ローマカトリック教会20180220
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負け犬 「境遇を恨んで何もしない」 賢明な小1孤児 「成すためにどうすればいいのかを考える」 なるものが反社会的なものであろうが何者かは関係ない。神々はそれを理解し「神」にする 馬鹿は曲解して文字通り「コ〇ス」 所謂ただのシケた犯罪者になる。 とりあえず 「すごいですね」 「こんにちは」 「へーそうなんだ」 「ありがとう」 「すごいですね」 「おきれいですね」 で浮上できる。 間違っても妬む神(むかつく上司、学歴はピカ一のコノハゲーと愛知7区)に勝ってはいけない。 まぎれもなくお前はクズだからだ。 それができたらモノをばら撒く。 それができたら「やってみます「何かできることは」「お願いします」を自分の息子くらいの上司にも実行する それに加えて常に目標にむかって学習する。なんでもいいから目標をみつける 器質的な馬鹿なら精神科で心理検査をうける。 道が開ける・ あらゆる痛みを和らげる保険をかける。カネがすべてという一面の真理を受け入れる 大体それで人生好転する。 それでもやらないできないやつは心身両面で痛み苦しみ続ける悲惨な老後が待っている。 スキにすればよい 「成長 家族 やりがい 愛」 フランチャイズの合言葉 マクドナルドの仕組み=キリスト教=講。 コンビニの仕組み=自己啓発=講。 「ダメな自分からの脱却」で引き寄せ。 餌となる夢と希望を与え続ける 上納金で嵌め込み 未納の借金を人身で払わせる 宗教のしくみ キリスト者にとっての引きよせの法則は、自分が望むものを引き寄せるのではなく、神がわたしを引き寄せてくださる、ということです。詩編27:10 宗教の売り物は「不安と虚栄心」だぁー。 アホ共。やり方はわかったかね。 ノウハウとほんの少しの勇気でウハウハ。 言葉で引き寄せカネを毟り人心を買う行いを強制労働を自発的にやらせる こんなおいしい商売はない 神はウハウハ。 毟るか毟られるか それは自由 お好きなほうをどうぞ。 みんな上げてやりたいけど一定数の馬鹿がいないと成り立りませんから 所詮こういうものなんだよ。夢見がちのアホの負け犬諸君 その辺の折り合いをつけられない者は、 小教区ひとつから何も学ぶことができず失望し憎んで去る そして、家族社会会社人間関係すべてにおいてその傾向を持つ お前は神か? と 「気に入らないなら自分でやればよい」に帰結する 神になろうが、神を立てようが全く自由なんで是非リーダーシップを発揮してください それに気づかせてくれない周りの環境にはに憐れみの気持ちでいっぱいだよ。 人間って生まれた時点で哀しいよね。その時点で不条理だよね 不公平だよね。 わかるわー。無知な家族に無知な社会構造に無知な組織な ちょっとしたズレと気づきで大きく人生変わるもんなー 馬鹿でもあほでも幸せに人生を終えるただのラッキー野郎もいるもんなー 悔しいよな。わかるわー。 >>351 カトリックを信仰している国なんて、足立区の ゴミみたいな教養のレベルが低いのが多かったぞ! フィリピンや中南米、アメリカやヨーロッパの セレブは、カトリックを棄教しています リース業なんだよリース業 土地を占有してビジネスモデル指導料と賃料をいただきまーす 全世界に広がるロイヤリティ収入。 神は生まれながらの年金生活者 独立したきゃ金品はたいてM&Aしなってのがビジネス。 信徒の命を差しだせってのが砂漠のやり方。 もちろん品質を確保できなけれなリース契約はキャンセル 破門もくはあぼーん そういう「契約」なんだよ 日本人はこの面に関してのリテラシーが極めて低い パウロはまさにキリスト教という無事ネスモデルののユダヤ人創業者。 キリストの思いは全くもってうかがい知れない 義認するか否かは自由だけど。 >>349 カトリック教会に通って 真面目に献金を払っていたけど 何の実利はありません!日曜日は ミサに行っても時間の無駄! 自宅で、ゲーム、パチンコ、読書、 ジム通いなど、趣味に没頭している方が ましです! 心配するな 神は臆病なねずみよりも勇敢な狼を祝福する わたしについてきなさい >>370 なーんだ。マモン(富)の誘惑に負けてセレブの生き方に活路を見出し 掛け軸の民(創価学会員)に成り下がった、花より団子のかつおさんですか。 >>372 創価学会じゃないけど 創価は実利はあるけど 脱会が難しいし脱会しても自殺に 追いやられるまでストーカーと嫌がらせが あるから入会するべきではないね 創価じゃなくても実利のある宗教は 世の中にはいくつか存在します カトリック教会に行っても信徒同士の 横の繋がりも実利もないから 行くべきではありませんだから欧米や中南米の カトリック教会は信徒激減していて おまけに、性的虐待などのスキャンダル まみれですからね! かつおさんは棄教した後に、どうしてカトリックの周辺を一定の距離を置いて うろちょろしているのか。そして時折、何故に石を投げるのか。 かつおさんの高性能の潜在意識(霊魂)が瞬時に、意識で思い込もうと していること、「掛け軸」や「ほーかね」や「どーってことないよ!」 は間違いであるという判定を出しているからではありませんかね。 己の霊魂が後ろ髪を引くから、それをかつおさんは忘れ去りたいんだ。 それで、時折出てきては、カトリックに対して、己自身の霊魂に対して 石を投げたくなるのではないかな。とそう分析してます。 あと5年もつかな。「やっぱり俺が間違ってた」と 泣きながら戻ってきそうな気がしますw >>370 実利を求めるな。耐え忍べ。あの世では神の栄光が! と民を騙して奴隷を作るのがカトリックの伝統的役目。 日本人のご先祖はそれを見抜いてザビエルを追い返した。 >>320 司祭を批判するなんてもってのほか!!という圧力があるよね。 スポットライトスポットライト。欧米のことだけど。 コンビニ 居酒屋チェーン スポーツ興行 SNS 海外ドラマ ファストファッション 最近の手口。 うまいなぁー。 しかしながら実は「シェービング用品」と「紙おむつ・生理用ナプキン」というのが、 神の道具のなかでも安定した金鉱脈であるということを知ってもらいたい。シブい McDonald'sよりも息が長いことだろう。 「キーワードはあまねく世界に広告(宣教内容)掲載可能な普遍性を帯びた日用品」=宣教だ カネを落とすのは悔しいが実際必要なものといったところだ。そして必要になるよう世のなかを誘導し仕組む。 これこそ「揺さぶり」「引き寄せ」「自発的に」「行動するように」「仕組む」だ アメリカの神々は蓄財せずに神のものは神のもとに帰すひとが多いというのは幻想に近い 「求めよー。」「忍耐。」これに尽きる やくざは長い収監前にボロ株を買う この意味わかるな・ >>342 そりゃそうだろ 洗礼志願者のデータ見ると、男31% 女69% 40代50代が57% 60代以上が34% 30代7% 20代2% ただしイタコ芸のおっさんに関しては天才的であると言わざるを得ない 短期間であそこまで成長させた実績は尊敬に値するし カトリック信徒としてもあの惹きつけ方は是非見習いたいところだ >>348 第二次世界大戦のドイツでは、ユダヤ人と同性愛者が悪にされ、 虐殺されました、カトリック教会は黙認していました。 本当ですか? 熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System Title: ドイツの生命倫理論議にみられるキリスト教ならびに同教会の果たす役割に 関する研究 Author(s): Bauer, Tobias Issue Date: 2010, Type: Research paper ttp://hdl.handle.net/2298/14609 (pdf file free) cf. pp. 22-23. 議事堂前でデモをすれば政権が変わるとか思ってるバカどもがいるのなw 民意を正確に知れるのは選挙だけ。 韓国のようにデモで政権が変わるのは民主主義ではない。 世論調査もメディアによる操作だから信用ならんね。 若い頃モテるのも災いよ。気が散って勉強できないから。 だから、不細工の医者と美女が結婚してますわな。 で、不細工の医者は金をもってるから浮気。美女の奥さんの方は思ったほど 幸せではなく意地悪な顔に。ますます自分の生き方を正当化したく 色を濃く出す。これを読みながら、ああ、いるいる。あの人がそうだ、と。 感情的な調子で罪悪感を語り揺さぶる。 まず最初に覚えるべきテク こんなことでも結構釣れる >>372 死後の救済を説かない創価学会は宗教とは呼べない。 程度の低いおまじないだよね。 あの邪教は日本で信徒数が多いけど。 全ての人間に利益でもあったのか? 「ご利益なんて無かった」という証言のほうが多いんだがw 死後の救済や善悪を説くキリスト教を世界中の人間が信仰しても破綻しないが、 現世利益を追求する邪教を世界中の人々が信じたら論理的に破綻する。 全ての人間が勝ち組になることは不可能だから。 ゆえに、創価学会は偽の宗教である。 過去にとりつかれて酒や向精神薬でごまかしているところはきっちり治療して晩節を汚さないように生きよう 治療方法があればの話だが なければ”神”に祈る これが正しいk”神”の使用方法 ここで独り言喋ってる人気持ち悪いね リアルでもこうなの? 神父になろうとしたけど、なれなかった人が大抵こうなる ちゃんと神父さんは適性を見てるんだよ 神学校脱落のひとは最悪だ 東方の隠遁修道士かシャルトルーズで引きこもってブツブツ独り言言ってれば イケるんじゃないの? 司祭になる前の経歴の酷さにあきれる。司祭は反社会的な人間がなるものかね? >>374 カトリックは、神父、シスター、 高位聖職者にならないと 実利がないよね 一般の信徒になっても何の実利がないから 教会なんて行くべきではありません 日曜日は自分の趣味を持って 趣味に没頭している方が充実した生活が 送れます >>387 カトリックを棄教したけど 創価ではないからね! 創価はストーカーをしたり人権侵害の宗教ですから 久しぶりに、私の WebSite の 「聖書講義」 に小論をアップしました。 キリスト教の再定義というテーマに対する私の神学的立場を解説しています。 http://www.kuwaei2000.com/Study/2018/2018.html >>397 読みにくいので、適当にばらしてくれませんか? 北海道函館市の元町カトリック教会とハリストス正教会の鐘の音 https://youtu.be/inua1iZ3BxY 2000年(主日B年) 4月9日 四旬節第5主日 エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜10 ヨハ 12:20〜33 ヘブ vv.7-8 私たちが馴れ親しんで来た20世紀のキリスト教は、“イエス・キリストの死と復活” や “イエス・キリストによる罪と死からの救い” というような、キリストの福音の “死に対する戦い” としての面に、理解が足りなかったと言わねばならないと思います。 「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ ・・・・・ 」 という主イエス・キリストの歩まれた道は、ミサに集まる一般の信者たち自身の実感からは、縁遠いものだったのです。 日本だけではなくて、キリスト教を我が国に伝えてくれた西欧の世界でも同様に、「激しい叫び声を上げ ・・・・・、死から救う力のある方に祈る ・・・・・ 」 というようなことは、久しく教会の信仰からは忘れ去られて来ているのです。 私たちの身近なところでこれまで行われて来た数々の教会の葬儀のことを思い起こしてみれば、そこで人々が “死” をどのように考えて来たかが分かります。 そこでは “死は、大祭司である十字架と復活のキリストによらなければ、そこから決して救い出されることのない永遠の滅びである” ことなど、全く語られはしませんでした。 私たちの救い主イエス・キリストは、しかし、私たちを罪と死から、神の怒りと裁きから救う大祭司となるために、「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、」 御自身を十字架のいけにえとしてささげてくださったのです。 (つづき) エレ vv.31-32 このエレミヤが語った “新しい契約” という言葉を、新約聖書は ルカ 22:20 と Iコリ 11:25 で、主の晩餐におけるイエスの聖別の言葉の中にとり入れて伝えています。 第二バチカン公会議によって刷新された私たちのミサ典礼書では、そこに採用された四つの奉献文において、主の聖別のことばが聖書の記事からの編集によって、すべて同一であるように作られました。 「皆、これを受けて飲みなさい。 これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血である。 これを私の記念として行いなさい。」 神とイスラエルとの間のかつての古い契約が破られて死んだように、救い主イエス・キリストは私たちの罪のために死んで、その血による “新しい契約” を教会に与えてくださいました。 キリストの十字架は、この世を支配していた罪と死を滅ぼして、御自分の民である教会に永遠の命を与えてくださるのです。 「信仰の神秘。 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」(記念唱) アーメン。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 総理大臣でもないヤツらが、偉そうに指図ばかりしてやがる。 香山リカから小泉元首相まで、お前たちは総理ではないだろう。 人格障害のクズは自己と他者の区別を付けないというが、 総理大臣はお前たちではない。 自分の意のままに操りたいのは傲慢の大罪である。 カトリック教会は、暇と金に余裕がないと行けないよね。 最初は教会に救いがあると思ったが、 ミサは神秘効果は初めのうちだけだ。 教会奉仕してもおまんま食えない。 愛?ねーよ、そんなの。 祈りましょうw。で済まされるだけ。 新興宗教の方が、仕事紹介してくれたり、色々世話焼いてくれるから 同じ魂をうるのにも、実利がある方がいいぞ. >>405 カトリックを信仰している国は、 フィリピンや中南米などの教育のレベルが低く 後進国が多いだろ! フィリピンと南米のカトリックの国に 行った事があるけど足立区のゴミ以下の 貧しく治安が超悪く教育のレベルが低かったぞ! >>405 カトリックを信仰する自体、負け組の 道を歩む事になるから >>408 フィリピンやブラジルのスラム街に住む人達 は定期的に教会通いをしている信徒もたくさん いるけど、 残飯やゴミを漁り、ドブ水を飲んだり、窃盗や強盗に手を染める者もいます カトリック教会は、実利のない宗教である証拠です! 2006年(主日B年) 4月2日 四旬節第5主日 エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33 キリストの救いは、信じる者を 「死から救う」(ヘブ v.7)救いです。 “死” とは、神の怒りによって “滅ぼされる”(イザ 6:5)ことであります。 詩篇は “人を塵に返す” 神の怒りを畏れることを教えました(詩 90)。 “死” は神による創造の祝福の対極にあって、いわば神から不要品として捨てられること、“罪が支払う報酬”(ロマ 6:23)であります。 使徒パウロは 「死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」 と述べた後に、直ちに続いて 「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」 と、キリストの救いを賛美しました(ロマ 7:24-25)。 この “死から救う救い” のために、キリストは人間と同じ者になられ(フィリ 2:7)、私たちに代わって(父なる神への)従順を学ばれました(ヘブ v.8)。 キリストの受肉と死と復活は、神がその救済史の中に計画された御業であって、「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ 1:7)、その完成である 「秘められた計画」 にあずかる者とされました(エフェ 3:3-6)。 (つづき) 現代の通俗的キリスト教は、人々を “神の怒りへの恐れ” から遠ざけるような仕方で、“死” に対応して来ました。 私たちが従来見て来た葬儀はその典型であり、今日論じられている末期医療とか安楽死ないし尊厳死の問題も、すべてその方向性によっています。 “死” を怖くないもの、安らかで美しいものと思わせることによって、効果的に人々を “神の怒りへの恐れ” から遠ざけて来ました。 キリストの救いが、信じる者を 「死から救う」(ヘブ v.7)救いであることを、「来るべき怒り(終末の裁き)から私たちを救ってくださる」(Iテサ 1:10)救いであることを、再び学ぶことは教会に提供されている四旬節の恵みであると知りましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 辞めない頭下げない謝らないブレる カトリックの鑑 財務相。 2009年(主日B年) 3月29日 四旬節第5主日 エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33 「人の子が栄光を受けるときが来た。」(ヨハ v.23) 「栄光」 という言葉が、新約聖書ではイエス・キリストと結びついて、特に終末論的意味合いで用いられているということに注目しましょう。 受肉されたキリストは、その受難と死を経て、栄光に入るべきことを(ルカ 24:26)、早くから弟子たちに語っておられました(マコ 8:31,9:12,10:32-45)。 福音書を読む人はだれでも、受難物語りがイエスの姿を、悲惨で哀れな犠牲者ないし殉教者としてではなく、そうではなくて、勝利へと向かって進んで行く神の子・救い主として描いていることを、強く印象づけられます。 特にヨハネ福音書は、イエスの十字架の時が 「栄光を受ける時」 であることを強調しています。 しかし、人は信仰を与えられて初めて、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来ます。 異邦人がユダヤ人と共に福音に与る者となるのは、主の十字架と復活の後でした。 ヨハ vv.20-21 にギリシア人が登場するのは、その時が今や迫っているということの象徴でありました。 (つづき) 「今こそ、この世が裁かれる時。 今、この世の支配者が追放される。」(ヨハ v.31) 神の怒りは、神が正しい裁きを行われる終わりの日に、最終的に現れるのですが(ロマ 2:5)、今や主イエスはその受難と死によって御自身がその裁き主となる決定的な時を迎えておられました(使 10:42、IIテモ 4:1)。 教会の時は、すでに決定的に、「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている」(ヨハ 3:18)時となったのです。 ですから、主の受難と死が、私たちキリスト者にとっては決して単なる過ぎ去った昔の出来事ではあり得ないように(ガラ 3:1、ロマ 8:34)、神の裁きも、キリストによる救いも、現在の事実であり、また将来の希望なのです(ロマ 5:1-2,8:11、Iテサ 5:9)。 ローマ・ミサ典礼書の奉献文では、その第一のエピクレーシスで “御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように” と祈ります。 しかし、それと同時に私たちは、主イエスが間近に迫った御自分の死を、古きイスラエルに代わって御自分の教会との間に立てられる新しい契約の行為であると宣言されたことに、心を向けようではありませんか。 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」(ヘブ 9:15) 今年も教会は過越の祭儀に備えながら、会衆一同で声を合わせて歌います。 「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」 アーメン。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 臨終の霊魂のための祈り http://tenshikan.jp/inori.htm *煉獄の霊魂たちがマリア・シンマに言うところによると、人々の霊魂の救いのために 祈る人があまりにも少ないので、多くの霊魂が失われていくということです。 もし毎朝・毎晩、免償を与えられている次の祈りを、三回の「めでたし」とともに、その日 死を迎える人たちのために唱えるなら、多くの人々が救われることになるでしょうと。 その祈りとは、次のようなものです。 「ああ、霊魂を焼き尽くし、愛に燃えさかるいとも憐れみ深きイエズスよ、あなたの聖心の悶えと、 汚れなき御母のお苦しみゆえに祈願いたします。今臨終に悶え、まさに今日(または今晩)死ななくては ならないはずの地上のすべての罪人たちを、あなたのおん血によって浄めてください。臨終の苦しみに 悶えるイエズスの聖心よ、どうか死に臨んでいる人々を憐れんでください。アーメン。 (この後に「アヴェ・マリアの祈り」(旧い名称だと「めでたし」「天使祝詞」)を三回唱える)」 梅宮辰夫のけがなどどうでもいいし稲村亜美の痴漢騒動などどうでもいいし高橋由美子のマジイキなどどうでもいい がメディアでは大事件だそうだ。 >>421 修道会も老人ホーム化して シスターも婆さんばかりだろう! マッチポンプ花田光司 こだわりという名の発達障害 弟子筋と親方の動きに注意 V・メッソーリ 著 吉向キエ 訳 信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話 ドン・ボスコ社 1993 年 (対話は 1984 年に行われ、原書も同年に出版されたそうです) 上記の本を最近購入して、読んでいますが、考えさせられ、また反省させられました。 第十章 ”最後のこと(終末)’’について を、暫くは繰り返し読もうと思います。 この章において、悪魔について多く語られています。また、煉獄や死者への祈りに ついても語られています。 この本の在庫は、僅かであるそうです。 感動の切り売り。 日本での宣教=糖尿病になるほど飯が喰えて酒が飲めて善からぬことを謀議するほど暇で安全な地=天国。 NHK ラジオ 第二放送 カルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる 批評家・随筆家…若松英輔 毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時 第10回【語りえない詩〜須賀敦子が描いた言葉の厚み】 2018年3月8日(木)放送 2018年5月4日(金) 午後3:00配信終了 を聴き、前回と同様に圧倒されました。 今何気なく、イタリア文化会館 東京, Istituto Italiano di Cultura, Tokyo の site を 見ていたら、展覧会『須賀敦子没後20年』2018 年 4月 07 日 → 2018 年 4月 14 日 が案内されていました。 ttps://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/gli_eventi/calendario/2018/04/ suga-atsuko-a-vent-anni-dalla-scomparsa.html また、次もありました。 講演会「禁書−グーテンベルクから百科全書まで」2018 年 4月 08 日 開催日: 2018 年 4月 08 日 時間: 14:00 15:30 主催 : イタリア文化会館 入場 : 無料 ttps://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/gli_eventi/calendario/2018/04/_7.html 人類に天国や救いなど必要ない、地獄があれば事足りる 人類を救おうとするエロヒムは殺す 俺を地獄より地獄的な生き地獄で飼い殺しにして俺を支配、利用して自分達だけが幸せになり天国に行けると思ったか? 俺が歴史上一番嫌いなのはナザレのイエスだ 一番嫌いな宗教はキリスト教だ 基本的にハト派の考え方が大嫌いだ ガンジー、ナイチンゲール、仏陀、マザーテレサも嫌いだ 入植して乗っ取る。乗っ取り政治的な影響力を得て寄生する 簡単な仕掛け Joseph Ratzinger, Introduction to Christianity, Ignatius Press (Second revised edition 2004) は 現在も出版されているようですね。日本語訳の書名は「キリスト教入門」(1968)。 >>436 まさにその通りだな その先に世界征服がある ユダヤ系宗教の父エロヒム、YHWHと暗黒霊は諸悪の根源で汚物と言っていい糞野郎で邪神である 決して信じてはならない 仏陀のおしえで救われようとしている聖職者の多いこと。 そういったことに想いをはせられる余裕こそ宗教の看板 それでいいんだよワラ マインドフルネスあたりで癒されてキリスト教の布教をしてくださいませ これぞ宗教の本質。 結局はただ数字を追いもとめる俗で陳腐な株式会社 早めに受け入れたほうが良い 家族内の矛盾は家族では解消できないことが多い 精神科に通ってる神父やシスターをみてるとほんとうにあわれみを感じる こういった深刻な矛盾への適応が統合失調症という病理にあらわれるんだよね このような教会発の矛盾はエクソシストのおまんまネタだろうけど、 教会組織の矛盾はそれほどダメージが大きいものであるんだろうね。 理想と現実の乖離がおおきいと地獄だね この世はグレーで成り立っていることの証明だろう 自他との優劣が悪の根源。 コンプレックスとかその反対の優越感とか。 しかしながらそれらが精神的物質的な高度文明と調和を生んだ 今や、まわりは生まれながらの釈迦と解放されたローマ市民ばかりだ それでもキリスト的犠牲を信念と? さて、こぼれ落ちたものよ どう生きる? 2000年(主日B年) 4月16日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39 私たちの主イエス・キリストの受難の物語りの朗読を、今年も聞きました。 教会はその誕生の頃からずっと、特別に典礼暦のこの期節に、主の受難の物語りを語ったり朗読したりして来ました。 教会の宣教の中で、この受難の物語りがどんなに重要であったかを理解するには、私たちは自分で聖書を開いてみれば分ります。 マタイ福音書では 21-28章、ルカ福音書では 19-24章、そしてマルコ福音書では 11-16章が主の受難と復活の物語りに当てられています。 イエスの数々の説教をここに含めているヨハネ福音書では、実に半分を越える 12-21章がこれに当てられています。 そのような訳で、現代の私たちの教会でも毎年受難の主日には、三年周期で共観福音書の中の受難物語りが朗読され、聖金曜日の祭儀では毎年ヨハネ福音書の受難物語りが朗読されています。 (つづき) 教会がそれを聞き、代々にわたって受け継いで来た福音、そして今も教会が告白し宣べ伝えている福音によれば、神の救いの御業はかつてのイエスの宣教で完成して終わったのではありませんでした。 “キリスト教とは、イエスの教え、つまりイエスの宣教された福音のことだ” と(誤って)単純に考えている人も、今年は聖なる過越の三日間の朗読聖書に、もう一度よく耳を傾けてみましょう。 福音書の受難物語りが、ミサではいつも旧約聖書と使徒書から選ばれたテキストと組み合わせて朗読されることには、重要な意味があります。 教会が宣べ伝えている福音によれば、主イエスの十字架は神の救いの御業の最後を締めくくる出来事ではなくて、むしろ神の御業の決定的な開始の出来事であったからです。 受難物語りの朗読は、それに続く復活の光に照らされて初めて、本当に福音になります。 “キリスト教とは、十字架の福音のことだ” と多くの人が考えています。 しかしそれは決して、主の受難で神の御業が完了してしまったという意味ではないことを、知らねばなりません。 そうではなくて、“神の国の完成に向かう新しい時代が、主の受難と復活によって開始された” ということなのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より この世は戦場であるとわかれよ 戦場でハト派の考え方は糞の役にもたたない 俺の戦いは俺の肉体が朽ちても敵、悪魔の肉体が朽ちても終わらねー どちらかが地獄に堕とされ何も出来なくなるまで終わりゃしねーんだよ 俺は戦場で生きている 祟り神、鬼神を目指すよ 矛盾を感じる宣教の苦しみを 仏教で克服する。 それが生きるということ 他者の罪が生きる糧なのだから、 それらを見極めうまく捨てさせ、その捨て去った執着の品を吸い上げる実力を涵養していかねばならん もちろんその罪こそが我々の売り上げに聖変化するわけだが 生活のためにキリスト教の聖書を売るユダヤ人にたくましさを見出し、 あふれる愛でつつみこみ、こちらのフランチャイズ店舗の忠実な店長に任命する。 信頼と安定した収益が得られるわけだ。 信仰とはこういうことだ。 一方、重箱の隅をつついて一銭も稼げない自己満足のワザで現実から目をそらし夢見る無能。 偶像崇拝者、いわゆる"Mr.nothing" 純粋さだけではだめだ。すべて剥がされる しかしながら洗練された資本主義のゲームをサーフィンするだけでもだめだ。妬まれ蜘蛛の糸一直線 謙虚さと感謝の気持ちをもって喰われた霊と魂を鎮めていく ”巧妙に本質を蔽しながら毟り取りいただく” という仕掛け。 ざんねんながら、この聖なるクソ「ほーりーシェット」こそが幸福のもっとも現実的な最大公約数なのだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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