
生きとし生けるものに
光り輝いている智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
一切の如来(衆生)の御足を礼拝し奉る m(_ _)m
(この場合の如来は「衆生でもある」という意味でつ一応、念のため…) 智慧と慈悲を持っていない、バカおじゃる、の登場である。
宣伝隊長に任命する。 佛とは嘘で在り、悪で在る。
仏教なる名目に於いて一般労働からの逃亡を謳歌せし僧侶達は常に自己と周囲を欺く。
何ぞ反動的冒険を行えど、其れすら仏道の証と決定し、粉飾に塗れた生涯の一頁に刻むのだ。
例を挙げん。特権階級は道義的な労働条件から全く逸脱した人権の蹂躙たる酷使や富の再分配を忘却した独占主義なる犯罪行為に手を労働者の血で染めては其れを「ノブレスオブリージュの代償」と呼ぶ。
労働争議で被虐者が起てば、工場は生産是れ唯一の場所に非ずと言い出す。
資本家は青春の二文字をさも金科玉条かの如くに思慕し、如何なる一般的解釈も社会通念も屈曲する。
支配層に係れば虚偽も欺瞞も、詐術も弾圧さえも青春の香辛料でしか無いのだ。
又、封建領主は其の悪行に、其の詭弁に特別性を見出す。自己の労働からの逃亡は遍く青春の一部分で在るが、労働者の逃亡は青春でなく只の叛逆にして重罪であると断じるのだ。
仮に逃亡する事が仏道の証で在るのなら、資本家化を拒絶した労働者も又青春の中軸でなければ破綻的矛盾を生む。
しかし、肥え太った僧侶共は其れを認め無いだろう。
何の事も在らぬ。全体汚らしい豚の都合主義の範疇を超え無い。畢竟、其れは欺瞞に他成らぬ。虚偽も欺瞞も詐術も弾圧も糾弾される可き物だ。
資本主義は悪の源泉だ。
演繹的にも帰納的にも前衛的に仏道(笑)を謳歌してい無い労働者の方が正当な真理的正義で在る。
結論を言おう。
共産主義こそ根本である。 もしかして…
女子児童に猥褻行為をはたらいて懲戒解雇になった西村先生? うわあ〜、まだこんな化石のような人っているんだね〜。 https://i.imgur.com/kujtfeM.jpg
https://i.imgur.com/aDV5Z9K.jpg
並川孝儀という仏教学者は、仏陀がアーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人から禅定を学んだというのは創作であろうとしている。 とある瞑想の会に行った。自分的に最後の方は結構いい感じと思っていたら、指導する人に、いきなりそのことを指摘されてびっくりした。
なんでわかるんだろう。 >>610
あるある
私なんて頭の中を占めていた、慕って敬愛した師匠のことを慈悲の瞑想を始める前に言い当てられた
その師匠のことなんて、指導する僧侶にも参加者にも一言たりとも話していないし、
SNSにも一切書いてないから、誰も知るよし無いことだったんだよ 瀬戸内じゃくちゅう氏も含めみんな不動明王やイルミナティー(実はおなじものなので)をとなえたり、キャラクターデザイン
に使ったりしてはいけない。まだ子供のゲームデザインなどにつかいCMしてるのを先日見た。
不動明王(シヴァも同じとする説もある)は何万年と人類、他の神仏をだましてきてることが発覚しており、
みんな知らずに被害を受けてきている。この度、抹消対象の指名手配犯になっています。
不動明王は観想してはいけない。過去空海がだまされている。 >>614
指導を受けるなら、こういう人の方がいいかも
なんか本物っぽいし >>618
熟練の僧侶は近くにいる人が考えていることとか分かることもあるみただよ
頭に浮かんだことを笑いながら指摘されたという書き込みを読んだことある >>619
心を見通す能力と、その人の人格が素晴らしいかは
別なんですよ。
視力が良い人を人格者と言わない。
人を助けるために、いかに受け取った情報を組み立てて
役立てるか?そこに個人の采配、生き方のセンスが現れちゃう。 瞑想が上手い
有名な指導者
弟子が多い
だからといって人格者とも限らない!? |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
(ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ
゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i
)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
_ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i
/;:;:/゚。 ⌒。゚\;ヽ ヽ_ ノ::``ーー''ヽ _/
|:;:;:;:;Y * /;く;:\ __人 ` ̄´ 人_
|;:ヽ:;:;: \ ̄/;:;/;:;:\ /: : : : : ` " λ : :ヽ: :\
|:;:ヽ:;:;:;:;ヽ/, / ⌒つニ/⌒ ヽ: : : :\ /▼ヽ/: :く: : : \
|;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__
|:;:;:;:\;:;:|| | < __)ゝ__人: : : : : : : ▼// ̄__つ (__)
;:;:;:;:;\:;| | <___ノ (___): \: : : : : :// / < __)(____)
ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
反 知 性 主 義 者 >>625
このタイミング...
書きたいこととバックグラウンドになる経験もありますが、そこは今は書かずに流れに穏和に応じて書きますね
あなたが云わんとすることも分かるので、それは胸に留めておきますの ブッダの教えや先達の長老方の教えを疑っていてすみませんでした。ここにおいて、
謝罪させていただきます。 慈悲の瞑想が好きでやっていたけど、気が付いたら慈悲もどきのエゴの瞑想になっていた
自分以外の人達の幸せを願っていたよ
幸せになってほしいと思っていたよ
でも、自分のものさしで推し量った幸せや、自分に都合の良い幸せ像の押し付けになっていた
それに気付いて微妙な気持ちになった
アーナパーナ・サティからやり直すわ >>632
360度廻って同じところ
でも、それはまた違うものだと私は思います メーテルさんのまとめで知って、眼からうろこだったよ。
ペラヘラ祭は、土着宗教のサマン神と仏陀の合祀されたものだってこと!
スマが自分を仏陀その人と勘違いしてるぐらい奢っていても
「荒ぶるヤカー」スマ神と仏陀、サマン神の合祀 スマン神だと思ったら理解できた。
理性とか、自己観察とか言うからなんか変だなぁ〜変だなぁ〜と思ったよ。
土着信仰をひろめに来たんだね。
スマン神さまにお稲荷さんをお供えして、おみくじ引いてあげるね。
日本にもそういうの、もともとあるんだよ。早くいってくれればいいのに。
なんでヴィパッサナー瞑想とかしなきゃいけなかったんだ・・?! >>635
私がまとめたものじゃないですけどね
今後ともみんなで改訂してペタペタ貼っていきましょう >>637
死刑は五戒を破ることになるので良くない。
仏教国ではありえない。 苦から逃れる。
それは、現実の娑婆世界からの逃避?
苦しむ因となるものから逃れる。
瞑想して思考停止する。
釈迦仏には、悩みも苦しみもなかったのだろうか?
解脱?悟り? 成仏とはいったい何?
仏教の最終ゴールとはなんですか?
成仏したあとは、どこを目指すのですか?
この娑婆世界を離れて、仏の住む寂光浄土というものがあるのしょうか?
誰かが言っていたように、「苦を除く」という目的であれば、現代科学を駆使して物理的人体改造で事足りるのでは?
しかし、そうなってはもはや「人間」では無くなるような気がしますが如何? >>639
まずは入門書から読んで便器してください。そんな基礎からここで説明するのはスレ違い >>640
あなたに答えられる訳がない。
上から目線でものを言う慢心者は、仏法者ではない。
スルーして結構です。あなたに答えは求めていない。
ある生徒が疑問に思ったことを先生に質問した。
それに対し、先生曰く「そんなことも分からないのか!」と。
生徒は先生に「自分の知識の有る無し」を評価してもらおうと思ったのではない。 「答え」を知りたかったのです。
これは、認識と評価を混同した例である。
本当に仏法を理解している人の説明は、釈尊が「種々の因縁、種々の喩え」によって広く教えを説いたように、実にわかりやすい。
反対に理解していない人の話は、自己陶酔型の説明が多く、分かりづらい。(学校においても、一級の教師と3流の教師の違いはまさにそこにある。)
いままで、いろんな板で多くの論者のレスを見てきたが、大抵はその定義が成り立つ。
そして、一番分かっていない者ほど「そんなことも分からないのか!」という捨てセリフを言いたがるものだ。(笑 そして、もう一つ私の持論だが
仏法は実践しないと本当には分からない。
何度も例えに出すが、バットを振ったことにない人間が野球教本を何万冊読もうと、草野球のレギュラーにすらなれない。ということだ。 >>639
現実世界から逃れるというより、より明らかに現実とコミットすることだと思うよ
だいたい、我々の思考や感情は現実に基づいていないことが多い
体調が悪くて不機嫌になり、自分は不幸だなぁ、とか相手が悪いんだ、とか思うことは
現実的ではないけど、本当に思ったよりよくあること。
虫の居所が悪くて、他人を悪くとらえたり、逆にちょっと良いことがあると慢心したり
まあこれらは極端な例だけど、ちょっと観察するとこういうことは本当に、毎瞬舞瞬
自分の中で起こっている。
それらを明らかに観察すると、ちょっと距離が出来て、より現実的になる。と思う。
その究極の地点が仏教で言う解脱であり、一神教で言う神の国かもね。 たとえば・・・ケンカするときは、どうしてもそのときはケンカしなきゃいけない、
相手が悪いのは絶対。自分は言わなきゃならない。と思う。
でも、それは現実ではない。けんか腰になる必要はないし、それどころか発言せず
退出することだってできる。
けんかする必要がないのに、そのときは、他に選択肢がないと感じている。
これが仏教で言う迷いであり、苦でしょう。
卑近なところで言えば5ちゃんでの議論、拡大すれば国家間の戦争。
宗教者でさえ
本当は必要がないことなのに、おびただしい時間と労力を使って傷つけあう。
瞑想は時間の無駄という人がいるけれど、僕はそうは思わないな ブッダの教えで私たちにもたらされるものは「私」からの離脱です。
「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
これらを初めて体験する場合、初めて本当の意味で「私」とは何か、「苦」とは何かを知ることになるでしょう。
逆に言えば、「私」からの離脱が起きない限り、それらを知ることは出来ないということになります。
それらは、空気と同じであまりにも当たり前すぎて私たちには捉えることが出来ないのです。 「私」がいない世界を想像できますか?
悟った人は、「私」がいない世界を生きています。
「私」がいない世界を今この瞬間感じて生きているのです。
一般的に考えて、「私」がいない世界はあり得ないことはよく分かります。
そう、悟った人というのは、ごく一般の人間、ごく一般の生命では到底あり得ない、宇宙の中で極めて特異な生命であり、正に仏法の稀有さを体現している人だと言えるでしょう。 ブッダの教えの本当の価値は、悟った時に初めて分かると言えます。
一度預流果になってしまえば、必ず阿羅漢になると言われる所以はそこにあります。
「私」からの離脱は、生命の存在の根本を覆す、比類のない価値観の変容をもたらします。
その凄まじさを体験した後は、もうその瞬間以降はブッダに帰依するしかありません。
「もう、これ以上のものは宇宙に存在しない」と確信が持てるようになります。
ただ、そういった話を聞いて「私は悟ってないからブッダの教えの本当の価値は分からないんだ。」と落胆する人がいます。決して落胆しないで下さい。
私たちが取るべきなのは落胆ではなく、「私は知らない」を自覚し、驕り高ぶることなく謙虚に精進するという事なのです。 >>646
「私」からの離脱
に出発点として不必要な困難を招く誤謬があるよう私には思えます。
このスレの発言のどれがあなたですか?
つなげてみなければ分かりませんので >>649
このスレでは>>638だけです。
参考にならないと思います。
すみません。
前スレでは
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1509847171/
ID:leT8Ny+V
ID:wKv6syH8
など発言してますよ。 >>650
ありがとうございます
明日、会社でプリントアウトして考えてみます
悟らなくとも仏法は活かしてゆけるのではないかという立場です。
なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
「私」からの離脱よりも在家は洞察によって過剰な「私」への執着を落とすことの方が有効ではないかと考えています
もちろん、悟り、あるいはそれに近い方々がその風景を大いに語って頂くことはありがたいことですが
その意味もあってスマナサーラ長老の法話に納得がいかないのです >>651
>悟らなくとも仏法は活かしてゆける
仰る通りだと思います。
活かしてゆける、つまり実践の道中でも果実は得られるということですよね。
そして、「私」への執着を落としていくということは、正に日常生活で活きてくる在家にとって重要なことだと思います。 みんな、よりよい人間になるとか、人として幸福に生きるとか、此岸の話しか理解できない人が多いよな。
来世で天界に生まれ変わるとかもそう。此岸の話。
それは別に否定しないけど、彼岸に渡る話こそが仏法の真骨頂なのに。 悟りや解脱は、現実逃避じゃないと思うよ。
そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。 >>654
確かに凡夫には端的な主観しかなく幻想かもしれませんが、彼岸に渡るまでは旅じゃないですか
親切な指南書みたいなものがあった方が楽だと思うのですが >>651
>なので、どうしても悟らなければ仏法は意味がないという日本テーラワーダ系の論調に過敏になってしまいます。
日本テーラワーダというより上座部仏教圏全般じゃないですかね?
あちらは輪廻思想が強いから、ならば生まれ変わってもいつか解脱できるというのが前提で、
解脱という概念が強いんだろうけど、欧米人や我々はそうは行きませんからね
解脱できなくても今の人生でなにか善いものが生み出せるというモチベーションがないと
アメリカでマインドフルネスを広めたジャック・コーンフィールド氏は、テーラワーダのもつ
そうした二元性(悟りか否か)に疑問を持って、アメリカでインサイトメディテーションセンターを
設立したときに、極力そういう概念を排除したという(「悟らなくたっていいじゃないか」より)
僕もゴエンカさんの法話を合宿で聞いたときは、「瞑想するか不幸な人生か」みたいな考えに
囚われて非常に怖くなりました。
いまでは、瞑想はすくなくとも善いものだから善いものをうみだし、それは自分や
他者や環境にも善いだろう、と気楽に考えてます >>655
仏教徒にもいろんな層がいるので、それぞれに合った法門を選べば良いのだと思いますよ。
現世的な幸福や成功を望む人は、本人がそう望んでいる以上、他人がどうこう言っても仕方ないし。
ただ、テーラワーダの人(特に出家するような人たち)は、解脱や悟りに至る乗り物として、その伝統を
死守しているわけですよね。
伝統の方から、世間一般の風潮に歩み寄ってしまうというのは、伝統にとって死活問題だと思います。
解脱、悟りの法門が滅ぶというのが、人類にとってどれだけ巨大な損失なのか、輪廻ってあるのかな?
とか考えているような人たちは、絶対に分からんでしょう。 八正道は、出世間の道だけど、
目標を世俗の願望成就に入れ替えても、ほぼそのまま応用できると思うけどね。
どんな目標達成も、正念、正精進で前に進むし
問題解決は正見、正思惟によるし、
正語、正業、正命(要するに戒)という規律は目標達成、目的実現の土台である
ことに変わりはない。 人間関係の基礎は慈悲だし、仏法は現世で幸福に生きることや、成功にもそのまま使える。
ただし四諦、縁起(因果律)、生老病死に抗うことはできない。 問題は正定。
正定がないと、その人は人間の常識(というか思考による思慮別智)を
越えた領域を知ることができない。
できれば、人生で一度でも正定に至るレベルの座禅をやった方がいい。
究極的なところ、思考というのは、自我の中に生みだされる抽象概念で
しかないので、座禅でそこから抜け出した経験がないと、一生妄想のなか
にいたまま死んでいくことを意味する。 理性的な人々はとっても賢いのだが、
実は、とっても賢い妄想のなかにいる。
賢い妄想のなかにいるより、
妄想から抜け出す方が、ずっとずっと有意義なのだが。 やり方はお釈迦さま(仏)が全て教えて下さっている(法)。
サンガに行けば、実践して結果をだしている人もいるし、やり方も教えて貰うこともできる(僧)。
他に何が要る?
必要なものは既に全てある。 仏法僧に帰依し奉る。サードゥ、サードゥ、サードゥ。 >>642
一番わかってないのが長レス。お前が一番迷惑www
やめとけ あなたがたは既にニルヴァーナにいるのだ。
見なさい
陽炎に揺れる景色を
画家はあなただ!
要点を掴みなさい。 あなたはあなたに出会った事があるだろうか?
あなたは本当のあなたを知らない。
あなたの苦しみは真の自己からの絶え間ない
呼びかけなのだ。
忘れてしまったのかね?
本当の海の青さを
見るもの全てがあなたで輝いていたというのに
振り出しに戻りなさい。 >>644
実に解りやすいです。
>「私」からの離脱
というのは、>>654 さんの言うところの
>そもそも凡夫が考える現実とやらが主観であって、幻想なんだからね。
つまり、仏教で言うところの「唯識論」を土台とした教えなのでしょうか?
※幻想からの離脱?
>「私」からの離脱が起こった時、苦の滅が行われます。
喜怒哀楽といったものは、人間の生命状態の一部だと思います。
大乗仏教では十界論等に詳しく説明されています。
修行により「私」からの離脱により苦から離脱するのですね。
すると、喜びも含めて一切の感情から離脱することを意味するのでしょうか?
想像するに「死」と「「私」からの離脱」とはどう違うのでしょうか?
そもそも、ブッタには苦悩や苦痛はなかったのでしょうか?
喜びも悲しみも無い人間、それが仏の真のあるべき姿なのでしょうか?
質問ばかりですみません。 >>669
「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
喜怒哀楽は起こるがそれを俯瞰して見ている者となる。
そこには平安しかない。 「死」と「私からの離脱」は同じってどういうこと?
死んだら自動的にに私から離脱できるってこと?
そもそも私から離脱ってなんだ。
釈迦族が滅亡したとき、最後に毒キノコで苦しまれたときも平安しかないって想像つかないな
仏陀は悲しくもなければ苦しくもないってこと? >>671
「私」からの離脱が起こった時、残るものは五蘊です。
感情や思考が全てなくなる機械人間になるわけではありません。
凡夫は五蘊と自我を分けて認識することが出来ないので、その辺のことを実感を伴った形で想像するのは無理だと思いますよ。 >>671
自我の死だ!
苦痛と快楽は同じものであり
ともに至福だ。 心身から離れる(心身を自分と同一視しない)ってことでしょ
生まれてから(あるいは過去生から)心身を自分だと思い込んで生きてきた思い込みの積み重ねをリセットするんよ
心身という常で無いものを自分だと言えるのかどうか >>674
その通りだ。
そして全て忘れ去られた時
なにものでもなくなると同時にあらゆるものとなる。 >>675
無にして全て 全てにして無。
おお あなたさまの悟りが見えまする
おちんちん大明神さまよ!!!!!! >「死」と「私からの離脱」は同じものだ。
すると、この世のすべての人々は容易に解脱できるということになり、
俗に言う、亡くなった人のことを「仏さん」とか呼ばれるのも、あながちウソじゃないという事になりますね。
では、苦悩に満ちた娑婆世界を生きている意味は何なんでしょうか?
仏の悟りは、そんなに簡単なものなのでしょうか?
少し違うように思えますが。
それから、人には過去世からの宿業があります。
瞑想から解脱に至るまで、人間の業はどう関係してくるのでしょうか?
仏法で言う、衆生の機根、すなわち下品、中品、上品も関係してくると思いますが。 >>677
解脱とは苦しみからの開放だ。
それは簡単な事ではない。
何故なら人は死を非常に恐れているからだ。
そして生きるためにもがき苦しむ。
だが、全てが台無しになった時
文字通り土台ごと崩れ去った時
あなたは精神的な死を迎え、身も心もボロボロとなる。
信じがたいかも知れないがそうなった時
あなたはかつてなかった程いきいきと生き始めるのだ。
あなたは身体でも感情でも心でもなかったという事を思い知らされる。
生きながらに死んだ者にとって死は祝福なのだ 死ぬ人は肉体が死ぬだけで精神的に死んでない
未練や執着、価値観や欲を残したまま死ぬ
それと精神的な私が死ぬのはまた別
肉体が死ななくても精神的な私が死(私からの離脱)ねば悟り、解脱
肉体が死のうと精神的な私が死んでなければその精神性(個我)が輪廻してしまう 生きながらにして死ぬ事の中には
生まれ、そして死んで行くという行程は当てはまらない。
生きる事と死ぬ事は等しいのだ。 因果からの形としての解脱はない。時間軸で生きている以上それはない。一切の修行は時間軸上に展開しているから。時間の上で行ったことの結果は時間の上にしか展開しない。
どんな素晴らしい瞑想でもそうです。
時空を超えているのは意識のみで「不昧因果」です。そこを修行によって異質なものに変化すると考えるのは「迷信」です。 しかし考えてみてほしい。
あなたが身体でも思考でも感情でも心でさえもない時、あなたは何だろうか?
意識、或いは気づきではないだろうか?
あなたではないものが剥がれ落ちたところでは世界もまた無いのだ。
世界が幻想ならば時空も幻想となる。
事実、今この瞬間に距離はない。
宇宙が誕生する以前から今この瞬間は、
たった今この瞬間であり、永遠に瞬間であり続けるだろう。
無論、森羅万象は諸行無常だ。
形あるものは時間の中で容赦なく変化し滅びて行く。
しかしあなたは形なきものだ。
異質なのは「時間の中にいる私」という考えであって
実際はあなたの中に時空があり世界があるのではないだろうか? >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >>137
そう?
知り合いに名声欲しさにボランティアを立ち上げ
会う人会う人に自分はいかに良い人間かを語る人がいた
憐れみよりもウンザリしたよ
だって哀れんで聞いてたら何十回も同じ話をされるんだぜ
それは自分を否定されたからウンザリするのではなく時間の無駄だからウンザリする
同じ様に悟ってない人ほど他人に言いたがるからな
憐れみはむしろ人を見下してるだけなのかもしれないしな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています