なんちゃって覚者✴気づかない教.2
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悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. 仏の世界に照らされるのではありません
仏が真実、リアル
真如の世界に照らされるのです 「個我」ってのが壊れていく過程で
仕事を失って金に困ったり、
今まで上手くやってた人間関係にトラブルがでたりすることがどうしても起こって来るって聞いた >>214
そうなんですね
ぼくも、その過程にいるのかな?
まあ、奪われていくものは、執着心に気づかせることはあるかもしれません
カルマの清算は、反応しなくなるまで、つまり、それは、苦しみだと気づくまであるのかもしれませんね
もしも、本当なら、酷い話だw 宗教的神秘体験は内面の事象である
と思われる
その、内面と外面が実は離れてはおらず、外は内面の様になることが可能であり、内側が外のようになることもあるのだ
超越的体験は妄想だと言い切ってしまえば、それまでであり、内面活動を切り捨てて、科学的な観点だけしか持たなければ宗教はない >>209
難しく考えず、
基本を確かに考えて積み上げたら、
答えられる高校受験の数学。
簡単な事を丁寧に考えてないから、
背伸びして、
乖離した思索に陥ってる訳だよ〜
悟りを高度な数学の世界だと錯覚してる。
小学生の算数や中学生の数学を錬成問題を解けるようになる位で充分。
有名私立の数学。
悟りを不可知、不可思議に追いやるから、解らなくしてる。
無限では無くて有限を知り尽くす。
無限大学ではなくて、有限の小学生、中学生レベル。
簡単なレベルの人生哲学が解ってない。
修めるべきは15歳レベルで充分。
挑み過ぎるハイレベル。だから不合格になる。
自分の事を中学生だって思って中学生までを完璧にしようとしたら全てが上手く行くよ。 >>210
そんな苦しみを起爆剤にしなきゃならないって考えてるのはダメだよ。
普通に真理が見えなきゃ。 >>211
浅いも深い愛いも気付きもないよ。
当たり前の現実に目覚めなきゃねえ?
ただの日常に目覚めなきゃ? >>217
確かに基礎的なことを学んでかないとです
般若心経、金剛般若経
唯識
あとは禅の歴史
このような本を、読んでましたわ
あとは、大乗仏教の簡単な解説とか、維摩経の解説とか?
というか、基礎的なものって、なかなかないよね?
ジャンルわけされすぎててさあw >>218
普通に真理を見るには一度死んで生まれ変わらなきゃならないからね 「一度死んで生まれ変わらなきゃならない」
そりゃそうだけど
苦難でも普通でも「でなきゃならない」っていうこともない
「であるべき」から抜け出たところがね… 苦しんだり悲しんだり喜んだり怒ったり
そうやってぐるぐる迷っているそのあり様が既に一歩も真理からは出られていない
そこに気付くことなんだけど
そのためにはこの「自分」という経験、知覚の「外」に一度出なきゃどうにもならない 「自分」って知覚・経験の外に一度でること
これを「死んで生まれ変わる」っていう風に表現されるね
キリスト教では「新生」とかいう言葉もそれっぽい
仏教じゃ「絶後再甦」とか、蓮華の花の上に生まれるとかにたとえられてると見てる >>219
いや、僕の深いとこに触れるわけやんw
なんか、こう、期待?
みたいなのを増幅させるわけね
禅の人とかの自然体とか、まあ、他でも、苦労して、遂に、なんか理解したっぽい人たち
憧れやわあ、笑
そやなあ、行住座臥っていうねえ
日常に、まあ、つまり、ありのままに
悟りがあると >>223
概念の縛りから解き放たれるんだよw
きっとw >>224
どうやって、でたの?
まあ、そーゆーことでしょうなw >>225
知覚が消えることなんてありえるんかなw
気絶ってこと??
まあ、この、触れる感覚が、なんか、こう、自我なしにあるようになるんやろかなあ >>229
知覚は多分はたらき続けるけど
知覚の「対象」を捉えてその上に色んな思いを重ねてる
これを「迷い」「煩悩」「世間」とかいうと思ってる
知覚レベルのギリギリで「対象」を手放すと多分なんか起こる
それで本来のあり様に気付けるんだと 金剛般若経の「応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし」ってこれを言ってるんじゃないかな でも、>>217これはなるほどと思う
背伸びして「向こう側」に何か真理めいたものを求め続けても
決して「何か」にたどり着くことはない
求めるもの自身が求められるものである
そこに気付くことだろうから
今の「自分」に親しくなるってのは重要だと >>230
自分が落ちることかな?
そうだね、それを執着を無くすって言ってるのかもしれない
なかなか難しいことだよ、笑 >>231
うん
だいたい、どこの話も、その話だね
AはAでない
だからこそ、Aである
このAでない、ところからのAであるが
まあ作用即性ってやつなのかなw
まあ、言葉は間違えてるかもだが 「住する所無し」ってのは「対象」を捉えないってことかと
「対象」を捉えるってのは主体と対象が分かれるってことで
見るものと見られるものが分かれた観念上の世界に生きてしまうことに
これが迷いの世界なんじゃないかね >>235
うん、そうだね!
主体、客体が、その捉えるものによって分断されて対象になってるね
この観念で囚われている私が、迷ってるのかもしれない
これが、迷いの世界だ
しかし、この観念と言っても、様々にあるわけで、つまり、ここには観念と一括りにできるのか疑問なくらい、たくさんの自我活動、執着や、恐怖や、まあ数え上げたらきりない程のものがあるからね
実質、解放してることと、理念上知ってることでは
月と
スッポンポン!
なわけじゃんか?ww >>236
「六境(六塵)」って言葉が分かりやすいと思う
六根(知覚)の「対象」としての六境
眼耳鼻舌身意に対する色声香味触法
人は誰もが知覚によって対象を捉えてそこに「世界」を識別し観念にしてるでしょ
だから「世界」と思ってるもの全て
これを一切法、三科とか十二処十八界とかいうらしい >>232
求めていることが悟りから遠いこと
というのは、聖者賢者が、口を揃えて言ってることだから、そのおとりだ
しかし、
だよ!?
そうは仰いますけども
やっぱ
愛する人とは別れたくないのおおおおお
というのが、人間のサガフロンティア
なんちってw >>237
ふむふむ
つまり感覚のことですかなあ
感覚はひとつだもんね
刺身と
醤油と
ベロと口と歯と、それらの動きや、まあ脳やらいろいろ、が、ハーモニーしてるわけだ
調和してるわけだね
でもさ、ぜんぶ消えちゃうじゃん??
我々、は、そうやって、そういう活動があるのはさ
生きてるから!
生きてるけど、死ぬのは嫌ああああ
痛いし!
というのが、一番の悩みで、それを解決するのは、感覚的にではないはず?
んー、取り違えてたら、ごめん 今、目の前に「スマホ」があらわれてるけど
これを「スマホ」と認めるのが眼識界(六識)
認める以前の物質的対象なのが色(六境)
認めるはたらき・器官が眼(六根)
六根→六境→六識 として誰もが「世界」を捉えてるんやね
この六根六境ギリギリを受け入れ手放す
すると本来が現成する(その心生ず)
修行で「六根清浄」とかいうのはこのことかと >>239
「応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし」の「心」というのが
眼耳鼻舌身(六根)とかに思いをつけていない(主体対象に分かれていない)
本来のありよう(面目)ってやつで
これを「不生不滅」と呼んでいると思う
これに気付きまみえて、そこに居るようにできれば
生死の不安というのも無くなるか減るかでは?
「生死」は生死として現れではあるけど
生死に引っ付く「失われる不安や恐怖」は
「生死」という対象に引っ付けた思いだから >>240
六根ギリギリとは?
この言葉は、ちょっと、分かりづらいので、もうちょっと詳しく教えてくださいな
六根とは?
目の働き、耳の働きのことかな?
具体的には?
スマホ 物
目 機能
目の働きとは? >>242
「眼」でものを見て、その対象であるものが「ある」
こう誰もが思って「世界」を捉え経験してるんだよね
西洋哲学では認識論かなんかで
「そもそも人間の知覚認識はものを(正しく)捉えられているのか?」
「知覚自体が(そのもの)を捉えるのに純粋さに欠けていらのではないか?」みたいな疑問がある
今、目の前に写ってる対象(例えば私の場合はスマホ)
これが本当に「ある」のか?「(正しく)見て捉えられているのか」
という、主体と対象の存在自体の疑問になりきって
疑問そのものになる
(禅では大疑団とかいうらしいね) >>241
ほんとに?
ほんとに、そうなってるのかなあ
住するところ無ければ、そうなるね
確かに、悟っておるwww
AはAではないから
Aであるだ
住するところ無ければ、、、
めちゃんこ、むずいやんかwwww >>243
この目の前にある世界は幻である
というのではあるまいなwwwwwww
目、そして、物、そして認識活動、これらの働きが世界を仮に作っておるとしよう
だから夢のようなものだ、と
しかーーーーし、いま、現に進行中の夢は、つまり世界は、なきと言ってますでも、、、
あるもんはあるじゃないかwwwww
ギリギリで、まあ、感覚が透過して、スケスケーになったとしてだよ
はい、あなた、来週までの、お命でーす!
残念
と言われて、その感覚スケスケは、何の役に立つかな?
どーなんよ、どーなんよ、どおおおおお
なんよ? 実体はないと述べているのだよ
実体は、
実体だよ、実体
つまり、ほんとうは、ないということだろう
つまりAはAではないのだ
ところが!!
だからこそのAであると、わざわざ述べる
実体は空である、からこそ、の!
世界は、ありありとあるわけだ
ありありとあるわけだ
確実にあるわけだwwwwwww
しかし、それは、実質は、ほんとうは、幻のように、なるが、、、、
しかあーーーーし!!!!
ある!
あるのだあwwwww
この、ある、のは、前後裁断してある
というらしい
自分で書いてて自分でわかってないアホです
すいません
爆笑 >>245
「存在している」「幻である」「実体がない」
こういうのはどれも「思い」でしょう?
そのものに引っ付けてるものでしかない
対象を手放しきれたときに現れる「在り様」は「在り様」でしかない
それを直接確かめないと!っていうのが「冷暖自知」っていうことだと思う 「対象」に引っ付けてる思いってのは
言ってみれば「全て」だからね
生まれてから今まで経験した時間と空間に記憶してる
「好き嫌い」「自尊心引け目」「尊敬侮蔑」
これを手放すっていうのは思いの上で「死ぬ」ってこととほぼ等しい
ってか、「自分は生まれて、今生きてる」ってのも思いだからね
観念上ではあるけど「死んで生まれ変わる」ってのはそういうことだと 「死んで失う自分の命」そして「失うのが怖い」ってのも
当然そのものに引っ付けてる思いでしかなく
そういう思い以前に誰もがなにも変わらず活動し続けてることに気付く
「死んでもなにも変わらない」とか禅僧の人らが言ったりするのはそういうことじゃないかな 六根清浄ってのは眼耳鼻舌身意のはたらきに
今までの経験で引っ付けてきてる「思い」を落とすってことだと思う
その為に異性の容姿や性欲、心地よい音、良い香りの美味い料理とか
「対象」として引っ張られる刺激的な経験を修行として慎んで
出来るだけ六根の本来のはたらきそのものになるようにする
そして「対象」を手放せば、
般若波羅蜜多、彼岸に渡る、みたいに
そのものがどう現前してるかの様子を知る体験が起こるんじゃないか >>247
なるほど!
冷暖自知という言葉もあるのですね
冷たい暖かいと、しるのは、他のだれでもない己自身だ、ということでしょうw
あり様が、無ゆえに有になることじゃないかな?
思念と感覚の世界の違いの話ではないと思うんだよね
まあ、悪い思念を落としておくに越したことはないが、ずっとそうしてるわけにも、
あ、めちゃ可愛い女だああ♪
ルンルン
いかん、思念があ
、、、
ドウシタノハジクン、嬉しそうにして >>248
思い出すか?
生きてるのは、思いなのですか、あなたは!!!!
そんなわけあるかいな、爆笑
思念は、一番、遅れてやってきたものでしょうがwwww
生まれた時には釈迦も知らん >>249
いやあ、思いがないだけで、そのような境涯にあることはありえんでしょうw
普通、死というのは、本能的に恐怖しているものなのですよ?
例えば、まあ、これは仏教ではないですが
このような時に思い出すんです
小指を傷つけたられただけで、己を見失っているような人間が、一体、死に対抗する如何なるものがあるというのか?
まあ、これも、感覚、身体に、関する思念とは言えるかもしれませんが、、、
思念というよりも、愛着、執着でしょうね
あって当たり前のものです
死が平気というのは、まあ、、、
凄まじいものなのです 凄まじい、覚悟なのですよ
だ、か、ら
覚者なのかもしれません? >>250
そのような働きの以前というのは、つまり、生まれきたる以前、というのは、、、
無
と言われるわけで、この、無、がよく、みんなが言うわけだが
無我なのにとwwwww
しかしだ、、、
般若波羅蜜
智慧
の
完成
というものはですね?
この無という言葉の、真の意味を、いや、その真の箇所というのかな?
それを見抜いて、そこに、ズレずにいることの、いることの練習の果てに
もう、疑うことが、恐怖が消えたことかも
チーーン おおおおおおおおおお
これか!
これぞ、悟りじゃあああ
と意気揚々としておると、この、穴蔵禅者がああああああ
と、心地よいベッドから引っ張りだされますよw
なんちってw 無、ゆえの、有
と言っても、この、無
というのは、ない、ということではありますが
その、ないというのは、
あるとかないとかの、なきではなく
戯論寂滅
つまり、見てとることのないことなのです 悟ったなら
無明、行、識、名色、六所、触、受、愛
愛!!!!
取、有
生老病死
の、かの偉大なる仏教の縁起解説を辿れば、無明が滅して、智慧の光があるかは、、、
ね
己でわかるでしょう
この、ひとつひとつの、言葉の持つものが、思念ではなく、実体験的に、理解しているに違いありません
ほんまやあああ
とねw 悟っても業からは、逃れられませんよ?
数々の教えが、そう述べておるのですからね
すぐには、消えないと
宿業の避け難き、、、は、
あの、釈迦ですら
悟ったあとに知ったのですwwww
目連さんも、そうだったし
サーリープッタさんも、そうだったようです
曖昧記憶ですが、、、 ナンチャッテ覚者の話は、
自身が宣言してるように、ナンチャッテなのであって、如何に自信あっても、所詮は、単なる欲望の塊である、凡人の中でも、嫌われるほうなのでありますので
まあ、書いておく必要もないとは、思いますが、、、、、
くれぐれも、信用しないでください、笑
単に今は、そう思ってるということです >>253
「そうなんじゃないかな」と見ているだけで
私自身は、怖がったり不安がったり驕ったり怒ったりですよ >>260
私もよく嫌われますw
嫌われるというのは「嫌い」という思いを相手に起こさせる要らんものを
自分が持ってるってことではないかとも思っております >>262
なにも変わらない事実というのは、、、
梅は梅でしかない
おまえは、おまえだ
というようなことだと思ってますw >>263
そうですかね??
他人の意見は、他人の意見ですw
左右されて引っ張られると、、、
思っている以上にたいへんなことになりますw
まあ類は友を呼ぶとか言いますね
人間関係というものは、家族、職場、友達、地域社会などでの、まあ、一番な悩みでしょう
まあ言わば、宗教と宗教
神道と仏教
浄土真宗と曹洞宗
などなどの関係性や
日本とアメリカ
中国とドイツ
というような関係性も、まあ、大きく言えば、人々の関係性であって、そこで、軋轢が生まれ続けている、太古の昔から!
これは、単純なものでもないでしょうね
まあ、嫁とわたしとか?w >>264
そうです!
ここで書いていることは、わたしの理解の範囲なので、所詮は、しれておるのですw
しかし、智慧の位置について、は、つまり、空に関しては、大抵の人が誤っていると、この、ハッタリ人間は思っておるのです
今はね 私も実はよく分からんのです
分かった気になって理屈組み立てたりしてる時もあるけど
凄い間違い犯してるんじゃないかと 嫌われるのも歪んだ我意識に気付かず人の気持ちを損ない続けてるのかなと 「自分」という我意識を虚空に投げ入れる
捨身飼虎なんだろうけど、なかなか出来ないというか、逆に我意識で人の心を喰ってるのではないか?と恐ろしくなりますよ >>270
わたし自身からくる、愚痴、怒り、貪り、つまり、渇愛に端を発したものと、他者の、それらから生まれたものがありますよね?
つまり煩悩は、己だけではなく他者も持っているのですよね?
そして、その、種類も、つまりこれは、業の傾向性も、単純に、こう!
と決められるものではなくて、人によって、様々に囚われが違うわけですよね
だから複雑になるんですよ
自分のせいで悩んでいることもあるし、他者の意見に左右されて悩むこともあるから
しかし、どちらにしても、自分の内面にある活動のことなのです
他者の意見にしても、酒、肉、女に対する嗜好にしても、、、
また、プライドや生存欲求にしても、、、
何にしても、わたしの理解のが、元でしょう
我意識は、私が受けた教育の結果であり、他者を食べるのは、渇愛からでしょうね
愛されたい、というか、この、まあ、言葉では表現しにくいもの
しかし、まあ、単純に言えば、、、
ボクちゃん、すごい!!!! 「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来 の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに 証得せず。」
この釈尊成道の言葉は恐らく間違いないことで
どんなに迷っていても事実は救いの中にあり気付かないだけという >>271
我意識という妄想同士で自分を飼う為の餌の奪いあいですね
でも止められないし、しかも世間はその競争前提で回ってるという 「明星出現の時 我と大地有情と同時成道」
お釈迦様は成道した成仏した、というより
世界の始めより誰もがそうある「一法」
に気付かれただけであるらしいです
この我意識という貪りに振り回されてる「自分」たちの問題がすでに解決済みである
それに気付き、救いそのものになれるということ
このお釈迦様の宣言を「記別」というらしい >>272
正に、その通りですね!
奇なるかな、奇なるかな
不思議なことだ、不思議だ
一切衆生悉く
生きとし生けるものすべては
皆如来の
一切が、あるがままの
智慧徳相
知らずして在る、幸せである
を具有す
実現している
ただ妄想
しかれども、こころの中の思い、ものの見方、様々な意見、空想などにより、つまり、他者の意見、教育の結果などにより
執着あるがゆえに証得せず
わたしのものである、快楽の源を、追い求めて、あがいているから、気がつかない
? 苦しめあってる「自分」と「他者」が一緒くたになって救いとして解決してる
「他者」だけじゃなく「大地有情」という世界もすべて同時に解決してる
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静がその救いの様子なんでしょうね >>273
わたしが、その流れの中で、自然にあるときに、意見を挟む他者や、わたし自身の恐れから、縛られて不自由なことになる
ので
考えなきゃいいやんw
来たものは来たものでやってくが、しかし、そこで布施という、正しい姿勢さえ、身につければいいと言うが
そこで、自分自身が、
そんなんしたら、損するやんw
とね >>278
自分や他者の、損得や善も悪も、
考えない、知らない、捉えない
やって来る流れのままにあること
これを如来っていうんですかね >>274
わたしと、生命財産の、つまり、所有の囚われから抜け、更に、真理への憧憬からも抜けた
という単純なことですが、
しかし、理念上は、そうでも、実際に行く
行くのは、普通ではないwwww >>276
お釈迦様の見た事実はそうですが、、、
我々のような、惑うものは、そのように解決されてないわけですよ
じゃなければ、教えてあげたりしないからねw >>279
いやあ、、、
そのポイントが、、、
描くのが難しいわけですよね、、、
そうやって、これが如来だと仮定したら、ぜんぶ外れるってことですよw
得ることが不可能なもの
つまり、戯論寂滅というようなもの
このようなもの
だが、その、このようなものは、ない
ないんですwwww >>281
そういう救いの事実は自分で実証しなければ現れないけど
現さなくても事実は事実として変わらず、隠れてるけどそうである
道元禅師も
「この法は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし。」
と言われてるけど
「原ぬるに夫れ、道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、なんぞ功夫を費さん」
とも言われてます 救いの事実の中であるけど
修行し証明しなきゃ絵に描いた餅だよ
そもそも「丸」としてどうしようもなく完全に救われてるから
その事実自体を修行や証明でどうこうできない
それほど完璧に救われてるんだよ
こういう風に言われてると思います >>283
それは
元々は仏です
仏になることなどできません
と、言ってるのですw 284.
完璧に救われている、か。
衆生は完璧に救われていない。
なんでか。 >>286
完璧に光る悟りの月の上に
煩悩の雲がかかってるって比喩があるね
その煩悩の雲のかかった状態を衆生というんでしょう >>284
完璧に救われているわけありませんwww
元々は我々は迷いも悟りもない
けれども、この世界では、自己と他者の憎愛、または生老病死に、苦しんでいるのですw
だから、悟りにいけと、言うのですが
悟りは求めて得るものではなく、得ることなきが完璧に悟りだということですよwwww
つまり、業を抹消せねば、智慧は輝かないのですw
じゃなきゃ、仏教が、いらんものになります >>287
結局、、、
仏教を学びつつ、坐禅するしかありませんww
やれば必ずやれる
と、すべての覚者が、いけると、やれると
証明して生きたのですからw
まあ無理かもしれんけど、まあ、それくらいしか、やれませんw
所詮は、わたしごときですからww >>288
救いの事実の中にずっとあるのに
自分らで自他の別れた妄想の世界で勝手に苦しんでる
それに気付かせる為にお釈迦様は「仏法」や「悟り」を立てられた
「釈迦といういたずら者が世に出でて 多くの者を迷わするかな 」一休さん
「法に二法無し、牛を且く宗と為す。
蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす。」『十牛図』
とか 287.288.
衆生という状態とは何か。
それは救われていない状態である。
されば、救われるための条件とは何か。
煩悩、業、を抹消することか。
否である。 十牛図は、
もとから仏法丸出しなのに
わざわざ「法」とか「悟りの牛」とかたとえて目標にしてたけど
丸出し仏法に気付けば兎を捉えたあとの罠や魚を捉えたあとの漁網みたいに不要なんだよってことかと >>290
救いの事実はあるでしょう
しかし、それに対して、自我は無自覚なのです
だから、惑うのです
だから、修行するのです
だから、道があり、説いたのです
なにか、この、リアル世界の完全性とか、そういうものではありません
たぶんねw >>291
抹消は結果としてなってくるのだよwww
先生は囚われている! >>292
真っ白な円がありますよね?
その、真っ白な円のあとに、世界が返ってくるのは
ようするに、空であるわたしが、生きてあるここで、わたしである
つまり、元々とは違うのですwww
悟りがいらんと言ってるわけではないのですw >>293
「リアル世界」とは?
我々がそうだと思ってる「世界」は「実在」なのか?
って疑問ですね >>296
リアル世界は、実在はしないのです
しかし、今、ここで、ある、それは、夢としてのそれは、確実にあるのですw
そのものの、本体、つまり、裏側というのか、実体的にあるわけではないのです
しかし、そういうのは神秘体験が絡むんですってwwww
絡むの!笑
だから科学的にやってても、無理なのw 292.294.
仏法丸出し、丸出し仏法、か。
そんなものは存在していない。 しかし、その、
元々という言葉の意味を、どこにもっていくかで意味が完全にかわってくる
元々、つまり、不生の地点
と
元々、迷っていた地点
これらの、どちらにしても、なき地点
なきもなき
戯論なき
それが、帰ってきたもの??
かもしれない
想像ではww 299.
存在、か。
月と雲とは同時的存在である。
月だけを抽象することは価値がないことになる。
なんでか。
その両者の比較論が存在論であるからである。 >>301
比較論てなんよ、比較論てww
論好きやなあ、笑 雲がかかってもかかってなくても
月は何も変わらず光ってるよ
雲が取れれば光が現れるだけ 月自体を「本覚」、
月の光りに気付くことを「始覚」っていうんかね >>304
自分が月だった
つまり、自分がいなかった
月が、あったのだった
が、本覚
月が目の前にあることに気がつくのが、視覚
かもね、、、
まだわかんないや そういうのもぜんぶ、ないところが、真の悟りでしょうなあ
本覚とか、視覚とか、、、
まあ、なんかないと人は納得しないからねw ぜんぶ言葉だからね
指してる所に気付くための道具ってことだろうね >>307
そう
気づいたら
一度気づいたら
絶対に
忘れることはない
が、妄想して、たどり着けなくなる期間が、必ずあるだろう
あるだろう
掴むだろうあなたはw
現れたものも斬れ 現れたものは、美しくて魅惑されたのだ
しかし、それが現れたのは
智慧が働いたからなのであり、仏になっていたからなのである
練習しなくては、いけないのである
練習するのが、仏の道を歩むことなのである
全く難しくないのである
気づいたら、難しくないのである
新たな囚われに捕まらない限りはね、、、
美に魅せられたら、いかんのである、笑 私は掴んでしまう
苦しむ亡者が目の前の救いの糸に飛び付くように 気付いたこと、救われたこと、気持ち良くなれたこと
全部「自分」が経験して、「自分」がさらに求めている
「求めない」も「自分」がやってる 「仏になろう」としてるのも「自分」である
「自分」が救われようとしている
「捨てよう」としてるのも「自分」である
捨ててまた「自分」がどうにか良くなろうと貪っている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています