「罪を犯さない生活」をしている信者ははいません。なぜなら、それが新約聖書
(キリスト教)の狙いだからです。「罪を犯さない生活」が可能なら、彼らの教祖の
存在価値が無に帰してしまうからです。このために、だれも「罪を犯さない生活」を
することができないような律法が、新約聖書(キリスト教)によって与えられたのです。ここにキリスト教の本質(罠)があると言ってよいでしょう。
ここにキリスト教の本質(罠)があります。一応は「罪を犯さない生活」せよ
そうしなければ罰せられる」と勧めていますが、「罪を犯さない生活」を願ってでは
ありません。そんなことはできないということをはじめから知っていて、わざと、
「罪を犯さない生活」せよと勧めているのです。本当の意図は別にあって、実は、
それを聞くものが「徳に絶望し、ついには慈悲深いお方の胸に身を投ぜざるを
得なくなる」ことを望んで、不可能とわかっておりながら、わざと
「罪を犯さない生活」せよ(そうしなければ罰せられる)と勧めるわけです。
基本的に、キリスト教会における礼拝の説教も、ほとんどこの単純な考えの
繰り返しと言って過言ではありません。キリスト教の説教者は、神の律法と
罰の厳しさに言及することによって、信者の罪悪感と絶望感を呼び起こし(落とし)
そんな罪人も教祖を信じることによって救われるのだと約束しては希望と感謝の
気持ちを起こさせ(持ち上げ)、信者の教祖に対する従順(信仰)が
堅持されているのです。こうして、落とされては持ち上げられ、また落とされては
持ち上げられる、そんなシーソーゲームを生涯繰り返すのが特徴的な
精神的内面生活ですが、実際の生活においては、どこにも特徴的なものはありません。
普通の人間と異なって「罪を犯さない生活」を送っているわけではありません。
イエスの十字架も、神の恩寵も、聖霊の導きも、「罪の力」から解放する力が
ないのは彼ら自身が告白するところです。