公案は色々あるようですが、無字に始まり無字に終わるようです。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候

これ、良寛さんなんですが、同じ事を言ってるんですね。
災難に逢えば災難になり切るのが災難を逃れる方法なんですよって。

わたしは憎い相手がいましてね、日に日に憎しみが増加する。
で、教えてもらった訳ね。
頭のてっぺんから足のつま先まで憎しみの塊になり、あいつなんて死んじまえ!ってやりなさいって。
で、やってみたら五分くらいで憎しみが落ちました。

憎しみも悲しみも同じです。
憎しみがあれば頭のてっぺんから足のつま先まで憎しみになる。
悲しみがあれば頭のてっぺんから足のつま先まで悲しみになる。

仏教で怒りは三毒の一つでダメだと言われてますが、とにかく、禅僧はすぐ怒る人が多いです。
三毒の怒りとはジメジメとした怨念のようないつまでも尾を引く怒りを言ってるようです。
瞬間に怒り爆発して、あとは何も無かったような人いますよね。 仏教ではこの様な怒りはオッケーらしいです。

煩悩とは、煩わせ、悩ませるもの、と書きますように、私たちを苦しめ、悩ませる心です。

クリシュナムルティの観察者は観察者されるものである。 これは、観察者(わたし)は観察者されるもの(煩悩)である。
つまり、わたしは煩悩であるとクリシュナムルティは言ってるんですね。

憎しみは煩悩です。
わたしは憎しみであるとクリシュナムルティは言ってます。

これは、頭のてっぺんから足のつま先まで憎しみの塊になる事と同じ事を言ってます。

禅とクリシュナムルティと同じにするなとか言われてる方もおられますが、全く同じです。

まぁ、おふたりさんは、残念ながら縁なき人。

わたしの師も掲示板で、こういのにつきまとわれてましたね。困ったものです。

わたしにとって、あなたの存在は煩悩ではありませんので、なり切る必要がありませんね。
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仏縁は現世の行いだけでなく、過去世の行いも関係あるから、まぁ、しょうがないって言えばしょうがない。 来世で頑張ってとしか言えません。