【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 言語化した時点で、概念も観察結果(事象)も、
言語と思考という同じ土俵に乗せることになる。 「地球は丸い」と考えて、「地球は丸い」と述べたのか。
「地球は丸い」と観察して、「地球は丸い」と述べたのか。
前者は唯の思考概念だが、後者は観察結果を述べている。
どちらも言語を介して思考される。
従って、観察しない人にとっては、区別がつかないだろう。 >>483
無我にある時、「私」を失います。
「私」を失った時、残っているのは五蘊のみです。
(五蘊とはつまり、精神と物質の流れのことです。)
単純な原理ですが、生命には理解できないようになっています。
なぜなら一切の生命は「私」を前提に存在しているからです。
「私」を失うとは、生命ではなくなるという事です。
だから、「私」を失った時、生死輪廻からの解脱が起こるわけです。
お釈迦様のダンマは、生命が、生命を超えるためにあるのですね。 >>490
お前は帰納法と演繹法とを知らんのか?
古代ギリシャ人が何故地球が丸いことを発見したかというとな…
ってか>>490のその思考も君の自我が生み出した錯覚だけどなw >>491
お釈迦様のダンマは五蘊は無我(非我)です
しかしそのダンマも錯覚ですw >>491
なるほど。頭の中では納得しました。
お教え下さってどうも有難う。 >>492-493
結局、仏教は間違ってるという主張がしたいの?
(無我で無我を説明とは矛盾である、等) もしも悟りが思考の産物なら、瞑想する必要はぜんぜんないよ。
机に向かって書物を読み、思考するだけでいい。 あるいは、ブッダは正しかったが仏典は改竄されてるのだ、
そして現代の仏教徒は、改竄された経典を奉じていると、
そういう主張がしたいのかな。
経典に書かれているのは文字だよ。言葉。
月を指す指。
瞑想は月の観察。
科学的姿勢の基本とは、理論+観察による確認でしょう。
瞑想は名色の観察なんですよ。 文献学的に経典を分析して、経典は改竄されているけど、ブッダは
正しく悟っていたはずだ、と。
そして、自分はブッダの悟りを理解していて、経典の間違いを指摘
できるぞと。
思考を通して悟りを理解しているぞ、と。
ブッダってやつは、なかなか理性的だったもんだ。
おれはそれが分かってるぞ、と。
こういうわけでしょ? 哲学としての仏教
思考の延長にでてくる結論としての悟り
それが悟りなんだ。
ブッダが到達した境地なんだ
(おれはそれが分かってるぞ)
(瞑想している仏教徒は分からんだろうがな)
と、こういうことだよね? >>495-499の一連のレスは個人の思考が生み出した錯覚を綴っているだけですw 思考とは「自分はこのように考えた」ということじゃな
そんなもんはアホの妄想なんじゃから仏教は哲学者も思想家も相手にせん
アホがゴヤゴチャ妄想(思考)したところでロクなものしか出てこんからな
一切の思考を排除して観察して発見するのが瞑想じゃ >>501
それは貴方の思考が生み出した妄想、錯覚!! 余談ですが、私は今までに四八方の宗派や会社バラバラの霊媒師や占い師にあたってきましたが、そ
の人々は邪神不動明王やシヴァ、阿含宗や桐山に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王(シヴァ)などが実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。釈迦達、アマテラス、マリアもこれにだまされてる。善人のほうの邪魔他をしている。
よく東洋系の不動や阿含宗や桐山の術を見破るものを同伴させること。
その洗脳をさっさとどけ、自主的によくよく弁償してくること。そして不動や阿含宗や桐山こそいみきらい何万年分
も弁償とって抹消する対象とすること。
さもなくば強制的に3倍〜7倍ぐらい弁償を取られてひどい目にあい抹消されるでしょう。 >>503
すまんが、言ってる事が良くわからない。
文章を推敲しなおして、初めて読む人に明確に意図が伝わるよう、
改めてうpしてほしい。 瞑想は毎日続けなければだめ?悟った人以外はやめたら元通り?
生きること自体を瞑想化せねばならぬということ? 動中の工夫やね
しかし道中もなかなかそれっぽい響きですな 失礼、動中の工夫でしたw
しかし 道中の工夫 でもちゃんとそのまんまでヒットするw >>506
どうもです、あとで読んでみます。
仏教と断捨離やミニマル的なものって親和性が高いように思うのだけど、いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
端から期待しないことは諦めの肯定かもしれないが、可能性の否定ではない
シンプルに必要最低限って生き方はそれはそれで素晴らしいと思うのだけど、なかには単に面倒なのは御免みたいな人もいる
出合う前から出合いを避けるような生き方は違うのではないか?
最近そのようなことをよく考える 世の中が便利になって
調べりゃなんでもわかるし
シュミレーションもできるし
無駄な幻想を抱かなくなったんだろう 「○○だから○○しない」は正しい生き方だけど「どうせ○○だから○○しない」は違いますよね
こういう時代だとそれらをごっちゃに考える人が増える気がする
自分も少しそっちに行きかけてたので書いてみた
>>511
少子化が心配です >いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
↓(無明に依存している)思いの手放し?
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
…何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
(無明に依存している)思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし(無明に依存している)思いがそれを
つかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>513の続き
なぜ、(無明に依存している)思いの手放しが必要なのか?その理由は
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
依他起性を(正しく)見ることができない
− これを対処するために −
(無明に依存している)思いを手放して
円成実性の世界から
平等性智の智慧と慈悲をもって → 依他起性している世界を観照する
(円成実性は − 主体でもない・客体でもない)
ttp://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
…何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けます 道元禅師 普勧坐禅儀
(無明に依存している)
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
無明に依存している
色受想行識の仮和合
無明している世界を手放しする、その為に
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も超えて
滅に触れて想滅定が生起して
余念を交えず、ただひたすら只管打坐(しかんたざ)
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
…さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
仏性の世界から
平等性智の智慧と慈悲によって
ありのまま見つめている
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性からの
智慧と慈悲が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 桐山及び阿含宗は悪い方向へ行ってしまったとの情報を得てるのでダメだが原始仏教である阿含経の7科37道品は
具体的にたとえばここで足に縄をつけてファンジージャンプ見たく飛び降りるとか、ここでは心による行そくを具体的にはどう覚智
するのかなどを早く解明したほうがいい。阿含宗も完全には解明できてないんではないかと思う。
そしてネットなどでも載せ、コースももうけることが大事。密教では金剛界の曼荼羅に37に分けた絵をのせてそれを観想するだけ
になってしまっており具体的な修行をやっておらず本当の力や悟りがひらけない。やれるようになると密教の苦行してきた坊さんよりも
何倍もの、いやもっと?力がつくし本当の悟りがえられるだろう。その阿含教をやったところからは密教の方法をとると本当に力
を発揮する。ただし不動はやはり悪いほうへいってしまい上神仏界では抹消対象となってるので唱えないほうがいい。
そこは降三世明王などに変える必要がある。また阿含教をやって悟ると、悟りはえられるかもしれないが、後でこんなことをやりたい
と俗世間的なものごとをやろうとしたときまったくやれなくなってしまう。これ自体には当の釈迦さえも悩んでいる。
だから、引き出しを分けるなどしてそこに煩悩はやすとか、新たな改良が必要。両立できるようになんとかしたい。
たとえば、西洋は文明、東洋は無文明(どちらかといえば)にわかれてしまってるがこれも両立したい。 瞑想していて不思議な体験をした人います?
たとえば霊が出てきたとか(妄想でもいいんですが)
>瞑想していて不思議な体験をした人います?
瞑想ではなくて
小学四年生の時に
トランシーバー(無線機)に意識を集中していたら
『落武者の霊を見た』ことがある
日常的な意識状態以外の
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)みたいな?
兄が自宅で待機して
トランシーバー(無線機)の電波が何処まで届くのか?
小学四年生の時に
おじゃるが自宅の周辺を歩きまわっていた
ちなみに
おじゃるは
輪廻肯定派
幽霊も肯定派
変性意識状態も肯定派で おじゃる 最初の座禅からいきなり魔境だ
白い光が見えるわ、光輝く仏像が見えるわで終わった後に腹を抱えて爆笑した
いかなり魔境なんだもん だったと書いたんだけど、消えていた
過去の話であって、最近の話じゃない >>519
大乗の文脈では魔鏡だけど、テーラワーダ的に光はニミッタと言って、禅定に入るのに不可欠であるので、それがすぐ見えたというのは、あなたには瞑想の才能があるのでは? >>517
恐ろしいほどの快感と全能感に突如おそわれて、自分は完全に悟ったと誤解した事があります。
あまりに強い感情はやっぱり毒でした。その後だいぶたちますが、未だに瞑想するとその時の心理状態を再現しようと思ってしまいます。
まあそれも人情っすね。 >>523
なかなかすごい体験でしたね
やはりサマディ瞑想ですか?
ヴィパッサナー瞑想ではそんな経験は無理ですよね 自分も瞑想がうまく行って?精神統一された時に色々と幻覚が見えたけど、
俺は何度も手術をしてICUでペンタジンとかのオピオイド系医療麻薬を打たれて幻覚を見てきた、
その幻覚と瞑想で見えた幻覚はたまたまか知らないけど世界観がよく似ていたのでICUの体験を思い出して幻覚から覚めたしその時の瞑想もそこでやめた >>524
いつもより長めのヴィパッサナーのあと、さて寝るかとベッドでボーッとしてたら突然きた感じです。
セロトニン系の抗うつ剤飲み始めて四日目ぐらいでだったんで多分その影響かと。 ちょっと違う経験なんだが
以前、瞑想の合宿で霊の見える学生と知り合った
子供の時から普通に霊が見えていて、
その母親も霊感があるらしいのでそういう家系らしい
まじめで理性的で外見はいたって普通の好青年
ただ、その能力を他人に語ることはめったになかったらしい
自分はこのような分野に興味はあったが、
今までの人生で霊感やオカルト能力のある人物に出会ったことがなかった
それで、彼に頼んで自分の背後に何が見えるか見てもらった
どんな素敵な守護霊がついているかワクワクした
ところが彼が見たのは自分の左肩に立つ着物を着た女性だった
しかしその顔の表情は普通ではなく、不気味な感じがするとかなり細かく描写してくれた
心臓がドキッととした
なぜなら数年前から左肩の下の肩甲骨のあたりにしこったような重苦しさを感じていたからだ
マッサージなどもしたが重苦しさは解消しなかった
彼の語るにはその女性あまりよくない死に方をしたらしい
それで何かの縁でいまの自分についてるらしい
それで、当然その晩は一睡もできなかった(考えるだけで気味が悪くて)
それからはその後ろの女性を何とかしなければ(成仏?浄霊?)と悪戦苦闘、奮闘努力の日々だった ちなみに、この話は自分が実際に体験した実話だよ
一応仏教徒だから嘘や脚色はない
何か質問がある人は訊いてくれ、できる限り答えるから
それでは話を続ける
その大学生とは気が合い、その後も頻繁に合うこととなった
彼も自分の能力に真面目に関心を持ってくれる人に出会えて嬉しかったようだった
二人で神社、仏閣、講習会などに行って実験や研究をした(その時の体験はまた後で話す)
さて、自分の後ろにいる(憑依?)女の霊についてだが
当然、彼に「後ろの彼女、なんとかならないか」と助けを求めたのは言うまでもない
しかし当時の彼は霊を見るのと会話はできたが、
修行をしたりテクニックを学んだことがなく、対処法も力もなくどうにもならなかった
彼と会うたびに開口一番が「今日も相変わらず彼女はいるか?」だった
そして彼は笑いながら「ええ、いますよ、いつもどうりに」と答えた
しかし笑い事ではなかった
深夜などにふと後ろの彼女のことを考えると薄気味悪く、気分が悪くなった
何とかしなくては、このままでは夜も落ち着いて安眠できないぞ、と焦る気持ちばかりが募った
そこで、 それで自称霊能者や坊さんやヒーラーなどのところに行ってみた
そしてそのような人のところに行った後は必ず大学生の彼に結果を見てもらった
(彼は自分に直接会わなくても電話で話すだけで霊視できた)
しかしどれも効果はなかった
彼女は相変わらず同じ表情で自分の後ろにいた
そもそも大学生より詳しく霊視したり状況を分析できる人は誰もいなく、
能力は彼のがはるかに上だった
ある時、密教の坊さんに修法を受けた
そのあと、彼に会っていつものように自分の背後を見てもらった
彼が語るには「彼女はいるけど今日は黄金色の光に包まれている」
「そして坊さんが一生懸命祈ってる姿が見える」
「その坊さんは良い人で良いパワーはあるが、成仏させるだけの力はない」
彼には事前に誰に会って何をしてもらったかを言ってはいなかった
だから彼の能力に改めて驚かされた
その他にもいろいろなエピソードがあることはある
(知りたければ書くが)
そしてそんな気分の晴れない日々に終止符を打つ出来事が起きた + +
∧_∧ +
(0゜・∀・) ワクワクテカテカ
(0゜∪ ∪ +
と__)__) + 色即是空は正しいが空即是色は間違いです
なんて言ってたスマナサーラは煩悩即菩提という言葉に「煩悩と悟りは等しくありません、相反するものです」と言っちゃったりするのだろうか?
心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている
たとえば
大乗は
心は光り輝いている(仏性そのもの)
何であれ依存的に生じたものは
滅に触れて想滅定が生起して
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら只管打坐
仏性そのもの
_ _ _
上座部系は
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
(仏性そのもの)
智慧の光
体を包むようなかたちで、光が現れてきます
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性そのもの
智慧も慈悲も現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m この体験談の結末を語る前に一つ話しておきたいことがある
それは自分と彼とで行った実験と研究のことである
テーマは「神霊は実際に存在するのか?神界や仏界、幽界など実在するのか?」であった
たしかに彼は人の霊なら普通に見たり会話ができた
たとえば、ときどき交通事故で誰かが亡くなり、
その道路の脇にその人の友人や仲間が供えた花や飲み物などが見かける事があると思うが
彼ならその人が亡くなった正確の位置を指摘できた
また亡くなった霊がまだその場にいたケースもあった
「そこじゃなく1m右のところにまだいますよ」などと
そんな時は彼が霊に語りかけ、説得して行くべきの世界に導くことができた
霊も強い執着がなければ素直に従ったようだ
(ちなみに自分についている女の霊は強い因縁と執念のためか彼の説得は通用しなかったが)
そんなわけで彼とのいろいろな体験を通して人霊に関しては実在の確信が持てた
しかし神社仏閣に祭られている神や龍などは本当に実在するのかは謎だった
それを確かめるために何度も彼と深夜に神社や寺に行ってみた
そして、
大乗は
仏性そのものなので
苦集滅道ではない(無苦集滅道)
_ _ _
上座部系は
無明している世界から解脱しましょう
↓
苦集滅道
(大乗の)中論
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
(暗闇に覆われている無明から解脱するためには?)
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じる
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを呼吸の観照に ← 戻す要素があります
(仏性そのもの ← に戻す要素があります)
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
想滅定
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま見つめている
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん m(_ _)m
ID:/1yM4sat氏と、おじゃるは別人だけど
とりあえず
>>535の続きとして
ttp://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
仮設としての
無明している世界の中で
縁起に依存して
我愛と戯論と善悪業により
地水火風空識の微粒子の密集に依存して
中有を形成する
トゥルパ
マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ;意成身)
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
無明に依存して
霊が現れる場合もある
ということでよいんジャマイカ? >>536
照見五蘊皆空 度一切苦厄
の後の
無苦集滅道
でしょ >>538
ご教示ありがとうございます
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧と慈悲をもって
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧と慈悲をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照して
>照見五蘊皆空 度一切苦厄の後の
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧と慈悲をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
(大乗の)般若経の解説
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
無明している世界の中では
『解脱すれば仏だ』ということに
気づくまでは、気づくことは難しい
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ
・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ m(_ _)m 原始の仏教では漁師は殺生に関わってるから解脱は不可能とされていますが
その代わり禅仏教では可能ですか 上座部系の方が良いと思うけど、とりあえず
大乗の禅
禅の根元は仏性にある
智慧(と慈悲)
戒律・禅定・智慧
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧
坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する(不立文字)
仏性そのもの
仮設としての
無明している世界の中の
すべて一切の諸法を
手放していく
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正 思い手放し
…ところが今
(無明している世界の中の)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には
(無明している世界の中の)
何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いが
(無明している世界の中の)
それをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
たとえば
おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存しているので
おじゃるには
只管打坐は無理だけど
ID:7otcii8B氏には
上座部系も
大乗の禅宗系も
実践できるかもしれないので
実践してみては?
そして
ID:7otcii8B氏本人が
実践して
無明している世界の中から
解脱できるのか?
試してみては?
苦集滅道なのか?無苦集滅道なのか?と…
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
このリンク先に
どのように無明から解脱できるのか?という
上座部系と、大乗の禅宗系の
説明のpodcast法話があるので参照 ヨロ m(_ _)m
_ _ _
_ _ _
>>397 >バカはそれを見性とみる
ttp://www.onedhamma.com/?p=6494
18/02/04
エゴを瞑想の中に忍び込ませないために
柳田敏洋神父との対談を終えて
このpodcast法話を参照 ヨロ m(_ _)m
仮設としての
無明に依存している
我癡・我見・我慢・我愛に依存している
野狐禅
なんちゃって覚者タソ サマタは今から思うと色々あったな
幻視はないけど幻聴が結構あった あれを体験するとそりゃUFO でもおばけでも見えるわなって感じ
謎の全身の痛みで歩けなくなるわ 横隔膜のみ激痛が走ったり
相当体が抵抗してた感じ
ヴィパサナでは一回だけ幻聴があったな >>479
俺は言ってることがよく分かるよ 去年わかった
自分の核とか自由意志を持った中心本体がこの意識 自分だと議論の余地なく実感しているんだよね 普通は
ヴィパサナで超瞬間の認識の過程を観たとき この意識ってただの機能で中心でも何でも無いとわかった
無我とか非我とか自我とか関係ない ただの機能だ 瞑想深まると世界に一人ぽっちって感じで孤独感が凄いんだがそういう人いる? いっぱいいるはず。
はやくそのステージを突き抜けるべきだと思う。 個々人の五蘊に生じている自我は、最初から最後までずっと孤独でしょ。 あなたは突き抜けてるの?
どうやって突き抜けるの?
教えてくださいませ。 坐禅の最中に、瞬間的に突き抜けたことはありますけど。
それも座っている間だけ、しかも突き抜けた間だけでしたね。
まだまだ修行は始まったばかりです。 教えは、ブッダがとうに全部教えて下さってると思いますが。 (続きです)
二人で最初に行ったのは家の近くの小さなの神社(江古田)だった
深夜に行った理由は神社に向かって会話をする姿を人に見られたくなかったからだ
ちなみに霊との対話実験には2つのパターンがあった
一つは彼が霊とコンタクトを取って通訳となるパターン
私の質問を彼が霊に伝え、霊の返答を彼が言葉で私に逐次伝える
もう一つは彼が自分の中に霊を降ろし、私が彼を通してダイレクトに霊と対話するパターン
対話の内容がややこしかったり、複雑だった場合はこの方法手っ取り早かった
なおこの場合、時折テレビで見る恐山のイタコのような芝居がかった様子も曖昧さも一切ない
それで彼が神社の祭壇に向かって無言で問いかけた
すると一人の神霊がコンタクトしてきた
その神社の祭神はスサノオノミコトである
しかし現れたのは人霊(神霊?)であった
「どなたですか?」と尋ねると生前の名前を名乗ったから、おそらく人霊であろう
たしか○○介か、○○兵衛みたいな名前だったと思うが記憶が定かでない
ただ口調からかなり昔の時代の素朴な人物だと思う
さらに「ここで何をしているのですか?」と尋ねてみた
するとその神霊はこう答えた
「私はこの神社において、お参りに来る人々に対してその願いが叶うようにと念じ修法を行っています」
「そしてそうすることが自分の役割であり修業なのです」と
その他、神界の仕組みなどについて尋ねてみたが
「自分には難しいことはわからないもっと上の方に訊いてください」とすまなそうに答えた
さほど高い次元ではないが真面目に精進している神霊であった
我々は「ごくろうさまです」と言ってその神霊との対話を終えた
次は少し立派な氷川神社(沼袋)に行ってみた
ところが、 >>551
タイやビルマやミャンマーで出家すればサンガいう僧侶の集団に属することができるので一人ではなくなる
http://livedoor.blogimg.jp/mebako505/imgs/5/a/5a96315eac41d9974b3b.JPG
それができない場合は「犀の角のようにただ独り歩め」 出家ができるような、つまり八正道に命を掛けられるような恵まれた心意気があるなら
是非そうすればいいと思うけれども、在家であっても、要するに24時間、寝ている時以外は
ずっと戒律のなかに居続けて、24時間ずっと正念を保ち続けていられるか、ってことじゃないの。
(わいが言うのもナニですけどね)
仕事をしなきゃいけないなら、仕事がそのまま戒律を守ることになっているか。
生活をしなきゃいけないなら、生活がそのまま戒律を守ることになっているか。
正念、正定についても同じじゃないかな。 テーラワーダの教えは非我ではなく無我である
ヴィパッサナ瞑想というのは主客分離の瞑想であり我をもって無我を観ずるという矛盾をはらんでいるので涅槃寂静に辿り着くことはできない うーん。そういう話しは理念の先走りというかなんというか。結局自分で気づいたことがすべてじゃない?って思っちゃうんだけど。
なんでテーラワーダとかヴィパッサナーの違いが大事なんだろ。 >>560
その気づく自分というのはヴィパッサナ瞑想をどこまでも深めて行っても残るものだろう
じゃなければ気づけないからな
我が残っている状態で無我という智慧を得るというのは矛盾している
この矛盾はヴィパッサナ瞑想しても解決はできないだろう
前述のように気づく、観察する自分というものと観察対象とで主客分離されるのがヴィパッサナだから
テーラワーダの無我論ではなくスッタニパータの非我論なら上記の矛盾はない
無我というのは無理がある思想だろう(アートマン云々ではなく禅のように無念無想に浸るのが無我というのならまだ分かるが
これらは思考であって瞑想で観察された事実ではないと言う人には無我論の方がむしろ思考だと言い返せるであろう
ヨガにも内察という自己観察の瞑想があるがこちらは我を非我の形から観るものだしな
唯識の瑜伽行で観察されたのはテーラワーダにはない末那識や阿頼耶識という潜在意識だ
瞑想で観察された事実などというのは個々のものであり客観的でも普遍的でもない
地球が丸いのを観察するのとは違うのである >>560
>なんでテーラワーダとかヴィパッサナーの違いが大事なんだろ。
スマナサーラさんの本を読んだら「テーラワーダというのは一神教やヒンドゥー教や大乗仏教とは違って科学的な教えなのです」と他との違いを強弁していたよ まだ非我とか言ってる人がいるのか、中村先生の影響は尾を引くな。
非我とは「我ではない」という意味だが、それだと我を認めることになる。
それでは仏教ではないんだよ。
現代仏教学では「非我論」は否定されつつある。
これはね、教理の理解度ではないんだ、もう個人の願望なんだよ。
(我は有って欲しい)というね。 >主客分離されるのがヴィパッサナ
途中経過しか見ていない。
ここは上座部スレであって大乗がイチャモンをつけに来る所ではない。 >>563
>現代仏教学では「非我論」は否定されつつある。
ほう、その否定されているソースを上げてみてください
>>564
別にイチャモンじゃなくて確信に近い疑問を投げかけただけ
涅槃に達すると何故か主客の分離はなくなる?
どういうプロセスでだかちゃんと説明されてたっけ?
あ、涅槃に達すると主客の分離はなくなるものなんだーという信仰、願望では駄目だよ >>562
あっなるほど。テーラワーダでもイスラム教でも幸福の科学でも、どれを信じたらいいのか前もって知るために〇〇論が必要なのかな? もしくは知らせてあげるためか。納得しないと実践する気しないもんね。
しかし、仏教の本はいくらか読んだことあるけど、書いてあることを一部でも実感したのは瞑想するようになってからだったな。何も知らないでただ座ってた方が、思い込みが無い分マシだったかもしれないと今は思う。 >>561
五蓋が自己だという認識は錯覚による誤解。
三昧に入ってる時は、五蓋が消えているので、五蓋としての自己はない。
また、無我と非我については、たとえば自我を構成するパーツが10あるとして、
1つ1つのパーツすべてが非我なら、10のパーツすべてが非我なので、
最終的に自我は無我という結論になる。
プロセスでみるなら、非我は過程で、無我は結論。 ヒンドゥー教のヨギでも、仏教徒の禅僧でも、テラワダの僧でも
心が三昧に至るメカニズムは同じ。
三昧に入ったら、いろいろ分かる。
自我が無我について思考しても、絶対に答えには到達できない。 仏教なら禅で禅定に入ること。
名前は知らないが、ヨガにも、禅定に相当する同じものが説かれているはず。 そこで我があるのかどうか、確かめればいいだけのこと。
議論で答えが出る問題じゃない。 ラマナ・マハルシは、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議と表現している。 >>567
いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。
しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。
この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
(ヤージュニャヴァルキヤ)
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
バラモン教では逆に、非らず、非らず、でアートマンの実在を表現しようとしているな >>568
でなくて主客分離されたヴィパッサナーで無我の観察が本当にできのるかを今論じているのでしょうに
そしてまず興奮してレス連投する前にヴィパッサナーは三昧とは違うことを思い出そうね で、ヴィパッサナーの瞬間定においては主客融合するのだろうか?
融合するのなら我をもって無我を観るという矛盾はなくなる
主客融合したものを我と呼ぶのか無我と呼ぶのかまでは知らないが
思弁を凝らしている暇があるのなら瞑想して観察したまえと言う人は是非自分がそうしてくれ
率先垂範なしに瞑想での観察こそが真理であって思考や言葉は違うなどと言っても説得力ないからねw 四禅の禅定に入らないと本当のヴィパッサナー瞑想はできないんだって
四禅に入れる人なんてこのスレにいるかな...
ヴィパッサナー瞑想として知られている瞑想法達は、
実は中身は四界分別観瞑想に分類されるものらしい
とりあえずアチシは初禅を目指すのだ >>573
瞬間定(カニカ・サマーディ)に入って行ずる観察のことをヴィパッサナーというなら
三昧(正定)が前提になるはず。
主客分離されたヴィパッサナーというのは、カニカサマーディなしの contemplationでしょう。
それはmeditationではない。 誰かが率先垂範する姿を見たいなら、まず掲示板を閉じて
どこかの禅寺なりに入るより他にないと思います。 >>575
「ゴエンカとかマハーシとかいう南方仏教の僧侶はヴィパッサナー瞑想だけしてればよいとしていた」
とこちらのサイトには書いてある
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/samatha_vipassana.htm
自分はヴィパッサナーはサマタ瞑想で集中した後に、刹那(指をパチンと鳴らした瞬間)にも何十と心に浮かぶ想念を観察する行だとどこかのサイトで見た覚えがある
しかし、自分はヴィパッサナー が未熟だからか刹那に何十もの想念が泡沫のように湧き上がっている自覚は全くないw >>578
なるほど
でも、パオは四禅に入らないと本当のヴィパッサナーはできないというスタンスなんだよね
山下良道師も魚川くんとの対話の中でキッパリ断言してたし、
魚川くんも(四禅からでないと本当のヴィパッサナーは)できないですよねと言っていた
他にも南方仏教で修行した方のお話しに触れたことあるけど、その方も本音では同じ意見だったよ
アチシでは四禅なんて到底入れません
今はアーナパーナ・サティと自覚に趣を置いているのだ
アナパナ中に鼻を出入りする気息が、粒子が白く光ながら流れて見えた事はあったけどそのくらい T1646_.32.0339c15: 諸禪定則能得入。問曰。行者若無禪定。
T1646_.32.0339c16: 云何能得身心空。及盡諸煩惱。答曰。是人
T1646_.32.0339c17: 有定而不能證。更有如電三昧。因是三昧
T1646_.32.0339c18: 得盡煩惱。如經中説。我見比丘欲取衣
T1646_.32.0339c19: 時有煩惱。取衣已即無煩惱。如是等所以
T1646_.32.0339c20: 者何。心如電三昧如金剛。眞智能破煩惱。
T1646_.32.0339c21: 又此義佛第三力中説。所謂諸禪解脱三昧
T1646_.32.0339c22: 入垢淨差別如實知。於中禪名四禪。有人
T1646_.32.0339c23: 言。四禪四無色定皆名爲禪。解脱名八解脱。
T1646_.32.0339c24: 三昧名一念中如電三昧。入名禪解脱三昧
T1646_.32.0339c25: 中得自在力。如舍利弗説。我於七覺中能
T1646_.32.0339c26: 自在出入。故知慧解脱阿羅漢有諸禪定。
T1646_.32.0339c27: 但不能入。深修習故能自在入。問曰。阿羅
(成実論) 北伝でも禅定に入れない程度のサマーディで悟るという説があるみたいね
有部の論書で欲界定(kāmaloka-samādhi)、経量部の『成実論』で如電三昧(vidyutupama-samādhi)と呼ばれてるみたいだ
パーリ聖典では「稲妻に喩えられる心を持った人」(Vijjūpamacitto puggalo)というのが対応するっぽい
渡辺章悟「Vajropamasamādhi の考察」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/54/1/54_1_357/_pdf このスレって禅宗の人に人気あるんだね。(笑)
ずいぶん来てるもの。
どうしてそんなに気になるの? >>582
ぱっと見たところ禅宗のことを書いてるのっておじゃるさんってコテハンの方しかいないけど >>581
預流果の悟りまでならね
一来果から上は禅定に入れないと話にならないと言われているよ
預流果なりたてでも一週間もあれば四禅に入れるようになるというし
四禅に入れない一来果などいないとハッキリ言われているくらい 正定を欠いた八正道(道諦)で悟れますか?って言ってるようなもん。
そんなもんない、てのがパオ・セヤドーの立場でしょ。 >>582
>>563
>現代仏教学では「非我論」は否定されつつある。
これのソースはよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています