仏教において真我が問題になるのはそれが主客関係の中に生じてる概念な場合で、
比類ないということは比較がない(主客がない)のだから無我や非我を指すことになるんだろう
もっともマハルシやマハラジなんかのアドヴァイタで言ってる真我ってのは仏教が否定してきた意味じゃなくそういう主客ないものの意味なんだけど