(入鄽垂手の続き)
その9
 要するに、悟りを開いたら自他一体となって
慈悲の心が自然にわくということは無い。
 憎愛なしだからである(『わずかに憎愛無くんば、
洞然として明白<信心銘>』)。
 
 それらの段階は、本能と条件反射の世界だけである。
 そして、その本能の限りにおいては本能的愛はある。
 動物の母親は子供に愛情を注ぐ。

 そんな悟りなど意味ないという批判も出てくる(原始仏教批判)。
 そこで、本能や条件反射を超える慈愛や愛情が生じる
思考・知識の役割が重要になる(入鄽垂手の段階。大乗仏教。)。
 もっとも、同時に、その思考・知識が苦楽や憎愛を生じさせる
原因ともなる。

 次回述べるように、慈悲一本やりの光り輝く菩薩のような人は、
古今東西、居らん。               (続く)(^-^)