>>916
>後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
>という話になる。
>つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。

だから、
≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ? ってこと。


(イチローがマリナーズへ戻り、清宮は即活躍を期待されているわけだが)w
或は、今回、平昌で多くのメダルが取れたわけだが、
素振り(スィングの修習)や、各種パフォーマンス、
或いはフィギュアならジャンプの為の基礎的なウォームアップやメンタル面の準備等、
そういうの無しに、結果が出るはずも無く・・。
なぜ、アスリートが、素人目には「競技前に疲れちゃうんじゃないの?」と疑問に思ってしまうほど
念入りに準備運動するか。

竹林の一音で悟ると言われる時(頓悟)も同様。
そこまでの蓄積や、慣らし運転、或いは、(最近の車は性能がいいがw)
冬場のエンジンがかかり難い時代は、よく、早めにトライして、温めておいたもんだ。



人は、日日、一瞬一瞬、外界の刺激に反応しながら生きている。(それは如来とても同じことだろうが)。

そうした中で、
それらを遮断し、或いは防御し、或いは斥け乍ら、智慧を働かせる(諸法の縁起を見る)
というのが、本道ではないか?
だから、大般涅槃経での、阿難への「念を確立していなさい」という助言になるのではないか?


いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない。
けど、それは異例であって、実際には、
それこそ、まず墨を摺らないと文字が書けないのと同じだと思うわけでね・・。  >>止を踏まえての観