>>93
キリスト教徒を批判するとしまいには、
魂のない人だとか、
地獄に行く人だとか、
自分自身の知恵に従い神の意思に逆らう人だとか、
批判を受け入れて反省しないケースが多くある。

その時に残念な気持になる。

クリスチャンからしたら、俺(私)の素晴らしい信仰を否定じゃがって!

となる。

その時に神の掟に従っているのか?
自分自身に都合の良い信仰を作りだしているのか?

答えはキリスト教を傘に着たエゴイズムエゴイストになっている。

預言者達を追い払ってのは貴方達であるってのも、
同じ事を示してる。
神の掟=聖書
聖書に従う=神に従う。
神の命令を預かる人=預言者。

殆どの預言者は故郷を追われた。

キリストが死んでから拝む様になった人が断然多い様に、
預言者も生前は疎まれた。

つまり、毎度、神に従う民と自分自身を言いながら、
神の使いを否定する。

だから、主よ〜主よ!と祈っても私は知らないと言う、となる。
墓石の様だと言うのも口先だけで中身は死んでいる、と言う意味。

八部衆さんが、
誰かを真剣に違うよ〜と指摘しても、
逆恨みして敵対視されてしまう時がある。

その時に、
貴方の敵対視してる私を愛して受け入れるべきなのに、
という呟き。

聖書はセリフの背景を風習やら祭りの時期やら、
考慮して読まないと訳解らなくなる。

自分自身の保身の為に真実をネジ曲げて敵対視するのは、悪い事。
だから、ちょっとその憎む気持を口先で唱える神への忠誠に見合う、
歓迎(愛)をせよ。
キリストに対して敵対視する人に言った言葉。