阿含経にある、正に仏法の極意は、安那般那念の「念力」で、
「もし比丘が安那般那念を修習して習熟すれば、身体は止息し、心が止息して、」
「尋あり伺あり、寂滅・純一にして、明分想の修習を満足する」
「身体は止息し」とは息が止まる事、「心が止息して」とは心臓が止まる事。
つまり、肉体は「仮死状態」で「尋あり伺あり」、つまり「天に尋伺いの」意識はある。
生きたままの死 これが教えられていて、その時代の人には理解できた。正法の時代です。
超能力と瑕疵の問題は、オウムの麻原も説いていたが、詐術であって、桐山の念力にも、
麻原の超能力にも、日常というものが無視されている。
釈迦は 生きたままの死を 日常生活の中で行えと 阿含経で説かれました。