ローマカトリック教会20180220
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>370 実利を求めるな。耐え忍べ。あの世では神の栄光が! と民を騙して奴隷を作るのがカトリックの伝統的役目。 日本人のご先祖はそれを見抜いてザビエルを追い返した。 >>320 司祭を批判するなんてもってのほか!!という圧力があるよね。 スポットライトスポットライト。欧米のことだけど。 コンビニ 居酒屋チェーン スポーツ興行 SNS 海外ドラマ ファストファッション 最近の手口。 うまいなぁー。 しかしながら実は「シェービング用品」と「紙おむつ・生理用ナプキン」というのが、 神の道具のなかでも安定した金鉱脈であるということを知ってもらいたい。シブい McDonald'sよりも息が長いことだろう。 「キーワードはあまねく世界に広告(宣教内容)掲載可能な普遍性を帯びた日用品」=宣教だ カネを落とすのは悔しいが実際必要なものといったところだ。そして必要になるよう世のなかを誘導し仕組む。 これこそ「揺さぶり」「引き寄せ」「自発的に」「行動するように」「仕組む」だ アメリカの神々は蓄財せずに神のものは神のもとに帰すひとが多いというのは幻想に近い 「求めよー。」「忍耐。」これに尽きる やくざは長い収監前にボロ株を買う この意味わかるな・ >>342 そりゃそうだろ 洗礼志願者のデータ見ると、男31% 女69% 40代50代が57% 60代以上が34% 30代7% 20代2% ただしイタコ芸のおっさんに関しては天才的であると言わざるを得ない 短期間であそこまで成長させた実績は尊敬に値するし カトリック信徒としてもあの惹きつけ方は是非見習いたいところだ >>348 第二次世界大戦のドイツでは、ユダヤ人と同性愛者が悪にされ、 虐殺されました、カトリック教会は黙認していました。 本当ですか? 熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System Title: ドイツの生命倫理論議にみられるキリスト教ならびに同教会の果たす役割に 関する研究 Author(s): Bauer, Tobias Issue Date: 2010, Type: Research paper ttp://hdl.handle.net/2298/14609 (pdf file free) cf. pp. 22-23. 議事堂前でデモをすれば政権が変わるとか思ってるバカどもがいるのなw 民意を正確に知れるのは選挙だけ。 韓国のようにデモで政権が変わるのは民主主義ではない。 世論調査もメディアによる操作だから信用ならんね。 若い頃モテるのも災いよ。気が散って勉強できないから。 だから、不細工の医者と美女が結婚してますわな。 で、不細工の医者は金をもってるから浮気。美女の奥さんの方は思ったほど 幸せではなく意地悪な顔に。ますます自分の生き方を正当化したく 色を濃く出す。これを読みながら、ああ、いるいる。あの人がそうだ、と。 感情的な調子で罪悪感を語り揺さぶる。 まず最初に覚えるべきテク こんなことでも結構釣れる >>372 死後の救済を説かない創価学会は宗教とは呼べない。 程度の低いおまじないだよね。 あの邪教は日本で信徒数が多いけど。 全ての人間に利益でもあったのか? 「ご利益なんて無かった」という証言のほうが多いんだがw 死後の救済や善悪を説くキリスト教を世界中の人間が信仰しても破綻しないが、 現世利益を追求する邪教を世界中の人々が信じたら論理的に破綻する。 全ての人間が勝ち組になることは不可能だから。 ゆえに、創価学会は偽の宗教である。 過去にとりつかれて酒や向精神薬でごまかしているところはきっちり治療して晩節を汚さないように生きよう 治療方法があればの話だが なければ”神”に祈る これが正しいk”神”の使用方法 ここで独り言喋ってる人気持ち悪いね リアルでもこうなの? 神父になろうとしたけど、なれなかった人が大抵こうなる ちゃんと神父さんは適性を見てるんだよ 神学校脱落のひとは最悪だ 東方の隠遁修道士かシャルトルーズで引きこもってブツブツ独り言言ってれば イケるんじゃないの? 司祭になる前の経歴の酷さにあきれる。司祭は反社会的な人間がなるものかね? >>374 カトリックは、神父、シスター、 高位聖職者にならないと 実利がないよね 一般の信徒になっても何の実利がないから 教会なんて行くべきではありません 日曜日は自分の趣味を持って 趣味に没頭している方が充実した生活が 送れます >>387 カトリックを棄教したけど 創価ではないからね! 創価はストーカーをしたり人権侵害の宗教ですから 久しぶりに、私の WebSite の 「聖書講義」 に小論をアップしました。 キリスト教の再定義というテーマに対する私の神学的立場を解説しています。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2018/2018.html >>397 読みにくいので、適当にばらしてくれませんか? 北海道函館市の元町カトリック教会とハリストス正教会の鐘の音 https://youtu.be/inua1iZ3BxY 2000年(主日B年) 4月9日 四旬節第5主日 エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜10 ヨハ 12:20〜33 ヘブ vv.7-8 私たちが馴れ親しんで来た20世紀のキリスト教は、“イエス・キリストの死と復活” や “イエス・キリストによる罪と死からの救い” というような、キリストの福音の “死に対する戦い” としての面に、理解が足りなかったと言わねばならないと思います。 「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ ・・・・・ 」 という主イエス・キリストの歩まれた道は、ミサに集まる一般の信者たち自身の実感からは、縁遠いものだったのです。 日本だけではなくて、キリスト教を我が国に伝えてくれた西欧の世界でも同様に、「激しい叫び声を上げ ・・・・・、死から救う力のある方に祈る ・・・・・ 」 というようなことは、久しく教会の信仰からは忘れ去られて来ているのです。 私たちの身近なところでこれまで行われて来た数々の教会の葬儀のことを思い起こしてみれば、そこで人々が “死” をどのように考えて来たかが分かります。 そこでは “死は、大祭司である十字架と復活のキリストによらなければ、そこから決して救い出されることのない永遠の滅びである” ことなど、全く語られはしませんでした。 私たちの救い主イエス・キリストは、しかし、私たちを罪と死から、神の怒りと裁きから救う大祭司となるために、「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、」 御自身を十字架のいけにえとしてささげてくださったのです。 (つづき) エレ vv.31-32 このエレミヤが語った “新しい契約” という言葉を、新約聖書は ルカ 22:20 と Iコリ 11:25 で、主の晩餐におけるイエスの聖別の言葉の中にとり入れて伝えています。 第二バチカン公会議によって刷新された私たちのミサ典礼書では、そこに採用された四つの奉献文において、主の聖別のことばが聖書の記事からの編集によって、すべて同一であるように作られました。 「皆、これを受けて飲みなさい。 これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血である。 これを私の記念として行いなさい。」 神とイスラエルとの間のかつての古い契約が破られて死んだように、救い主イエス・キリストは私たちの罪のために死んで、その血による “新しい契約” を教会に与えてくださいました。 キリストの十字架は、この世を支配していた罪と死を滅ぼして、御自分の民である教会に永遠の命を与えてくださるのです。 「信仰の神秘。 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」(記念唱) アーメン。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 総理大臣でもないヤツらが、偉そうに指図ばかりしてやがる。 香山リカから小泉元首相まで、お前たちは総理ではないだろう。 人格障害のクズは自己と他者の区別を付けないというが、 総理大臣はお前たちではない。 自分の意のままに操りたいのは傲慢の大罪である。 カトリック教会は、暇と金に余裕がないと行けないよね。 最初は教会に救いがあると思ったが、 ミサは神秘効果は初めのうちだけだ。 教会奉仕してもおまんま食えない。 愛?ねーよ、そんなの。 祈りましょうw。で済まされるだけ。 新興宗教の方が、仕事紹介してくれたり、色々世話焼いてくれるから 同じ魂をうるのにも、実利がある方がいいぞ. >>405 カトリックを信仰している国は、 フィリピンや中南米などの教育のレベルが低く 後進国が多いだろ! フィリピンと南米のカトリックの国に 行った事があるけど足立区のゴミ以下の 貧しく治安が超悪く教育のレベルが低かったぞ! >>405 カトリックを信仰する自体、負け組の 道を歩む事になるから >>408 フィリピンやブラジルのスラム街に住む人達 は定期的に教会通いをしている信徒もたくさん いるけど、 残飯やゴミを漁り、ドブ水を飲んだり、窃盗や強盗に手を染める者もいます カトリック教会は、実利のない宗教である証拠です! 2006年(主日B年) 4月2日 四旬節第5主日 エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33 キリストの救いは、信じる者を 「死から救う」(ヘブ v.7)救いです。 “死” とは、神の怒りによって “滅ぼされる”(イザ 6:5)ことであります。 詩篇は “人を塵に返す” 神の怒りを畏れることを教えました(詩 90)。 “死” は神による創造の祝福の対極にあって、いわば神から不要品として捨てられること、“罪が支払う報酬”(ロマ 6:23)であります。 使徒パウロは 「死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」 と述べた後に、直ちに続いて 「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」 と、キリストの救いを賛美しました(ロマ 7:24-25)。 この “死から救う救い” のために、キリストは人間と同じ者になられ(フィリ 2:7)、私たちに代わって(父なる神への)従順を学ばれました(ヘブ v.8)。 キリストの受肉と死と復活は、神がその救済史の中に計画された御業であって、「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ 1:7)、その完成である 「秘められた計画」 にあずかる者とされました(エフェ 3:3-6)。 (つづき) 現代の通俗的キリスト教は、人々を “神の怒りへの恐れ” から遠ざけるような仕方で、“死” に対応して来ました。 私たちが従来見て来た葬儀はその典型であり、今日論じられている末期医療とか安楽死ないし尊厳死の問題も、すべてその方向性によっています。 “死” を怖くないもの、安らかで美しいものと思わせることによって、効果的に人々を “神の怒りへの恐れ” から遠ざけて来ました。 キリストの救いが、信じる者を 「死から救う」(ヘブ v.7)救いであることを、「来るべき怒り(終末の裁き)から私たちを救ってくださる」(Iテサ 1:10)救いであることを、再び学ぶことは教会に提供されている四旬節の恵みであると知りましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 辞めない頭下げない謝らないブレる カトリックの鑑 財務相。 2009年(主日B年) 3月29日 四旬節第5主日 エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33 「人の子が栄光を受けるときが来た。」(ヨハ v.23) 「栄光」 という言葉が、新約聖書ではイエス・キリストと結びついて、特に終末論的意味合いで用いられているということに注目しましょう。 受肉されたキリストは、その受難と死を経て、栄光に入るべきことを(ルカ 24:26)、早くから弟子たちに語っておられました(マコ 8:31,9:12,10:32-45)。 福音書を読む人はだれでも、受難物語りがイエスの姿を、悲惨で哀れな犠牲者ないし殉教者としてではなく、そうではなくて、勝利へと向かって進んで行く神の子・救い主として描いていることを、強く印象づけられます。 特にヨハネ福音書は、イエスの十字架の時が 「栄光を受ける時」 であることを強調しています。 しかし、人は信仰を与えられて初めて、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来ます。 異邦人がユダヤ人と共に福音に与る者となるのは、主の十字架と復活の後でした。 ヨハ vv.20-21 にギリシア人が登場するのは、その時が今や迫っているということの象徴でありました。 (つづき) 「今こそ、この世が裁かれる時。 今、この世の支配者が追放される。」(ヨハ v.31) 神の怒りは、神が正しい裁きを行われる終わりの日に、最終的に現れるのですが(ロマ 2:5)、今や主イエスはその受難と死によって御自身がその裁き主となる決定的な時を迎えておられました(使 10:42、IIテモ 4:1)。 教会の時は、すでに決定的に、「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている」(ヨハ 3:18)時となったのです。 ですから、主の受難と死が、私たちキリスト者にとっては決して単なる過ぎ去った昔の出来事ではあり得ないように(ガラ 3:1、ロマ 8:34)、神の裁きも、キリストによる救いも、現在の事実であり、また将来の希望なのです(ロマ 5:1-2,8:11、Iテサ 5:9)。 ローマ・ミサ典礼書の奉献文では、その第一のエピクレーシスで “御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように” と祈ります。 しかし、それと同時に私たちは、主イエスが間近に迫った御自分の死を、古きイスラエルに代わって御自分の教会との間に立てられる新しい契約の行為であると宣言されたことに、心を向けようではありませんか。 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」(ヘブ 9:15) 今年も教会は過越の祭儀に備えながら、会衆一同で声を合わせて歌います。 「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」 アーメン。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 臨終の霊魂のための祈り http://tenshikan.jp/inori.htm *煉獄の霊魂たちがマリア・シンマに言うところによると、人々の霊魂の救いのために 祈る人があまりにも少ないので、多くの霊魂が失われていくということです。 もし毎朝・毎晩、免償を与えられている次の祈りを、三回の「めでたし」とともに、その日 死を迎える人たちのために唱えるなら、多くの人々が救われることになるでしょうと。 その祈りとは、次のようなものです。 「ああ、霊魂を焼き尽くし、愛に燃えさかるいとも憐れみ深きイエズスよ、あなたの聖心の悶えと、 汚れなき御母のお苦しみゆえに祈願いたします。今臨終に悶え、まさに今日(または今晩)死ななくては ならないはずの地上のすべての罪人たちを、あなたのおん血によって浄めてください。臨終の苦しみに 悶えるイエズスの聖心よ、どうか死に臨んでいる人々を憐れんでください。アーメン。 (この後に「アヴェ・マリアの祈り」(旧い名称だと「めでたし」「天使祝詞」)を三回唱える)」 梅宮辰夫のけがなどどうでもいいし稲村亜美の痴漢騒動などどうでもいいし高橋由美子のマジイキなどどうでもいい がメディアでは大事件だそうだ。 >>421 修道会も老人ホーム化して シスターも婆さんばかりだろう! マッチポンプ花田光司 こだわりという名の発達障害 弟子筋と親方の動きに注意 V・メッソーリ 著 吉向キエ 訳 信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話 ドン・ボスコ社 1993 年 (対話は 1984 年に行われ、原書も同年に出版されたそうです) 上記の本を最近購入して、読んでいますが、考えさせられ、また反省させられました。 第十章 ”最後のこと(終末)’’について を、暫くは繰り返し読もうと思います。 この章において、悪魔について多く語られています。また、煉獄や死者への祈りに ついても語られています。 この本の在庫は、僅かであるそうです。 感動の切り売り。 日本での宣教=糖尿病になるほど飯が喰えて酒が飲めて善からぬことを謀議するほど暇で安全な地=天国。 NHK ラジオ 第二放送 カルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる 批評家・随筆家…若松英輔 毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時 第10回【語りえない詩〜須賀敦子が描いた言葉の厚み】 2018年3月8日(木)放送 2018年5月4日(金) 午後3:00配信終了 を聴き、前回と同様に圧倒されました。 今何気なく、イタリア文化会館 東京, Istituto Italiano di Cultura, Tokyo の site を 見ていたら、展覧会『須賀敦子没後20年』2018 年 4月 07 日 → 2018 年 4月 14 日 が案内されていました。 ttps://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/gli_eventi/calendario/2018/04/ suga-atsuko-a-vent-anni-dalla-scomparsa.html また、次もありました。 講演会「禁書−グーテンベルクから百科全書まで」2018 年 4月 08 日 開催日: 2018 年 4月 08 日 時間: 14:00 15:30 主催 : イタリア文化会館 入場 : 無料 ttps://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/gli_eventi/calendario/2018/04/_7.html 人類に天国や救いなど必要ない、地獄があれば事足りる 人類を救おうとするエロヒムは殺す 俺を地獄より地獄的な生き地獄で飼い殺しにして俺を支配、利用して自分達だけが幸せになり天国に行けると思ったか? 俺が歴史上一番嫌いなのはナザレのイエスだ 一番嫌いな宗教はキリスト教だ 基本的にハト派の考え方が大嫌いだ ガンジー、ナイチンゲール、仏陀、マザーテレサも嫌いだ 入植して乗っ取る。乗っ取り政治的な影響力を得て寄生する 簡単な仕掛け Joseph Ratzinger, Introduction to Christianity, Ignatius Press (Second revised edition 2004) は 現在も出版されているようですね。日本語訳の書名は「キリスト教入門」(1968)。 >>436 まさにその通りだな その先に世界征服がある ユダヤ系宗教の父エロヒム、YHWHと暗黒霊は諸悪の根源で汚物と言っていい糞野郎で邪神である 決して信じてはならない 仏陀のおしえで救われようとしている聖職者の多いこと。 そういったことに想いをはせられる余裕こそ宗教の看板 それでいいんだよワラ マインドフルネスあたりで癒されてキリスト教の布教をしてくださいませ これぞ宗教の本質。 結局はただ数字を追いもとめる俗で陳腐な株式会社 早めに受け入れたほうが良い 家族内の矛盾は家族では解消できないことが多い 精神科に通ってる神父やシスターをみてるとほんとうにあわれみを感じる こういった深刻な矛盾への適応が統合失調症という病理にあらわれるんだよね このような教会発の矛盾はエクソシストのおまんまネタだろうけど、 教会組織の矛盾はそれほどダメージが大きいものであるんだろうね。 理想と現実の乖離がおおきいと地獄だね この世はグレーで成り立っていることの証明だろう 自他との優劣が悪の根源。 コンプレックスとかその反対の優越感とか。 しかしながらそれらが精神的物質的な高度文明と調和を生んだ 今や、まわりは生まれながらの釈迦と解放されたローマ市民ばかりだ それでもキリスト的犠牲を信念と? さて、こぼれ落ちたものよ どう生きる? 2000年(主日B年) 4月16日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39 私たちの主イエス・キリストの受難の物語りの朗読を、今年も聞きました。 教会はその誕生の頃からずっと、特別に典礼暦のこの期節に、主の受難の物語りを語ったり朗読したりして来ました。 教会の宣教の中で、この受難の物語りがどんなに重要であったかを理解するには、私たちは自分で聖書を開いてみれば分ります。 マタイ福音書では 21-28章、ルカ福音書では 19-24章、そしてマルコ福音書では 11-16章が主の受難と復活の物語りに当てられています。 イエスの数々の説教をここに含めているヨハネ福音書では、実に半分を越える 12-21章がこれに当てられています。 そのような訳で、現代の私たちの教会でも毎年受難の主日には、三年周期で共観福音書の中の受難物語りが朗読され、聖金曜日の祭儀では毎年ヨハネ福音書の受難物語りが朗読されています。 (つづき) 教会がそれを聞き、代々にわたって受け継いで来た福音、そして今も教会が告白し宣べ伝えている福音によれば、神の救いの御業はかつてのイエスの宣教で完成して終わったのではありませんでした。 “キリスト教とは、イエスの教え、つまりイエスの宣教された福音のことだ” と(誤って)単純に考えている人も、今年は聖なる過越の三日間の朗読聖書に、もう一度よく耳を傾けてみましょう。 福音書の受難物語りが、ミサではいつも旧約聖書と使徒書から選ばれたテキストと組み合わせて朗読されることには、重要な意味があります。 教会が宣べ伝えている福音によれば、主イエスの十字架は神の救いの御業の最後を締めくくる出来事ではなくて、むしろ神の御業の決定的な開始の出来事であったからです。 受難物語りの朗読は、それに続く復活の光に照らされて初めて、本当に福音になります。 “キリスト教とは、十字架の福音のことだ” と多くの人が考えています。 しかしそれは決して、主の受難で神の御業が完了してしまったという意味ではないことを、知らねばなりません。 そうではなくて、“神の国の完成に向かう新しい時代が、主の受難と復活によって開始された” ということなのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より この世は戦場であるとわかれよ 戦場でハト派の考え方は糞の役にもたたない 俺の戦いは俺の肉体が朽ちても敵、悪魔の肉体が朽ちても終わらねー どちらかが地獄に堕とされ何も出来なくなるまで終わりゃしねーんだよ 俺は戦場で生きている 祟り神、鬼神を目指すよ 矛盾を感じる宣教の苦しみを 仏教で克服する。 それが生きるということ 他者の罪が生きる糧なのだから、 それらを見極めうまく捨てさせ、その捨て去った執着の品を吸い上げる実力を涵養していかねばならん もちろんその罪こそが我々の売り上げに聖変化するわけだが 生活のためにキリスト教の聖書を売るユダヤ人にたくましさを見出し、 あふれる愛でつつみこみ、こちらのフランチャイズ店舗の忠実な店長に任命する。 信頼と安定した収益が得られるわけだ。 信仰とはこういうことだ。 一方、重箱の隅をつついて一銭も稼げない自己満足のワザで現実から目をそらし夢見る無能。 偶像崇拝者、いわゆる"Mr.nothing" 純粋さだけではだめだ。すべて剥がされる しかしながら洗練された資本主義のゲームをサーフィンするだけでもだめだ。妬まれ蜘蛛の糸一直線 謙虚さと感謝の気持ちをもって喰われた霊と魂を鎮めていく ”巧妙に本質を蔽しながら毟り取りいただく” という仕掛け。 ざんねんながら、この聖なるクソ「ほーりーシェット」こそが幸福のもっとも現実的な最大公約数なのだろう 殺戮強奪をして絶対王者に君臨できる居場所を確保(汚れた土地を格安でor強奪or騙して乗っ取る) そのうえで矛盾を抱える迷える従順な子羊を巧みに懐柔して武装解除させ、 自分たちの負債を負わせるために巧みにのれん分けをさせるゲーム。 うまく誘いこんだら、ショバ代としてのリース料金とノウハウの技術料を徴収し搾取する(違約金付きのれん分けフランチャイズ) うまく軌道に乗れば(価値を高めたうえで)独立をそそのかして土地代を含めた諸々の権利をぼったくりの高額でカモネギに買い取らせ 全責任を負わし汚れた土地を透明に洗浄し清め(ロンダリング)カモネギにババをつかませ使命の完了とする いかに長く引っ張るかが腕の見せ所。 心配しなくても独立できるほどの実力を持つものはほんの一握りで、 というよりもそのようなレベルには誰も到達できない。判定するこちらが神なのだから ”隣人愛 自己犠牲 煩悩の克服 本尊(ゴミ)の復活 永遠のいのち 執着を捨てる”などわけのわからない荒唐無稽の夢や苦しみの根源になる不条理なものを持ち出す ようするに、誰も到達できるわけのないことを永遠にやらせることで永遠の収益を得られるということ。 賢人は、そのことを知っている 悟り。 とかいってるうちに純粋な馬鹿が自発的に命を捨ててくださるのでますますカネやモノが集まりブランド化する ということも賢人は知っている 悟り。 こういうところに嵌め込まれないように生きる力をつけていれば良いのだが世の中は厳しい もし毟り取られたなら、さっさと逃げてこれらのやり方を学び殺されない程度に馬鹿に使えばよい この原則は世のシノギとして不変だから。 これぞ失敗から学んで成長するということ 謙虚に、カモネギに感謝しつつ強くたくましく生きよう。 すべてのキリスト教徒は神社本庁の手先アベ政権打倒に起ちあがろう 2003年(主日B年) 4月13日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 14:1〜15:47 教会の一年の中で、受難の主日から復活の主日に至るいくつかのミサは、特別に大切にされます。 それは教会の宣教の中心が 「十字架につけられたキリスト」(Iコリ 2:21)であり、キリストの福音は正に十字架の福音だからです。 福音書の中で主の受難の物語りは非常に大きな部分を占めており、使徒たちが伝えた信仰にとって十字架は中心的な事柄でありました。 それは受肉された神の子イエスの生涯全体の単なる結末ではなくて、完成そのものであったからです。 神の子イエスは十字架の死を遂げるために受肉されました。 受難の数日前、「イエスがベタニアでらい病人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけ」(マコ 14:3)ました。 主イエスは、神が御計画になったこの十字架の死への備えとして、これを受け入れられました。 「この人はできるかぎりのことをした。 つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。 世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マコ 14:8-9) 最後の晩餐の席で、イエスは御自分の体と血による感謝のいけにえを制定され、これを新しい契約として教会にお与えになります。 そしてゲッセマネの園で祈った後に捕えられます。 「・・・・・ しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」(マコ 14:36 )と、主イエスは祈られました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ---- † エペソ6章10-12節 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、 また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ---- 傍観のプロ 勝手に踊って放棄していただくよう誘導する(引き寄せ自発的に行動するように仕組む) 同じミスを繰り返さないよう謙虚に、丁寧に生きていれば馬鹿が勝手に脱落する もしくは型に嵌って下さる確率が高い 勝ち組の生き方。 >こういうところに嵌め込まれないように生きる力をつけていれば良い 宗教を信じたいなら社会に寄生しないで原始人のような生活してろよ 社会に食い込んでくるな 小教区にもいろんな派閥があって疑心暗鬼のなか目に見えない戦い探り合いがくり広げられている 色んな謀議があるがそれぞれ極めて杜撰で脆弱。 気を付けないといけないのはそんな陳腐なパワーゲームのなかで自己保身のために嵌められないようにすること さいごは金持ちと立派な肩書を持つ人間へ忖度されるから力の無いカモネギは”キリスト”にされないように 聖書の教えの理解など正直どうでもよい 小教区でのパワーバランスを俯瞰してウマく幹に取り入りそれらに通じる所の奉仕と人間関係を構築していく それが修行であり神の国に入るもっとも賢明で善い道となるよ 馬鹿は歯向かって何も得られない 信仰とは、「来てくれない」「やってくれない」ことに対して嘆くのではなくて、その不条理失敗から 成功のために「来ていただく」「やっていただく」を必然的かつ可及的に引き寄せ、 願った成功を高確率で実現させるための信頼関係をつくるということ。 そのためにコスプレ信心業wまたは政治的平和活動wが必要ならばそれぞれ躊躇なくすればよい 協力者なしにはより高いステージの仕掛けは成就しない。 しっかり仮面をかぶり、努力しつつ”コト”を成し遂げよう。 日本が受ける制裁は、米大使館のエルサレム移転を支持しなかった報復らしい。 前にも忠告したが、イスラエルは全世界を敵に回すくらいの覚悟がある。 日本はユダヤ人に味方して最終戦争の勝利国になるべきだったんだよ。 世界各国の顔色を窺って日和見した腰抜けの日本政府は無能すぎ。 芯が無くてブレまくりなんだよ。臆病者が。 >>466 追記 エルサレムがユダヤの首都なのは歴史的事実であり正当。 偽善者どもが反対しているだけ。 香山リカとか日本の司教とか日本基督教団とか、 間違ってるヤツらの逆張りすればいいんだよ。 おっさんのチンポをしゃぶってでも生き延びるか 拒否して脳髄を3日かけてぶちまけながら殺され その死体すら弔われない無価値な死を遂げるか さぁどっち オ〇ム被害者家族 「悩みを救ってくれるのが宗教であって」 wwwwww それはない。大前提としてそれはない。絶対ない。 正解 「悩みを持っているものを食い物にするのが宗教であって 」 唯一の真実 「許せません。」 V. メッソーリ 著、𠮷向 キエ 訳 信仰について ラッツンガー枢機卿との対話 ドン・ボスコ社 (1993) 第十章「聖書学者、それとも社会学者?」 その最後の部分を引用します。 「信仰教育(カテケージス)は、あれこれの意見の一つにではなく、世にはびこる意見 をはるかにしのぐ内容をもつ、教会の信仰に基づく確かな教えに戻らねばならない。 それなのに、少なからぬ現代の信仰教育では、永遠の生命に関する根本原理は暗に 示されるだけであり、死の問題にも軽く触れるだけで、それもほとんどの場合は いかにして死を遅らせるか、あるいはどのように死の苦痛を軽減させるかを問うことに 終始する。多くのキリスト者は終末論的感覚を喪失し、死は沈黙と恐怖、さもなければ、 凡俗化の試みに包囲されている。教会は何世紀にもわたって、突然の死を免れるように 準備をして、死を迎えることができるように祈れ、と教えてきた。ところが、最近の 風潮では突然の死こそ恵みだと考えられる始末である。しかし、死を受容せず、尊重 しないことは、生命をも受容せず、尊重しないことを意味する。」 多くの事について反省させられましたが、その一つとしていやしの秘蹟について深く 考えていないことを自覚させられました。洗礼式の際の塗油については、はっきりと 覚えているにもかかわらず。Catechism の「いやしの秘蹟」をよく読もうと思います。 どうであれ、 理念と現実との乖離が大きいところには 所謂、豚に喰わせるべき「うごめく矛盾の死霊」が湧く これが精神病の萌芽である これらを適応させられると人生の大半を奪われ無為で悲惨な老後となろう 「カネと自分自身のために生きる」という揺るぎない事実から目をそらすとたとえでいう”悪霊につけ込まれる”ことになる 謙虚に他者の命をいただき感謝し、生かされている自分自身に余裕ができたらできる範囲で世に還元すればよい。 まちがっても、聖職者や欲深い信徒の”例外”に利用されないよう切に祈っている 主体的であれ。 NYでのある夜、パーティーで友人のハーパーを大声で呼ぶと えな〇かず〇のような典型的な弥生式ヒラメ日本人が関西弁で「ハッパ」あるんですか?「マジっすか?」「ナンボですか?」 寄って来られるくらいのズレ。 これがカトリックの真実の姿。 こういったものを押し付けられると当然、深刻な病理に悩むことになる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる