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救われるべきはキリスト教徒ではなかろうか

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0001基地蔵八部衆
垢版 |
2018/02/12(月) 14:36:35.06ID:h6xAgORm
彼らカトリック勢力は大航海時代でのインディオや
アフリカ、アジアでの虐殺でもう天国への階段を失った。
そしてプロテスタントの宗教改革でその信条といえば、
イスラムのモノマネしかできない戦争中毒国家になってしまった。
彼らを救う手立てはもうキリスト教にはない。
真に宗教的に救われるべきは現代のキリスト教徒なのではないだろうか。
0133神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/09(月) 23:58:45.98ID:HfhAtGSs
聖書の神は、現実の圧政者に苦しんでいた者たちを救う神です。
圧政者たちの支配の時代が終わり、自分たちに永遠の平和がおとずれる、という
彼らの期待を描いた物語です。圧政に苦しむ彼らの現実的な祈りであり、
つよい願望の表出だったのです。
自分たちの敵が滅び、敵の支配の時代が終わり、自分たちの時代がやって来る、
滅びるべき敵は悪の側であり、その悪なる敵の支配のもとで苦しんできた自分たちは正義の側である。
敵の驕り高ぶる支配の時代が終わり、ユダヤ人の繁栄する時代がやって来る。
敵が滅び自分たちは生き残る-
もともと、全知全能で善なる神の存在を信じることと
現実の悪の存在の間には本質的な矛盾があるために、この矛盾は、究極的には
悪を滅ぼし尽くして正義が貫く世界がやって来るはずである、という思想を
生み出す契機となっています。
敵が滅びる時のことですが、その滅びは、人間の努力にしたがって、
その努力に応じて次第に達成されていくのではなく、神自身の予定にしたがって、
神の力の地上への直接介入によってなされることになっています。
敵が滅びるのは、自分たちの努力の結果としてではなく、神が直接その超越的な力で
介入することによってなされる、という思想の背後には、強大な帝国支配のもとにある
弱小民族の無力感があります。この無力感が神の直接介入による問題の解決という
終末信仰を生んだ、と考えらます。
0134神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/09(月) 23:59:59.35ID:HfhAtGSs
弱小民族にとって強大な帝国支配を覆すのははなはだ困難な仕事です。そして、
自分は努力しないでも目的が達成されるという考えは、いかなる人間にとっても、
まことに単純に魅惑的な思想となります。そこで、信仰をもつだけで、
複雑で厄介なすべての問題が一挙に解決されるという終末論思想の責任単純化の論理は
無力感に打ちひしがれる弱小民族にとって、おそらく、おおきな魅力となったと
考えられます。
敵の滅亡が、自分たちの地道な努力によって少しずつ達成されるのではなく、
神の力によって一気になされる、という上記のような考えから必然的に派生してきた
ものだと言えるでしょう。強大な敵が滅びるのに自分は何の努力もする必要はない、
という魅力的な論理がその根底にあるのだろうと想像されます。
悪の支配がもうすぐ終わるであろう、というメッセージを送ることによって、
同時代の仲間を勇気づけようとしたわけです。
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