仏教】 悟りを開いた人のスレ278 【天空寺
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悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。
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仏教】 悟りを開いた人のスレ277 【天空寺
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それはその通りなのだが、その言い回しで語ると、普通の人は混乱するだけだ。
もっと単純に馬鹿みたいな簡単な言葉でそれを語る方がより相応しい。 肉体の観点から観れば
細胞レベルでは人は日々死んでいる
細胞も原子レベルでは消滅するわけではなくまた別の物質になる 「生まれてない」という言葉があれば
「生まれてない」という思いを捉えさせてそれを解釈したりしてもしまう >>295
そうなんか^^
輪廻するからな。
死は循環する通過点に過ぎんのかも。 死ぬのが怖いって人は生の終わりを想像するより生まれる以前を想像すればいいんじゃね?
生まれる以前と死後は同じだぞ >>302
でも「生」は「生」、「死」は「死」として何も変わらず現れるよ
「生まれてない」「死がない」とかの思いにかかわらず >>305
仏教における「生」の概念は非常に説明しにくく、実際に瞑想しその言葉にできないような意味するところを、
実際に自分で観て識ってはじめて理解できる。 >>308
人の認識ではな
波打ち際の泡が生まれては消えてゆくように
それが生死であると思うなら、それは生死だろうな >>310
でも「認識」のはたらき自体は決してなくならないと思うよ
「無明も無く、また無明が尽きることも無い」と言うし 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→......
という12心の作用の12縁起の中の「生」。
この「生」などの概念の把握は座禅、瞑想、定....によってはじめて把握できる。 >>292
信仰は自由でしょう
創価学会と言っても様々な人がいるんですから、一括りにしてしまうのはどうなのかな?
まあ、どのような教えなのかは詳しくはないですが日蓮宗や法華宗というのもありますし
法華経は、あの、道元さんも絶賛している大乗経典なので、素晴らしいもののはず >>311
波打ち際の泡が現れ、弾けて、消えてゆくのを認識するだろ?
その泡は生まれて、死んだと思うのか
その泡は大気であり海であり、一時的な現象だと思うのか
全然違うだろ >>296
死が激流ではないと言うのですか?
あなたの好きな人も、みんな、そうなってしまうんですよ?
考えないんですか?
亡くなった人がいたとして、見ないんですか?
単なる死でしょと言うわけないですよね
流石に >>313
だから、何の強制もしていない。彼は考える通りに生きれば良いだけの話。
創価学会の話は「譬え」である。
即ち、「なんみょうほうれんげーきょーと唱えれば幸せになれる」ということしか、
基本的に説いていないので、そこで一生止まり続けるのか、という意味で。
別に、それは信仰する者の自由です。 君はどう生きるべきかトカナントカの本が流行ってんのか。
反吐が出そうな題名で大きな御世話みたいな本だけど。
読んでみるか^^ Junkie‐Ooyamaくんに肩入れしたのは、「おおコイツ1日でそこまで来たか」という感激に、
嬉しくてついしゃべり過ぎてしまっただけ。 煙がくすぶって消えるように死ぬのが理想と
法華経にあったはず
大層な葬式とかは別にいらん派やな… >>314
「生」と「死」が現れるといったのは
この場合「泡が現れ、消える」現象自体のことね
「失われる」か「その時の状態の変化でしかない」ってのは現象自体の上の解釈だね
まあ、「死によって失われる恐怖」って点では全然違ってはくる >>318
悟りのヒントになること書いてあった?^^ 誰かを強いて教化しようなどという欲求や欲望はボクには基本的に存在しない。 辛いものが嫌いな人が、辛いものを食べている人を見れば拷問だと思うこともあるだろう
何も知らない高所恐怖症の人がバンジージャンプをしている人を見れば拷問だと思うこともあるだろう
死ぬ人を見て可哀想だと思うのも、同じこと
世界は自分の心が作っている >>323
どんな本でも、何かしらいいところはある
けど、まあ、ぼくとしては、つまらんかったw >>317
昔読んだけどその時はちょっと目が開かれた感じがした
自分という「個」と、世界・社会っていう「全体」の関係の視点を結構語ってる >>322の説明も難しすぎて一般の人はついて来ないと思われる(笑) >>325
よく考えたら、死んだ人って存在しないんじゃ・・・・・^^ 倫理や道徳的な語りが嫌いな人はそれこそ反吐が出るかもしれんけどw >>325
その通り、
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
<ダンマパダ経典>の初めの1句である >>329
そうだよ、それは生きている人も存在しないという意味でね >>316
それを真剣に信仰していれば、悟りに行けるかもしれないですよね?
まあ、悟ってないから、分からんけども
しかし、別にキリスト教でも何でもいいんですからwww
仏教ではというより、悟りはとかいうより、つまるところ、不幸が少なくなればよい
と、まあ、それも、人それぞれかww
ごめんw >>325
まあ問題にならない人は別に仏教なんてしなくていいんじゃないの?w
ぼくは、死ぬのなんて想像しただけでも、ありえんほど恐怖だから、いろんな人に聞いて回ってからの仏教だったけどなあ >>322
最終的にその現象自体は放っておくことになるよね
苦楽がなければそこで解決しちゃうからもう疑問がない >>332
死んだ経験した奴は生きてないっていう意味で言ったんだけど。
生きた経験した奴も生きてないのでしょうか^^ >>335
俺もそうだったよ
死ぬのが怖くて怖くてたまらんかった
自分が死ぬのが怖いから、自分の大切な人が死について苦しむのが可哀想だった、なんとかしたかった
俺は突然サマーディになって、死の恐怖についてはほぼ解決したけど、人に伝えるのはまったく難しい >>336
うーん、色々言う人はいるし俺はどうなのか分からんのだが
「起こってる現象と思いを同一化せずほっておく」って言う人もいるし
「起こってることそのものになる、縁起と一つになる」って言われる人もいるし 人によって死ぬと言うことが、どういうことなのか、結構感覚的に違うんじゃないかな 「起こってること」と一つになるとき
それを認めるものはなく消えるとか言う人もいるね これが苦滅なのかな、とも
まあ修行せんとわからんな >>337
死について考えても経験できないし経験した人もいないからわからないだけだよ
あえていうなら生まれる以前を想像するくらい、それは理屈の上では自分が経験しているはずのことだから
時間は一方通行だからという理由でね >>341
だよなあ^^
生きてる人間も存在しないって...? >>338
目の前の世界が切り裂かれると思うと、この目がなくなると思うと、恐怖の絶頂
まあ、どうしようもないけども、なんと!
それを超える道があるという
ブッダは生死を乗り越えたという
なんと、かっこいいw >>337
自分が生きていると思っているから、他人も生きていると思うんだよ
自分は生きているとなんとなく思うよね?
それは俺もそうだったし
生きているとは何か?命とは何か?
深く深く考えてみたらいいと思う はじめはどーなることかと思っていたこのスレ、いいスレになったね。
いいと思う。 ではボクは日課の座禅します。
みなさん頑張っていいスレにしてください。
心より応援しています。 >>346
釈迦の悟りは正直よくわからんけど
死の恐怖はサマーディである程度解決するよ
全く無いわけじゃないけど、ほとんど大丈夫な感じになる >>315
死は死。
それ以上でもそれ以下でもないでしょ。
激流っていうのは心の現れ。 >>351
まあ確かに、心が動揺するわけですけどもね
最初から死を意識してなくて、死が来た時に、動揺しないとかありえないからさ
だから感覚を制御して、離れてなさい
貪ってはいかん、怒ってもならん、グチるなよ
と
まあ、要するに、自我活動を事前に、離れてしまって、不生に移行しちゃうわけでしょ?
なんもなくて、考えなきゃないやん
は
仏教じゃないでしょw まぁ、どうせ死ぬんだし、また、死ぬまで死なねーんだから、
余計な思い煩いしてもしょーもねーだろ? >>353
ええええええええ
マジっすか?
じゃあ、智慧とか布施とか、なにしてるの?w
考えなきゃいいやんって
最初から教えれば済むことやんか、それならw >>352
三界唯心でしょ?
死を意識するから恐怖も生じるんでしょ?
死を意識しなきゃ恐怖は生じないでしょ?
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
(自説経) >>347
仏教では生きることも苦しみなのかな。
ならば死は苦しみを終わらす楽しみなのかねえ^^ 考えないというのはめちゃめちゃ難しいですよ、特別な何かをしなきゃ不可能かもしれないレベルw
無の境地を目指して座って見ればわかりますよwww >>354
> どうせ死ぬんだし、また、死ぬまで死なねーんだから、
> 余計な思い煩いしてもしょーもねーだろ?
これが智慧じゃないの? >>356
生きているというのが観念なんですよ
その観念が自我そのものだとも言えます
それがすべての苦しみの原因だと言っても過言じゃないと思います
あなたはいつ生まれましたか?
母親のお腹から出てきた時ですか?
それは自分の記憶にはないですよね?
自分が自分だと自覚した時に、自分は生まれるんです
自分が自分だという自覚は、自分は○○ではないという自覚とまったく同じなんです
わかりますか? >>355
いやいやいやいやいや
それって
此っていうのは、肉体のことじゃないの?
彼は、まあ、死のことでしょうけども、、、
身体がわたしと、執着して快楽を貪っては、苦しんでるし、死に際して、悩むわけだから
考えなきゃ、は、ヤバイでしょwwww
何も超えてないやん、それじゃあ
ただ呆けてるだけやんかw >>357
> 考えないというのはめちゃめちゃ難しいですよ、
> 特別な何かをしなきゃ不可能かもしれないレベルw
> 無の境地を目指して座って見ればわかりますよwww
108ある煩悩の107を切り捨てて一つの煩悩になりきるんだよ。
集中する事、次念を継がない事。
禅宗でいう無字。
「ムー、ムー、ムー」って108ある煩悩の107を切り捨てて1になる事。 >>359
わかります^^
ならば自我がある限り、自我の消滅「死」の恐怖はなくならないと? >>358
そんなわけwwwwww
智慧とは、そのようなものな
わけ!
ないでしょうw
ウチのオカンでも、その辺の坊主でも、まあ会社の先輩でも、後輩でも
皆、知ってますよ
そんな程度ならwwwwwww
まあでかい寺の坊主も同じ答えでしたがね
しかし、考えなきゃいいとは、流石に言いませんでしたよ
わしも考えてみたけど、わからん
とは言ったけどさ
意味ぜんぜん違ってくるやんかwww 一度そういう集中状態の体験があると
今、起こってないことへの不安は自然となくなるとかもよく聞く >>362
どうなんだろうw
自我が無い状態を一度でも体験すれば死の恐怖がほとんど無くなるのは、俺の経験からわかりますけど
そのような体験がなくても論理的に考えて理解できれば大丈夫なんじゃないかとも思います、想像ですがw >>360
死に恐怖の根本は瞋恚。
その瞋恚は末那識が阿頼耶識を常・一・主・宰の自我と相分(影像相分)する事(痴,、無明)に起因し、
たゆまない意識(第六識)へのささやきかけから生じるんですよ。
それを受けた意識は、本来、様々なものが因縁仮和合して現象してしているに過ぎない自身を、常住
不変である自我と錯誤するので、当然にその消滅に対して恐怖を感情するんです。
(続く) うーーーーーむ
まあ、別にいいけどさww
もっと実質的なものだと思うけどね、ぼくは >>366
その体験は悟り!?
詳しく^^
寝る、のちほど^^ >>367
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ真空妙有教えてくれたでしょ >>359
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ愛する人が死んだら悲しくないですか? >>371
ですよね??
ですよね??
これは観念だ
考えてるからいかんのだ
忘れよ忘れよって
そんなん、なんか、ぜったああい
違うよねw >>369
悟りじゃないよw
悟りって苦しみからの解放だと思ってたけど、サマーディを体験してからの数ヶ月くらいは、苦しみまくりでしたからねw
>>371
その愛によるのでは
依存や執着のような愛だとすごく悲しいと思うし、慈悲のような愛だと、そうでもないと思う >>371
愛する人が優しくしてくれれば嬉しいし、愛する人に無視されたら悲しい
こういうのは苦しいですね
なんか暖かくて穏やかでゆっくりとした、そういう愛があるんですが
それは求めることがないので、苦しむことも少ないですよ 「一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」
認めるでもなく認めないでもなく
考えるでもなく考えないでもなく
それが出来きったら「見性」とか「成仏」とかの何かが起こるってことか >>371
愛は死なないんですよ
愛する人が死んでも、その人を暖かく穏やかでゆっくりと愛するままなんですよ
ちょっとわからんかなww >>372
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ悟れば悲しくなくなるんでしょうかね 悲しいけど受け入れるのと
悲しくもなんともないのと
悲しいけど生まれ変わりを信ずるのと
悲しいけど極楽往生を信ずるのと
霊魂の不滅を信ずるのと
解脱して涅槃入りを信ずるのと
まあ、なんか様々な宗教によって、反応は違うんだろうけども、、、
なんも考えんは、ないw
ぜったいに、ありえんw
好きな人ならね 悟れば悲しくないんじゃないかなw
俺は悟ってなくても普通より悲しみはそうとう少ないと思うw
薄情だと思うかもだけど、俺からすれば悲しみまくる人のほうが薄情だなーと思うからさw >>376
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ傍にいなくてもずっと寄り添っている感じですか? >>379
悲しみまくる人の方が薄情ってのは面白い表現だね >>377
えええええええ
そんなん悟りじゃないでしょ、たぶんw
慈悲はどうなるの
憐れみなんて、全くない人やん
冷酷人間やんw >>380
うん、なんかそんな感じはあるね
要するに、死んでほしくないと悲しむのは、生きていたその人は愛していたけど、死んでいるその人は愛せないからだと思うw
生きていても死んでいても、愛することはできるからねw 悲しみまくるというのは死んだ人が失われたと思ってること
死は死としてその人が失われることは決してないってことが腑に落ちてれば
死んだひとと同じ愛にあり続けてる、そういう風に解釈したけど >>374
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ恋人や伴侶でも死んだら苦しまないのでしょうか? >>385
死んだらどうなるの?
もう笑わないし動かないけど、それでその人の存在は完全に消滅してしまったと思う?
その人は死んで苦しみの中にいると思う?
俺はずっと変わらずに一緒だと、心からそう思う >>386
∞ノノハ∞
川^〇^ハレいなくなっても寄り添ってならいられそうです
ありがとうございました 思い出は変わらずに生き続けるよ
だけど悲しいよ
勝手に涙がでてくるもんなんだよ
泣こうと思わなくても
泣こうと思って悲しむ前に、自然に、涙が流れてくるんだよ
なんも考えない、なんて、悟りはありえないw
それでも乗り越えるものが、あの人は涅槃入りしたとか、滅尽定に入ったとか
または、極楽浄土へ生まれ変わり、天国へ生まれ変わり、幸せにしてほしい
とか、なんか、反応あるでしょ人間ならw
まあ、いつも一緒というのは感じるけどさ
仏教で最高の人だったら涅槃入りして、二度と苦しみのない安心にいるのかな >>388
愛する人が半身不随になったら、愛する人が植物人間になったらと考えてみたら?
逆に自分が半身不随になったら、植物人間になった時に、それを悲しむ人が自分を本当に愛しているのか、それを悲しむことなく愛してくれる人が本当に自分を愛しているのか
自分の財産がなくなった時に、それを悲しむ人と悲しまない人とか >>379
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ身近にいればいた程悲しいですね
時間が解決してくれたって感じです
最愛の人なら正気でいられないかもです >>389
うーーん
悲しみは高度な感情だと思うんですよね
愛に近いようなもの
空だから、なんでも執着なしにしてるとか、も、なんか、、、
だから、元々ないんだからさあ
と言われると違うんじゃないのって思うの
人がぼくに対して、悲しんだりしてるのは、まあよくあることだけども、、、
うーーーーーん
空だけど、その空が、今、生きてるわけじゃないですか?
仮にだとしても、あるわけじゃないですかね
だから、一期一会とか、そういう深い話になってくのであって、最初から無、だから、無、であるものに執着なしにいましょう??
が違和感あるだけだよ
他の人がどのようにしていても、自分の苦しみは自分の考えからきてるのは、わかるよ
だけど生きてるし、好きな人なら悲しむのは別にいいんじゃないのかなあ
自然なことでしょう
自然なことは、自然なことで、その、そこが本来空、なんでしょ >>391
愛の種類なんですよ
我欲というか、そういう愛はめちゃめちゃ苦しいと思うよ
我欲のない愛は、たとえば愛する人と死ぬまでずっと会えなくてもそれでかまわないわけです
会いたいという思いは、それは自分の欲ですから
愛しているから会いたいと言うのは、つまり自分を愛しているとも言えます >>392
え!?
うーーーーむ
会えなかったら悲しいやんかwww
それが愛別離苦ってやつで、人生でも、かなり苦しむ部類のものでしょう
自分勝手だから、と、自分を抑えるのは、まあ当然ありますが、会いたいなあと思ったり、会えたら喜ぶわけですよね
まあ、恥ずかしいから、そんな素振りは見せませんがww
会いたいなあがなくなったら、その人のこと、忘れちゃってるかもしれんやんw
って、なんか恋愛話みたいになってしまったな、苦笑 >>367(続き)
要するに、死の恐怖を感情するを果とし、因や縁を逆観するって事となる。
それって、いわゆる十二縁起の逆観・順観と何ら変わらないでしょ?
つまり、様々なものが因縁仮和合して現象してしているに過ぎない自身なのに、
常住不変である自我と錯誤するので、その消滅に対して恐怖を感情してる縁起を
識る事じゃないのかな?
いろいろな方法があるけど、一つには、今この瞬間を生きることに集中すれば、
死への不安は生じないでしょ?
聖書にも「だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思い
わずらうであろう。」ってある。 >>367 やぁ〜い、バーカじゃき!おぉ笑位ジャン
そういうおしゃべりに 真理(さとり) は 無い、外道よ。 >>395 やぁ〜い、ばーかジャキ!おぉ笑いジャンキ!
まだ やってる。外道よ。 >>396.7
お前もしつこいよな。
化けの皮を剥がされた似非覚者の遠吠え・・・w 本来、因縁仮和合して現象しているに過ぎないないものを、常・一・主・宰の我と錯覚しているのが無明(痴)。
そしてそれをベースに渇愛し、必要以上に求めるのが貪、必要以上に排するのが瞋。
俺は悟りとか知らない。
が、まだ来ない未来に対して思い煩うのはあほくさいと思うけよ。
だからって刹那主義的(快楽)に生きるって事じゃないけど。 >>398-399 ばーか!お笑いジャンキ!
おしゃべりの延長上には、何があるというのだろうか。廊下は静かに歩きなさい、である。
坐るな、坐れば、自己満足する、だから、坐るな。絶望することだな、本を捨てよ。そして、坐るな。外道よ。 >>400
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