【イエス】命の輝き 『神の家』67軒目【キリスト】
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ここは、ネット上の超教派の教会です。
イエス・キリストを信じ、教えを守り、その教えに従い愛し合う者達のスレです。
リアルで教会に縁遠い方、行きたいけど心の準備がまだな方、そのような方や、
教会に毎週行っている方でも、みなさんがイエス様の御名のもとに、
集い、語り、祈り合う場所です。
前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1510638340/ >朝鮮エッタの山口組の皆さんwww
サロメおじさんの祖先は、済州島から密入国してきた朝鮮人「白丁」階級w
孫 正義の家計は、両班だよねw
1 : 閻魔さくや ◆zmUrr1OUsE [] 投稿日:2012/08/27(月) 00:19:26.14
プラチナ箔の名刺なんて どこのエルドラドに存在すんじゃゴルァ
山健さん堪忍ですん^^;
67 名前: サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c [sage] 投稿日: 2012/01/06(水) 15:19:19.87 0
>66
いあほんと宅見さんとは3回ばかり面識あるだけだから^^
でもプラチナの名刺いただいたときは感動しました^^
779 名前: サロメ●ボウディア ◆irjyIzTpBzQ0 [sage] 投稿日: 2012/09/03(月) 15:24:19.26 ID:ugBy7wG9
ほーらほーら
個人情報あぶりだして拉致してごらん
朝鮮エッタの山口組の皆さんwww 824グノーシス派2017/11/16(木) 23:25:31.54ID:RdSXj/oA>>825>>840>>844>>868
トマスによる福音書 七七節
イエスが言った、「私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」
----------
人間の五感が認識し得る、此の世の存在(物理的なあらゆる質量存在)とは本質存在ではない。
むしろ逆で、本質存在の属性存在として此の世の存在(物理的なあらゆる質量存在)が存在としてそうあるということ。
だから本質としての存在とは、我々の日常的な目からは秘められてある。
人間の心魂裡にある霊の共鳴こそが本質存在を見極める第二の眼となる。
此の世の万物には本質がある。
イエスとは此の世の存在の本質なのであって朽ちることも滅びることもない。実にこの場合のイエスとはグノーシスなのである。 >>4
隠居さん グノーさんへ
キリスト者が感じる神の息吹のようなものを小難しく書いているだけです。
最後のイエスをグノーシスに、すり替えるところが、頭の弱い人をだますことが
できるペテン師的だと思いました。
どうして、イエスをグノーシスと呼べるのですか?と。
読者が理解できないのではなく書き手が悪いのです・・。
グノーさんもこれを、しゃちこばってすごいだろ?と出すようなものでは
ありません・・。 >>5 追記
人間の五感で認識できる、この世の存在(物理的なあらゆる質量存在)は、「本質存在」ではない。
むしろ逆、「本質存在」の属性存在として、この世の存在がある。
だから本質としての存在「本質存在」は、私たちの日常的な目からは秘められている。
人間の心魂裡にある霊の共鳴が、「本質存在」を見極める第二の眼である。
この世の万物には本質がある。イエスはこの世の存在の本質であって、朽ちたり滅びたりしない。
実にこの場合のイエスとはグノーシスなのである。
↓
「この世の存在」の中には「本質存在」があり、それを見極めるのが聖霊、すなわち第二の眼である。
「本質存在」をイエスと考えれば、トマスの77を理解できる。
(イエスはグノーシスである)。←なんじゃこりゃ?という主張の長文でしかありません。 自分の中の勇気ある完全な人間を取り出して、イエスの御前にたたせなさい。
そして、彼が何者であると理解するのか ちゃんと答えなさい。
命の家 66 ..844神も仏も名無しさん2017/11/17(金) 06:50:14.16ID:J4kJseDF
>> 824
出ましたね、グノーシス随一の名句が。しかし、キリスト教を信じる君や美魔女には理解
できないと思う。
その句は、「本質」とか「霊魂」だとは言っていない。その句は、木でも石でも「すべて」
と言っている。
美魔女の「模範解答」を聞きたい。
誰でもいいんだよ 答えられるなら。
キリスト者というのは、何もアマゾンの密林に分け入ったり、ペルーに飛ぶ
コンドルを見あげなくても、箱庭やベランダのプランターの植物や、スズメが
飛ぶのを観ても神の息吹を感じるではないですか。 己が創造主になりたかった、なった積りの
イエスには、そのような被造物(あるがままの
現実)に対する畏敬や愛は、一かけらもない。
彼にあるものは、前任者の被造物に対する
憎悪のみ。それが、キリスト教による人間の
大虐殺に連なる。 >>8
>誰でもいいんだよ 答えられるなら
まず、サロメをはじめとするクリスチャンに
答えさせて欲しい。誰も答えられず、また、
答えたがらないだろう。 >>12
隠居さんはここでキリスト者に包まれてハチミツ漬けにされているでは
ありませんか。昔、僕が人の目の届かないところで、水に沈めたり、ストレス解消
のために殴りつけたり、ベランダから突き落としたりしかねない、もしくは
その歯止めとなる教えが心にない者から介護されるのと、人の目の届かないところでも
神の目に適うように行動しようとするキリスト者に介護されるのとでは
どちらがいいですか?と質問しましたよ。隠居さんは、前者と答えた。
リアルでは、隠居さんは、家族の者に、自分が入る養護施設はキリスト教系
にしてくれと頼むのではありませんか。(苦笑) さて、村のおきてがあるようだから 私は引き下がりましょう。
私は別にシモンさんの虎の威を借りているわけではない。
たまたま発生した滅多にないようないい質問だから、もったいないよと言っているの。
おち >>15
>>4のトマス福音書の名句の意味を解説してみよ。君にはできないか、やりたくないのだろ。 >>17
つまり、自己認識は神の認識であり、究極的人間と神は実は同一と。👰
原罪意識は無い♪
神は人間の内部にも存在する♪
人間は覚醒することによって
神と合一できる存在と考えてそうやね。👰 >>18
やっぱり答えられないw。キリスト教成立時には、キリスト教に対抗する大宗教だぞ。
現代でもまだ存続している。
>>19
いい線行っている。さらに深く頼む。 >>19
なるほどね、美魔女って名乗るのは 決して冗談ではなかったんだ。
たとえどんな的外れな意見であっても 私は決して否定しない。
つい口出ししてゴメン。 >>18
あなたがたのいわゆるグノーシスとやらの定義がまちがっているんだよ。
あなたがたのそれは、グノーシスを滅ぼさんとした人たちの定義だ。 >>4
俺は全然グノーシス主義、詳しくないんだけどね、俺の持ってる印象では
グノーシス主義の最大公約数的な世界観は、自然(物質)は不完全なもの、堕落したものであって
その拘束から脱して霊において純化することがグノーシス主義の目標って感じで捉えてる
ユダヤ・キリスト教との関連で言い直せば、創造神ヤハウェは、純化された至高神から堕落し
劣化した神であって、その劣化した神による創造が自然(物質)なのだから、自然とは劣ったものである
至高神あるいはイデアの欠片とも言うべき霊は肉体(自然)という劣化した存在に囚われているのであって
霊肉あるいは精神と物質は対立関係にある
よって霊は肉体(自然)の拘束を脱して至高神へと帰還しなければならない、という感じか
もしグノーシス主義の世界観がこのようなものだとすると
そのトマスによる福音書 七七節はどうも解せなくなるね
そこだけを読むと、反宇宙的二元論というより汎神論のように読めるし
自然物に直接神(イエス)を見出すというのは、劣化した存在である自然の本質が劣化していない神
となってしまうようで、矛盾する
俺のグノーシス主義理解が間違っているのか
それともその77節の解釈が間違っているのか
あるいはグノーシス主義の多様性のひとつということなのか >>5
>>6
君が疑問を抱くのはもっともなことだ。
もし、私の説明で「分かる」と言うのであれば、それは「グノーシスを解した」と言っているに等しい。
だが、君には分からないのである。
はっきり言って、美魔女に期待してトマス福音書七七を説明したものであって、他の誰かに期待したものではない。
「反宇宙的二元論」と呼ばれているグノーシス派の世界観と存在論を踏まえていなければ混乱するばかりであろうと思う。 >>25
疑問があるのではなく
グノーシスは、研ぎ澄まされた中2病である。by よしお
だと思いますよ。「本質存在」をキリスト者は神の創造の御業に思いを
馳せる、神の息吹を感じる、と捉えているのであって・・。 >>26
君が「>>キリスト者」の立場から「>>神の創造の御業」に「>>思いを馳せる、神の息吹を感じる」のは自由だが、
俺はグノーシス派なのであってキリスト者ではない。 それで、グノーシスとはいったいなんぞやと数ヶ月前に調べたのですよ。
wikiレベルで。そうしたら自分も神になれる、というようなことが書いてあったのかな。
美魔女さんの>>19の以下ですよ。
>神と合一できる存在と考えてそうやね。👰
それで、こりゃあグノーシスはダメだなとフリップポーンでした。
まあ、僕はグノーさんに戻ってきて欲しいというのが本音です。 >>28
>>そうしたら自分も神になれる、というようなことが書いてあったのかな。
もし、そう書いてあったのなら、それは浅はかなグノーシス理解です。
美魔女の言う、
>>神と合一できる存在と考えてそうやね。👰 ・・これは良い線をとらえている。さすが美魔女は賢い。 >>20
マニ教がねw
っていうか地中海地方ではグノは完全に滅亡して礼拝所などの遺跡や
儀礼 信仰メソッドの文献さえ残っていない 残っているのは能書きだけw
信仰に寛容だったササン朝からさえも追い出されてるしw グノーシスの思想って、両性具有ぽく思う。
ギリシャ神話だとヘルマプロディートスかな。悲劇だし泉を呪っちゃうけど。
両性具有・アンドロギュノスに完全性の象徴を見るのがギリシャだもんなー トマスによる福音書 七七節
@ イエスが言った、
----------
A 「私(イエス)は彼らすべての『上にある光』である。(そして)」私(イエス)は『すべて』である。 ・・【反宇宙的二元】
B すべては私(イエス)から出た。そして、すべては私(イエス)に達した。 ・・ 【グノーシスの運動】
※>>24
だから細部に注意が必要です。 汎神論ではなく、反宇宙的二元論そのものが反映された表現なのです。
----------
C 木を『割りなさい。』私(イエス)はそこにいる。石を『持ち上げなさい。』そうすればあなたがたは、私(イエス)をそこに見出すであろう」
※木がイエスである、石がイエスである、とは言っていない。
木を『割りなさい。』 & 石を『持ち上げなさい。』と言っていることに留意しなければならない。
その上で、
>>そうすればあなたがたは、私(イエス)をそこに見出すであろう」 と表現されている。
つまり「イエスは秘められて【ある】」
----------
>>5
>>最後のイエスをグノーシスに、すり替えるところが、
すり替えるも何も、どうして木を割ったところや石を持ち上げたことろに「イエスが見出される」のだね。
この場合の「イエス」とは、クリスチャンのイメージしているイエスとはそもそも違うことに気付かねばならない。 「個々の人間の内に宿る神的本質は、肉体と
物質の領域、さらには心魂の領域を超えて、超宇宙的
超個人的な神的本質と同質であり、この同質の
もとへのへ回帰・合一することによてのみ。個人は
救済される」(大貫隆)。
結局は、心身の一元化。
トマスのイエスと聖書のイエスとは、別人では
ないのか。 サウナで汗を流してから帰宅した。
ジュースを飲んで焼きプリンを食べて一服した。
よい週末の始まりだが、明日から天気が荒れるとの予報になっている。
雨から雪に変わるだろうし、今シーズン初めての積雪となるだろう。
だが、冬の始まりの季節には固有の美しさがあることを子供の頃から感じている。
侘しくも寂れた草木の佇まいは美しい。そして独特の懐かしい匂いがある。
すべては過ぎ去りゆく。
私も過ぎ去る者とならねばならない。 これはグノーシス派の存在認識である。 >>32
>すり替えるも何も、どうして木を割ったところや石を持ち上げたことろに
>「イエスが見出される」のだね。
グノーシス派が主張しているのです。以下を読んでごらんなさいよ。
>>4
>此の世の万物には本質がある。
>イエスとは此の世の存在の本質なのであって朽ちることも滅びることもない。
>実にこの場合のイエスとはグノーシスなのである。
二行目 イエス=「この世の存在の本質」である。
三行目 この場合はイエス=グノーシスなのである。
グノーシス派が「イエスが見出される」と主張し、そのイエス=グノーシス
と呼ぶ、と言っているのです。つまり
イエス=この世の存在の本質(本質存在)=グノーシス
キリスト者は、初めからキリスト者の考えるイエスが見出されるという感覚はなく
あくまでも創造の御業に思いを馳せる、神の息吹を感じる、で捉えます。
グノーシス派はこれを「グノーシス」と名前をつけてあたかも新しいことを見つけている
かのように言っているように思うのですが・・。 >>32
なるほど
そうすると木とか石とかで象徴される自然物は神的本質を宿し、それを体現した存在というよりはむしろ
神的本質を隠蔽してしまう劣化した存在であって、その隠蔽を突破して神的本質を見出すことが
すなわちグノーシス(知)ということか
そういう解釈だとやはり精神と物質は互いに対立する存在者と言えるから
反宇宙的二元論の枠内に収まりそう >>35
>>グノーシス派はこれを「グノーシス」と名前をつけてあたかも新しいことを見つけている
>>かのように言っているように思うのですが・・。
そう思ってよいのではないか。
グノーシス派のイエスはキリスト教会の説くイエスとは異なる。 なので >>33 の指摘はあながち間違いではない。
(参考に: 過去レス引用)
--------------------
286 :グノーシス派[]:2017/11/12(日) 21:33:36.86 ID:nFPUu406
議論沸騰だね
グノーシス派の立場から、ぶっちゃけ結論を先に言うならば、グノーシス派のイエス(救済者)は人格神なのだよ。
そう。イエスは神の子として人の心魂に発見さる現実としての神なのだ。 ( 三位一体とは別の解釈によるが
イエスには幾通りかの見方があってね
@ 史実として実在したであろうイエス (詳細は不明ながら)
A 四福音書から再現される神話的イエス
B 発見されたグノーシス派諸文書及び従来の福音書を理性的に比較分析して上で推定されるイエス
C @〜Bを踏まえて、自我を反省するなかで事実として心魂に発見されるイエス
グノーシス派はCのイエスを指して、救い主イエスとしている ある学者は、グノーシスを「分裂病の宗教」と
呼んでいる。構成が極めて「人工的」で分かり
にくい。これにくらべて「生命教」は、すべて
自然的構成であり、極めて分かりやすい。
しかも、人間の最も基本的な生存を基盤とする。
これからの現代の宗教は、社会情勢も、人間の
知識も全くことなる大昔の宗教ではなく、「生命教」
一択であるべきであろう。 >>36
この場合の木や石の存在とは「影としての存在」とイメージすると分かり易いかも知れません。
だから「上にある光」という言葉が前置されることになります >>34
>すべては過ぎ去りゆく。
>私も過ぎ去る者とならねばならない。 これはグノーシス派の存在認識である。
公教会信徒のだれもが、うっすらとそう思っていますよ?
僕らは、イエス様のことについてあれやこれやと話しているエマオの旅人のような
ものではないですか。それを「グノーシス派しかもたない存在認識である!」
のように大げさに言う必要はないですよ。今日は、ことさら絡んで、申し訳ないけど
いつも、グノーシス派に、どうして公教会を越える必要があるのだろうか?
と思うものですから・・。つい。 >>36
すべてが悪であり、すべてが劣化であれば、
「悪」「劣化」という観念は生じない。 >>40
>>いつも、グノーシス派に、どうして公教会を越える必要があるのだろうか?
あのね。面倒だから敢て貼らないけど、公教会の使徒信条を思い浮かべてごらん。
グノーシス派では、
「ポンシオ・ピラトノ管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ」以外のすべてを否定する。
つまり、クリスチャンが必ず信仰すべき(疑ってはならない)、それら信仰箇条をほぼ全否定している。
では、グノーシス派ではイエスをどう位置付けた上で、「救い主」であり「神」であると考えているのかという問題なのよ。
因みに、俺は元公教会信徒だよ ( やめたけどね >>39
そうなるとますますプラトニズムの変奏という感が強くなってきますね
>>41
いやすべてじゃなくて自然(物質)が劣化した存在(まあ大雑把には悪)であって
それと対置される霊は純化へと向かう可能的な善、ということなんでしょ、グノーシス的には >>そうなるとますますプラトニズムの変奏という感が強くなってきますね
それは否定しない。
プラトンだろうがお釈迦様だろうが正しいものは正しい 私は、トマスのこの名句を、「神とは全実在」
という、旧約の神概念と同一の表現と解釈
する。「神はすべて」で、木切れにも石ころ
にでも、神はいるのだから。いずれも。人間の
生命の維持に直接の影響を与える実在物
である。古代人にとっては、そのように、
生命の維持に役立つ物質は、すべて神だった
のだから。 キリスト教とグノーシスとは、「異なった宗教」
であることが、現代の結論。お互いに制限
し合う必要は全くない
。 >>42
信じないで否定した。だから威張れるものでもなく、偉くもありません。
だれもが卒業しだれもが必ず上がるステップがグノーシス派ではないのですよ。
公協会側からすると、否定してバベルの塔を築いた者にすぎません。 隠居と波長を合わせると面倒なことになりそうではあるものの、
トマス福音書七七に一言添えるなら、
「 >>そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう 」
実は、それを見る自分自身の心魂にイエスを見出すのだよ。
心魂とは自らの生命があって生きて働く意識と認識力の「場」なわけです。
だから七七節は、心魂の「救い」と無関係ではない。 人の命は本当に神秘で大切なのです。 >>47
君は公教会の使徒信条を始めとする教条を疑いなく信じているのだから、それはそれでよいのではないか。
俺は信じていない。と、いう話だからね。
さて、知性ある現代日本人は君と同じように信じられるものかね?
もし人生の意味を求め、救いを求めるならば、
公教会の信仰なのだろうか
それともグノーシスなのだろうか
第三者のそれを判断するのは我々ではない >>48
>実は、それを見る自分自身の心魂にイエスを見出すのだよ。
キリスト者は自然と行っていませんか。例えば、創造の御業に思いを馳せたり
神の息吹を感じているときに、キリスト者本人はあなたのいう心の「場」に「あ、イエスを
見出してる!」と意識はしないまでも、自然と行ってると思うのですが。
如何でしょう。 >>50
>>如何でしょう。
否定する。
>>創造の御業 ← 馬鹿馬鹿しい >>49
>さて、知性ある現代日本人は君と同じように信じられるものかね?
やはり、人間の知性を買いかぶっていましたか。信じようとするのは全知全能
の神ですからね。人間を越えた神を、人間のモノサシで測れない神ならば、それは
神ではないとして、棄ててしまわれたようです。
>もし人生の意味を求め、救いを求めるならば、
>公教会の信仰なのだろうか
>それともグノーシスなのだろうか
あなたの「救い」の内容が、キリスト者とはすでに違いますからね。
人生の意味も救いも、この世的なものとなっておられましょう。 >>52
>>信じようとするのは全知全能
>>の神ですからね。
求めなければ得られぬであろうし
探さなければ見出されぬであろう
全知全能の神だなんて言ってるから全ては無意味化して人殺しさえ躊躇しなくなるのだわ
此の世は殺伐としており
渾身の祈りにさえ神は沈黙する
それでも全知全能の神に祈りたければ御自由に
誰も止めたりしない
本当にイエスはそんなことを教えたのだろうかね
悪いけど俺はもう寝るよ >>52
クリスチャンには、イエスが「木切れ」であり「石ころ」であるという発想は、絶対にできない。
グノーシスは、当然のことながら、旧約の神概念としての「在りて在る者(全実在)」という
神概念の影響を受けているものと思われる。 出エジプト記 3:14
エヘイエ アシェル エヘイエ
とても大事な箇所ですから ちゃんと読んでください。
もちろんこれも 誤訳されていますが。
ほかにもいろんな答え方があるけど 君らにあわせて聖書にしてみました。
プロフェッサー、ご足労いただき 大変ありがとうございました。
大変 申し訳ありません。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うひのおくやま けふこへて
あさきゆめみし ゑひもせすん
南無大師遍照金剛 弘法大師
>>55
誤訳なら、正しい訳語を教えてください。「わたしは、ある」なら、人間誰でもわたしは、ある
と言えるのですから、神名としてナンセンスです。日本語としてもおかしい。なぜ、「存在」と
いう言葉を使わないのですか。 あれな、20世紀初頭英国で誕生した所謂スカウト運動 此れがボーイスカウト(カブスカウト、ガールスカウトも含む)の発祥。救世軍運動とは流れは違っていた。
同じ時期 フラナガン神父による少年の町運動とディビッド ウィルカーソンによるティーンチャレンジ運動 共に映画になってアメリカではかなり知られた団体になっている。 我が国に於いては救世軍による売春による寡婦救済運動と禁酒運動 青少年育成運動が注目される、いわゆるYMCAもその一つだ。
明治後期に上陸した救世軍 吉原の任侠と対峙していたが イルミナティの裏工作で 正面戦争は回避され、大正期の大震災で東京横浜での大活躍で 政府に認められ 廃娼運動 やくざ撲滅運動と続いたが有事戦略で 戦時中は停滞 戦後売春防止法施行に至る。 戦時中キリスト教会の内 英米系は排斥されたが、ドイツ系とカトリックは保護された。三國同盟による、カトリック系立教大学や ドイツ系根津教会などから聴いた話だから間違いない。藤田西湖によると大本営はドイツ系クリスチャン将校らが運営し皇族にクリスチャンが入った理由 ・カ トリック ・ 奇形児 出生的、の避妊、去勢、外科の、振り返り
人間 精神 身体 知力。
恋愛した部分・全体性の欠落からの回帰、保険。 手術の拒否権 承諾時の計画の本人、家族の同意参加性 子育て特殊支援。
法。愛護 愛語。 「わたしはある」の正確な訳語を論じると、また聖書のボロが出るから、話題を逸らして、
必死で逃げてるな。 イエスは、己自身について「わたしはある」と神名を使っている。あきれ果てた話だ。
これ以上の神の冒涜があるか。十字架は、彼自身の大罪に対する当然の結果だ。 そもそもキリスト教は、ヨハネ福音書をベースにしている。
そしてイエスという一人間を神とする発想はグノーシスのものだ。
キリスト教とは本来、イエスを私の救い主だと信ずる宗教なのであるが
イエスを神とまではしなかった。しかし初代キリスト教は滅び、
グノーシスキリスト教が、キリスト教を乗っ取り、自分の出自であるグノーシスを
はげしく攻撃して丸ハゲになってしまったのである。
ハゲは罪なのだ >>64-65
後でエゴーエイミについて詳細に考察してやっから待ってろや イエスは神だろが! エヘイエ アシェル エヘイエ 出エジプト 3:14
直訳 : EXIST AND EXIST・・・・・あるもの と あるもの
現在は「ありてあるもの」と翻訳されていますが、これを英語にすると EXIST OF EXIST となり、
ヘブル語の原典と大きく食い違うことになります。
つまり、ギリシャ語に翻訳するときにユダヤ教の知識がないために発生した誤訳です。
主の最後の祈り「エリ エリ ラマ サバクタニ 」と同じ 重大な誤訳です。
あるもの と あるもの が本当の意味です。決して幼稚な二元論などではありません。
現在、イエスはキリストであるという認知バイアスに陥っている時代に、真理が宣べ伝えられることは
ないと思います。
自分から真理のほうへ行って 得てくる分には いつの時代であっても 豊かにあたえられます。
おち >>58
それは あなたの勝手な思い込みです。
ちゃんと字の通り読んでください。
それで理解できないのは あなた自身の力が足らないからです。
他人のせいではありませんよ。
いわば 【 ある 】ということについて、
他人に確かめようとしないでください。
おち
さて と始めますか、モーセがシナイ山で燃える火の柴から語る神ヤハウェの使いが 「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」と名乗る話
エヘイェ・アシェル・エヘイェ から解明しましょうか?ちなみに伊勢神宮のヤタノ鏡の裏面に刻まれているヘブル文字もエヘイェ・アシェル・エヘイェ ちな、三位は一体であって、理解できないのは 教義が間違っているからではありません。
宗教の根本部分をいじくりまわすなんて 完全に狂っていますよ。
ヘブル語でエヘイェは動詞ハヤー(ある)の第一人称単数未完了形。アシェルは関係代名詞。 だから英語なら
I am who I am .
または、
I am that I am .
日本語に直訳すれば、「私は私がそれであるところのものである」
何のこっちゃ? 何ということはい 意訳すれば
「俺は俺だ」になる! そもそも名というのは他のものからその個体を識別する記号。ところが天地を創造された唯一神は 時間と空間)を超越した宇宙外にいる存在者 神さまというお方はただお一方 他に区別すべき個体などありません。分類の対象にならないのだからはじめから名など本来不要 さて、そんな訳でモーセから あなた様の「お名前は」と尋ねられた神さまは 「この馬鹿め」とお思いになったでしょう まあ 仕方ない 便宜上答えたのが、「俺は俺だ(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)」って理屈よ! ヤタノ鏡は 日本の文明の黎明期の最初の金属(青銅)であるならば、
そこに いわゆるぞくに言うユダヤ教の真理が書かれていたとしても
なんら矛盾しません。
しかし、それが日本に存在することは 完全に非論理的です。
どういうことかと言うと、私たちの前提とする論理に 間違いがあるということです。 日本語に直すと まさか聖書に「俺は俺だ」はないから 体裁よく 「わたしはある。わたしはあるという者だ」ってことになりました とさ 出エジプト3・14
ヤハウェなる神もそうだが、俺だよ俺なる神なんて なかなかユーモラスでお茶目で不思議な方ですよね♪士師13・18 >>75
このことば 出エジプト 3:14 のどこに 私を指す名詞が書いてありますか ?
もし「ワタシ」を入れれば 完全に不正です。
ハイ、完全論破。
隠居、サロメ、堅物的福音派は共通項があると確信した笑。
十把一絡げの硬直した思考回路
という事を発見したので、しばらく、このネタが今後の方針やな笑。 そのヘブル語で「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」が
ギリシャ語にすると「エゴーエイミ」になり キリストに適用されるって神学的な話は ま、今回は止めておきましょう。説明するのに半日かかるだろうから
俺は俺だ ってユニークな神さま 存在が あるが なんて議論は空の空 それこそイエスさまは カンラカンラと笑っていますよね ヨハネ8・24 聖書の最後のページ、黙 22:18 になんて書いてありますか ?
あなたがたは 【 永遠の生命 】を まったく知りません。
我々は すでに裁かれて 久しい。 >>74
見たことあるのですか?三種の神器の写真公開してほしいものですね。因みに マナを入れた壺 あの形なんですよ 前方後円墳 Ю
天皇家に秘匿される生後8日目の割礼の話とかいろいろあるんですが なべおさみと久保有政の古代ユダヤ対談に詳しいのでお読みくださいませ。 ちゃんと目をひらいて よく見てください。
エヘイエ ・・・・ある
アシェル ・・・アンド
どこに ワタシって書いてありますか ?
ちょっと出かけてきます。ごめん。
>>80
あはは エヘイェが動詞ハヤー(ある)の第一人称単数未完了形とあり 関係代名詞アシェルがつくのだから 「一人称」「わたし」がつくの知らないのか?「Iam」※未完了形の意味知らないのか?
論破か、笑うな 勉強不足もいいところだな。
※ (わたしは)あるところのもの である
(わたしは)は確かにヘブル語にはないがな♪ 本題はこれですから、ズレないでね 💝
命の家 66 ..844神も仏も名無しさん2017/11/17(金) 06:50:14.16ID:J4kJseDF
>> 824
出ましたね、グノーシス随一の名句が。しかし、キリスト教を信じる君や美魔女には理解
できないと思う。
その句は、「本質」とか「霊魂」だとは言っていない。その句は、木でも石でも「すべて」
と言っている。
美魔女の「模範解答」を聞きたい。
>>75
>I am that I am .
「俺は俺だ」は英語的には誤り。最初のamは「・・・である」という不完全自動詞だが、
最後のamは「存在する」という意味の完全助動詞。exist and existも考慮すれば、
「存在する」の強調形、即ち「全実在」となる。当代切ってのユダヤ人哲学者
レヴィナスも、熟考の末「全実在」と解釈している。
キリスト教が「全実在」と訳せないのは、イエスが全実在の一部になってしまうから。 >>86
そうです「あなた」なんです、とは言わないよな
そうです「わたし」なんです、ってね
第一人称単数未完了形とはそういうことよ
で わたしは誰でしょうか? あれれ >>87
だから
(私は)ある そして(私は) ある が直訳です。
私はあるもののなかのあるものだというのは ズレます。 >>92 ありがとう助け船
【 全 実 在 】
も う し あ わ せ 。 >>83
だから 付け加えてないから、
あれは聖書+コールアン 聖書+原理講論 聖書+聖書研究 聖書+モルモン経 などの意味でしょ? >>89への補足
例えば、「神は実在する」は、"God is."とだけ言えばよい。 >>95
それは「実存」ってことね?哲学は部外者なんでわからないなぁ。
あくまで ユダヤ教キリスト教的見解でしか論じられない 悪しからず。
因みに 実存ってハイデッガーとキエルケゴールとかのアレだっけか? >>95
文字通り「すべての実在物、全世界」です。ナザレ村のイエスは、実在の「一部」となります。 確かにヘブル語 エヘイェ・アシェル・エヘイェ→ギリシャ語エゴーエイミ
これを英語 日本語に直すのは至難の技 翻訳家の技量が問われるがな 多分聖書中一番か二番に難解な翻訳だろうね モーセが 主とお会いしていろいろと話聞かされたことの集約が
この エヘイエ ではないでしょうか。
もうこの辺まで来ると 善悪二元論とかは どこにあるんですか ?
>>97
「実存」とは違う。実存は、一人でも実存です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています