外道の独り言 8
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1491547539
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>259
訂正:
×「無我を「アートマンではない」などという間違った解釈をしたのは部派仏教であって、」
○「無我を「アートマンはない」などという間違った解釈をしたのは部派仏教であって、」 >>262
色々お詳しいですね
仏教においてコレだけを読んでおけば大体のことは理解できるっていう書物ってありますか? スマナサーラ長老の仏教法話
>ですから「我」説と悪の存在は両立できません。
>(汚れない魂があるなら、)人は罪を犯してもいい事になる。
>絶対的な我があるなら、悪を犯しても善を行っても、我に与える影響がない。
>無常だから(無我)、道徳が成り立つ。つねに改良しないといけなくなる。
http://twilog.org/jtba_talk/month-1106
これはバラモン教ーヒンドゥー教よりもむしろ、六師外道の一人、道徳否定論者のプーラナ・カッサパの思想そのものかな?
プーラナ・カッサパ
>その哲学上の立場をアキリヤヴァーダ akiriyavâda (非業論)と称する。
>人には永遠の魂があり、たとえ人が死んでも魂がなくなることはない、
>したがって、行為自体は魂に影響を与えず、
>どのような行為をとってしまってとしても魂は永久に存在し続けることを、道徳無用論のかたちで主張した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%91
六師外道についてはスマナサーラ長老も詳しく解説してたはずと思って調べたらあった
沙門果経への解説の中に
http://www.j-theravada.net/explain/index.html 【悲報】仏教僧は、他教徒よりも「死を恐れ、自己中」だと研究で判明! 僧侶のイメージ完全崩壊… 全宗教で断トツの俗物
http://tocana.jp/2018/03/post_16177_entry.html 261.
悟りの心理学である。
宗教は心理学ではないよ。 >>262
・田上 太秀(著)『図解 ブッダの教え』歴史がおもしろいシリーズ Kindle版/西東社
・水野 弘元(著)『仏教要語の基礎知識』春秋社刊
今は、様々に分かり易い良い書籍が出てるので自分でアレコレ手に取ってみるといいです。
ただし、“超訳ブッダ”とかの仏典訳書はダメです。あれでは変質し過ぎていて意味が正しく伝わらないから。
私からは、入門書として強くお薦めできるのは田上氏のこの本です。
一つ一つについてはさすがに深い処までは掘り下げていませんが、
しかし、仏教の教えについての殆どすべての事柄について丁寧に網羅してある。
そして、深く調べるためのヒントも提供してくれている。まさに持ち歩き向きのミニ辞典といった感じ。
それから、内容はかなり難しいですけれど、仏教を学ぶならば絶対的に必読必携すべき辞書としてお薦めしたいのが、
水野『---要語』です。とりあえずは、この二冊かな。
それと、
「無我」の正しい意味は「我ではない(非我)」ということであり、
決して、「我はない(我がない)」という意味ではないことについては、
最近の書籍を開いても、あまり明確には触れられてはいないと思います(石飛氏くらいかな)。
何故ならば、著名な仏教学者の多くがいずれかの宗門に属している僧侶でもあるからです。
つまり、それがどんなに素晴らしい研究であり、真実であろうとも決してしてはならないのが、
宗門の教えに反する内容や宗門の権威を傷つけるような内容を書くことなのです。
これをすると、最悪の場合には破門されて除籍となります。
つまり、どうしても書きたいのであれば門外漢の部外者として勝手にやれ!ということ。
だから、差し障りない程度のものしか書けないのです。
また、基本的にはすべての僧侶が、「我は無い」と教わっているので、
それはダライラマも例外ではなりませんが、けれどもこの方は実に頭がイイです。キレキレ!!
なので、法王猊下の書籍はとても良いと思います。 >>264
すでに>>259にも述べたように、
魂そのものは清浄であるから何をしてもいい、悪事を働いてもいいということにはならない。
魂自体が清浄のままであってもその周囲には煩悩の汚れが纏わりつき、
悪しき行為による業作用を受けて魂が留まる環境が悪化するから。
魂が清浄なのに、それは何故? などと言われても困るのであって、「だから、そうなっているからそうなんだ」としか言いようはない。
何故、魂は在る? 何故、それは最初から清浄なのか? といったものはそもそも愚問だということ。
地球があるのは何故か? 空気は何故、見えないのか? 見えたら、どうしてダメなのか? といった愚問と同じです。
もしも、それが科学だったならば無意味ではないでしょうが...。
「そんなことは分かり得ないし、もしも分かったところでどうなる?」(毒矢の譬え)というのが仏教の採る姿勢だから。
そして、現実問題としては、煩悩という汚れを取り去って悪しき業を積まないようにしなければ、
結果的に苦しみを受け続けるのは自分自身(魂ではないが)なのだということ。
この本来、清浄そのものの真実の自己に目覚めるためには修行が必要なのです。
一度、すべての汚れが取り払われて本来の自己に目覚めたならば、二度とその状態が失われることはない。
>魂は永久に存在し続けることを
それから、
勘違い者があまりにも多いので少しだけ細かな話をしておくと、
「魂」(ジーヴァ)というのは永久不滅ではないから。
これは転生のための主体であり、要するに転生が止めばその役目を終えて消滅するもの。
正確には、元々の本体であるところの真我(アートマン)へと吸収されて消滅する。
それが完全解脱の本当の意味。
まっ、仏教圏にはそのことを知る術はないでしょう。
そもそも仏教はそういったメカニズム的なものや理論値を解説するような教えの性質ではない。
だから、経典にも書かれていないし、歴代の僧侶たちもそのことを分からない。 レス番ミス
>>267は、>>263宛てのレスです。 268.
完全解脱、か。
転生、か。
バカ丸出しであるよ。
そんなものは存在しないよ。
迷信である。 >>265
>仏教僧は、他教徒よりも「死を恐れ、自己中」だと研究で判明!
うん、これぞまさに道の人の理想形w
仏教僧の鏡だねwww 末尾のまとめは、よくできてるじゃないかw >>265
(見出しは煽る気満満としか思えないがw)
>研究チームは、30人の仏教学者に仏教の教義に照らして最適な回答を聞いて 『 >仏教学者に 』
>実験に参加した修行僧の瞑想レベルを考慮していない
>ここから反照的に明らかにされることは、「仏教僧は無我で利他的な聖人君子」という極めて東洋趣味的なイメージを持つアメリカ人研究者 >末尾のまとめは、よくできてるじゃないかw >>265
>(見出しは煽る気満満としか思えないがw)
そだねーーーww
見出しで煽って読ませる作戦ww 鏡には虚像が写るっつー、猿でも知ってる常識を教えられて喜ぶ悪魔の図。(笑)
(^。^)面白いよ、うん。(笑) なんだ? 珍しく承狂がきてるじゃないかw
せっかく来たんだw 宝珠に密教について教えてもらいなさい。
最近、彼は頑張ってるからww >279
密教は師子相承の法ですので、資格のない人に教えてもらえと奨めるのもアウト。(笑)
(^。^)良かったな、故郷に帰れるぞ?(笑) 主治医と話をして
反応から妊娠は嘘
だと感じてるけど
ね… 「梵天勧請」は釈迦が,自己中心的人物から,他者の利益のために行動する人間へと変貌した状況を伝説化して表したものだ。
その,「他者の利益を思う心」を慈悲と呼ぶ。
(佐々木閑)
http://d.hatena.ne.jp/ribom-maru/touch/20101226/1293347456
>資格のない人に教えてもらえと奨めるのもアウト
灌頂を受けていない者に灌頂の大事を明かしたり
非器(器量・資格のない者)に灌頂や聖教
口訣(くけつ、口伝のこと)・真言陀羅尼を授けたり
阿闍梨より印可を得ずして聖教
口訣・真言陀羅尼を唱えたり
印契を結んだり梵字を書いたりする
これらの非法行為
越法罪?
おじゃるにも
ヒンドゥー
瑜伽行
密教とかも
ご教示願います
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
仏法を聞くにあたって、どのような動機を持てばよいのでしょう
まず空のように無限に存在する衆生たちは
自分の前世で一度は父であり、母であったことがあると想起します
彼らは私の両親であったとき、私のためにあまたの苦労をしのび、私を養うために悪業をなし
その結果、八熱地獄や八寒地獄に落ちて暑さ寒さの苦しみや
あるいは餓鬼の世界に落ちて、飢えや渇きの苦しみを味わっています
動物に生まれたなら、無知におかされているゆえに、人に使役される苦しみを味わいます
六道輪廻の中の…
_ _ _
そういえば承狂師匠も輪廻否定派でつね。失礼いたしました スマソ m(_ _)m >283
密教は先に書いたように師匠から弟子に相対して伝える秘密の教えだから、ネットじゃあ無理ですよ。
多分イメージ的には呪文を唱えれば何か起こるみたいなアニメチックな想像をしてるんでしょうが、(笑)
サンポウに帰依して所定の所作をこなして、漸くスタートラインですからね。
顕教の何処か好きなところの方が在家向きだと思いますよ。
ちなみに、俺は「輪廻」を否定なんかしてませんよ。(笑)
漫画みたいな「輪廻転生」を否定しているだけ。(笑)
サンサーラが嘘っぱちだなんてダンケンハでも言わんだろうし、俺は昔はオガミヤ手伝ってた男だからね。(笑)
神々も生き霊も死霊もアヤカシも全肯定ですから。(笑)
(^。^)例えばダライ・ラマの魂が輪廻転生して肉体から肉体に寄生して回ってる、なんてバカな与太話を否定しているだけ。(笑)
(外部ハードディスクが壊れたのでトリップが、わからなくなってしもた)
承狂師匠へ
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
>呪文を唱えれば何か起こるみたいなアニメチックな想像をしてる
おじゃるの場合は
アニメチックな
呪文を唱えれば何か起こる
肯定派でつ
(面白いので…)
大日如来からの真如縁起をもって
大日如来が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 大日如来の大悲・大智を受け入れる
>ダライ・ラマの魂が輪廻転生して…
そうでつか
それは残念でつ
チベット ニンマ派とかの
布教活動でもしようと思ったのでつが…
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html >>270
“超常”が迷信などではなくて、古くて間違った概念こそが迷信。
私は親切で優しいから繰り返しいっておくよ!
「バカ」はお・ま・え・だ!!!
>>265
コレは、まさに衝撃的な話。
私も、そのことを当たり前として日々、
厳しい修行に明け暮れる彼らにとっては平然としたものだろうと思っていたが...。
自分らで勝手に、「無我だから何も無くなる」などといっておきながら、
その日が来るのを強く恐れているとな...なるほどね。
尚、神智学によれば、
アルハットの第四段階イニシエーションにおいては、
自己の魂すらも失う究極の恐怖(場合によってはイエスのように肉体死も含める)を味わい
これを克服した者だけが成就できるという。 >>282
はい.正論。
すべてはブッダ自身の心の葛藤のこと。
ブッダに葛藤?とピンとこない人も多いとは思いますが、
それはもちろん我々のレベルを超えたところの心の葛藤だということ。
当然、「梵天」が人格神として現れて嘆願したなどというのは後代の作り話です(「悪魔」の誘惑も同様の神格化)です。
こうした手法を用いてバラモン・ヒンドゥー教を仏教の下位へと位置付けていきます。
>>279-280
普通に良識内において私に分かる範囲内では大いに語ります。
“地獄行き”などという馬鹿げた迷信(越法罪)をこの私は信じていません。
尚、伝授する資格はないので特定部分の事相の内容 (灌頂無しでは身につけられない事柄)にbツいては口外しbワせん。
試рフ護身法を見bス僧侶から最近bスった一度だけ=A
「それbヘ僧侶だけしか麹sじてはならなb「ことを知らなb「のか?」といわれたことがあります。
私は、「自分は地獄行きを覚悟でしてるから」といい放つと、「いやいやそれは〜!!(汗)」といって慌てていましたねw
あっ、昨日さっそく『空海 -KU-KAI- 美しき王妃の謎』行ってきました。
150億の巨費と東京ドーム8個分のセットで造られただけあって映像がとても美しくて壮大。
開始前トイレ必須の約二時間半もの大娯楽なのでした。評価については語らず(笑)
http://ku-kai-movie.jp/
私が好きなのは、北大路欣也さまの『空海』。
https://www.youtube.com/watch?v=V7xvJsCGEkU >>203
消化不良を少しでもなくすべく、こちらからコメントいきます。
正直、仏教的には考えても仕方のない愚問の類なのですが、
けれども、長老によるヒンドゥー教の不備についての指摘だということなので、
仕方ないのでそれに付き合います。
長老の説明はこういうことです。
ヒンドゥー教の説く人間が輪廻転生する原因としては、
@真我が旅をさせる(大本の神様に「お前、出ていけ」と追い出されたということ)
A個我が自分で旅をする(「何の変化もなくて、つまらない」と思って真我から離れて輪廻転生することになった)
の二つがあるけれども、こうしたヒンドゥー教の考え方は論理矛盾している。
簡単に言ってしまえば、梵我一如から現象世界へと出た後に、再び梵我一如に戻っても、それはただ振り出しに戻っただけ。
永久不滅で変化しない神が心変わりするわけはないから、また、再び追い出されることになる。
つまり、同じことをただ繰り返すだけに過ぎない、と。 ここで長老はヒンドゥー教における肝心要な部分をまったく忘れてると思う...。長老のこの指摘というのは、あくまでも「神」対「個我」
(輪廻主体)という二極の単なる「二元論」になってしまっているということ。ハッキリいって、こういった二元論というのは、「神と人間」、
「光と闇」、「善と悪」などといった、確かにあらゆる宗教の持つ低レベルな神学部分です。しかしながら、ヒンドゥー教の神髄というのはそ
うではなくて、実は「一元論」(アドヴァイタ一元論)にこそ本当の真骨頂があるのだということを絶対に無視してはならないのです。
一元論(分離しない)だということは、つまり、これは神に追い出されたのでも個我が勝手に出ていったものでもなくて、「神」自らが己れの
意志で現象界へと下っていって転生しているということを意味します。 一般的に神を全知全能だとするのは、これは人間を尺度とした場合の相対的な話なのであって、けれども、本当のところ神というものは、実
は完全無欠などではないのだということを知っておく必要があります。完全無欠で全知全能というのは進歩のない停滞を意味しますが、それは
在り得ないこと。神とて実は、成長を続け進化しつつある意識存在であり、その神が御自身の更なる発展と進化を求めつつ、自らが波動を下げ
て物質を創造してその中へと自らが下って行った...。何故ならば、“無限的な世界”においては進化の度合いを計る尺度が持てないからであり、
敢えて“有限的な世界”である物質界を生じさせることで初めて、己れ自身の進化の度合いを計る尺度が持てるからです。輪廻転生する神の姿
とは実に物質(有限性)を体験している状態のことをいい、これを繰り返すことで経験を獲得しているということ。経験ということは、つまり、
進歩を得られることを意味するから。であるから、振り出しに戻るということは絶対にないのであって、神は物質を経験することで絶えず進化
を続けているのです。要するに我々、人間というのは神御自身が進化のために経験を積んでいる姿だということになり、一人一人の人間が苦悩
を味わいながら解脱して、転生を止むまでに獲得した経験値データのすべてが本源である神へと還元されるのです。これ以上、何故を続けること
は意味の無い愚問でしかない。
であるから、「我々の本質は神そのもの、その偉大な力が眠っている。そのことに勇気を得て如何なる困難と苦しみにも耐えてゆこう。」仏教
的には、「自分の奥底に潜在する仏性により、いつ日か必ず解脱成仏できることを信じて、決して諦めることなく努力精進していこう!」と。 >『神の機嫌が変わったらどうなるでしょうか? 怒るわ、嫉妬するわ、大量に殺すわ、そんなやりたい放題の気まぐれな神が、
>「ずっと君は天国でよろしい」ということがあるでしょうか? 天国ごと壊さないという保証もないでしょう。』
キリスト教などについては、これは良い指摘です。まっ、ヒンドゥー教の神話体系もこんなものです。
こういうアプローチのことを「人格神」といいます。これはレベルの低い者の理解に応じるために神そのものを大衆レベルに合わせたものです。
つまり、大衆というものは、神を自分たちのお父さんやお母さんのような存在に置き換えないと理解できないからです。
けれども本当のところは違う。神の本質というのはこのような類の人格神などではないから。
人格神を描いた話のすべてはただの神話にしか過ぎない。
>『説一切有部は〜』
「(それらは)我ではない」というゴータマ・ブッダ本来の無我を、
勝手に「我は無い(我が無い)」へと変質させたのも、一部ではあなた方の嫌いな彼ら説一切有部だったとも言われています。
>『哲学的な大乗仏教は、「--略--本来すべて空だ。何もないのだ」と考えて、
>ブッダの説いた教え、解脱まで「空」にして否定します。ブッダの教えを骨抜きにするのですよ。
これについてもナイスな指摘です。
正確には、「何も無い」のではなくて「実体がない」と。実体がないものには「価値がない」ということです。
そうやって、実際にはゴータマの教えそのものまで無価値にしてるということすらも自分たちで分かってない人たちです。
大乗、彼らの根本的な間違いは、部派仏教の間違いを真に受けて「無為」までも空にしてるからです。
「如来も空」、「涅槃も空」などというのは馬鹿のやることです。仏教の説く“一切は空(一切行空) ”には元々、無為は入らないから。
ゴータマは明言を避けたけれども、古代インドの宗教における正しい伝統では、永久不滅のもの(アートマン)だけが唯一なる実体だと説く。
仏教の立場では不生不滅の無為であるニルヴァーナを説き、アートマンについては無記(「無い」ではなくて説かず)でした。 >『大乗仏教には「阿頼耶識」という思想もあります。--略--「認識不可能なものをどやって発見、認識したのだろうか?」
>という疑問が湧きますね。当たり前ですが、そんなことは実証できません。完全なる妄想、たんなる観念です。 』
すでに述べた通り、
ゴータマの説かれた母胎に宿って転生の主体となる五蘊の「識」を大乗が阿頼耶識として細分化して説いたといいました。
要するに、これは現象界においては認識不可であるアートマンのことではなくて、
修行段階における高い境地において誰しもが認識できる存在であるということ。
そのことがアートマンと誤認してるパーリ『梵網経』の中のバラモン聖者たちなのです。
唯識派を体系化したサンガとヴァスバンドゥほどの進化レベルであれば、
同様にして阿頼耶識の存在を知覚できていてもまったくおかしくはないでしょう。
まったく認識してないのであれば、長老がまだそこまでいってないだけの話です。 >『「魂があるかどうか」こそ問われるべきでしょう。「永遠なる天国があるかどうか」こそ問われるべきでしょう。
>それをすっ飛ばして「○○がある」ことにしてしまうのは、どうしてですか? 誰も彼もが観念的だから、こんな失敗を犯すのです。』
お気持ちは分かりますが、
ゴータマは、「魂」については「識」として説かれました。“永遠なる境地”は「ニルヴァーナ(涅槃)である」と説かれました。
アートマンについては“真実の自己”を、“本来の清浄なる自己”(大乗の説く「自性清浄心」)を探し求めよという言い方をしました。
長老が無知なだけです。
>『このようにしてブッダは「現象が現れて消えてゆくシステム」を発見しました。
>「こうやって現れて、こうやって消えていくのだ」と。そのシステムを「因縁」というのです。』
ゴータマの“縁起の法”とほぼ同様の内容はウパニシャッドのヴェーダーンタ哲学として説かれています。
現象界の諸々の事象はすべて実体のない無自性空ということになる。ヴェーダーンタではこれをマーヤー(幻影)と呼びました。
唯一の違いは、その原理作用の根源に神を説くことです。仏教では愚論の類になるので無記だとなる。
また勘違いを起こすといけないのでいいますが、それは神がいないからではなくて(神は実在することをゴータマは説きました)、
ただ単に、ゴータマの採った方法論の中では神を取り上げる必要性などはないからです。
以上. >>287 文字化けにて修正し再掲載
>>279-280
普通に良識内において私に分かる範囲内では大いに語ります。
“地獄行き”などという馬鹿げた迷信(越法罪)をこの私は信じていません。
尚、伝授する資格はないので特定部分の事相の内容 (灌頂無しでは身につけられない事柄)については口外しません。
私の行じる護身法を見ていた真言僧から最近たった一度だけ、
「護身法は僧侶だけしか行ってはならないことを知らなのか?」といわれたことがあります。
私は、「自分は地獄行きを覚悟でしてるからいいのです」といい放つと、
「いやいや.それは〜!!(汗)」といって慌てていましたw >>292
訂正:
×「唯識派を体系化したサンガとヴァスバンドゥ」
○「唯識派を体系化したアサンガとヴァスバンドゥ」 >>286
記事のまとめ読んでないのか?w 読まずに勝手な推論は在家だけにしとけ。
あ、彼の場合は、読んでおいて意図的に斜め上へ向かってたかw
あのまとめ部分が理解できないとしたら、
やっぱりお花畑の住人だったってことだ。 >>298
エッ、何が??
それは、
「自分が利己的だと自覚している分、その感覚にさっぱり鈍感な欺瞞的人物よりもどれだけ素晴らしいことか」ってこと?
他教徒よりも利己的ではないかという結果が正直でいいことだと??
まっ、瞑想修行の熟達レベルが考慮されてないのはデータ的には大きな不備だとは認めるけれど・・・。
では、もしも仮に瞑想の初学者ばかりが対象だったととした場合は、
その正直さが他教徒よりも評価に値するとみていいと? >>299
その考え方は、
前科者は二度と社会へ出るべきでない、という考え方と相似した
絶対的無謬性の希求だよ。
或は、「絶対的超人ブッダ 」の希求(≒「人間釈尊」の排除)とも似てるか・・・w 「仏教僧は、他教徒よりも「死を恐れ、自己中」だと研究で判明! 僧侶のイメージ完全崩壊… 全宗教で断トツの俗物 」
「死を恐れ、自己中」だから仏教僧になったんだな^^
そのうち修行してけば涅槃の境地に到るだろう^^ 生死のわずらいは煩悩なり。
煩悩なきがゆえに菩提もなし。
煩悩もなく生死もなければ、何をか衆生と名づくべき。
衆生のさとりたるを諸仏という、本より衆生にあらざるゆえに、いまさとりて、
諸仏というべき事もなし。
されば悟という事は、かくのごとく人々の、本より迷わずして、ただ本のすがたなることを
たしかに見つくるをいうなり。 一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、
此(この)五蘊の色心に迷ひ、ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。 >>300
いやいや、そうでいなくて、
“絶対的超人ブッダ” の希求こそが信仰上の健全な伝統仏教の姿でしょうが。
それとは異なる対照的なものとして、神格化や迷信だとしてそれらの超常部分をすべて排除しようというのが
学問上の人間釈尊(ただの哲人の一人に過ぎない)という考え方でしょう。
記事の対象となった彼らというのは、上座部の僧侶でしょうよ! >>306
神通力があっても「人間」なの。 ブッダは。
それを、まるで人間ではないかの如く扱う君らが異常だと言ってるだけw まさに君がそこで言った 「人間でないブッダ」 こそ、君が嫌う大乗的ブッダ(如来)なわけだが?
って、この指摘も何年も前にしたな・・・w
自分たちが批判する大乗的なブッダ観を、実は自分たちが一番有しているというギャグw >>286>>299
追記:
“恐怖に打ち勝つ”ことは宗教にとっての必須課題であって、
いずれの宗教においても、正しい信仰者には“死後の安楽”が与えられるものと説くことで
死を迎える当人は安らかに旅立つことができることになっている。
仏教の場合は人は死んでから僧侶が呼ばれるが、
クリスチャンの場合は臨終を迎えるに当たってまだ意識のある内に
聖職者 (カトリックの神父、プロテスタントでは牧師)を呼んで共に“臨終の祈り”を神に祈りを捧げることが重要であり、
「終油の秘蹟」や「聖体拝領」(聖餐式)といった儀式を執り行ってもらいます。
こうすることで生前の罪意識から解放され、安らかな気持ちで死を迎えることができる。
また、とある浄土系僧侶によれば、本来は自分たちも死をめとるために病院に行くべきであると考えているが、
現実には病院への僧侶の出入りは不吉で縁起が悪いものとされてタブーとなっているのだという。
ゴータマの出家も死の恐怖を克服することだったとも言われているけれども、
すべての苦悩から解放される筈の仏教の教えが、逆に死の恐怖を増長しているとしたのならば本末転倒ということになる。
そのこと一つとってみても、誤った無我論による悲劇が垣間見て取れるのではないか。 >>307-308
そんなものはただの言葉のニュアンスの問題ですよ。
当たり前の話なのですが、
ブッダは偉大な神通を発揮する人間であり、
通常の人間の意識を遥かに超えた超絶意識を持つ人であるからこそ驚異だということ。
そして、ブッダは神そのものなどではなくて、
“我々と同様の人間”でありながらも自らの努力によってその境地へと到達したということ。
だからこそ人類史上、最大の称賛に値するのです。
ブッダはその意識の高みから、人類が苦悩から解放されるための具体的な道を示したのです。 >ブッダは偉大な神通を発揮する人間であり、 ・・・・・・・
wwwwwwwwwwww
いや、その時点でもう「人間」じゃねえしww >>310
×「“恐怖に打ち勝つ”ことは」
○「“死の恐怖に打ち勝つ”ことは」 >>313
もしも、そういう言い方が良いのであれば、
では、諸仏諸菩薩は人間の姿をしているがすでに人間ではない、と。
ただし、我々もその諸仏諸菩薩になることができる。 >ただし、我々もその諸仏諸菩薩になることができる。
そう、我々、人間は、仏、菩薩になれる・・・というのが仏教の大前提w
そもそもが、ブッダになることこそが仏教の目的だしw
ただし、ここでまちがえちゃいけないのが、ブッダになる ということは
あくまでもその「境地」・・即ち心的状態のことであって、人間にはない「ちょうのうりょく」
を得ることではないww ・・・・仏教的には「神通」というか?w
あくまでも「寂静」なる境地に達することであり、空を飛びまわったり、何万年も生きたりすることではないw
であるからこそ、人間にもブッダになる可能性があるわけで、空を飛びまわりたいんなら、
何万年、仏教修行しても無理w
それよりもスズメにでも弟子入りした方がよいwww >>311
仏陀は化城。
偉大なる悟りが陳腐な方便に見えなきゃ、
宇宙の標準レベルの真理を学べないよ。 眼蔵なし、のバカが象、仏、をさわっているいることになる。
その答えは珍妙なものとなるよ。 310.
恐怖に打ち勝つ、か。
それは心理学である。
心理学をやっている、のがバカ宝珠であるよ。 >>316
>ただし、ここでまちがえちゃいけないのが、ブッダになる ということは
>あくまでもその「境地」・・即ち心的状態のことであって、人間にはない「ちょうのうりょく」
>を得ることではないww ・・・・仏教的には「神通」というか?w
もちろん、目的ではないけれども修行過程において段階的に付随して身に付くもの。
だから単なる神通目的の徒などは、ゴータマは門前払いなんだ。
急に、そんなものはないとすっ呆ける。
>空を飛びまわりたいんなら、
>何万年、仏教修行しても無理w
>それよりもスズメにでも弟子入りした方がよいwww
いやいや.ホントに呆れる。
全然、真逆ですから。
究極のゴールである意識境のニルヴァーナこそが当然、最も困難であり、一番最後にやっと到達するもの。
神通はその過程の段階にて身に付いてくるものであって、ミラレパの空中飛行などはその典型例でしょう。
イニシエートの進化段階3.5、不還向/阿那含レベル。
>>319
心理学か、ホント笑わせる...
確かに、催眠術でも掛ければ恐怖から解放できるなw 空海が真言密教をひろめようとしていたところ、天皇からの誘いで宮中での議論の席に呼ばれた。
しかし空海の行法は他の門徒の教えと異なり、又複雑であったため、だれも理解できず、空海を批判する声もあがった。
そこで空海は大日如来の印を結ぶと、空海の身体は金色の光を放ち、ついにはそこに大日如来が現れたとされる。
天皇はあわてて玉座から離れてひれ伏し、他宗の門徒も拝み拝したとされる。
https://www1.atwiki.jp/occultfantasy/pages/866.amp
ttp://tocana.jp/2018/03/post_16177_entry_3.html
【悲報】仏教僧は、他教徒よりも「死を恐れ、自己中」だと研究で判明
僧侶のイメージ完全崩壊… 全宗教で断トツの俗物
…
慈悲深いから解脱したのではない
_ _ _
ここのところは勘違いしてる人も、いるかもしれない
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものに
仏の
智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
観神足
(仏の)智慧と慈悲をもって → 無明している世界を観照する
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
仏の世界から → (利己的が依存している)無明している世界を観照する
無明している世界に依存しているのなら
『利他的な精神も最低だった!』ということになるのかもしれない
(おじゃるは無明に依存してるので『利他的な精神も最低!』で おじゃる m(_ _)m )
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
…無の世界も超えて
仏の
智慧と慈悲をもって
(移り行く世界の様を)ありのまま見つめている
_ _ _
仮設としての
無明している世界の中で
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性
無明に依存して
「利他的な精神も最低だ!」と掴もうとしている想いも現れるかもしれない
有覆無記の我癡・我見・我慢・我愛に依存して
「利己的な想い!」も現れるかもしれない 324.
利己的な想いが現れる、か。
そんな想いが現れるか否かは問題ではないよ。
それは心理学の問題である。
心理学をやっている、のがバカおじゃる、、であるよ。 自性清浄(プラクリティ プラバースワラー)
尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。
大乗仏教はすべてこれを承認する。
ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。
また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
高野山の大僧正、松長有慶氏によると、このプラバースワラー(清浄)は空のことであり、
どんどん一切のものを否定して行って最後の最後に否定しきれずに残る”光輝くもの”を意味する。
これを鵜呑みにすれば
清浄=空=光り輝くもの
大智度論では空即涅槃と説く(般若経では空即是涅槃)。
おそらくは松永氏の説を借りて
涅槃=如来像=清浄=空=光り輝くもの
とすれば分かりやすい。
真に大智度論にそうと、自性がない空は取ることができないが、取ることができないという相が涅槃である、とされる。
しかし、そこから進んで、空は無自性であるから分別がなく平等の相があるので涅槃である、というのが実際のところではないか? 326.
他人の説を消化していない。
何を言いたいのか、が不明である。 >>327
失礼しました
>>326は大乗仏教の空即涅槃について
>心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない
↓おじゃるは、説一切有部のことも、わからないけど、とりあえず
パーリ増支部に
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」
ということであるらしい
その当時のことは、わからないけど、とりあえず
今、現状の上座部の場合は
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものに
仏の
智慧と慈悲をもって
悟りの光が現れますように
大乗のものとは意味が違うのかもしれないけど
上座部にも
仏性からの真如縁起のような側面もあるのかもしれない
観神足
智慧をもって → 思惟観察して…
↓
(仏の)智慧と慈悲をもって → 無明している世界を観照する
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照する 比丘たちよ、この心は光浄である(pabhassara)。そして実にそれは客なる諸随煩悩によって染汚されている。
無聞の異生はそれを如実には知らない。したがって、無聞の異生には心の修習がない、と私は言う。
比丘たちよ、この心は光浄である。そして実にそれは客なる諸随煩悩から解脱している。
有聞の聖弟子はそれを如実に知っている。したがって、有聞の聖弟子には心の修習がある、と私は言う。
(AN. I, p.10, ll. 11-18. cf. ibid. p.10, ll. 5-8)
ここには心性の「性」(pakati/prakr・ti)は説かれていないが、「客」(a_gantuka)という語の存在によって「本性として」の意が加わっていることが示される、というのが学者の考えである。
しかしながら、この文章の直前には心の浄と染とをとを表わす二つの状態が対比的に長々と述べられており、心がいかに変化しやすく不安定であるかということに注意が促されている。
すなわち、「心光浄」の一文は前後の脈絡と関係なく現われ、この部分だけが全く浮きあがっているのである。
さらに漢訳に相当部分が欠けていることも重要であり、この一文は後世の付加であろうという疑問が生じる。
http://fallibilism.web.fc2.com/051.html
> 二つの状態
光浄(涅槃)は無為法なので『変化ではない』
仮設としての
無明している世界は
有為法なので
縁起に依存して『心の働きが変化している』
(阿頼耶識も、激流のごとく活動している『暴流の如し』)
心の働きは変化しやすく不安定なので
(無明に依存して)
我を主体としている、おじゃるには
呼吸の観察ができない(只管打坐もできない)
− これを対処するために −
(「変化している心の働き」ではない)
仏(無為法)の世界から → 縁起している世界を観照せよ
という導きで おじゃる
(おじゃるの場合は『仏の世界から観照する』ということもできないけど…)
道元 普勧坐禅儀
仏法というものは…塵や汚れから離れたもの ← 仏(光浄)の世界
(真如に + 無明薫習が取り憑いている)
>心光浄…後世の付加であろうという疑問が生じる
にゃるほろ =^・ ・^= 了解で おじゃる
パーリ経典も(意図的に?)編纂されたものであることが明らかとなっている
最古の経典も(意図的な?)編纂とみなされているため
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
それでも、とりあえず
スッタニパータの第4章と第5章が
もっとも古い経典だった(かもしれない)と考えられている
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
この明知というのは
「無明に依存して、我を主体としてるもの」ではなくて
『仏の世界の智慧と慈悲をもって → 無明を手放しする』という
大乗のような
『仏性からの真如縁起のようなもの』かもしれない
(この明知というのも、後世の付加であるかもしれないけど…) >比丘たちよ、この心は光浄である(pabhassara)。
(パーリ増支部)
テーラワーダでは輝く心はpabhassara citta
自性清浄心はサンスクリット語でprakṛti-prabhāsvara- citta
prabhāsvaraは光明や勝義空と訳すこともある、と。
プラクリティやチッタはサーンキヤ学派でお馴染みかな。
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13159260518
テーラワーダでは pabhassara citta(輝く心)
「ブッダの教え」で重視されている「正しい行為、善を為すこと」(八正道など)の
『正しい・善』とは何か?という考察からスタートしていると考えられます
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャ 世界の根源としての精神原理(神そのもの)
プラクリティ 物質原理(自性 ← 無明に依存している)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
仏教 我の存在を否定して無我説を立てた
我所見 「宇宙原理が我である」という見解
(掴もうとしている想いが依存している)無明を手放しさせるための導き
(「宇宙原理が我である」という想いを手放しせよ!という導き)
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も依存している無明を手放して
最終的には(或いは『すべてのもの』は)?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84
我 − 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
みたいな感じかもしれない? 誰もが真我を知りたいと望んでいる。
自分自身を知るために、いったいどんな助けが必要だというのだろう?
人びとは何か新しいものとして真我を見たいと願っている。
だが真我は永遠不変に存在し続ける。
彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
どうしてそうありえよう?
真我は光ではなく、暗闇でもない。
それはただあるがままに在る。
それを定義することはできない。
最もふさわしい定義は、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)だ。
シュルティ(聖典)は真我を親指大のもの、髪の毛の先、電気の閃光、広大
なもの、最微小より微小なものなどと記している。
それらには何の事実的根拠もない。
それはただ存在なのだ。
だが実在や非実在とは異なる。
それは知識だ。
だが知識や無知とは異なる。
いったいどうやってそれを定義できるというのだろう?
それはただ存在なのである。
ラマナ・マハルシ
http://now.ohah.net/pari/dicr/words00.html
>真我は永遠不変に存在し続ける。
>彼らは真我を輝く光か何かのようなものとして見ることを望んでいる。
>どうしてそうありえよう?
>真我は光ではなく、暗闇でもない。
>それはただあるがままに在る。
>それを定義することはできない。
おじゃるは実践したことないので本当なのか?わからないけど
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます
智慧と慈悲の光を知覚して
智慧と慈悲の光の世界に住むこともできるらしい
もっとも
最終的には?(或いは『すべて』の?)
(掴もうとしている想いが依存している)
無明を手放しする必要もあると思うけど…
手放しする必要があると思うけど
それでも、とりあえず
智慧と慈悲の光の世界に住むことができるらしい
(止(サマタ禅定)・観(ヴィパッサナー智慧))
瞑想者の経験として…光が現れる(らしい)
体を包むような智慧と慈悲の光が
仏性からの真如縁起かもしれない?
>人は不完全だから苦しむ…
ところがどっこい
道元 普勧坐禅儀
仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
全て塵や汚れから離れたものであり
その身そのままでよい
「智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめた」といっても
それは自らの解脱の道をふさいでしまっている
それゆえに
机師匠とかは
「苦集滅道は必要ない!すべて無苦集滅道だ!」と勘違いしている
なんちゃって覚者師匠とかも、たくさんいる?らしい
− これに対して −
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
上座部系なら
無明を手放しするための苦集滅道
ちなみに、おじゃるはブードゥー教?おじゃる(冗談でつ) スマソ m(_ _)m
仮設としての
無明している
縁起している世界の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない
ちなみに、おじゃるは
土着民族ブードゥー系なので
机師匠とか
なんちゃって覚者師匠とかの
『その身そのまま
塵や汚れから離れたものであり
仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており』
というような
究極なるものの重要性を理解することができないので、それゆえに
解脱(涅槃)は達成され得ない
という感じで おじゃる
そういえば
閻魔師匠 − 縁起一代師匠も、しょっちゅう議論を戦わせていたような気がする >>340
机師匠への執着はいい加減捨てたほうが良いぞ
>机師匠への執着はいい加減捨てたほうが良いぞ
おじゃるは
まさに
執着に依存しているので
過去のことも
「実有・実体である」
と掴もうとしている想いから離れることができない
「境界性パーソナリティ障害の傾向がある」というような感じでつ
それゆえに
閻魔師匠 − 縁起一代師匠の議論も面白かったかも?
(難しくて、何いってるのか?わからなかったけど…)
たとえば
閻魔師匠 は真如縁起の立場として
縁起一代師匠 は頼耶縁起の立場として
対立して議論を戦わせていた?とか
当然
「縁起一代師匠は、真如縁起も理解している上で」ということでつ
(唯識も密教も理解している師匠なので…)
>>344↓おじゃるは実践したことないので、わからないけど
パオ・セヤドーとかの場合は
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
安般念ジャーナ(禅定)を成就した止観行者が
観禅を修行しようとする時
彼は先に初禅に入りますが、これは止禅です
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
集中対象である呼吸に戻してくる要素があります
たとえば仮に
無為法の世界からの観照であったとしても
932 >止を踏まえての観
究極の止(サマタ禅定)と
究極の観(ヴィパッサナー智慧)の両方をもって
『(縁起している)呼吸の観照に戻る』ということなのかもしれない?
(我を主体として戻すのではなくて)
仏の大悲・大智を受け入れて
仏の大悲・大智によって → (縁起している)呼吸の観照に戻る。という感じ?
大乗と上座部では
たとえば
真如縁起とか
世界観が違うかもしれないけど
それでも、とりあえず
マハーシ・サヤドーとか
S.N.ゴエンカとか
パオ・セヤドーとか
ウ・ジョーティカ・セヤドーとか
(大乗の?)ティク・ナット・ハンとか
たとえば仮に
『ブッダの教えと冥想の実践スレの人』は
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の意味を理解できてないから
932 にレスを憑ける人がいないのかもしれない
ちなみに、おじゃるも理解できてないけど…
ちなみに、ティク・ナット・ハンは
(大乗の?)禅僧でマインドフルネスの普及活動を行なっているらしい
(日本の禅僧はマインドフルネスとかには否定的なのでは?)
ttps://www.youtube.com/watch?v=-dMF1Mld6Zc
禅僧ティク・ナット・ハン ひとりひとりがブッダとなる
7分以降のところから
自分自身(仏に)に立ち帰って
悲しみ怒り恐怖を抱けるように
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
何か雑念が出てきたことに気づいても
仏の世界に戻り帰って
仏の智慧と慈悲をもって
その辺りに漂わせておく
(悲しみ怒り恐怖を抱く)ようにして
自然に消えていくのを見届けます
それゆえに
おじゃるにとっては
やはり『上座部の第一禅定ようなものも必要である』という感じがする
(最終的には?只管打坐でよいのかもしれないけど…)
それでも日本の禅僧の場合は
『そもそも仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
我々が修行したり、悟り証したりすることもない』
これを前提としているので
『マインドフルネスとか、第一禅定のようなもの』とかは、やはり無理なのかしらん? ヒンドゥーとか
上座部とか
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)とか
密教とかは良いと思うけど
(中観帰謬そのもの?のような)日本の禅宗系は
無明に依存している
おじゃるには理解するのは難しいのかもしれない
という話は仏壇の上に置いといて
966 >「無明がどーたら」には全く関心は無い ID:Lq3OS0iW
ちなみに、おじゃるは
教学も初心者のも及ばないレベルだけど
このID:Lq3OS0iWっていう人も、どうなんでしょう?
もし、かつての仏教議論のときに、このような書き込みをしたら
『(実践も大切なことだけど)教学も勉強せよ』と𠮟咤激励されたと思われる
(ちなみに、おじゃるも縁起一代師匠とかに
『仮設としてのもの』と、お𠮟りを受けていました)
ちなみに、上座部も
とりあえず無明薫習を前提としての苦集滅道だと思うけど?
違うのかしらん?
訂正
叱咤激励
お叱り
>>348 の写真の意味がわからないけど?
(大乗の?)禅僧のティク・ナット・ハンも
上座部の僧侶も
これから日本でも流行る(かもしれない)
「マインドフルネスとかで金儲けしようとしている」っていうことかしらん? 351.
考えるための方法論を持っていないからであるよ。 訂正
教学も初心者にも及ばないレベルだけど
_ _ _
>考えても分からぬ。感じるのじゃ
とりあえず了解するけど
このお布施を頂いている =^・ ・^= 猫さんは >>348
マインドフルネスとか、第一禅定のようなものに洗脳されている
僧侶とか
おじゃるのことでつね?
976 ID:ZbfGNSH+ 「このスレでよく聞く勝義視座ってやつかな?」
勝義諦だけっていうのは良くないと思うけど
一応 ID:ZbfGNSH+ っていう人の場合は「手放すのです」と書いているので
たとえば
『内山興正とかの思いの手放し』とか
『スマナサーラとかの手放すことが生きること』と近いのかもしれない? 最近のココの伸び具合は、何に起因するんだろうね・・w
おじゃるは影響ゼロと見ていい内容で喧々囂々なんで、なんか、別のベクトルがありそう。
ま、ワシがこっちにURL貼ったんで、危険人物を誘い込んでしまったのかもしれんけど・・・。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521007589/ 勤務の激化で投稿が断絶してしまいました。
取りあえず、暫くぶりに書き溜めた分だけ投稿しておきます。
●スマナサーラ長老への反論関連で
>>204>>211>>227>>247-252
>>257-262>>268>>288-293>>296>>の続きです...
まず、あまりにも気になったので...
> 『はじめて「テーラワーダ」や「ヴィパッサナー」などという言葉を聞かれた方は、 聞き慣れない言葉なので、これらは仏教用語
>ではないような感じをもたれたかもわかりません。ところが実は、これらの言葉こそ、仏教語なのです。なぜならば、これらはパーリ
>語という言語なのですが、パーリ語はお釈迦さまが2500年前に実際に話されていた言葉だからです。
> お釈迦さまが長く滞在して教えを説かれていた国の一つにマガタ国というインドの北東に位置する王国がありました。パーリ語は、
>当時のマガタ国で話されていた言語だといわれています。』
http://www.j-theravada.net/pali/key-pali.html
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/12/26/173000
どうも長老の説明というのは、何を題材にしても随所に不正確な部分や思い込み間違いが多々見られます。
現存するパーリ語の聖典を以てして、ゴータマがこのパーリ語で説法していたものと考えられたというのは今日では使われなくなった古い説です。
仏滅後、弟子たちの西方への布教によって西方インドの俗語だったパーリ語が用いられるようになり、パーリ語仏典が作られるようになったのであって、
当時のゴータマおよび弟子たちが使用していた原語は「マガダ語」であったというのが、今日における学術的な定説です。 >>255
>『もし、ニルバーナとブラフマン・アートマンが一緒だったら、お釈迦様がそうおっしゃっているはずなんですね。
>しかし、お釈迦様は、そういうものがあった時代に、それが間違いだとおっしゃった。
>それを今更何よ、ということになっちゃうんですよ。
>お釈迦様は当時、修行しつくしました。その結果、(そうした修行の終着点は)間違いだと。
>これでは、わたしたちが探し求める安穏は成り立たないんだ、とおっしゃった。
>それから仏教が発展したところで、後になってから、ニルバーナとブラフマン・アートマンは一緒だと、言い出した人々が出てきた。
>しかし、そうじゃなんです。ブラフマン・アートマンではないんです。ニルバーナは、それらとは全く正反対なんです。』
(ヨガのブラフマンやアートマンはニルバーナか?)
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/04/050000
つまり、
ここで言いたいことは何かというと、「仏教こそが唯一の真理なので、バラモン・ヒンドゥーなどでは解脱できない」というもの。
こういう言い方は一代と全く同じもので、バラモン・ヒンドゥーではダメなんだと最初から結論在りきの姿勢しかそこにはない。
すでに先の方にて説明しているので詳しいことは省きますが、こういう仏教者による主張の根底にある根拠というのは無我説であり、
これらの人々は例外なく、部派伝承による間違った無我説によって洗脳されています。
特に長老のような方というのは、テーラワーダのスリランカ仏教(或いは、南伝パーリ仏教)が唯一の真理であって、
これこそがゴータマの教えそのものだという思い込みが非常に強くある。
しかしながら、そのスリランカ仏教とて部派時代の分派の一つにしか過ぎず、彼らは「分別説部」の継承団体だとされています。 まず第一、ゴータマはヴェーダの真理そのものを否定したことは一度もない。
これについては実際、学術的に調べれば調べれるほど両者には違いがないことがドンドン浮き彫りになっていく、
というのが本当の真相なのであって、当時のバラモン行者たちの中には本物の完成者というのは皆無だったのであり、
ゴータマこそが伝説のヴェーダの真理を現実に実現してみせたブラフマンであり、ブッダとしての唯一無二の人間だった。
ゴータマは当時におけるバラモンたちの間違った見解、間違った修行法について指摘して、これを正したのです。
それが仏教と呼ばれるものとなった。
それからゴータマが行った修行のすべてはヨーガとして、元々、本来的に古代インドにはあったものばかりです。
それをゴータマが独特の天才的な素質で以てして完成、成就ならしめただけ。
それでは何故、それまでのヴェーダ伝承そのもので良しとしなかったのかについては、
ゴータマの考え方と性格をみれば分かることであって、ヴェーダの教え、ヴェーダ伝承の全体の中には随所において迷信や間違いが多々含まれていたこと。
当時の社会的なバラモン体制そのものに対する反発心と、バラモン司祭やバラモン行者たちの執り行う迷信の酷さに幻惑していたので、
それらと自分(の教え)とが同一視されてしまうことだけは絶対に避けたいが為でした。
その理由がすべてのすべてです。
ハテ? 仏教以前、ゴータマ以前にも必ずいたであろう完成者である太古の仏陀たち(ゴータマ含めて過去七仏)は、一体、何教? の教えを修業して完成したのでしょうね?
この伝説について真面目に考察しようとする僧侶などはいないようだが、それこそが古代ヴェーダの原型を説いた太古のリシ(仙人)たちだった。 【仏教によれば、ダルマをさとった人がすなわち覚者なのであるから、覚者はいかに超人化・神化して考えられようとも、決して唯だ一人の
人格的存在者であるということはできない。ゴータマのほかにもなお覚者が存在し得るはずなのである。そこで過去未来の諸仏と現在における
一人の仏を立てて考える。特に過去七仏の観念は古く成立し、その名称はすでにガーターの中に伝えられている。
過去七仏とはパーリ語でヴィパッシン(Vipassin)、シキン(Sikhin)、ヴェッサブ(Vessabhu)、カクサンダ(Kakusandha)、コーナーガマナ
(Kona^gamana)、カッサパ(Kassapa)および第七に釈尊をいう。そうして仏は「第七の仙人」と呼ばれている。過去七仏の観念がもとをたどれば、
『リグ・ヴェーダ』に由来することは、すでに指摘したとおりである。】
(『中村元選集・11巻・インド仏教の諸問題』春秋社P.515〜516)
「仏教だけが唯一の真理だ!」などと叫ぶのは伝統によって洗脳されている僧侶たちなのであって、
仏教とバラモン・ヒンドゥーの双方共に深く精通しているインド学の専門学者たちは両者には違いが殆どないことをよく知っている。
『このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。そうすれば、原始仏教
がアートマンが存在すると説かなかったのは、原始仏教の教えが凡夫を主題として、仏の境地を説くことがなかったまでの話ということになる。
もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈することができるかもしれない。
ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとするのであって、構造的には仏教と共通しているということ
ができるからである。』
(森 章司著『死後・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考--』) 『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することによって、理想が達成される
としていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)
と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられているから、実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ
程違ったものではないであろう。(p126-127)』
(水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店)
『私は、ブッダの涅槃の境地も、バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。インドに於いては、仏教も
外道もない、真理は一つ、真実に実在する(と彼らが確信している)世界は一つなのです。
この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。彼らは皆その同一の有を、ただしそれぞれ
の視位から、それぞれの制約に於いて見ているのです。ブッダも同じなのです。』
(津田真一著「密教とブッダの根本的立場」『大法輪』88年9-10月号)
そして、仏教者らは仏教こそが唯一の真理などと主張し、実に誇らしげだけれども、
しかし、この私から見れば彼らはどうもヒンドゥーどころか、その他の諸宗教(信者たち)と比較しても仏教側の方こそが遥かにレベルが低いと思う。
私個人が知り、自分で見聞きしている範囲だけでいっても仏教徒のレベルというのは他教徒たちよりもかなり低く見える。
私は、現仏教というのはヒンドゥーの実力に遥かに及ばないものとみています。勘違いする人がいるといけないので一応、断っておきますが、
これはゴータマ・ブッダに対してということではないですから。ゴータマ仏については、私は人類史上における最高レベルの聖者だったと評価しています。
そうではなくて、現存する仏教(継承された教えや僧侶のレベル)の実態についてです。
果たして、原始仏教(原始教団)以降〜仏滅後の後代の仏教においてはどうなのか? ヒンドゥーと比較すればその違いは歴然としている。 ・教理の純粋性
【仏教】--------大乗(北伝)に代表するように変化変質が大きく、また南伝においても部派時代の伝承ミスを受けて劣化した。
【ヒンドゥー】--殆ど変質なく正確に伝承を続けてきた。
・完成者輩出の有無
【仏教】--------原始仏教時代のやや誇張された多数の阿羅漢輩出の話以降〜完成者出現の具体的な事例はない。
未来の弥勒出現までは現れない末法の世とまでいわれる始末。
【ヒンドゥー】--太古の時代より大聖アヴァターの途切れたことがなく、この近代以降においても何人も現れた
(ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ユクテスワ、ラヒリマハサヤ、ヨガナンダ、マハルシ、サイババ、プレマナンダ...)
・現証の事例(ごく一部)
完成者≒神通能力者ではないけれども、しかし、完成者でありながら神通のない者というのもまたあり得ないことから、
奇跡と神通レベルの内容というのは当然、その中身(精神性)の到達点を計る大きな目安になるのは否定することができない。
【仏教】--------もしもいるのならば、その具体的事例について話だけでもいいから提示を願う。
【ヒンドゥー】--死者の蘇生、瞬間移動(ババジ、サイババ)、創造物質化(ババジ、サイババ、プレマナンダ)、
死後の肉体不朽現象(ヨガナンダ) 、滅尽定(ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ)
長老の指摘に関する話は取りあえずこれで終了。
細部に入ればいくらでもキリがなくなるので、また話が起こった際にその都度やります。 ---仏教を利用する唯物主義者たち---
それから、この間違った無我説に固執するのがテーラワーダのような伝統仏教者のみならず、ここにも巣食うっている何人もの「唯物論者」
たちなのです。何故ならば、彼らにとってはこのアートマン否定の無我説というのは、とても都合がいいからです。
彼らは、仏典にある超常部分を神格化や単なる迷信であるとして排除しようとする断滅論者(死後に続く意識の存続を完全否定)たちであり、
仏典からそのすべての超常的を排除してしまえば、彼らの信じる理想的なただの哲人であり、ただの道徳の完成者としての人間ゴータマの出
来上がりになるからです。ゴータマ自らが、「アートマンは無い」ものと教えたとして、アートマンが無いのなら当然、魂だって霊だって何も
ありゃしない..と、超常的の否定へと繋げることができるから。
そして、彼らのたちの悪さは、自分らが如何に健全で知的で聡明な見解を採っているかについて言葉、巧みに語って(仏教について)無知な
人々を欺くところにある。しかし、彼らが如何に頭脳明晰で知的であったとしても、決してゴータマの仏弟子になることはできない。
何故なら、誰しも研究することはまったくのご自由なので学者にはなることができるけれども、邪見(仏教の説く因果の道理を認めない見解)
を振り撒く徒が、ゴータマの弟子入りを認められることは決してないということ。それはつまり、師であるゴータマ・ブッダ(の話)に対して、
ただ懐疑の眼差しを向けているだけだからの他ならない。
そんな意識で教えが修得できる筈はなく、疑うのならば勝手にしなさいと相手にされることがない。 なお所詮、唯物主義者というのは人類全体の中のごく少数派であって、いずれは近い内に指示者も絶えて消滅する運命にあるのでまったく取
るに値しない。今は、それまでの自分の間違った唯物論を捨てて死後の世界の実在について講演している世界的な科学者が実在するし、他にも
何人も考え方を改めるようになった著名な科学者たちがいる。しかし、その逆は皆無だということ。生まれ変わり転生を含めて、超常現象につい
て真剣に取り組んでいる科学者たちは世界中にいる。
だから完全否定派の実権を握る長老派の年寄たちがこの世からいなくなった時にはアカデミーの常識は覆されるでしょう。
それはもう、間もなくのこと。
『さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに
(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。』(Sn.876) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています