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「アッギヴェッサーナよ、これをどのように思うか。人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
「アッギヴェッサーナよ、それではこれをどのように思うか。感覚(受)や思考(想)や意志(行)や意識(識)[などの人間の心の部分]は、恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
(マッジマニカーヤ、35:20)

ということで五蘊は我がものではなく、我でもなく、我が本体(アートマン)でもない
それを我と見做せば我見という
我見とは無明のことである

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
(スッタニパータ)

五蘊は非我なるものであり五蘊を主体として無我を観じてもその観察も無常・苦・無我である
無我という観念自体が無我なのである
そして五蘊は非我であるとか無我であるとかとらえる主体は何かと考えてみるとデカルトの「我思う、故に我あり」が正しいのである

無我を以って無我を観じることはできない(無常・苦・無我であるが故)
瞑想中に自分の自我を観察したとか五蘊の働きを観察したというのなら観察した主体があるのである