【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>904
オレには観っぽく見えるから同意してもらえれば
('A`)人('A`)ナカーマ
になると思うけど
それを求めてるんじゃなくて、止なら止でいいんだって
そこはこういう理屈があって止なんですって話がわかれば
おおー勉強になったわーって感じじゃん 相手の心情とか勝手に決めて話してるひと多いよね
見えてるのはただの文字なのに >>905
自分で禅は門外漢だの仏典の話は理屈だの言っておいてそれかね 禅宗における坐禅
『小止観』では、坐禅は止観の一部分にすぎません。では、禅宗における「坐禅」はどうでしょうか。
(略)
(六祖慧能大師の)『六祖壇経』では、
「我がこの法門は、定慧をもって本となす(中略)定慧は一体にして是れ二ならず」(第三)
とあり、禅定と智慧を別々に分けるものではないことを明言しています。
定慧をそれぞれ灯りと光に例え、灯りがついて部屋が明るくなるのは、別々のものが組み合わさるのではなく、灯りと光は本体として同一のものであり、定慧の関係もこれと同じである、と解説されています。
その後に、
「この法門の中には障無く碍無し。外、一切善悪の境界において、心念起こらざるを名づけて坐となす。内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」(第四)
「外、相を離るるを禅となし、内、乱れざるを定となす」(第四)
として、坐禅を単純な言葉の解釈ではなく、実践的意味を前面に出し定義されています。
この時、禅定と智慧は別に考えてはいけない、という前提がありますので、坐禅は禅定のみの鍛錬である、とはしておりません。
これは『小止観』が言う「止観は車の両輪」と同じことであります。
よって、禅宗が定義する「坐禅」には、「止観」の要素がすでに織り込まれているのです。
次に、行住坐臥の場面ですが、禅宗では臨済宗系第8祖・百丈慧海禅師が『百丈清規』を作られて以降、作務の大切さを説きます。
作務は労働のみならず「仏としての務めをなす」という精神により、日常のすべてが修行であることを重んじます。
坐禅のみならず日常すべてにおいて禅定を養う、ということは、禅宗においては基本的教義です。
このように、禅宗における「坐禅」は、定慧の実践を包含し、行住坐臥における「止観」は、禅宗修行の基本である、となるでしょう。
止観と坐禅
http://www.harutsumi.net/bunken-sikantozazen.html >>907
> >>905
> 自分で禅は門外漢だの仏典の話は理屈だの言っておいてそれかね
おいひとの発言捏造するな
オレが仏典の話は理屈だっていつ言った
レスあげてみろ 狭量なひとがいて嫌だなぁと思ったけど、そういう今の自分の知覚と意識を観察してみたら、それはまるで黒くて澱んだ人を寄せ付けない沼のようなものに見えた。
こういう感覚になることってたまにあるんだよなぁ。 自性清浄(プラクリティ プラバースワラー)
尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。
大乗仏教はすべてこれを承認する。
ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。
また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
高野山の大僧正、松長有慶氏によると、このプラバースワラー(清浄)は空のことであり、
どんどん一切のものを否定して行って最後の最後に否定しきれずに残る”光輝くもの”を意味する。
これを鵜呑みにすれば
清浄=空=光り輝くもの
大智度論では空即涅槃と説く(般若経では空即是涅槃)。
おそらくは松永氏の説を借りて
涅槃=如来像=清浄=空=光り輝くもの
とすれば分かりやすい。
真に大智度論にそうと、自性がない空は取ることができないが、取ることができないという相が涅槃である、とされる。
しかし、そこから進んで、空は無自性であるから分別がなく平等の相があるので涅槃である、というのが実際のところではないか? >>914
心の動きを観察することと、心の作用を止めていく、
の2種で攻めた方が良いと思います。 仏説(長部経典/阿含経典)によると、まず持戒をさせ、次に念処行をさせ、
次に座って心の止によって、入定し、初禅→2禅→3禅→4禅→解脱→解脱知見、
と説いている。
只、テーリーガータ等を読むと、xxxしている最中に突然解脱しました、
とかのような仏尼の告白が随所に見られる。
後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
という話になる。
つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。
もっともブッダは持戒をさせ、念処行をさせ、座って心の止によって、
→入定→初禅→2禅→3禅→4禅→解脱→解脱知見の法を語っている。(長部経典)
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%88%92%E5%AE%9A%E6%85%A7%E8%A7%A3%E8%84%B1%E8%A7%A3%E8%84%B1%E7%9F%A5%E8%A6%8B
戒律をたもち、禅定に入り、智慧を磨き
あらゆる煩悩から解放されて、心の安らかさを自覚するという五つの功徳
その功徳を具備するものを五分法身という
にゃるほろ =^・ ・^= ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m
(↓リンクの貼り憑けができない)
五分法身を磨耀す
戒・定・慧・解脱・解脱智見
戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身を磨瑩す 座禅バカ、か。
バカでもできるよ。だが悟れない。
瞑想、か。
バカでもできるよ。だが悟れない。 >>919
悟ってくれ。
そして慈悲の心で法を説いてくれ。
おおいに期待している。 いや言い方がわるかった
悟ろうと思ってるから悟れない
てことが言いたかった 悟ろうと思うと悟れないというのは禅宗でいうことじゃないの?
↓おじゃるの場合は
「悟ろう」と
掴もうとしている想いに依存して
それゆえに「悟れない」
そして
誰もが成仏するわけではないのなら(五性各別)
仏の智慧と慈悲をもって
法を説いても
物事の本然の姿は全て
『塵や汚れから離れたもの』
ということに気づくことなく(道元・普勧坐禅儀)
無明と渇愛が絡み合って
仮設としての
無明の中で
輪廻を繰り返している おじゃる
(前世の記憶はないけど…) >>921
「悟ろうと思ってるから悟れない」
そんなことはブッダの仏典に記述されていない。
むしろ悟りへの情熱が強ければ強いほど修行の完成は早いって書いてある。
そこを勘違いして「悟ろうと思ってるから悟れない」などと自論で想い込んだら、
それはその人は絶対に悟れない。 野球がうまくなりたいと思えば思うほど野球がヘタになると思うかい? 「悟ろうと思えば思うほど」、その人はより戒を守り、瞑想し、修行の完成に努めるだろう。 >>922
そうそう座禅中に雑念としての「悟りたい」は障壁になると思う。
「前世の記憶はないから、だから輪廻もない」
と簡単明瞭に輪廻を否定する人もいるけど
前世からの異蘊相続は
種子に記録され、第八識のなかにたくわえられる
これを薫習という
たとえば仮に
異蘊相続に依存して
前世からの種子が
第八識のなかにたくわえられていたとしても
仏道への障害がある有覆無記の
第七識に依存して
第六意識からは
第八識のなかにたくわえられているものを
観ることができないらしい
有覆無記の第七識が障害となって
第六意識から
第八識のなかにたくわえられているものを
観ることができないので
それゆえに
「前世の記憶を観ることができないジャマイカ?」ということになるらしい
「悟ろう」が障害になるのではなくて
(「悟ろう」と)
掴もうとしている想い
この
「掴もうとしている想い」が
仏道への障害となっている
ということであるらしい
道元 普勧坐禅儀
智慧と通力をもって仏道を得た、心を明らめたといっても
(「掴もうとしている想い」に依存しているのなら)
それは自らの解脱の道をふさいでしまっている
有覆無記の
第七識に依存しているのなら
仏道への障害がある
ということであるらしい 剣や武道の達人がよく言う強くなろうと思ってるうちは強くなれないみたいな話でしょ
何かになりたい自分という我や欲があるとその範囲以上にはなれない
>自分という我や欲があると…
(大乗の)中観派も
それ自体として自立的に成立しているわけではなく
「無自性」(無我・空)であり、「仮名」「仮説・仮設」
「縁起」
上座部も
我ではない(無常なので、それゆえに無我である)
そうすると
どこの
だれが
呼吸の観照をするのか?
それゆえに
観神足 − 知慧をもって思惟観察して…
↓
(無明に依存している、我を主体とするのではなく)
仏の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
仏の智慧と慈悲をもって
呼吸の観照に戻してくる要素があります
(『仏の世界に戻る帰る要素がある』という意味かもしれない) >>916
>後者が間違いや嘘で無いとすれば解脱は、必ずしも座って定に入らなくともおこる、
>という話になる。
>つまり念処行(ヴィッパサナー行<すなわち観>)のみで解脱が得られるという風になってしまう。
だから、
≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ? ってこと。
(イチローがマリナーズへ戻り、清宮は即活躍を期待されているわけだが)w
或は、今回、平昌で多くのメダルが取れたわけだが、
素振り(スィングの修習)や、各種パフォーマンス、
或いはフィギュアならジャンプの為の基礎的なウォームアップやメンタル面の準備等、
そういうの無しに、結果が出るはずも無く・・。
なぜ、アスリートが、素人目には「競技前に疲れちゃうんじゃないの?」と疑問に思ってしまうほど
念入りに準備運動するか。
竹林の一音で悟ると言われる時(頓悟)も同様。
そこまでの蓄積や、慣らし運転、或いは、(最近の車は性能がいいがw)
冬場のエンジンがかかり難い時代は、よく、早めにトライして、温めておいたもんだ。
人は、日日、一瞬一瞬、外界の刺激に反応しながら生きている。(それは如来とても同じことだろうが)。
そうした中で、
それらを遮断し、或いは防御し、或いは斥け乍ら、智慧を働かせる(諸法の縁起を見る)
というのが、本道ではないか?
だから、大般涅槃経での、阿難への「念を確立していなさい」という助言になるのではないか?
いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない。
けど、それは異例であって、実際には、
それこそ、まず墨を摺らないと文字が書けないのと同じだと思うわけでね・・。 >>止を踏まえての観 >>924
悟ろうという想いはLobhaだからテラワダでも一緒じゃね?
潰さないとあかんやつよ
まあ瞑想中に潰してけば消えるけど
>いきなりできる奴も、中にはいるかもしれない
第一禅定とかを飛ばして
いきなり
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかいってるのは
禅宗系のような気がする
只管打坐する前段階として
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
想受滅
そして、それから
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐
という段階の方が良いという感じがする
とりあえず
おじゃるには
いきなり
(余念を交えず、ただひたすら)只管打坐とかは無理で おじゃる
呼吸の観照もできないけど…
>止を踏まえての観
仏の世界から → 縁起している世界を観照せよ
無為法の世界から → 有為法している世界を観照せよ
観(ヴィパッサナー智慧)をもって
そして、止(サマタ禅定)をもって
呼吸の観照に戻る
『仏の世界に戻る帰る』
窮境の観(ヴィパッサナー智慧)は
仏そのもので
無為法である
それゆえに
止(サマタ禅定)
という意味かもしれない?
ちっと無理がある説明かもしれない?
最終的には
第四禅定も手放しするかもしれない
この第四禅定も手放している
仏そのものに近い状態を前提として
すなわち
止(サマタ禅定)をもって
呼吸の観照に戻る
『仏の世界に戻る帰る』
仏そのものに近い − 止(サマタ禅定)をもって
という導きなのかもしれない
縁起している
呼吸を観照してるので
観(ヴィパッサナー智慧)をもって
という世界も同時にあるのかもしれない? >>933
>悟ろうという想いはLobhaだからテラワダでも一緒じゃね?
lobha(貪)じゃなくてchanda(意欲)だけど…勝手に決めつけないでくれる? >>924
ダンマパダの中に悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなるというような詩偈があったと思った もちろん発心(発菩提心)、菩提心は大事だし
不奔逸に修行に努めということも遺言として残ってるほど有名だけどね >>937
今と異なる状態を求める想いを含んだchandaですか?
まあchandaだとおっしゃるならそれで結構です
大変失礼しました 実践したことがないので、わからないけど
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えるときには
意欲・やる気も手放して
ttp://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想処も超えて想受滅
諸根(眼耳など)の働きはあるが
心作用のうち
(意欲・やる気も手放して)
受、想、行が滅している
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
…
業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す
…
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて → 「苦しい!」という想いが現れる
最終的には?意欲・やる気も手放して
無明滅して → 行滅して → 識滅して → 「苦しい!」という想いが滅する
無明に依存している
すべて一切の諸法を手放して → 有余涅槃
仮設としての
色受想行識を手放して → 無余涅槃 >>938
ダンマパダのどの辺りに「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」という文言が?
ダンマを100回とは言わず読んでいるボクにはそのような記憶は全くないけれども。
責めているんじゃないよ。どの辺にどういう文章が書いてあったか、
思い出したら教えてください。 >>938
前払いにこれ差し上げます。
http://fast-uploader.com/file/7076338152463/
無論この訳の中にはその文言は書いてないとおもうけど、
「ダンマパダの中にあなたが見た『悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる』という詩偈」
の箇所を教えてください。 >>938
答えられないでしょうからヒントをあげましょう。
パーリ聖典のある1箇所には
「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」という旨を、
全く違う言葉で記述した文言が無いというわけではありません。
あなたがそちらの部位を見つけて報告して頂いた場合には、
あなたの過失について追求することは止めます。
但し、そのブッダの教えを完全に無視して解脱した聖者の存在も僕は知っています。 最後になりますが、後年の丸くなったブッダでは無く、
若き日のブッダは「24時間死ぬまで働け社長」クラスの人でした。
つまり寝る時間も惜しんであやうくば死ぬまで修行しなさい、という勢いでした。
そのことは是非知っておいてください。
大パリニッパーナ経の中の年老いたブッダとスッタニパータの頃のギラギラしていたブッダは結構違います(笑)。
ダンマパダ
63
…愚の想いも賢の想いも湧き上がればともに(手放し)捨て去るべきである
その想いの広がりと発展を放置せず、気付いて(手放し)止めるべきである
↓
最終的には?
「意欲・やる気」という
想いも湧き上がればともに(手放し)捨て去るべきである
その想いの広がりと発展を放置せず、気付いて(手放し)止めるべきである
スッタニパータ
839
『教義によって、学問によって、知識によって、清らかになることができる』とは説かない
『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、清らかになることができる』、とも説かない
最終的には?
「意欲・やる気」という想いも手放して
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、…(これが内心の平安である) 仏教の基本が無常なるものに執着しないことだってこと考えたら自ずと答えは出るよね >無常なるものにも執着しない
(大乗の)中観帰謬派の場合は
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
如来の滅後も
こう思惟してはならない
「有るのか?」
「無いのか?」
「有でもあり、無でもあるのか?」
「有でもなく、無でもないのか?」と
掴もうとしている想いに依存して
おじゃるは
戯論を生じている
戯論して慧眼を破れば
是の人は
仏を見ることはない
如来は
戯論(無明の世界)を超過してる
それゆえに
「掴もうとしている想い」ではない >>940
「テーラワーダでも」という言葉がくっついてたんでテーラワーダの見解を申し上げました >>949
あれ、私もどちらかというとテーラワーダ側の見解を言ったつもりなんですがw
ではchandaに今と異なる状態を求めるという性質はあります?
求めるものが無くてもやる気はあるという心の状態ありますよね
それがchandaの生の性質なんじゃないですか?
私は「悟りを求める」はlobhaだと思ってます
lobhamula cittaでchandaとlobhaの同時発動ありますからね 筏の譬えの法門を知る者は、彼岸に渡り終わってから筏を捨て去るのである。
未だ河を渡っていないのに筏を「手放しす」者は、そこで溺れて死ぬだろう。(彼岸に渡れない)
即ち、それは答えでは無い。 「わたしは世尊に、こうたずねました。
『尊師よ、よく慇懃精進、慇懃精進ということを申しますが、
どのようにしたら慇懃精進なのでございましょうか?』と。
すると世尊は、こうお答えになりました。
『モッガッラーナよ。ここに一人の修行者があって、
慇懃なる精進に住している。彼は実に、その皮膚がしぼもうが、
腕がしぼもうが、その骨がしぼもうが、その身体の血も肉も涸れようが、
努力・精進によって達すべきものを達するまでは、
断じてこの精進の座を立たないと決意している。
モッガッラーナよ。これが慇懃なる精進というものである。』と。
阿含経典
即ち、悟りへの執着がありすぎてそれが悟りの妨げになるようなことは無い。
むしろ命をかけてまで悟りを得ることに執着せよ、とブッダは語っている。
そして悟った後は、速やかに筏に執着することなくそれを捨て去れ、と説かれる。 >>942
「悟りへの執着がありすぎるのも悟りの妨げとなる」
はダンマパダの和訳(ブッダ真理の言葉とか)そのものではなく
法句経(ダンマパダ)の詩偈の一つ一つを6コマくらずつで漫画化した
「マンガ仏教的生き方―真理と実践の方法」
に描いてあったw
ブックオフで108円で買った本だが値段以上の価値はあったよ
今ガチで入院中なので手元にないけどね
まもなく退院なので退院したらそのページだけ写真撮ってupしますね、その日まで少々お待ちあれ
>未だ河を渡っていないのに筏を「手放しする」者は、そこで溺れて死ぬだろう
それゆえに
観神足 − 知慧をもって思惟観察して…
↓
(無明に依存している、我を主体とするのではなくて)
仏の智慧と慈悲をもって → 縁起している世界を観照せよ
仏の智慧と慈悲をもって → 無明の世界を手放しせよ
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
…ところが今
(仏性からの真如縁起の智慧と慈悲をもって)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
(仏性からの真如縁起の智慧と慈悲をもって)
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
_ _ _
無明している世界の中で
「手放しする」者は、そこで溺れて死ぬだろう
これは、まさに
おじゃるのことでつね
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m ネット上の「我」といえる「コテ」の人は、「我執が極めて強い」わけで、
こと仏教スレにコテで参上する人に仏教に関し学ぶことは少ない。
「私/我」というものは無い、と説く仏に真っ向から反逆する人々なのであるから。
即ち彼らは仏の教えの意味を知らない。
意味をしらない人々から学ぶことは少ないので彼らは「あぼ〜ん設定」される。 あぼーん設定されたコテは頑張って何を語ろうが「読まれもしない」ので、
只、不利益を得るのみ。 「このxxxこと、『私』が「教えてやったのだ、凄いだろう」と思ってはならない。
ブッダはそのように語る。
>ネット上の「我」といえる「コテ」の人は、「我執が極めて強い」
それゆえに、おじゃるは
仮設としての
無明している世界の中で
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
遍計所執性している
と書き込みしているので おじゃる
>「あぼ〜ん設定」される
そうでつか
それは知りませんでした
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m 無論、「仏教」という縛りを有しない人々にとっては、その限りでは無い。
彼らは自由自在に「私」「我」を主張し、何某かの利益を得るかも知れない。
>「読まれもしない」ので、不利益を得る
>「教えてやったのだ、凄いだろう」
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
おじゃるは
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
遍計所執性している、おじゃるは凄いだろ?
ということでつね?
そうでつか
それは知りませんでした
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m 「我」「オレ」「私」をあえて作ろう、としている人から「無我」を学ぶこと、
教えてもらうことは決して出来ない。 もちろんviriyaやchandaは捨てちゃ駄目
でもlobhaなら大事に持ってても意味ないよね筏じゃないから >>963
の説明なら、その程度の紹介文ならそのリンク先を踏む気にはならない。 悟りたいって言葉でも、自分の無明をなくしたい、本当のことを知りたいって意味での悟りたいと
悟りという何かすごいものを得たいって意味での悟りたいでは全く違うよね >>965
自分は「人間が生きていく上で発生する苦しみをなくしたい」だけで、
とくに「悟り」「本当のことを知りたい」「無明がどーたら」がどーたらには
あんまというかむしろ全く関心は無いな。
現世、生存中に「苦しみを滅ぼす」ということにしか興味が無い。 「やったーオレは悟たんだ!!!」のような、それを望むような人は、
超能力獲得目的でオウムに入った人の類と同じなんじゃないかな。 「オレ」は無常、苦、無我だから、
「オレ」が無常、苦、無我だということが分かった(悟った)として、
「やったー」という反応になるのかどうか。 無我なのは分かったとして、
知識や論理だけでなく、瞑想を通して体験的に分かったとして、
だからといって、まだ解脱はしていない。煩悩がある。
もはや修行する以外に選択肢がない。
これはもう、修行開始の合図。
人によるだろうが、
ヤッター!という反応になるだろうかw
うへぇw;;;っていう感じじゃないか。 >>966
同意
ワットパー・スカトーのプラユキ・ナラテボー師がそういうスタンスで、仏教の本質は自他の苦を取り除く、抜苦与楽だと説いていたような
悟りを目指しても抜苦与楽がなかったらオウムみたいに俗世間と解離することになりそうだし 自分が何のために何をしてるか、明確にしていくのはとても大事だと思ってるな アーチャン・チャー
「仏道修行においては、結果を出そうとしてはならない。
解脱をしたい、悟りを開きたいという強い欲望は、解脱を阻む欲望になってしまう。
この欲望からのエネルギーは、疑(ウィチキッチャー)と掉挙(じょうこ:ウダッチャ)を引き起こすことになる。
どんなに長く、どんなに熱心に修行に励んでも、欲望から智慧は生じてこない。
ただ、手放すことだ。
気づきをもって、心と身体を観察するのだ。
だが、何かを達成しようとしてはならない」 アーチャン・チャー
「瞑想とは、一本の丸太のようなものです。
ヴィパッサナーは丸太の端に、サマタは反対側の端にあたります。
もし、あなたが丸太そのものを持ち上げれば、両方の端が一度に上がります。
どちらも同じく心なのですから、サマタとヴィパッサナーのどちらが重要かということは、問題ではありません。」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972844422831292416 >>950
>私は「悟りを求める」はlobhaだと思ってます
悟りをpiiti(喜)の所縁にしたらlobhaなしに悟りを求めるchandaが生じますけど
*喜piiti 所縁を好む特相をもつ法 >>974
悟りを求める=lobhaとは限りませんよって話はよく分かったので、あんまり頑張る気は無いんですがw
ちょっと気になったので一点だけ教えてください
> 悟りをpiiti(喜)の所縁にしたらlobhaなしに悟りを求めるchandaが生じますけど
もしかして私、涅槃を所縁にとれる人とお話しちゃってました?…(^^; アーチャン・チャー
「私たちは、言葉に執着すべきではありません。真の智慧の源は、私たちの内側を観察することの内にあります。
この種の学びのみが、真の価値を持つものであり、私たちの問題に終止符を打つものなのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972859520249548800
「真のダンマの学習には、たった一つの目的しかありません。
それは、私たちの人生における苦(ドゥッカ)という現実から脱出する方法を見つけ、自分自身と、生きとし生けるものの、幸福と平安を得ることです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972708538450505729
「もし、あなたがダンマを理解したいのなら、すべての物事を諦め、手放すのです。
修行についてあれこれ考えることは、影をつかまえようとして、実体を見失うようなものです。たくさん勉強をしすぎる必要はありません」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972678333476454401
「表面的な経典の学習は重要ではありません。
もちろん経典は正確に法を説いたものですが、それらをただ読むことは、正しい理解をもたらすものではありません。
それらは、あなたに正しい智慧を授授けてくれるものではないのです」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972602816140210176
「ブッダのダンマを本の中に見出すことはできん。
もし、おまえさんが真にブッダの説いたことを理解したいのなら、本を読むことに煩わされることはない。
そんなことより、自分の心を観察するんじゃ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/971666657104965632
「おまえさんは本当は、四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない「大きい」「小さい」「あなた」「私」なども存在しないのだ。
わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我も無我もないのだ」
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/972029040843345920
→このスレでよく聞く勝義視座ってやつかな? >>975
lobhaも所縁(=対象)がないと生じないでしょ
所縁って対象ですよ
で、悟りを所縁ってのはここでは概念(=paJJatti、パンニャッティ)のつもりでお話してます >>977
伝わってない懸念があるなら仏教用語のとこはパーリでもいいっすよ
棒やにょろにょろはスマホでは付ける気にならないけどw
arammanaがないとcetasikaの活動も起きないのは知ってます
涅槃を所縁にとれる人?って聞いたのは、少なくともsotapannaじゃないとできない事なので、びびっただけですw
pannattiであれば分かります ↓怪しい宗教団体のリンクかもしれないけど、とりあえず
ttps://plaza.rakuten.co.jp/iwakurachiro3/diary/201106050001/
認識の過程につながって思考が始まる
認識の過程は処(ショ:Ayatana)が所縁(ショエン:Arammana)と出会い
識(シキ:Vinnana)が生じて開始する
その所縁についての知識で、例えば、見る・聞くから心の中で知ることまである
このようなことが生じるとき、認識があると言う
またはパーリ語で触(ソク:Phassa)と称する
認識があるとき、その所縁に対する楽・快・苦・不快・不苦不楽(苦でも楽でもない)などの感覚が生じる
これを受(ジュ:Vedana)と呼ぶ
同時に、あれだ・これだ・あのよう・このよう、という所縁の知覚があって、これを想(ソウ:Sanna)と呼ぶ
それから様々な思考・熟考が始まる。 これを尋(ジン:Vitakka)と呼ぶ
認識の過程は外部の体験を受ける「所縁の体験」であれ
心の中の熟考をもたらす「様々な事柄を思い浮かべる」ことであれ、同様である
眼から知ることを例として
眼(処)+色(所縁)+見る(眼識)=認識(触)→苦、楽を感じる(受)→知覚(想)→思考(尋)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html
CETASIKA:心所
人格は条件によってコロコロ変わります
心に怒りが溶けたら怒りの人になる
次の瞬間にどの心所が生じるか、自分にもわからないのです
_ _ _
預流果(Sotapanna)、一来果(Sakadagami)、不還果(Anagami)、阿羅漢果(Arahat)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%A8%AD_(%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%94%A8%E8%AA%9E)
パンニャッティ
施設
仮設
説一切有部
あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
有法、法体(ダルマ)を想定し
主観的な我は空だが客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在する
大乗は『(三世実有説も)無自性・空』
相依性に則った「無自性」「法空」、法(ダルマ)すらも仮の現れ(そして滅)
縁起に依存して
現れて(そして滅して)いる
仮に設けられたもの 一般人を遠ざける使用する必要の無いpiiti、lobha、chandaなどの用語を
(私は知っているかのように)積極的に使いまくる人の程度はしれているのであぼーん。
十二縁起
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
パオ・セヤドー
…
(「仮設としての」という意味で)
無明が生起するが故に、五蘊が生起する
渇愛が生起するが故に、五蘊が生起する
無明に依存して「苦しい」という想いが現れているので
それゆえに
(「苦しい」という想いが依存している)無明している世界を手放して
そして
(「苦しい」という想いが依存している)無明している世界が離れていく
そういう意味では
>>932 ≪その瞬間が生じるまでの縁起≫があるだろ?
ということかもしれない
滅を了知する智慧
生滅智という観智
解脱智見
『(仮設としての)無明している世界を手放して。解脱した』と知覚して住む 何が言いたいかというと、別のよくしられた日本語で十分置き換えられる語を
わざわざ専門用語を多用して記述したいというのならば、
全文サンスクリット語やパーリ語などで記述して一人悦に入ったらいいじゃん、ってこと。
それはできないくせに、ということ。
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
ピティ(piti、喜)
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html
lobha(ローバ:貪)⇒眼耳鼻舌身意によって得られた情報を受け入れるはたらき
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html
canda(チャンダ)⇒意欲。やる気
たとえば仮に
自分(ID:CPpEOegt)の場合は
canda(チャンダ)が足りないので
呼吸を観ることができないのかもしれない
自在力(神通力)
観神足
智慧と慈悲の canda(チャンダ)をもってすれば
呼吸を観ることもできるのかもしれない? >>953だが今日午前中退院してきた
では本の写真
https://i.imgur.com/mweBJsQ.jpg
https://i.imgur.com/uRa8OW9.jpg
しかしこういった迷悟一如的な詩偈はこの本の元ネタの法句経にあったかな?
パーリ中部経典にはあるが…
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いは ない。
(パーリ、中部 2―18、蜜丸経)
「悟り」と
掴もうとしている想いから
離れることができるなら
迷うこともない
「悟り」と
掴もうとしている想いに
執着するのなら
苦集滅道への妨げになる(場合もある?)
仮設としての
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
掴もうとしている想いが現れる(そして滅する)
道元 普勧坐禅儀
智慧と通力をもって
心を明らめても
掴もうとしている想いに
執着しているのなら
自らの解脱の道をふさいでしまっている 所縁とか意欲とか概念とかより紛れが少なくていいかと思ったんだが
嫌がられるのか…
たとえば
自分(ID:CPpEOegt)の場合は
教学も初心者にも及ばない段階なので
それゆえに
日本語で
現代語訳で
初心者にもわかりやすい説明で
宜しくお願い致します ヨロ m(_ _)m
それでも、たとえば
(日本語訳にしないで)
パーリ語の方が
正確な場合もあるのかもしれないけど… 987.
心理学をやっている場合ではないよ。
想いの問題ではない。 >>944
ブッダの教えを完全に無視して解脱した聖者って誰ですか >>981
アビダンマッタサンガハぐらいは読んでおいた方がいいのでは。 >>992
テーラワーダの僧侶になるわけではあるまいし読む必要は全くない
それでも興味がある人は読めばよい >>993
でも結構面白いんだよ
瞑想実践しか興味無いとしても心と心所の対応表と不善心所のとこは読んどく価値あると思う
不善心所があるかぎり道果をまわすどころか瞬間定ですら発生しないってことが分かる まあこのページを楽しく読めるかだねえ
http://www.j-theravada.net/pali/index.html
自分はこういうごちゃごちゃと分別したものは苦手
パーリ語はアルファベットのみならずそのカタカナ表記も馴染みがないものばかりで読むのが困難だし
論書でも中論や大智度論などは難解でも漢字で書かれてあるから現代語訳されてれば何とか読める
こちらも読んでて面白いわけではないけどね とはいえ、漢字の経典は中国以降だから、本来ならサンスクリット語のはずなんじゃないの。 うろ覚えだけど釈迦が話してたのはマガダ語かパーリ語ということになってたと思う
現在はマガダ語説が有力なのかな >>994
あなたの瞬間定に誤解がある、マハシのよく読んでみたら、
定を伴っているから瞬間定に固執しなくても、瞬間定になるとある
高い集中によって、細かな観察ができるけど、
それは洞察智を体得のためであって、そこを卒業すれば、
高い集中は必要ない、それは不放逸になるってことではない
結局、最終的には思いの手放しになるが、瞬間定なる思いの煩悩を抱えない >>987
>道元 普勧坐禅儀
>智慧と通力をもって
>心を明らめても
>掴もうとしている想いに
>執着しているのなら
>自らの解脱の道をふさいでしまっている
おお、スッタニパータと同じこと説いてる
その方法は集中だけではないけどね このスレッドは1000を超えました。
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