【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 「わたしは世尊に、こうたずねました。
『尊師よ、よく慇懃精進、慇懃精進ということを申しますが、
どのようにしたら慇懃精進なのでございましょうか?』と。
すると世尊は、こうお答えになりました。
『モッガッラーナよ。ここに一人の修行者があって、
慇懃なる精進に住している。彼は実に、その皮膚がしぼもうが、
腕がしぼもうが、その骨がしぼもうが、その身体の血も肉も涸れようが、
努力・精進によって達すべきものを達するまでは、
断じてこの精進の座を立たないと決意している。
モッガッラーナよ。これが慇懃なる精進というものである。』と。
阿含経典
即ち、悟りへの執着がありすぎてそれが悟りの妨げになるようなことは無い。
むしろ命をかけてまで悟りを得ることに執着せよ、とブッダは語っている。
そして悟った後は、速やかに筏に執着することなくそれを捨て去れ、と説かれる。 >>942
「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」
はダンマパダの和訳(ブッダ真理の言葉とか)そのものではなく
法句経(ダンマパダ)の詩偈の一つ一つを6コマくらずつで漫画化した
「マンガ仏教的生き方―真理と実践の方法」
に描いてあったw
ブックオフで108円で買った本だが値段以上の価値はあったよ
今ガチで入院中なので手元にないけどね
まもなく退院なので退院したらそのページだけ写真撮ってupしますね、その日まで少々お待ちあれ
>未だ河を渡っていないのに筏を「手放しする」者は、そこで溺れて死ぬだろう
それゆえに
観神足 − 知慧をもって思惟観察して…
↓
(無明に依存している、我を主体とするのではなくて)
仏の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
仏の智慧と慈悲をもって → 無明の世界を手放しせよ
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
…ところが今
(仏性からの真如縁起の智慧と慈悲をもって)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
(仏性からの真如縁起の智慧と慈悲をもって)
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
_ _ _
無明している世界の中で
「手放しする」者は、そこで溺れて死ぬだろう
これは、まさに
おじゃるのことでつね
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m ネット上の「我」といえる「コテ」の人は、「我執が極めて強い」わけで、
こと仏教スレにコテで参上する人に仏教に関し学ぶことは少ない。
「私/我」というものは無い、と説く仏に真っ向から反逆する人々なのであるから。
即ち彼らは仏の教えの意味を知らない。
意味をしらない人々から学ぶことは少ないので彼らは「あぼ〜ん設定」される。 あぼーん設定されたコテは頑張って何を語ろうが「読まれもしない」ので、
只、不利益を得るのみ。 「このxxxこと、『私』が「教えてやったのだ、凄いだろう」と思ってはならない。
ブッダはそのように語る。
>ネット上の「我」といえる「コテ」の人は、「我執が極めて強い」
それゆえに、おじゃるは
仮設としての
無明している世界の中で
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
遍計所執性している
と書き込みしているので おじゃる
>「あぼ〜ん設定」される
そうでつか
それは知りませんでした
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m 無論、「仏教」という縛りを有しない人々にとっては、その限りでは無い。
彼らは自由自在に「私」「我」を主張し、何某かの利益を得るかも知れない。
>「読まれもしない」ので、不利益を得る
>「教えてやったのだ、凄いだろう」
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
おじゃるは
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
遍計所執性している、おじゃるは凄いだろ?
ということでつね?
そうでつか
それは知りませんでした
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m 「我」「オレ」「私」をあえて作ろう、としている人から「無我」を学ぶこと、
教えてもらうことは決して出来ない。 もちろんviriyaやchandaは捨てちゃ駄目
でもlobhaなら大事に持ってても意味ないよね筏じゃないから >>963
の説明なら、その程度の紹介文ならそのリンク先を踏む気にはならない。 悟りたいって言葉でも、自分の無明をなくしたい、本当のことを知りたいって意味での悟りたいと
悟りという何かすごいものを得たいって意味での悟りたいでは全く違うよね >>965
自分は「人間が生きていく上で発生する苦しみをなくしたい」だけで、
とくに「悟り」「本当のことを知りたい」「無明がどーたら」がどーたらには
あんまというかむしろ全く関心は無いな。
現世、生存中に「苦しみを滅ぼす」ということにしか興味が無い。 「やったーオレは悟たんだ!!!」のような、それを望むような人は、
超能力獲得目的でオウムに入った人の類と同じなんじゃないかな。 「オレ」は無常、苦、無我だから、
「オレ」が無常、苦、無我だということが分かった(悟った)として、
「やったー」という反応になるのかどうか。 無我なのは分かったとして、
知識や論理だけでなく、瞑想を通して体験的に分かったとして、
だからといって、まだ解脱はしていない。煩悩がある。
もはや修行する以外に選択肢がない。
これはもう、修行開始の合図。
人によるだろうが、
ヤッター!という反応になるだろうかw
うへぇw;;;っていう感じじゃないか。 >>966
同意
ワットパー・スカトーのプラユキ・ナラテボー師がそういうスタンスで、仏教の本質は自他の苦を取り除く、抜苦与楽だと説いていたような
悟りを目指しても抜苦与楽がなかったらオウムみたいに俗世間と解離することになりそうだし 自分が何のために何をしてるか、明確にしていくのはとても大事だと思ってるな アーチャン・チャー
「仏道修行においては、結果を出そうとしてはならない。
解脱をしたい、悟りを開きたいという強い欲望は、解脱を阻む欲望になってしまう。
この欲望からのエネルギーは、疑(ウィチキッチャー)と掉挙(じょうこ:ウダッチャ)を引き起こすことになる。
どんなに長く、どんなに熱心に修行に励んでも、欲望から智慧は生じてこない。
ただ、手放すことだ。
気づきをもって、心と身体を観察するのだ。
だが、何かを達成しようとしてはならない」 アーチャン・チャー
「瞑想とは、一本の丸太のようなものです。
ヴィパッサナーは丸太の端に、サマタは反対側の端にあたります。
もし、あなたが丸太そのものを持ち上げれば、両方の端が一度に上がります。
どちらも同じく心なのですから、サマタとヴィパッサナーのどちらが重要かということは、問題ではありません。」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972844422831292416 >>950
>私は「悟りを求める」はlobhaだと思ってます
悟りをpiiti(喜)の所縁にしたらlobhaなしに悟りを求めるchandaが生じますけど
*喜piiti 所縁を好む特相をもつ法 >>974
悟りを求める=lobhaとは限りませんよって話はよく分かったので、あんまり頑張る気は無いんですがw
ちょっと気になったので一点だけ教えてください
> 悟りをpiiti(喜)の所縁にしたらlobhaなしに悟りを求めるchandaが生じますけど
もしかして私、涅槃を所縁にとれる人とお話しちゃってました?…(^^; アーチャン・チャー
「私たちは、言葉に執着すべきではありません。真の智慧の源は、私たちの内側を観察することの内にあります。
この種の学びのみが、真の価値を持つものであり、私たちの問題に終止符を打つものなのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972859520249548800
「真のダンマの学習には、たった一つの目的しかありません。
それは、私たちの人生における苦(ドゥッカ)という現実から脱出する方法を見つけ、自分自身と、生きとし生けるものの、幸福と平安を得ることです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972708538450505729
「もし、あなたがダンマを理解したいのなら、すべての物事を諦め、手放すのです。
修行についてあれこれ考えることは、影をつかまえようとして、実体を見失うようなものです。たくさん勉強をしすぎる必要はありません」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972678333476454401
「表面的な経典の学習は重要ではありません。
もちろん経典は正確に法を説いたものですが、それらをただ読むことは、正しい理解をもたらすものではありません。
それらは、あなたに正しい智慧を授授けてくれるものではないのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972602816140210176
「ブッダのダンマを本の中に見出すことはできん。
もし、おまえさんが真にブッダの説いたことを理解したいのなら、本を読むことに煩わされることはない。
そんなことより、自分の心を観察するんじゃ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/971666657104965632
「おまえさんは本当は、四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない「大きい」「小さい」「あなた」「私」なども存在しないのだ。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我も無我もないのだ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972029040843345920
→このスレでよく聞く勝義視座ってやつかな? >>975
lobhaも所縁(=対象)がないと生じないでしょ
所縁って対象ですよ
で、悟りを所縁ってのはここでは概念(=paJJatti、パンニャッティ)のつもりでお話してます >>977
伝わってない懸念があるなら仏教用語のとこはパーリでもいいっすよ
棒やにょろにょろはスマホでは付ける気にならないけどw
arammanaがないとcetasikaの活動も起きないのは知ってます
涅槃を所縁にとれる人?って聞いたのは、少なくともsotapannaじゃないとできない事なので、びびっただけですw
pannattiであれば分かります ↓怪しい宗教団体のリンクかもしれないけど、とりあえず
ttps://plaza.rakuten.co.jp/iwakurachiro3/diary/201106050001/
認識の過程につながって思考が始まる
認識の過程は処(ショ:Ayatana)が所縁(ショエン:Arammana)と出会い
識(シキ:Vinnana)が生じて開始する
その所縁についての知識で、例えば、見る・聞くから心の中で知ることまである
このようなことが生じるとき、認識があると言う
またはパーリ語で触(ソク:Phassa)と称する
認識があるとき、その所縁に対する楽・快・苦・不快・不苦不楽(苦でも楽でもない)などの感覚が生じる
これを受(ジュ:Vedana)と呼ぶ
同時に、あれだ・これだ・あのよう・このよう、という所縁の知覚があって、これを想(ソウ:Sanna)と呼ぶ
それから様々な思考・熟考が始まる。 これを尋(ジン:Vitakka)と呼ぶ
認識の過程は外部の体験を受ける「所縁の体験」であれ
心の中の熟考をもたらす「様々な事柄を思い浮かべる」ことであれ、同様である
眼から知ることを例として
眼(処)+色(所縁)+見る(眼識)=認識(触)→苦、楽を感じる(受)→知覚(想)→思考(尋)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html
CETASIKA:心所
人格は条件によってコロコロ変わります
心に怒りが溶けたら怒りの人になる
次の瞬間にどの心所が生じるか、自分にもわからないのです
_ _ _
預流果(Sotapanna)、一来果(Sakadagami)、不還果(Anagami)、阿羅漢果(Arahat)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A8%AD_(%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%94%A8%E8%AA%9E)
パンニャッティ
施設
仮設
説一切有部
あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
有法、法体(ダルマ)を想定し
主観的な我は空だが客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在する
大乗は『(三世実有説も)無自性・空』
相依性に則った「無自性」「法空」、法(ダルマ)すらも仮の現れ(そして滅)
縁起に依存して
現れて(そして滅して)いる
仮に設けられたもの 一般人を遠ざける使用する必要の無いpiiti、lobha、chandaなどの用語を
(私は知っているかのように)積極的に使いまくる人の程度はしれているのであぼーん。
十二縁起
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
パオ・セヤドー
…
(「仮設としての」という意味で)
無明が生起するが故に、五蘊が生起する
渇愛が生起するが故に、五蘊が生起する
無明に依存して「苦しい」という想いが現れているので
それゆえに
(「苦しい」という想いが依存している)無明している世界を手放して
そして
(「苦しい」という想いが依存している)無明している世界が離れていく
そういう意味では
>>932 ≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ?
ということかもしれない
滅を了知する智慧
生滅智という観智
解脱智見
『(仮設としての)無明している世界を手放して。解脱した』と知覚して住む 何が言いたいかというと、別のよくしられた日本語で十分置き換えられる語を
わざわざ専門用語を多用して記述したいというのならば、
全文サンスクリット語やパーリ語などで記述して一人悦に入ったらいいじゃん、ってこと。
それはできないくせに、ということ。
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
ピティ(piti、喜)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
lobha(ローバ:貪)⇒眼耳鼻舌身意によって得られた情報を受け入れるはたらき
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html
canda(チャンダ)⇒意欲。やる気
たとえば仮に
自分(ID:CPpEOegt)の場合は
canda(チャンダ)が足りないので
呼吸を観ることができないのかもしれない
自在力(神通力)
観神足
智慧と慈悲の canda(チャンダ)をもってすれば
呼吸を観ることもできるのかもしれない? >>953だが今日午前中退院してきた
では本の写真
https://i.imgur.com/mweBJsQ.jpg
https://i.imgur.com/uRa8OW9.jpg
しかしこういった迷悟一如的な詩偈はこの本の元ネタの法句経にあったかな?
パーリ中部経典にはあるが…
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いは ない。
(パーリ、中部 2―18、蜜丸経)
「悟り」と
掴もうとしている想いから
離れることができるなら
迷うこともない
「悟り」と
掴もうとしている想いに
執着するのなら
苦集滅道への妨げになる(場合もある?)
仮設としての
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
掴もうとしている想いが現れる(そして滅する)
道元 普勧坐禅儀
智慧と通力をもって
心を明らめても
掴もうとしている想いに
執着しているのなら
自らの解脱の道をふさいでしまっている 所縁とか意欲とか概念とかより紛れが少なくていいかと思ったんだが
嫌がられるのか…
たとえば
自分(ID:CPpEOegt)の場合は
教学も初心者にも及ばない段階なので
それゆえに
日本語で
現代語訳で
初心者にもわかりやすい説明で
宜しくお願い致します ヨロ m(_ _)m
それでも、たとえば
(日本語訳にしないで)
パーリ語の方が
正確な場合もあるのかもしれないけど… 987.
心理学をやっている場合ではないよ。
想いの問題ではない。 >>944
ブッダの教えを完全に無視して解脱した聖者って誰ですか >>981
アビダンマッタサンガハぐらいは読んでおいた方がいいのでは。 >>992
テーラワーダの僧侶になるわけではあるまいし読む必要は全くない
それでも興味がある人は読めばよい >>993
でも結構面白いんだよ
瞑想実践しか興味無いとしても心と心所の対応表と不善心所のとこは読んどく価値あると思う
不善心所があるかぎり道果をまわすどころか瞬間定ですら発生しないってことが分かる まあこのページを楽しく読めるかだねえ
http://www.j-theravada.net/pali/index.html
自分はこういうごちゃごちゃと分別したものは苦手
パーリ語はアルファベットのみならずそのカタカナ表記も馴染みがないものばかりで読むのが困難だし
論書でも中論や大智度論などは難解でも漢字で書かれてあるから現代語訳されてれば何とか読める
こちらも読んでて面白いわけではないけどね とはいえ、漢字の経典は中国以降だから、本来ならサンスクリット語のはずなんじゃないの。 うろ覚えだけど釈迦が話してたのはマガダ語かパーリ語ということになってたと思う
現在はマガダ語説が有力なのかな >>994
あなたの瞬間定に誤解がある、マハシのよく読んでみたら、
定を伴っているから瞬間定に固執しなくても、瞬間定になるとある
高い集中によって、細かな観察ができるけど、
それは洞察智を体得のためであって、そこを卒業すれば、
高い集中は必要ない、それは不放逸になるってことではない
結局、最終的には思いの手放しになるが、瞬間定なる思いの煩悩を抱えない >>987
>道元 普勧坐禅儀
>智慧と通力をもって
>心を明らめても
>掴もうとしている想いに
>執着しているのなら
>自らの解脱の道をふさいでしまっている
おお、スッタニパータと同じこと説いてる
その方法は集中だけではないけどね このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 129日 4時間 26分 38秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。