外道の独り言 8
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1491547539
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>321
>そこで空海は大日如来の印を結ぶと、空海の身体は金色の光を放ち、ついにはそこに大日如来が現れたとされる。
これは空海が示した奇跡現象の中の有名な一つであり、
この私はこれは実際に起こった出来事だったものと見ています。
これは細部に渡って大日如来の仏像そのものと化したというよりは、
大日如来の手印である智拳印を結んで坐した姿のままで強い金色の光を発した状態が
“大日如来の出現”と表現されたものなのでしょう。
要するに、これは身体から眩いほど輝く強い光を発したということであり、
仏典やヨーガにはそのようなことは幾つも説かれています。
真我は、強く輝く光の塊であるとされ、
我々は煩悩の穢れが清められていくことで本来の輝きが取り戻されてきます。
最終的に何の障害もなくなれば、我々はその“光そのもの”となる、と。
仏典、『大パリニッバーナ経』には、まさにそのことを意味するエピソードが載っています。
ヒンドゥー・ヨーガでは、肉体が黄金の光を発するソルバ・サマディ
(「ソルバ」は「スヴァルーパ」ともいい“真の姿、あるいは純粋な性質”または、“自ら発光する顕現体”)として知られています。
仏像が黄金に施される由来がここにあり、学者はただ単純に神格化の典型として評するところですが、
これらは作りばなしなどではなくて、実際にその輝きを眼にした者がいるということ。 『「尊い方よ。不思議なことです。珍しいことです。修行完成者の皮膚の色は、きよらかで、輝かしい。そのつやつやした柔らかい
絹の一対の金色の衣を世尊のおからだに着せてあげましたが、世尊のおからだに着せられたその衣は光輝を失ったかのように見えます。」
「アーナンダよ。そのとおりである。まことに二つの時において修行完成者の皮膚の色は、きよらかで、輝かしい。その二つの時と
はどれであるか?
すなわち、アーナンダよ。修行完成者が無上のさとりを達成した夜と、煩悩の残りの無いニルヴァーナ(涅槃)の境地に入る夜とである。
アーナンダよ。この二つの時において、修行完成者の皮膚の色は、極めてきよらかで、輝かしい。」
--略--プッサクは、つやつやした柔らかい金色の一対の衣をもって来させた。師はこれを身に着けて金色に輝いた。』
(マハーパリニッバーナスッタンタ4:37.38)
空海の奇蹟の場合は、密教ヨーガの神秘技法を駆使したものだったと思われ、
恐らくクンダリニー(火炎)を用いてチャクラから強烈な光線を放射したものだったのではないかと私は思います。
これはつまり、仏典におけるナーガ(竜)との戦いの際に示したゴータマの火界定のテクニックではないでしょうか。
空海は、密教の即身成仏とは何か? の理論について話しても理解を示さない者たちに対して、
密教の持つ即身成仏のための技法の一端を現実に示して見せたのです。 >>326
「自性清浄(プラクリティ プラバースワラー)」についての解説は素晴らしいけれども、
しかし、「空」についての理解というのは今日の僧侶たちはすべて間違っていますから。
こういう部分についても、みんな当り前のような涼しい顔してスルーしていくけれど....。
残念なことに、自称仏教徒らはこの大きな矛盾にすら気付く者もいない、と。
>大智度論では空即涅槃と説く(般若経では空即是涅槃)。
>おそらくは松永氏の説を借りて
>涅槃=如来像=清浄=空=光り輝くもの
>とすれば分かりやすい。
>真に大智度論にそうと、自性がない空は取ることができないが、取ることができないという相が涅槃である、とされる。
>しかし、そこから進んで、空は無自性であるから分別がなく平等の相があるので涅槃である、というのが実際のところではないか?
とにかく、
「空」というのを何かとても素晴らしいものであるかのように勘違いしてる人があまりにも多い。
そもそも「空」というのは、無自性で実体を持たないものを意味しており、
これは言い換えるならば、それは本質的な“価値が無い”ということを意味しているのです。
なので、「涅槃」や「如来」を「空」などとしてしまうものなら、“涅槃や如来は価値が無い”こととなってしまう...。
だから、これは絶対にしてはならないことなのです。
何故、そんなことになってしまったのか? というと、
部派仏教の時代において間違いが生じて一切法のすべての中に無為(涅槃)をも含めてしまったからです。
原始仏教の教えでは本来、「空」は諸法(諸行)の性質を示すものであって、「一切」に限定されたものでした。
今日の南伝北伝を含めた仏教僧団のすべてはこの部派の間違いを伝承したものです。 >>330
>すなわち、「心光浄」の一文は前後の脈絡と関係なく現われ、この部分だけが全く浮きあがっているのである。
>さらに漢訳に相当部分が欠けていることも重要であり、この一文は後世の付加であろうという疑問が生じる。
確かに、パーリ増支部1-6そのものの漢訳については不明ですが、
意味的に相当するものや類似しているものとしては『増一阿含経』(巻二二)の『心性極清淨斷魔邪惡念(大正二.六六三下) 』や
『雑阿含』(巻一〇)、そして、漢訳の論書として『舎利弗阿毘曇論巻二七』があります。
『舎利弗阿毘曇論を伝えた法蔵部においてもパーリ上座部と同じような阿含経の心浄説をもつていたことが知られる。それは舎利弗
阿毘曇論巻二七の仮心品に引用されている(9) 心性清浄に関する阿含経の文であつて、この文は内容的には(10) パーリ増支部
一ノ六の文と一致する。
9 舎利弗阿毘曇論巻二七(大正二八・六九七b)。
心性清浄、為二客塵一染、凡夫未レ聞故、不レ能二如実知見一、亦無二修心幻聖人聞故、如実知見、亦有二修心幻心性清浄、離二客塵垢一、
凡夫未レ聞故、不レ能二如実知見一、亦無二修心噸聖人聞故、能如実知見、亦有二修心一。』
(水野 弘元著『心性本浄の意味』)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf
逆に考えるならば、
パーリ増支部1-6の心性本浄説の記述は何故、このようにして今も残されているのか?
それはつまり、実際には他にもあったものが削除されて最終的にこれだけが残ったということなのか?
或いは、指摘のように後世の不可挿入だったとしたら、
では何故、ここにこれがどんな意図で以て不可挿入したのだろうか? ということ。
話はそんな単純ではないけれども、
大雑把にいえば漢訳は大乗グループが所蔵してきたし、パーリ聖典はテーラワーダの上座部系でしょう。
少なくとも、これがゴータマの教えだと信じる(経典編纂に加われるレベルの)弟子たちがいて、
そのことを後世に伝えようとしたということです。 「そもそも「空」というのは、無自性で実体を持たないものを意味しており」
なぜそう言えるのか?? 【第5回 前半】現代へのメッセージ般若心経 解説セミナー 隠された論理式
https://www.youtube.com/watch?v=7geAIhx3big
参考動画^^ 「そもそも「空」というのは、無自性で実体を持たないもの」
「空」
不生不滅
不垢不淨
不摯s減
矛盾してないかな・・^^
どうだろう・・^^ 実体を持たないからと言って能力や存在がないわけでもない。スペースがあるから
開拓したり、自由な禅運動ができる。 「エネルギー保存の法則」
「孤立系のエネルギーの総量は変化しない」 「エネルギー保存則」
「エネルギーは無から生じることも失われることもない」
なんか似てるな・・・^^ もしかちて・・・^^
「エネルギー保存の法則」からパクッタのか^^ パール ハバ― ホワイト?レ エントリー?FXか。 例えば・・・^^
エネルギーは実体があるのか・・ないのか・・^^
それが問題である^^ >>367-385
いいセンスです。
「空」というのは「無」ではなく、
物質現象界の性質とは固定的な恒常性がないことです。
ではそこには何があるのか?
物質の元素は自在に流転変滅する。
けれど形が変わっても不変的に存在しているのはエネルギーだけだということ。
どんなに流転変性しようともその総質料は一定して変化しないから、
“エネルギー保存の法則”を謳うことができる。
ただし、現在の宇宙が消滅してから再生された新宇宙が(輪廻宇宙論)、
前宇宙の総エネルギーと同一であるかについてはわからない。
理論上では同一変化なしと推測できるけれども、
それさえ神の意志一つでどうにでも変わり得る。
まっ、そもそも般若心経に完璧さを求めても無理だと思う。 >>383
>エネルギーは実体か?
>https://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/e/558dd8e99825b94e85a1d85148a115cf
エネルギーそのものは不変的な存在であるから、「空」ではなくて「実体」じゃないのか?
つまり、科学的事実の知らなかった時代のものである仏教が間違っている...。
と、このサイト住人は見なしているようだけれども。
これはサイト住人の方の勘違いだと思います。
その宇宙を形成し円満しているエネルギーとて永遠では在り得ない。
この宇宙の存在そのもの自体が、この膨張宇宙の状態も永遠なんかじゃない。
膨張を続けるにはその力が必要であって、やがては尽きるときが必ずくる。永遠ということはない。
いずれはこの膨張も止み、“”作用反作用の法則”宜しく、
今度は、同等の力で収縮を始めることとなる。
そして、初めのビッグバーンを再び繰り返すことになる筈です。
それが輪廻宇宙です。 テイラーは自分の体の境界が分からなくなっているのに気がつきます。
自分がどこから始まってどこで終わっているのか分からない。
自分の腕の原子や分子が、壁の原子や分子と混じりあい、
それで自分が巨大になり広がっていくのを感じます。
すべてのエネルギーと一体になっているのを感じそれは美しいものだったと話します。
■あなたと外界に結び付けている脳の働き、そこから完全に切り離されたら、
どんな風になるの想像できますか?この空間の中で、自分自身や仕事からのストレス、
それがみんな無くなったとテイラーは言っています
。「想像して御覧なさい、37年間の感情が詰まった荷物を失ったらどんな気持ちになるか。
私は恍惚感に満たされていました。その恍惚感は美しいものでした・・・」と。
涅槃の境地やな・・・^^
>空・不生不滅。矛盾してないか
無為法 − 不生不滅
有為法 − 仮設としての・縁起している・空性
勝義諦・世俗諦
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0
波動関数(wave function)
「波1の世界」 と「波2の世界」が同時に存在できる
「勝義諦の世界」と「世俗諦の世界」が同時に存在している
_ _ _
因縁果師匠の
唯識としては
仏性からの真如縁起の世界の中の
(種子と現行の )頼耶縁起の世界
(手放しするのは難しいけど、それでも)
(種子と現行の )頼耶縁起の世界を手放して
仏性からの真如縁起の世界
無為法 − 仏そのもの
有為法 − (真如縁起からの)頼耶縁起
なぜ手放しするのは難しいのか?
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずるのである
無明薫習に依存して
仏道への障害がある
有覆無記の
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続けているので
掴もうとしている想いを手放しするのが難しい
仮設としての
『(種子と現行の )頼耶縁起の世界』を手放しするのが難しい
というのが
唯識の因縁果師匠には理解できると思いまつ
>>354 >最近のココの伸び具合は、何に起因するんだろうね
46 2018/03/17(土) 00:50:21.98
〜
214 2018/03/19(月) 00:30:58.30
↑凄い勢いで延びている おじゃる
よくわからないけど
2.0肯定派とか
2.0否定派とかが書き込みしに来ているとか?
ちなみに
おじゃるは 3.0も 2.0も肯定派で おじゃる
3.0の立場で書き込みしても
2.0の人達には相手にされない
という感じがする おじゃる
>おじゃるは影響ゼロと見ていい
一応 3.0は(仏性からの)真如縁起、前提で おじゃる おじるさんは難しすぎてわからん^ ^
分かりやすくたのむ^ ^
>分かりやすくたのむ
「勝義諦の世界」と「世俗諦の世界」が同時に存在している
無為法 − 不生不滅
有為法 − 仮設としての・縁起している・空性
それゆえに
不生不滅・空。矛盾してないでしょ?ということ
(リンクの貼り憑けができない)
だるま文庫 八宗綱要 真言宗
仮設としての
縁起している世界の中の
すべて一切の諸法にも
無為法 − 大日如来の智慧と慈悲も満ちている
有為法 − 地水火風空識の微細な粒子も満ちている
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
無為法 − 光り輝いている『仏そのもの』
有為法 − (無明に依存している)煩悩など
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
(『仏そのもの』の)
智慧と慈悲の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます
↓実践したことないので、わからないけど、とりあえず
四界分別観
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
(地水火風の)微細な粒子
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法は
「地の要素、水の要素、火の要素、風の要素」に依存している
そして最終的には
(地水火風空識の微細な粒子が依存している)
縁起している世界を手放して
(地水火風空識が依存している)想いを手放して
掴もうとしている想いが
自然に消えていくのを見届けます
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html 般若心経における空の意味
http://news-ssu.com/post-3230-3230
みんな「エネルギー保存の法則」を思い浮かべるか・・^^
そうだよな^^ 日本人で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、
般若心経が中間子発見のヒントになったそうです。
はじめて聞いたぞ^^
うむ〜〜^^ あと、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」てーところは、質量・エネルギー保存の法則を
現しているのだろうか。
http://www.arbk.net/weblog/2004/08/post_156.html 自分の本体はエネルギーだと認識して・・か・・^^
うむ^^
「エネルギー保存の法則」と意味が違うかもしれないけど
説一切有部とかの場合は
「あらゆる現象」(諸法)を構成する基体として
有法、法体(ダルマ)を想定し
主観的な我(人我)は空だが
客体的な事物の類型(法)は
三世に渡って(前世から相続して)実在する
中観帰謬派とかの場合は
世俗の次元においても
仮設としての
縁起に依存して
変化しているので
それゆえに
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
…
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて → 「苦しい」という想いが現れる
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
縁起に依存して → 輪廻を繰り返す
無明滅して → 行滅して → 識滅して → 「苦しい」という想いが滅する
(縁起に依存している)無明している世界を手放して → 涅槃(ニルヴァーナ) 枝葉末葉の事を殊更難しく
語り己の虚栄心を満たす事
は外道以下じゃ!
「生まれ落ちたら後は死ぬだけ」
この簡単な真理を理解すれば十分であるぞよ。 一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、
此(この)五蘊の色心に迷ひ、ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。 その境地の心地よさは・・
彼岸にいったものしかわからん^^ 往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。 >道を極めろということだ
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
AKUSALA−CETASKA:不善心所(アクサラチェ一タシカ)
仮設としての
縁起に依存して
無明に依存して
lobha(ローバ:貪)すべての行為に貪という心所がはたらいています
dosa(ドーサ:瞋)怒り
moha(モーハ:痴)無知
_ _ _
純粋な canda(チャンダ)意欲。やる気
智慧と慈悲をもって
「道を極める」と掴もうとしている想いを手放すこと
最終的には?
「純粋な canda(チャンダ)意欲。やる気」も手放していく
涅槃の世界は
「道を極める」という想いでもない
「純粋な canda(チャンダ)意欲。やる気」という想いでもない
「すべて一切の諸法の滅」という想いでもないゆえに
道元 普勧坐禅儀
「道を極める」と掴もうとしている想いが
自らの解脱の道をふさいでしまっている *空(くう):二つの意味がある。
1.無我(むが)
あらゆる物は因縁によって四大(しだい)が和合したものにすぎず、時々刻々と変化するために、時間によらない個性は存在しないことをいう。(小乗)
2.平等(びょうどう)
物を差別あるいは区別しないことを『平等』という。
特に『我』と『彼』を区別しないことをいう。
自分と他人とを区別して意識することを顛倒(てんどう)した見解として、あらゆる苦しみの根本的な原因であると見なすことが仏教の特徴である。(大乗)
*無所得(むしょとく):一切のものは平等であり、区別できないと悟ったとき、得るという概念はもうなくなる。
何故かと言うと、その人は既に持っているからである。
人が覚るべきものは何もないと言われる理由でもある。
※所得(しょとく)とは執著し分別するの義。
無相の真理を体すれば心中に執著する所無く、分別する所も無し。これを無所得という。
*阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):仏の覚り、あらゆる生き物が幸福になった時、または幸福になることを確信した時の心の境地。
また無上正遍知(むじょうしょうへんち)ともいい、一切の真理に通じる仏の智慧をいう。
仏とは一切衆生(すべての生き物)を既に幸福にした人、もしくはそのためのプログラムを確信して心に迷いが一切無い人。
そのような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提という。
(大乗の)平等?
ttp://suttanipata.com/aeaaayaaa/
スッタニパータ
952
苛酷なることなく、貪欲なることなく
動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である
無明している世界の中での
平等ではなくて
2.0ではなくて
3.0として解釈すれば
仏性からの智慧と慈悲の平等性智である
と観照することもできるかもしれない 空観(密教でいう清浄)
↓
無分別智
↓
自他不二
↓
慈悲(四摂法など)
テーラワーダでは慈悲の瞑想に見られるようにまず自分が救われてから親しい人、嫌いな人、嫌ってる人と慈悲の対象を広げていくが
大乗仏教では空観に基づき分別をなくすことから始め最初から有情縁無量として慈悲の対象の範囲を無限に広げていくことからスタートする
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7
仏性を開発し自由自在に発揮することで
煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく…
おじゃる意訳
仏そのものの智慧と慈悲の
自在力(神通力)
観神足をもって
仏の世界から → 縁起してる世界を観照する
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます
おじゃる意訳
仏法というものは全てにゆきわたってるので
それゆえに
たとえば
上座部とかでは
呼吸の観照に戻り − 仏に戻り帰る
(「呼吸の観照に戻り − 仏に戻り帰る」という方法が必要)
ティク・ナット・ハン − マインドフルネスが必要
机師匠の場合は
「(すべて仏そのものなので)只管打坐も必要ない」
(すべて仏そのものなので − 仏に戻り帰る。という方法が必要ない) KINGバッファローテキサスロングホーンタイプ
http://blog.livedoor.jp/s5937b9-shitoafirieito/archives/8018064.html
シルバーペンダントのKINGバッファロースカル「テキサスロングホーン」タイプ!
インパクトあるフォルム、細部までの完璧な彫りこみ、チャプター・ワンを象徴するこだわりの仕上がり。
チェーンを通すバチカン部分表に、シルバーコンチョ裏にバッファローロゴが入っています。
dat落ちしないように
何か書き込みしといた方がよいかしらん?
仏教の話とは関係がないけど
5ちゃんねる専用ブラウザ
Jane Style しょっちゅう固まる
Win10も固まる
メモ帳とか保存してないのに
勝手に再起動する場合もある
ttps://freesoft.tvbok.com/cat97/2018/2018_03_windows_update.html
Windows Update 不具合・脆弱性・その他 >>265
>【悲報】仏教僧は、他教徒よりも「死を恐れ、自己中」だと研究で判明! 僧侶のイメージ完全崩壊… 全宗教で断トツの俗物
>http://tocana.jp/2018/03/post_16177_entry.html
仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり、
吾等が当来は仏祖ならん。
とはまさにこのこと
このインドのチベット僧侶は見込みがあると思う
この恐れや自己中を乗り越えた時に名僧になりそう
正しく指導されてれば 普段、菩提寺(真言宗智山派の不動尊本尊寺院)の行事に参加していて感じることを少し...。
一般のお参り者の殆どというのは納骨参りが目的(この寺院は外の墓はない)なので、
必然的に参拝者が多いのは春秋彼岸とお盆の三つとなっている。
あと、ここは密教寺院ということもあり、
節分においては護摩法要にて護摩(星まつり)札祈祷と御火加持(参拝者のカバン財布など希望の品々を護摩の炎にかざす)、
そして、有難い御加持済の豆撒きと御神酒の振舞いがあるので一年で最も参加人数が多く、
この人たちは他の行事のときは来ないのに?と、驚かされるくらいに大勢やって来て賑わいます。
ところが、本来的には最大行事である筈の寺院大祭には参加者はサッパリで、最近は閑古鳥が鳴く始末。
総出の六人僧侶の法要なのに、これはいずれ近い内に参拝者よりも僧侶の方が多い事態ともなりかねない...。
これは要するに、一般参拝者にとっては納骨参りの日でもなく、
また御加持した霊験あらたかな物品がもらえるわけでもないので来ないのだろう。
元々、その昔は貴族だけの特権でしかなかったという護摩の炎にあたれること自体が実に有難いことなんだ、
という密教寺院の檀信徒という参拝意識もない。
まっ、これは密教と顕教の違いや宗派を問わずどの寺院でも同じような傾向だろうと思われるけれども、
そもそも一般の檀信徒たちというのは、先祖と家族を祀る場所として寺院に関わっているだけであって、
そこの本尊が何仏だろうなどということにはまったく興味もないし、
寺院に入って来ても御本尊の諸仏は素通りでスタスタとその前を通り過ぎて真っ直ぐに納骨堂へ行って、
納骨参りが済めば、またまた御本尊の前は素通りでそのまま黙って帰っていく。
こんな失礼があるだろうか? まず、私たちは自分の子供にしつけする際には、
友達のヨシオ君と遊ぶために彼のお家(正しくはヨシオ君の親の家)に上がっていくようなときでも、
もしも、そのときにヨシオ君のお父さんやお母さんがお家にいて顔を合わせたら、
必ず、まず先にそのご両親やご家族にご挨拶をしてからヨシオ君の部屋へと向かうように教えなければならない。
まるで僕が用事があるのはヨシオ君だから関係がない、などという礼儀のない失礼な人間となってしまっては困る。
寺院に来たら、何よりもまず先に御本尊にご挨拶をしなければならない。
御本尊の諸仏に礼拝を捧げてから納骨堂なり、後はどこにでも自分の用事のあるところへと好きに向かうというのが最低限のマナー。
私は、自分の妻と両親家族の全員には、これらの基本マナーと基本姿勢については徹底して厳しく教えている。
優先順位としては、1.本尊 2.僧侶 3.自分の先祖などの順となる。
今はブームもあってそういうTV番組も増えてきたから、だいぶ基本マナーや基本知識が浸透しつつあるかもしれないけれども...。
それから僧侶、寺院というものは、
先祖参りと先祖供養の話ばかりでなく、そもそも仏教って何? ということを教えなければならない。
そもそも亡くなった人が「ホトケ(仏)」というわけではなく(死者に対して失礼のないよう呼ぶ際の慣例になっただけ)、
「仏陀(ブッダ)」のことがホトケであり、仏陀に成ることが「成仏陀」、略して「成仏」なんだということ。
その仏陀に成るための教えが成仏陀教、略して仏教ということ。
その方法が「成仏陀法」、略して「仏法」と呼ばれるということをまず教えなければならない。
では、その仏陀とは何か? 我々、通常の人間とは一体、どこが何が違うのか?
人はそのまま成仏しないでいるとどうなるのか? ということを説かねばならない。
そうでないと、何時まで経っても仏教とは何かを人々が知らない社会のままだ、
ということになる。 本来の仏教には祈る対象など
存在しないぞ。正に外道じゃな。
>そもそも仏教って何?ということ
たとえば
日本の場合は
オウム事件があったので
それまでよりも、もっと更に
(仏教も含めて)宗教離れしてるらしい
親族の方が、お亡くなりになっても
坊さんも呼ばないで
遺骨を自然に戻すとかが流行ってるらしい?
(仏教も含めて)宗教離れしている人が増えているので
(上座部由来の?)マインドフルネスとかにも
興味を持つ人も少数以下かもしれない
日本の場合は
ヒンドゥー系とか
瑜伽行派系とかに興味がある人も少数以下という感じがする
おじゃるの場合の知り合いは
創価学会の信者が多いので
密教の話をすると
真言亡国といわれて(創価教団に)折伏されそうになる
それでも(創価教団よりも)密教の方がよいという感じで おじゃる ヨロ m(_ _)m
>仏教には祈る対象など存在しない
対機説法
相手の精神的能力(機根)や性質などに応じて
それにふさわしい手段で導いていく
世界悉檀
相手の心の働きに合わせて導いていく
たとえば仮に
架空の仏・如来であったとしても
(大日如来の)法界体性智をもって
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
「祈る対象などない」とかいってると
対機説法をもって
相手の心の働きに合わせて導いていくことは難しい。ということ
無為法も有為法も両方とも
『対象ではない』ということが、わかってたとしても…
ちなみに基地蔵師匠は禅宗系なのかしらん?
道元 普勧坐禅儀
そもそも仏法というものは円満に
全てのものにゆきわたっており
…
その身そのままでよい
仏の世界は
対象するものでもなく
対象されるものでもない
たとえば
チベット ゲルク派とかの場合は
相手の心の働きに合わせて導いていく
対機説法による導きのために
中観自立派
(「仮設としての」という意味で)
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たち(有為法として)の常識的な考え方に近い立場でしょう
とりあえずは中観自立派に導いて
そして、それから中観帰謬派へと導いていく。という段階があるということでつ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)に → 無明が取り憑いている >>423
ホー、こりゃ〜随分とエラそうだな!!
南方北方を含めて現存する教団で仏像を祀らない僧院などはないから、
君から見ればすべて外道の所行ということだな。
大乗諸経は創作だから読経しないし、大乗僧侶などは仏弟子にも当たらないから彼らには礼拝しない、と。
日本式の仏壇などは道教儒教のまるパクリだし、位牌はそちらから来た紛い物ものだ。
そんなもの祀れなどという教えは説かれなかった?
君のように、
本来は何々○○だったなどとエラそうな奴ほど何もわかってない。
形式に捕らわれ過ぎて根底に在る心を見ない者、
伝統をただ軽視したり、現状現実の中で如何に有益性を見出して活用することのできない者たち。
たとえば
基地蔵師匠は
閻魔師匠と同じような勝義一辺倒の勝義房みたいな?
それゆえに
>根底に在る心を見ない者?
_ _ _
相手の心の働きに合わせて導いていく
対機説法による導きのために
根底に在る心の働きを観照する
(教学としてではなくて)
瑜伽行派の実践として
法界体性智をもって
大円鏡智の世界から → 阿頼耶識を観照する
平等性智の世界から → 末那識 を観照する
妙観察智の世界から → 第六意識を観照する
最終的には
縁起している
すべて一切の諸法も手放して『空性である』とするけど
その直前までは
仮設としての
仮の現れを観照していく
という瑜伽行派とかの実践法 >>428
>基地蔵師匠は
>閻魔師匠と同じような勝義一辺倒の勝義房みたいな?
そういう類か?
ならばもっと最悪だね!
一番タチの悪い奴(禅かぶれ)だな。
たとえば基地蔵師匠にとっては
上座部とかの第一禅定は必要ないかもしれないけど
それでも、とりあえず
(教学としてではなくて)
上座部とかの実践として
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
上座部 パオ・セヤドー
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観照に戻す要素がある
この観照をするときに
仮に架空の仏・如来であったとしても
仏の世界から → (縁起している)呼吸を観照するので
「(勝義の立場として)対象など存在しない」とかいってると
『呼吸を観照することができなくなる』ということでつ
もっとも
勝義の立場としては
仏の世界は
対象ではないけど…
仮設としての
無明に依存している
渇愛(タンハー)を主体として観察するのではなくて
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない
ということなので
(光り輝いている)仏の世界から → 第一禅定〜第四禅定を観照する
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
何か雑念が出てきたことに気づいても
雑念を手放して
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けます
光り輝いている世界から → 手放した世界を観照する
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている(仏そのもの)に → 無明薫習が取り憑いている >>424
>オウム事件があったので
>それまでよりも、もっと更に
>(仏教も含めて)宗教離れしてるらしい
宗教について詳しい。または何か特定の信仰があるというだけで、
周囲の人間はそれが危険なものか、如何わしいものではないかと思ってまず警戒しますね。
だから、「宗教のことはあまり分かりません」という態度が
最も相手方に対して安心感を与えるものとなる。
残念ながら、仏教に詳しいというものも同じく不安視の材料。
>親族の方が、お亡くなりになっても
>坊さんも呼ばないで
仏教僧侶に対する不信感(生臭感や金取印象...)が、
更に、仏式葬離れへと繋がってるのかな?
>日本の場合は
>ヒンドゥー系とか
>瑜伽行派系とかに興味がある人も少数以下という感じがする
癒し系、パワースポット巡り...系ぐらいかな?
支持者が確実に増大し、尚且つ、印象も悪く映らないものというのは。
今日の仏教ブームの根底にもこれらが火付け役として支えている。
>おじゃるの場合の知り合いは
>創価学会の信者が多いので
>密教の話をすると
>真言亡国といわれて(創価教団に)折伏されそうになる
彼らは信者数が多いので、知人関係の中には必ずいたりする。
自分らだけが唯一の真理(それ以外は絶対に救われないからダメ)だといってるところというのは、
まず、例外なく(他の宗教思想に対して)攻撃的となってきてカルト化してきます。
それは例え、伝統仏教といえども同じことでスマナサーラ長老のような見解のところは危険度が高いでしょう。
私から攻撃することは絶対にないけれども、
彼らが私を折伏しようとして議論に巻き込まれて、
彼らの信者自宅や活動会場などへ招待されたりした際には遠慮なく応戦してきます。
彼らはすでに化石となってる五時八教説に洗脳されていてこれを振り翳すのが戦法となってるので、
それが迷信でとっくに使い物にならない過去の遺物であることを教えてあげれば意気消沈してすぐに終わります。
教団側も嘘や間違いをそのまま何も知らない人間に教え込んでいくなどという悪質な指導はもう止めないと...。
今この現代においても
>五時八教説に洗脳されていて
ある意味
創価の人達も凄いかも?
洗脳されてるので
根本仏典ことかを勉強することもできないのかしらん?
悟りに至るための菩提分法のことも知らないみたいだし
自在力(神通力)
四神足のことも知らないみたいだし
ttps://www.iwanami.co.jp/book/b270312.html
法華経 上 ワイド版 岩波文庫 31ページ参照
仏の智慧と慈悲を遵奉している
(上座部由来の)
四神足の智慧と慈悲をもって
解脱するための自在力(神通力)を具えて
と法華経に書いてあっても
ヒンドゥー由来 → 上座部由来 → 瑜伽行派へ
ということが創価の人達には、わからないみたいだし
訂正 − 根本仏典とかを勉強することもできないのかしらん?
一応、念のために補足として
法華経は
ヒンドゥー由来の
↓
(瑜伽行派も含めて)上座部由来の
↓
神通力を具えて
身体から光輝を放ち
地獄に墜ちた衆生を救い上げ、彼らを「さとり」に導く
この『身体から光輝を放ち』というのも
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
上座部 パオ・セヤドー
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます
たぶん↑これもヒンドゥー由来かもしれない?間違ってたら スマソ m(_ _)m
六師外道とかも含めて
ヒンドゥーとかも受け継いで
その上で
第四禅定とかも(手放し)超えて
非想非非想とかも(手放し)超えて
想滅定とかも(手放し)超えて
涅槃の世界を知覚して
涅槃の世界に住む
バラモン(ヒンドゥー)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
部分的には
ヒンドゥーから
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす
瀉瓶のように受け継いでいるかもしれない
三十二相。白毫。チャクラ。クンダリニーとか
釈迦がいた
その当時のことは、わからないけど
その後のヒンドゥーとかの場合は
粗大身
目に見える肉体は、粗い物質からできている
微細身
粗大身を支え、エネルギーを供給している
身体を構成する要素があまりにも微細で目には見えない
原因身
粗大身・微細身を大きく包む
部分的に、ヒンドゥーとかの
不可視の原因身・微細身とかを受け継いで
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
上座部 パオ・セヤドー
(「仮設としての」という意味で)
地水火風の微細な粒子の密集に依存している色受想行識
四界分別の段階においては
(「仮設としての」という意味で)
地水火風の微細な粒子の密集を観照する
(最終的には『空性である』としても…)
中観自立派の段階として
四界分別の段階においては
地水火風の微細な粒子の密集を観照して
地水火風の微細な粒子の密集を知覚して
四界分別観
観(ヴィパッサナー)の世界に住む
− そして次の段階として −
中観帰謬派の段階として
四界分別観の世界に住んで
そして
その
四界分別観の世界も手放していく
(「地水火風の微細な粒子の密集を知覚した」という想いも手放していく)
たとえば、ヒンドゥーとかの違いは
『掴もうとしている想い』を
手放しするのか?しないのか?というところが違うのかもしれない
(仏教の場合は、最終的には [ 空性 ] という想いも手放していく) 皆の衆、お早うござる!(^o^)/
宗論は誰が勝っても釈迦の恥
南無南無 人(・ω・) >>435
>洗脳されてるので
>根本仏典ことかを勉強することもできないのかしらん?
彼らは、
「根本仏典」とか「根本仏教」などとは呼びません。
必ず相手を見下す言い方をとって「小乗経典」とか「小乗仏教」と呼びます。
或いはまた、自分たちが奉ずるのが「日蓮仏法」(彼らは「仏法」という言い方を好む)であり、
本来のゴータマの教えに対しては、
わざわざ「釈迦仏教」(本来であれば、仏教とはこれ以外にないにも関わらず)
などという言い方を採ります。
自分たちは最高の経典を信奉しており、
更には、その道の大家としての最高聖者、日蓮の説いた御書などを学ぶので、
それ以外のものを学ぶ必要などはないという自信を持ちます。
小乗として見下すということは、原始経典(根本仏典)は最低レベルの次元という扱いをしているということ。
だから、真摯な姿勢で原始経典を読むということはありません。
学ぶ必要性がないばかりか...殆ど学習禁止レベルといってもいいでしょう。 >『Q ヨガや気功と瞑想の関係は?
> A 基本的にヨガや気功は肉体中心の訓練なんですね。シンプルな動きをしていると肉体の激しい波は落ち着いてくる。それで終わり。
>心の成長というものはないんです。ヨガはそこから魂論を説く。仏教から見ると無知はそのまま。煩悩はそのまま。幻覚はそのままです。
>--略--- ヨーガなどで「魂」にしがみつくことは、億万長者よりも激しい執着です。』
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/09/30/050000
こういうことをいうということは何も分かってない証拠です。
“呼吸を制する者が自己を制する”ということ。呼吸というものが精神やマインドと密接に繋がっているということを知るのがヨーガの
科学です。呼吸を制御すれば自動的に心と精神もそれに伴って制御できるようになっていく。その修錬の果てに自己の「魂との連結」が起
こる。そして、これらはすべて自動的に起こる出来事であって、何か信仰として「魂」の存在を信じるかどうかなどというのは実際には無
関係なのです。だから「しがみつく」などという必要性すらもない。これは単に技法と繰り返し修錬によって自己修得することで起こる科
学的な変化、変性だということ。
精神と魂との連結を可能にするこの変化は当然、肉体上だけの問題などではありません。修錬によってこれを極めたヨーギは仏教でいう
滅尽定の境地に入ります。自己の呼吸も心臓の鼓動すらも自ら停止させて仮死状態をつくる。そして、魂と一体化を果たした者はそれまで
の無知が自動的にすべて消散して、そこに魂の特質であるところの「智恵」を生じさせます。
心を制御できた者が煩悩そのままの筈はあり得ないこと。これらはすべて自己のもとに自動的に現実に起こるものであって、このヨーガ
の科学のことを「幻覚はそのまま」などというのは、自分がただ何も知らない分かってない者(無知)であるということを自ら露呈している
証拠に過ぎない。とにかく、何も分かってないことが外からは丸見えです。かなり恥ずかしいから辞めた方がいいと思う。 >>443
追記:
『実に心が統一(yoga)されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一(yoga)されないならば、豊かな知慧がほろびる。
生ずることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。』(Dhp.20,282)
ゴータマは『ヨーガ・スートラ』成立以前の太古のヨーガを修行したのであって、
その痕跡を古い仏典(ダンマパダ)からも見て取ることができるのです。
よって本来、仏教がヨーガを馬鹿にするなどということは在り得る筈がなく、
それどころか古い時代の仏教徒たちは、ヨーガ修行という意味においては仏教外のバラモン行者たちとも互いに協力し合う親しい関係でした。
現に、ヒンドゥー・ヨーガの聖典である『ヨーガ・スートラ』の成立編纂そのものが、
実は当時の仏教徒たちがこれに加わってて一緒に作り上げたものだということからもそのことが分かります。。
仏教徒たちが『ヨーガ・スートラ』編纂に協力したことはインド学の研究においては、ほぼ常識とされています。
その後、大乗からは特にヨーガ(瑜伽)に特化した仏教の派として瑜伽行派(唯識派)が発生した。
また、チベット仏教においては無上瑜伽タントラといった最高位の修行が実践される。
参考サイト:
(保坂俊司「仏教とヨーガ」)
http://samten.seesaa.net/article/431687714.html ゾンビは存在せずゾンビの為に世界がある訳ではない
ロボットと変わらない存在が出しゃばり生意気になった バグめ 仮にスーザン-ブラックモア氏の言ったような全人類が哲学的ゾンビであったとしても、我等仏教徒には何ら問題は生じない。(笑)
そうした下らない話に拘泥するのは、キリスト病という泥に浸かっていると知れ。(笑)
(^。^)まぁ、俗世自体が汚泥なんだから皆そうなんだけどね。(笑)
ウィキペディア参照
普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは
哲学的ゾンビには
議論の厄介さに対する「苛々する」という
意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものがない
_ _ _
普遍者の一種である
クオリアは
この経験においてあの経験において
何度も認識されるという意味で普遍者ではある
純粋に主観
_ _ _
純粋な主観・普遍者というのは
永遠に変化することのない − プルシャに似てる?
宗教とは
人間の力や自然の力を超えた − クオリア?
人間の力や自然の力を超えた − プルシャ?
人間の力や自然の力を超えた − (光り輝いている)仏性?
たとえば仮に
(根源的な?)クオリアが
「第八識のようなものである」とするなら
「仏道への障害がある − 第七識」を超えている
「大円鏡智のようなものである」とするなら
「縁起している世界」も超えている
もっとも
(根源的な?)クオリアに
頼耶縁起とか
真如縁起とかのようなものがあるのか?わからないけど… https://i.imgur.com/ov1Po0q.jpg
https://i.imgur.com/sig8IvY.jpg
こんなチラシが入ってきたけど4000円だったら奇跡を信じてみてもいいかなとも思ってしまった
ご祈祷料と大差ない金額だしパワーストーンとかだともっと高いのもザラにあるし 【スマナサーラ:宗教と民間信仰。】
宗教はだいたい「魂浄化、罪を悔い改めること、魂の上昇」などを語る。
その方法とは、また物質に依存する事になる。
「人は洗礼を受け生まれ変わらないと天国にいけない」とは有名な話です。
宗教には儀式儀礼がたくさんある。
儀式儀礼には、たくさんの「霊的力がある」品物が必要です。
日本では、真言密教のお寺にはそういう品物がいっぱいある。
バチカン行くと聖者の骨を恭しく祀っている。
何教であっても、そういう代物には事欠かない。
宗教家も皆さんと同じで、霊的グッズ(物)に触れればOKだ!と思っている。
宗教には修行がつきもの。
目的はご利益ではなく死後の永遠の命です。
しかしヒンドゥー教、カトリック教の仕来りの半分以上、現世利益を目指している。
日本の新興宗教と真言密教の修行の主目的は現世利益のように見えます。
修行もモノに依存して、モノに関わるのです。
特別な服、食べ物、霊地巡礼、行など。すべてモノからアクセスする。
民間信仰の場合も状況は同じです。
不幸を招く品物、幸福を招く品物など信じる。
精霊が宿る場所、悪霊が住み着く場所。
風水、方位、色など。
無数の迷信がある。
清めの世界。
インドではガンジス川の沐浴が盛ん。
日本にも水を浴びる行がある。
神社はお祓いの専門所。
塩かけると悪霊が逃げるとか。
お祓いの儀式は物質論なのです。
古代インドのバラモン教では、水と火は昔から清めの洗浄薬として大活躍していました。 >>449
少しだけ言及しておくと、
要するに、これは加持塩にてつくった盛り塩ということかな。
密教寺院では、不動明王に捧げた供物には加持力が備わると考えています。
特に密教僧が日々、御法楽を捧げて供え続けた物であれば確かに力が生じるでしょう。
そして、護摩の炎にかざす御加持をしたものならば、より強力なものになります。
私も従来までの普通の塩(天然荒塩)に飽き足らず、近年は護摩の御加持をした加持塩を使用しています。
ココや仏教関係のスレには>>450のような単純な唯物主義者が多くて、
また原始経典の教えに対する原理主義者紛いなんかもいるので、
特に、「心と宗教」板にはその手の話題に対してまともに取り合ってくれる人は少ないと思う。
「神社仏閣板」ならば、そういう話題で盛り上がってることもあるのでそちらの方が相応しいですよ!
広告の体験にあるような、
「これを持つと何々が起きた..」といった過剰な期待はすべきではないけれども、
中には良いものもあるので自分が価格も含めて気に入ったのならば持ってみるのも良いと思う。
ただ気分が良いだけの縁起物レベルから、実際にパワーを放射している勝れたものもあるのでピンキリです。
本物の能力者ならパワーの有無はほぼ100%選別できます。つまり、たとえ完全に同一の品々であっても、
本物のエネルギーが磁化され放射しているものとそうではないものとを本物の能力者は見分けがつくということ。
『加持(かじ)とは、仏教用語の1つ。元はサンスクリット語のadhisthana(アディシュターナ)の訳語で、他にも所持・護念
などと訳される場合もある。本来の意味は仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生(人々)を守るという鎮加護持(ちんかごじ)
・神変加持(じんべんかじ)を指す。仏の大悲の力が衆生に加えられ、一方衆生の信心が仏に伝わることでその効果を発揮するとさ
れる。』(wikipedia) >>451
---反論---
ゴータマの教説というのは基本的には出家(者)を対象にしたものです。もちろん、在家信者の優婆塞/優婆夷についての教えもあ
りますけれど、しかし、すべてを網羅するような内容ではない。ましてや信仰(心)深くて真摯な姿勢の古代インドの在家信者たちと
現代日本のようなところでの一般人などとは比較にならないものがある。
それからゴータマが説いたものだけが唯一正しいことがらであり、世の中におけるゴータマが説かなかったもののすべてが非真実
ということには決してならない。ゴータマが相対性理論を説かなかったから、相対性理論が間違いとはならない。
ゴータマの説いたこと以外のすべてを認めない姿勢というのは原理主義であり、原理主義というのは一歩、踏み外せばカルト化す
る危険なものです。単に経典や僧侶の話に従うだけで自分の頭で考えることのできない者は、たとえそれが伝統仏教というもので
あっても洗脳と何も変わりがない。
たとえゴータマが説かれなかったものであっても、それが真実であるか不真実であるか、そして、役に立つものか立たないものな
のかを見極める眼を持つべきです。
現象界の存在はすべてエネルギーであり、それは波動として存在する。物質はそれぞれ固有の振動率を以て存在しており、それぞ
れが固有の波動を生じている。それらの波動の中には人間にとって、肉体の健康のために、または精神に対して有益に作用するもの
がある。それらを活用することで、在家生活における間接的な補助とすることは可能だということ。
あくまでも間接的な補助にしか過ぎず、過剰過ぎる期待を持つべきではありませんが、けれども使い方によってはとても有益なも
のとすることができます。
長老は単純にただすべてを迷信扱いにしているようですが、もちろん中には完全なる迷信もあるけれども、しかし、実際に効果的
に作用するものもあるのは事実です。完全否定するのならば、それはその人がただ無知で何も知らない証拠です。 >儀式儀礼には、たくさんの「霊的力がある」品物が必要です。
>日本では、真言密教のお寺にはそういう品物がいっぱいある。
>バチカン行くと聖者の骨を恭しく祀っている。
本物の高いレベルの聖者の肉体やその方の所有物というものはその方の持つ高い波動が磁化しています。だから、それらに接する
ことはこちらの波動を共振して同調させることになるので、その恩恵に預かることができるのです。同じようにしてゴータマの遺骨、
仏舎利信仰というのも理由としてはそういうところからきている。解脱した最高聖者であれば当然、その遺骨や遺物は最高レベルの
波動を放っているからです。師匠である高僧の衣の一部を自分の衣に縫い付けるという伝統なども然り、それだけでお守り的な作用
を期待することができる(その力の強弱はピンキリ)。
祈祷による波動の科学を使えば、ただの何でもない品物でも霊的で高い波動を磁化させることができる。だから、そういう品々が
様々にあるのです(もちろん、その力のレベルはピンキリですが)。密教はそのための効果的な独自の手法を持ちます。なので密教に
おいて修法した品々というのは絶大な奇跡的効果が生じるものがあります。
>宗教家も皆さんと同じで、霊的グッズ(物)に触れればOKだ!と思っている。
>宗教には修行がつきもの。
誰もそうなことはいってないでしょう。「役に立つ」、「援けとなる」という話をしてるだけ。
まっ、確かに一般人は修行はしない。そういう意識ではないから。ただ本当に役立つものならば欲しいと思うだけです。
けれども、それも別に何も悪いことなんかじゃないし、本物で役立つものならば別に大いに利用すればいい。 >しかしヒンドゥー教、カトリック教の仕来りの半分以上、現世利益を目指している。
>日本の新興宗教と真言密教の修行の主目的は現世利益のように見えます。
現世利益は何も悪じゃない。迷信ではない本当に力のある援けとなる現世利益は確かに存在する。
信仰心の大小に関わらず、一般の人々というのは“神仏に関わる現世利益で救われたという体験”を持つとそこに感謝の念を強く
心に抱くようになる。これが何よりも大切だということ。神仏に対して、感謝の念ココロを常に持つようになった人間というのは意識
が変わる。人は自分を援けてくれた神仏に対して御礼がしたいと考えるようになると、当然、その神仏の教えにも耳を傾けてその
御心に適った生き方をするようになるものだからです。
実は現世利益の真の目的というのはそこにあるのであって、現世利益そのものが目的なんかじゃないから。現世利益を単純否定す
る人というのは現世利益のことを何もわかってない人です。
>民間信仰の場合も状況は同じです。
>不幸を招く品物、幸福を招く品物など信じる。
>精霊が宿る場所、悪霊が住み着く場所。
>風水、方位、色など。
>無数の迷信がある。
事実もたくさんある。
全否定する者はそのことを知らないだけの人です。 >清めの世界。
>インドではガンジス川の沐浴が盛ん。
>日本にも水を浴びる行がある。
確かに、ゴータマは“人は沐浴によって清まるわけではない”と説いたけれども、それは日常における行為の正しさの重要性を
教えるためにいったものであって、沐浴そのものを全否定するものではありません。
ゴータマの対機説法の真意が理解できずに、その場だけの言葉に捕らわれている者というのはかならず誤解を起こす。ただ沐浴
すればそれですべてOKではないけれども、その人がどんな意識で以て沐浴に臨むかによっては自分の心を清めることに大きな効果
がある。すべては行う当人の意図と意識しだいです。何でも役に立たせることもできるし、逆に無意味なものにもなる。
>お祓いの儀式は物質論なのです。
人間の精神に良くない作用を及ぼす波動というものはある。
波動は現象界の作用だから、そりゃ〜物質現象界の出来事に決まってる。
我々、普通の人間というものは実に様々な良き波動や悪い波動の中に曝されながらその影響下で生きている。
悪しき波動の影響を受けることのなくなった者というのはすでに高いレベルにいる者です。
だから、それらに対する知識を以て有効に活用する者は賢い。
ただ長老が理解できてないだけのこと。 >>452
単純だからこそ騙されずに
真理を見抜くでごたる。
無駄に語るは詐欺師の常と
言うべし。 ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*) >>453-454
悟りへの第一歩、「無」の体験 [スマナサーラ]
「ヴィパッサナー瞑想」をすると、悟りの境地へ行けると言いましたが、では、悟りとはいったい何でしょうか? それをわかりやすく説明してみます。
悟りを理解する上では、「ものごとは実体としては存在しない。すべてのものは波動である」ということが、大きなポイントとなります。
ものごとは、実際には「もの」ではありません。
(略)
ものごとの波動は生滅(しょうめつ)という言葉で理解します。また、「有(う)」と「無(む)」という言葉で理解してもよいです。
現象は「有」の状態にいるときは認識します。
(略)
ものは「有る」けれど、魂はやっぱり「有る」けれど、神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。
仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。
それが大乗仏教では、法身(ほっしん)という概念が出てきて、大宇宙を支配している法身如来、大日如来がいると言ったりしています。
そこまで「有(う)」論は発展しました。
初期仏教の、世界は「有(う)」と「無(む)」からできているというポイントからみれば、それは正しいとは言えません。
とかく人間は「有(う)」論しか語れません。「有(う)」論しか考えることができません。
実際、「有る」ことは「有る」のです。
でも、ものには「有る」だけではなくて、「無い」状態もあるのです。 >>459続き
瞑想していると、音は波であることが身にしみてわかります。
生滅(しょうめつ)、生滅(しょうめつ)しています。自分の身体も瞬間、瞬間、生滅(しょうめつ)していることがよくみえてきます。
〜
ずーっと瞑想を続けていくと、認識が変わってきます。
ここに音があれば、それはいつでも「有る」と「無い」とであることがわかります。耳があれば、やはり「有る」と「無い」状態があるとわかります。
(略)
妄想がほとんど消えている人は、これに気づくのです。初めて「無(む)」の存在も知るのです。初めて現象の「滅(めつ)」に気づくのです。
これこそが革命的な発見です。
今まであった実体論、魂論、自我意識…、それらが
「ただの勘違いでした」
「幻覚でした」
と瞬時にわかります。
http://100ken-1bun.blogspot.jp/2015/11/blog-post_12.html?m=1 >>459-460
(このわたしからみれば)
すべて“分かりきった話”です。
別に異論も反論もない。
ただし、
我々というものはそれらについて話としては分かっていても、
それでもこの肉体を如何にすれば健やかに維持できるか...
そして、衣服も適度に購入して買い換えなければならないし、
明日の会議の発表に向けてディスクにも座らなければならない。
会社や家族、友人や親族との交わりもある。
だから、仏教理論の「有」「無」について理解しつつも、
それでも今、こうして歯も磨かなければならない。
その時にはどの歯磨き粉が良いかも(価格と効果と好みに応じて)選択しなければならない...。
だから、
これらすべてにおいてもバランス良く対処することが賢い。
そういうこと。 >>459
あっ、やっぱり、
取りあえずこの一点だけは否定しておくから。
>神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。
>仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。
>それが大乗仏教では、法身(ほっしん)という概念が出てきて、大宇宙を支配している法身如来、大日如来がいると言ったりしています。
>そこまで「有(う)」論は発展しました。
>初期仏教の、世界は「有(う)」と「無(む)」からできているというポイントからみれば、それは正しいとは言えません。
長老はわかってないが、
万物の創造神は実在していることについてはゴータマはハッキリと是認しました
(『パーリ中部サンガーラヴァ経』>>257参照のこと)。
大乗如来蔵〜密教というのは結果的にそこに帰結してきたということ。
分かってない人たちへ
以上。 勘違いされては困るので、
やっぱり、もう一つ言っておきます。
>ものは「有る」けれど、魂はやっぱり「有る」けれど、神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。
>仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。
(アートマンではなく)「魂」も確かに非実在だけれども、
しかし、仮和合の自己における究極的存在としてはこの肉体同様にして「有る」。
ゴータマは輪廻主体が何であるかについて(魂について)は明確に説きました。
(『DN 15, Maha^nida^nasuttanta』/『増一阿含経・三宝品』など>>250参照のこと)
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