【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 地球が平らだと信じ込んでる学者先生に、地球が球体だと理解してもらうには
言葉であれこれ教えるより、ロケットに乗っけて重力圏の外に飛ばして、宇宙から
地球をまじまじと眺めてもらった方が早い。
百聞は一見にしかず。 マハリシとか、クリシュナムルティとか、龍樹の罪は、
あんまり綺麗な指を公開したもんだから、月をみることを忘れる人が続出してしまったこと
だと思ってる。
立派な先生の語り口が立派すぎるのも考え物。 >>447
無我を観察しているのは最終的に誰になるのか? 誰というのは、我とか彼が存在する認識の在り方が前提にあって
はじめて出てくる発想でしょ。
最終的な境地は分からないが、気づきが気づいてる。
観察が観察している。
働きそのものがあるだけ。 >>451
ほうそうか、なかなか面白い「思考」だw
自分の考えに自信があるのなら5chではなくまずSNSなどで発信したまえw 言葉で説明するということは、まずその前に思考する必要があるし、
聞いた言葉を介して理解するというのも同様。
それは月を指す指。
瞑想体験そのものが月。 >>451
>最終的な境地は分からないが、気づきが気づいてる。
>観察が観察している。
>働きそのものがあるだけ。
自分で何を言ってるか分かってないだろw まあ、
そういう ブレナイ 所も御隠居の魅力ではあるけれどw 無我にある時、不思議な事が起こる。
それは、この世に誰一人もいなくなるということ。
現象だけが流れるのを観る。
体験した人なら共感してもらえるだろう。 >>435
「無我を観察する自己」じゃと?
バカたれ!鼻たれ!ションベンたれ!
無我は結論じゃろうが!無我が判れば悟りじゃろうが!
悟りを観察とはとはたいしたもんじゃ
で、お前さんの無我は居眠りのことか >>460
黙って「聚思惟」で検索して出直してきなさいw >>460
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
このような観察の勧めを仏陀は説いていたのだが(経典では)
で、その観察をしているのは誰かということを今は争点としている >>462
自我とは「私」という実感の事です。
私という実感は無くても観察は出来ます。
五蘊には機能として備わっています。
無我を体得するとは、私という実感、つまり幻想を破るという事です。
つまり、観察しているのは、私ではなく、五蘊だという事です。
>>463
ヴィパッサナー瞑想で分かります。 ヴィパッサナー瞑想で、観察するのもは勝義諦です。
つまり、本当に存在するもの。
言い換えれば、ヴィパッサナーでは究極の真実を観ていくわけです。
実際にやって見ると、そこにあるのは、心、心所、色だけで、自我はどこにもありませんでしたという結果に達します。
勝義諦を観察して、無常・苦・無我の真理を発見するのです。
そうして自我、つまり私という実感は錯覚でしたということに行き着くわけです。
それで、完全に私という幻想を滅したら生命は卒業です。
「私」の無い生命は、生命の資格を失います。 無我と忘我を混同しないよう注意が必要です。
無我(アナッター)は無我夢中の無我とは無関係です。
無我だからといって認識機能がないわけでは無いのです。
何度も言いますが、「私という実感」この幻想を破った状態を無我というのです。 >>464
>私という実感は無くても観察は出来ます。
>五蘊には機能として備わっています。
>>462
>無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
ほう、この正しき智慧を持って如実に観察している主体は五蘊であると? >無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
(五蘊は悉く)無我であるから、これ(五蘊)はわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
五蘊が無我であるという観察を無我である五蘊でするんだ!(◎_◎;) >>466
>何度も言いますが、「私という実感」この幻想を破った状態を無我というのです。
幻想を打ち破っているのは誰なのかな? >>469
誰もいませんよ。
初めから誰もいません。
「私という実感」は幻想です。
あなたもわたしも、そもそも「誰」ですらないのです。
現象の流れがあるだけです。 >>470
じゃあ無我という実感や観察も幻想ということだね >>470
>初めから誰もいません。
>「私という実感」は幻想です。
これを幻想ととらえているのは誰なのかな? 問い自体に主客分離が入っちゃってるから誰でも回答不能と思われ >>472
とらえているのは五蘊です。
五蘊と自我が一緒くたになっているのが普通の生命です。
自我が無い状態は、想像すらできないでしょう。 >>465
>そうして自我、つまり私という実感は錯覚でしたということに行き着くわけです。
現実の立脚点にたてば、『私という実感は錯覚でした』という感覚自体が
錯覚に他ならない。
幾ら言う所の「悟った境地」に居たろうともこの現実は何ひとつ変わらない
のだよ。
よって、その『私という実感は錯覚でした』の境地に留まっていてはならない。 >>475
>『私という実感は錯覚でした』の境地に留まっていてはならない。
ご心配なく。
その境地には『留まる』という要素はありません。
もはや『誰が何かをする』に属しませんので。 >>476
>もはや『誰が何かをする』に属しませんので。
それもまた貴方の錯覚w 結局、その事実は何も変わってないけど、視点というか、
立脚点が異なるだけでしょ。 要するにこういう事です。
車を分解してみたらどこにも車の"本質"は無かった。
車は部品の集まりで、車という働きをする現象だけでした。
同様に私を分解してみたら、あったのはナーマとルーパ(精神と物質の流れ)だけでした。あったのは車と同様に部品だけでした。
どこにも私の本質である自我や魂はありませんでした。私という名を付けられた現象があるだけでした。
ということです。 「私には自我がある。だから私には自我が分かる。」
というのは間違いです。
魚は一度陸に上がらなければ、水の存在を知る事は困難です。それと同様、自我を本当に理解するには、一度無我を体験する必要が出てきます。
「私は自我を知っている」と思うから、色々な誤解や無意味な思考ループが発生するのです。
無我が分からないなら、自我も本当の所は分かっていないと覚えておいて下さい。 頭の良し悪しじゃないからね。
明晰な論理思考を極めても、月は見えない。
指をはっきりみたり、指を分析することはできるけど。 「父母未生以前の本来の面目如何」
禅宗の方法論には詳しくないけれども、きっと、
これにどう回答するかで、禅の進み具合が測れるでしょう。 >>479
では、この点を説明して下さい。
>私の本質である自我や魂はありませんでした。
>私という名を付けられた現象があるだけでした。
その事を自覚認識した今の自分は「私という名を付けられた現象」ではなく、
私の自我であり魂ではないのでしょうか? >>479
君のその思考もまた錯覚ですw
>>480
それも錯覚ですww 「余の辞書には錯覚という言葉しかない」
ナポレオン・ボナパルト ・思考を通して生みだされた概念を言葉で述べた場合
・観察によって洞察された事象を言葉で述べた場合
前者は、自我が自我の中に生みだした概念。
後者は、自我が生まれる土壌が、自我が生みだされている事象を観察し、それを言語化している。 言語化した時点で、概念も観察結果(事象)も、
言語と思考という同じ土俵に乗せることになる。 「地球は丸い」と考えて、「地球は丸い」と述べたのか。
「地球は丸い」と観察して、「地球は丸い」と述べたのか。
前者は唯の思考概念だが、後者は観察結果を述べている。
どちらも言語を介して思考される。
従って、観察しない人にとっては、区別がつかないだろう。 >>483
無我にある時、「私」を失います。
「私」を失った時、残っているのは五蘊のみです。
(五蘊とはつまり、精神と物質の流れのことです。)
単純な原理ですが、生命には理解できないようになっています。
なぜなら一切の生命は「私」を前提に存在しているからです。
「私」を失うとは、生命ではなくなるという事です。
だから、「私」を失った時、生死輪廻からの解脱が起こるわけです。
お釈迦様のダンマは、生命が、生命を超えるためにあるのですね。 >>490
お前は帰納法と演繹法とを知らんのか?
古代ギリシャ人が何故地球が丸いことを発見したかというとな…
ってか>>490のその思考も君の自我が生み出した錯覚だけどなw >>491
お釈迦様のダンマは五蘊は無我(非我)です
しかしそのダンマも錯覚ですw >>491
なるほど。頭の中では納得しました。
お教え下さってどうも有難う。 >>492-493
結局、仏教は間違ってるという主張がしたいの?
(無我で無我を説明とは矛盾である、等) もしも悟りが思考の産物なら、瞑想する必要はぜんぜんないよ。
机に向かって書物を読み、思考するだけでいい。 あるいは、ブッダは正しかったが仏典は改竄されてるのだ、
そして現代の仏教徒は、改竄された経典を奉じていると、
そういう主張がしたいのかな。
経典に書かれているのは文字だよ。言葉。
月を指す指。
瞑想は月の観察。
科学的姿勢の基本とは、理論+観察による確認でしょう。
瞑想は名色の観察なんですよ。 文献学的に経典を分析して、経典は改竄されているけど、ブッダは
正しく悟っていたはずだ、と。
そして、自分はブッダの悟りを理解していて、経典の間違いを指摘
できるぞと。
思考を通して悟りを理解しているぞ、と。
ブッダってやつは、なかなか理性的だったもんだ。
おれはそれが分かってるぞ、と。
こういうわけでしょ? 哲学としての仏教
思考の延長にでてくる結論としての悟り
それが悟りなんだ。
ブッダが到達した境地なんだ
(おれはそれが分かってるぞ)
(瞑想している仏教徒は分からんだろうがな)
と、こういうことだよね? >>495-499の一連のレスは個人の思考が生み出した錯覚を綴っているだけですw 思考とは「自分はこのように考えた」ということじゃな
そんなもんはアホの妄想なんじゃから仏教は哲学者も思想家も相手にせん
アホがゴヤゴチャ妄想(思考)したところでロクなものしか出てこんからな
一切の思考を排除して観察して発見するのが瞑想じゃ >>501
それは貴方の思考が生み出した妄想、錯覚!! 余談ですが、私は今までに四八方の宗派や会社バラバラの霊媒師や占い師にあたってきましたが、そ
の人々は邪神不動明王やシヴァ、阿含宗や桐山に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王(シヴァ)などが実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。釈迦達、アマテラス、マリアもこれにだまされてる。善人のほうの邪魔他をしている。
よく東洋系の不動や阿含宗や桐山の術を見破るものを同伴させること。
その洗脳をさっさとどけ、自主的によくよく弁償してくること。そして不動や阿含宗や桐山こそいみきらい何万年分
も弁償とって抹消する対象とすること。
さもなくば強制的に3倍〜7倍ぐらい弁償を取られてひどい目にあい抹消されるでしょう。 >>503
すまんが、言ってる事が良くわからない。
文章を推敲しなおして、初めて読む人に明確に意図が伝わるよう、
改めてうpしてほしい。 瞑想は毎日続けなければだめ?悟った人以外はやめたら元通り?
生きること自体を瞑想化せねばならぬということ? 動中の工夫やね
しかし道中もなかなかそれっぽい響きですな 失礼、動中の工夫でしたw
しかし 道中の工夫 でもちゃんとそのまんまでヒットするw >>506
どうもです、あとで読んでみます。
仏教と断捨離やミニマル的なものって親和性が高いように思うのだけど、いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
端から期待しないことは諦めの肯定かもしれないが、可能性の否定ではない
シンプルに必要最低限って生き方はそれはそれで素晴らしいと思うのだけど、なかには単に面倒なのは御免みたいな人もいる
出合う前から出合いを避けるような生き方は違うのではないか?
最近そのようなことをよく考える 世の中が便利になって
調べりゃなんでもわかるし
シュミレーションもできるし
無駄な幻想を抱かなくなったんだろう 「○○だから○○しない」は正しい生き方だけど「どうせ○○だから○○しない」は違いますよね
こういう時代だとそれらをごっちゃに考える人が増える気がする
自分も少しそっちに行きかけてたので書いてみた
>>511
少子化が心配です >いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
↓(無明に依存している)思いの手放し?
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
…何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
(無明に依存している)思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし(無明に依存している)思いがそれを
つかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>513の続き
なぜ、(無明に依存している)思いの手放しが必要なのか?その理由は
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
依他起性を(正しく)見ることができない
− これを対処するために −
(無明に依存している)思いを手放して
円成実性の世界から
平等性智の智慧と慈悲をもって → 依他起性している世界を観照する
(円成実性は − 主体でもない・客体でもない)
ttp://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
…何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けます 道元禅師 普勧坐禅儀
(無明に依存している)
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
無明に依存している
色受想行識の仮和合
無明している世界を手放しする、その為に
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も超えて
滅に触れて想滅定が生起して
余念を交えず、ただひたすら只管打坐(しかんたざ)
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
…さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
仏性の世界から
平等性智の智慧と慈悲によって
ありのまま見つめている
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性からの
智慧と慈悲が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 桐山及び阿含宗は悪い方向へ行ってしまったとの情報を得てるのでダメだが原始仏教である阿含経の7科37道品は
具体的にたとえばここで足に縄をつけてファンジージャンプ見たく飛び降りるとか、ここでは心による行そくを具体的にはどう覚智
するのかなどを早く解明したほうがいい。阿含宗も完全には解明できてないんではないかと思う。
そしてネットなどでも載せ、コースももうけることが大事。密教では金剛界の曼荼羅に37に分けた絵をのせてそれを観想するだけ
になってしまっており具体的な修行をやっておらず本当の力や悟りがひらけない。やれるようになると密教の苦行してきた坊さんよりも
何倍もの、いやもっと?力がつくし本当の悟りがえられるだろう。その阿含教をやったところからは密教の方法をとると本当に力
を発揮する。ただし不動はやはり悪いほうへいってしまい上神仏界では抹消対象となってるので唱えないほうがいい。
そこは降三世明王などに変える必要がある。また阿含教をやって悟ると、悟りはえられるかもしれないが、後でこんなことをやりたい
と俗世間的なものごとをやろうとしたときまったくやれなくなってしまう。これ自体には当の釈迦さえも悩んでいる。
だから、引き出しを分けるなどしてそこに煩悩はやすとか、新たな改良が必要。両立できるようになんとかしたい。
たとえば、西洋は文明、東洋は無文明(どちらかといえば)にわかれてしまってるがこれも両立したい。 瞑想していて不思議な体験をした人います?
たとえば霊が出てきたとか(妄想でもいいんですが)
>瞑想していて不思議な体験をした人います?
瞑想ではなくて
小学四年生の時に
トランシーバー(無線機)に意識を集中していたら
『落武者の霊を見た』ことがある
日常的な意識状態以外の
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)みたいな?
兄が自宅で待機して
トランシーバー(無線機)の電波が何処まで届くのか?
小学四年生の時に
おじゃるが自宅の周辺を歩きまわっていた
ちなみに
おじゃるは
輪廻肯定派
幽霊も肯定派
変性意識状態も肯定派で おじゃる 最初の座禅からいきなり魔境だ
白い光が見えるわ、光輝く仏像が見えるわで終わった後に腹を抱えて爆笑した
いかなり魔境なんだもん だったと書いたんだけど、消えていた
過去の話であって、最近の話じゃない >>519
大乗の文脈では魔鏡だけど、テーラワーダ的に光はニミッタと言って、禅定に入るのに不可欠であるので、それがすぐ見えたというのは、あなたには瞑想の才能があるのでは? >>517
恐ろしいほどの快感と全能感に突如おそわれて、自分は完全に悟ったと誤解した事があります。
あまりに強い感情はやっぱり毒でした。その後だいぶたちますが、未だに瞑想するとその時の心理状態を再現しようと思ってしまいます。
まあそれも人情っすね。 >>523
なかなかすごい体験でしたね
やはりサマディ瞑想ですか?
ヴィパッサナー瞑想ではそんな経験は無理ですよね 自分も瞑想がうまく行って?精神統一された時に色々と幻覚が見えたけど、
俺は何度も手術をしてICUでペンタジンとかのオピオイド系医療麻薬を打たれて幻覚を見てきた、
その幻覚と瞑想で見えた幻覚はたまたまか知らないけど世界観がよく似ていたのでICUの体験を思い出して幻覚から覚めたしその時の瞑想もそこでやめた >>524
いつもより長めのヴィパッサナーのあと、さて寝るかとベッドでボーッとしてたら突然きた感じです。
セロトニン系の抗うつ剤飲み始めて四日目ぐらいでだったんで多分その影響かと。 ちょっと違う経験なんだが
以前、瞑想の合宿で霊の見える学生と知り合った
子供の時から普通に霊が見えていて、
その母親も霊感があるらしいのでそういう家系らしい
まじめで理性的で外見はいたって普通の好青年
ただ、その能力を他人に語ることはめったになかったらしい
自分はこのような分野に興味はあったが、
今までの人生で霊感やオカルト能力のある人物に出会ったことがなかった
それで、彼に頼んで自分の背後に何が見えるか見てもらった
どんな素敵な守護霊がついているかワクワクした
ところが彼が見たのは自分の左肩に立つ着物を着た女性だった
しかしその顔の表情は普通ではなく、不気味な感じがするとかなり細かく描写してくれた
心臓がドキッととした
なぜなら数年前から左肩の下の肩甲骨のあたりにしこったような重苦しさを感じていたからだ
マッサージなどもしたが重苦しさは解消しなかった
彼の語るにはその女性あまりよくない死に方をしたらしい
それで何かの縁でいまの自分についてるらしい
それで、当然その晩は一睡もできなかった(考えるだけで気味が悪くて)
それからはその後ろの女性を何とかしなければ(成仏?浄霊?)と悪戦苦闘、奮闘努力の日々だった ちなみに、この話は自分が実際に体験した実話だよ
一応仏教徒だから嘘や脚色はない
何か質問がある人は訊いてくれ、できる限り答えるから
それでは話を続ける
その大学生とは気が合い、その後も頻繁に合うこととなった
彼も自分の能力に真面目に関心を持ってくれる人に出会えて嬉しかったようだった
二人で神社、仏閣、講習会などに行って実験や研究をした(その時の体験はまた後で話す)
さて、自分の後ろにいる(憑依?)女の霊についてだが
当然、彼に「後ろの彼女、なんとかならないか」と助けを求めたのは言うまでもない
しかし当時の彼は霊を見るのと会話はできたが、
修行をしたりテクニックを学んだことがなく、対処法も力もなくどうにもならなかった
彼と会うたびに開口一番が「今日も相変わらず彼女はいるか?」だった
そして彼は笑いながら「ええ、いますよ、いつもどうりに」と答えた
しかし笑い事ではなかった
深夜などにふと後ろの彼女のことを考えると薄気味悪く、気分が悪くなった
何とかしなくては、このままでは夜も落ち着いて安眠できないぞ、と焦る気持ちばかりが募った
そこで、 それで自称霊能者や坊さんやヒーラーなどのところに行ってみた
そしてそのような人のところに行った後は必ず大学生の彼に結果を見てもらった
(彼は自分に直接会わなくても電話で話すだけで霊視できた)
しかしどれも効果はなかった
彼女は相変わらず同じ表情で自分の後ろにいた
そもそも大学生より詳しく霊視したり状況を分析できる人は誰もいなく、
能力は彼のがはるかに上だった
ある時、密教の坊さんに修法を受けた
そのあと、彼に会っていつものように自分の背後を見てもらった
彼が語るには「彼女はいるけど今日は黄金色の光に包まれている」
「そして坊さんが一生懸命祈ってる姿が見える」
「その坊さんは良い人で良いパワーはあるが、成仏させるだけの力はない」
彼には事前に誰に会って何をしてもらったかを言ってはいなかった
だから彼の能力に改めて驚かされた
その他にもいろいろなエピソードがあることはある
(知りたければ書くが)
そしてそんな気分の晴れない日々に終止符を打つ出来事が起きた + +
∧_∧ +
(0゜・∀・) ワクワクテカテカ
(0゜∪ ∪ +
と__)__) + 色即是空は正しいが空即是色は間違いです
なんて言ってたスマナサーラは煩悩即菩提という言葉に「煩悩と悟りは等しくありません、相反するものです」と言っちゃったりするのだろうか?
心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている
たとえば
大乗は
心は光り輝いている(仏性そのもの)
何であれ依存的に生じたものは
滅に触れて想滅定が生起して
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら只管打坐
仏性そのもの
_ _ _
上座部系は
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
(仏性そのもの)
智慧の光
体を包むようなかたちで、光が現れてきます
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性そのもの
智慧も慈悲も現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m この体験談の結末を語る前に一つ話しておきたいことがある
それは自分と彼とで行った実験と研究のことである
テーマは「神霊は実際に存在するのか?神界や仏界、幽界など実在するのか?」であった
たしかに彼は人の霊なら普通に見たり会話ができた
たとえば、ときどき交通事故で誰かが亡くなり、
その道路の脇にその人の友人や仲間が供えた花や飲み物などが見かける事があると思うが
彼ならその人が亡くなった正確の位置を指摘できた
また亡くなった霊がまだその場にいたケースもあった
「そこじゃなく1m右のところにまだいますよ」などと
そんな時は彼が霊に語りかけ、説得して行くべきの世界に導くことができた
霊も強い執着がなければ素直に従ったようだ
(ちなみに自分についている女の霊は強い因縁と執念のためか彼の説得は通用しなかったが)
そんなわけで彼とのいろいろな体験を通して人霊に関しては実在の確信が持てた
しかし神社仏閣に祭られている神や龍などは本当に実在するのかは謎だった
それを確かめるために何度も彼と深夜に神社や寺に行ってみた
そして、
大乗は
仏性そのものなので
苦集滅道ではない(無苦集滅道)
_ _ _
上座部系は
無明している世界から解脱しましょう
↓
苦集滅道
(大乗の)中論
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
(暗闇に覆われている無明から解脱するためには?)
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じる
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを呼吸の観照に ← 戻す要素があります
(仏性そのもの ← に戻す要素があります)
第一禅定〜第四禅定
空無辺処〜非想非非想処
想滅定
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
平等性智をもって
ありのまま見つめている
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん m(_ _)m
ID:/1yM4sat氏と、おじゃるは別人だけど
とりあえず
>>535の続きとして
ttp://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
仮設としての
無明している世界の中で
縁起に依存して
我愛と戯論と善悪業により
地水火風空識の微粒子の密集に依存して
中有を形成する
トゥルパ
マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ;意成身)
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
無明に依存して
霊が現れる場合もある
ということでよいんジャマイカ? >>536
照見五蘊皆空 度一切苦厄
の後の
無苦集滅道
でしょ >>538
ご教示ありがとうございます
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧と慈悲をもって
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧と慈悲をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照して
>照見五蘊皆空 度一切苦厄の後の
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧と慈悲をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
(大乗の)般若経の解説
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
無明している世界の中では
『解脱すれば仏だ』ということに
気づくまでは、気づくことは難しい
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ
・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ m(_ _)m 原始の仏教では漁師は殺生に関わってるから解脱は不可能とされていますが
その代わり禅仏教では可能ですか 上座部系の方が良いと思うけど、とりあえず
大乗の禅
禅の根元は仏性にある
智慧(と慈悲)
戒律・禅定・智慧
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧
坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する(不立文字)
仏性そのもの
仮設としての
無明している世界の中の
すべて一切の諸法を
手放していく
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正 思い手放し
…ところが今
(無明している世界の中の)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には
(無明している世界の中の)
何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いが
(無明している世界の中の)
それをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
たとえば
おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存しているので
おじゃるには
只管打坐は無理だけど
ID:7otcii8B氏には
上座部系も
大乗の禅宗系も
実践できるかもしれないので
実践してみては?
そして
ID:7otcii8B氏本人が
実践して
無明している世界の中から
解脱できるのか?
試してみては?
苦集滅道なのか?無苦集滅道なのか?と…
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
このリンク先に
どのように無明から解脱できるのか?という
上座部系と、大乗の禅宗系の
説明のpodcast法話があるので参照 ヨロ m(_ _)m
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>>397 >バカはそれを見性とみる
ttp://www.onedhamma.com/?p=6494
18/02/04
エゴを瞑想の中に忍び込ませないために
柳田敏洋神父との対談を終えて
このpodcast法話を参照 ヨロ m(_ _)m
仮設としての
無明に依存している
我癡・我見・我慢・我愛に依存している
野狐禅
なんちゃって覚者タソ サマタは今から思うと色々あったな
幻視はないけど幻聴が結構あった あれを体験するとそりゃUFO でもおばけでも見えるわなって感じ
謎の全身の痛みで歩けなくなるわ 横隔膜のみ激痛が走ったり
相当体が抵抗してた感じ
ヴィパサナでは一回だけ幻聴があったな >>479
俺は言ってることがよく分かるよ 去年わかった
自分の核とか自由意志を持った中心本体がこの意識 自分だと議論の余地なく実感しているんだよね 普通は
ヴィパサナで超瞬間の認識の過程を観たとき この意識ってただの機能で中心でも何でも無いとわかった
無我とか非我とか自我とか関係ない ただの機能だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています