【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
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お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 >>422
>我が生じる前の状態を、我が想像しようとしても無理だと思う。
生物が高等になるにつれ脳が発達してきて我が生じた 無我を体験した感想ですが、無我がどんな感じかというと幻想を打ち破った状態という感じです。
自我は幻想だったんだなぁと。
そうして五蘊しか存在しないんだなということが感じられます。
なら、誰がそれを感じるのかというと、五蘊ですね。
そんな感じです。
たとえば
おじゃるは
無明に依存している
色受想行識の仮和合だけど
− これに対して −
(上座部も含めて?)
密教系とかの
地水火風空識の識は
大日如来の智慧の識で
この大日如来の智慧の識をもって
四神足の観神足
(大日如来の)智慧をもって
→ 依他起性している世界を観照していく
ちなみに、大日如来は
我所ではない・我でもない >>426
「アッギヴェッサーナよ、これをどのように思うか。人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
「アッギヴェッサーナよ、それではこれをどのように思うか。感覚(受)や思考(想)や意志(行)や意識(識)[などの人間の心の部分]は、恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
(マッジマニカーヤ、35:20)
ということで五蘊は我がものではなく、我でもなく、我が本体(アートマン)でもない
それを我と見做せば我見という
我見とは無明のことである
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
(スッタニパータ)
五蘊は非我なるものであり五蘊を主体として無我を観じてもその観察も無常・苦・無我である
無我という観念自体が無我なのである
そして五蘊は非我であるとか無我であるとかとらえる主体は何かと考えてみるとデカルトの「我思う、故に我あり」が正しいのである
無我を以って無我を観じることはできない(無常・苦・無我であるが故)
瞑想中に自分の自我を観察したとか五蘊の働きを観察したというのなら観察した主体があるのである >>428
うん、瞑想してないな。
自我が頭で考えた答えだ。
>五蘊の働きを観察したというのなら観察した主体がある
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
(大日如来の)智慧が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
(大日如来の)智慧をもって
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(大日如来の)智慧をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
_ _ _
大日如来が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 大日如来の大悲・大智を受け入れる
大日如来は
我所ではない・我でもない >>429
瞑想はしているが例えば瞑想中の雑念(自我)は無我(非我)であるというのは、
経典などでそういう知識を知っているから瞑想中に湧いてきた雑念を無我と観るように言い聞かせている、
そういう自分に気づいているのでなw >>430
あなたは真言宗ではなく五性格別を支持する唯識の方ではなかったのかな? ご存知のように生命は無我が分からないから生死輪廻している。
反対に、無我を分かる時には、生命を超えているわけで、出世間の八正道の流れを感じることができる。
もう、生命を超えたなということが実感できる。
正直言うと、無我と共にある日常生活は、50%人間、50%非生命体で、私は人間卒業しかけだなというのを沸々と感じる。
>あなたは五性格別の唯識の方ではなかったのかな?
おじゃるは
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
たとえば中観自立派とかの
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を掴もうとしている想いが現れている
種子と現行の頼耶縁起を掴もうとしている想いが現れている
− これを対処するためには −
法界体性智の世界から観照して
仏性からの智慧と慈悲の真如縁起をもって
平等性智の世界から → 依他起性している世界を観照していく
ちなみに法界体性智は
「主体である」という想いではない
「主体ではない」という想いでもない
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えている
依他起性している世界を超えている
こんな感じであるらしい? {【《『「無我を観察する自己」を観察する自己』を観察するする自己》を観察する自己】を観察する自己}を観察する(以下延々と続く、何故なら無我だから
さあ瞑想している諸君
上記の矛盾に対してどう答えるのか
瞑想していれば答えが見つかるのだろう?
どうぞ答えてくれたまえ 誰が言ったんだったかな、昔聞いた言葉を思い出しちゃったよ
「われはある」の「われ」は結構あっさり消える
でも「ある」を消すのは難しい
長年瞑想しててもそれホント実感するよ
論理的には(仏法理論的にではなく)どうなれば消えるかは分かってるんだけどねえ >>435
それ、頭で考えてるべ?
我が生じる前のことを、我が一生懸命考えてる状態。 >>437
だから君が瞑想で得た答えを示してみなさい
それができるのならなw >>435
無我を体験した人で私の知ってる人は、
無我の最中は無我に気づかないって言ってたね
後からそう表現できることだと
私はまだその境地まで行ってないのでわかりまへん 我が生じる前の意識に我はないし、
我が主体だというなら、我が生じる前に主体はないよ。
上で言ったことを言い換えただけだけど、これ、何度言っても同じことの繰り返しにしかならんよ。 言葉は思考だから、思考の外のことは表現できないよ。 大海に生じる波が、波の中をくまなく見ても、大海はそこにないからね。 >>440
大嘘
離乳食前の赤ん坊ですら楽しい雰囲気を察すれば笑うしお腹がすいたら泣いてアピールする
それどころか胎児のころから我を有している
だから胎児教育が行われる
だいたいにして無我というのは我ができる前に退行することではない
>>441
それも嘘
仏陀もシャンカラも龍樹もマハリシもユクテスワもヨガナンダもみんなほとんどのことは言葉で表現している >>444
答えになってない
>>435のような問題に対して聖者はちゃんと答えているのだからな
月を指す指で誤魔化すのならそれでもけっこう、君自身が月を指す指で>>435を説明できる? >>445
できる。
矛盾してない。
君が矛盾していると思い込んでいるのは、私の問題ではない。
そこはどうしようもない。
指導者でもないし。 自我が主体だという前提が、そもそも錯覚にもとづく勘違いなので、
問題を判断する前提が間違ってる。
そこをなんとかできるのは、思考じゃなくて、禅による慧。 地球が平らだと信じ込んでる学者先生に、地球が球体だと理解してもらうには
言葉であれこれ教えるより、ロケットに乗っけて重力圏の外に飛ばして、宇宙から
地球をまじまじと眺めてもらった方が早い。
百聞は一見にしかず。 マハリシとか、クリシュナムルティとか、龍樹の罪は、
あんまり綺麗な指を公開したもんだから、月をみることを忘れる人が続出してしまったこと
だと思ってる。
立派な先生の語り口が立派すぎるのも考え物。 >>447
無我を観察しているのは最終的に誰になるのか? 誰というのは、我とか彼が存在する認識の在り方が前提にあって
はじめて出てくる発想でしょ。
最終的な境地は分からないが、気づきが気づいてる。
観察が観察している。
働きそのものがあるだけ。 >>451
ほうそうか、なかなか面白い「思考」だw
自分の考えに自信があるのなら5chではなくまずSNSなどで発信したまえw 言葉で説明するということは、まずその前に思考する必要があるし、
聞いた言葉を介して理解するというのも同様。
それは月を指す指。
瞑想体験そのものが月。 >>451
>最終的な境地は分からないが、気づきが気づいてる。
>観察が観察している。
>働きそのものがあるだけ。
自分で何を言ってるか分かってないだろw まあ、
そういう ブレナイ 所も御隠居の魅力ではあるけれどw 無我にある時、不思議な事が起こる。
それは、この世に誰一人もいなくなるということ。
現象だけが流れるのを観る。
体験した人なら共感してもらえるだろう。 >>435
「無我を観察する自己」じゃと?
バカたれ!鼻たれ!ションベンたれ!
無我は結論じゃろうが!無我が判れば悟りじゃろうが!
悟りを観察とはとはたいしたもんじゃ
で、お前さんの無我は居眠りのことか >>460
黙って「聚思惟」で検索して出直してきなさいw >>460
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
このような観察の勧めを仏陀は説いていたのだが(経典では)
で、その観察をしているのは誰かということを今は争点としている >>462
自我とは「私」という実感の事です。
私という実感は無くても観察は出来ます。
五蘊には機能として備わっています。
無我を体得するとは、私という実感、つまり幻想を破るという事です。
つまり、観察しているのは、私ではなく、五蘊だという事です。
>>463
ヴィパッサナー瞑想で分かります。 ヴィパッサナー瞑想で、観察するのもは勝義諦です。
つまり、本当に存在するもの。
言い換えれば、ヴィパッサナーでは究極の真実を観ていくわけです。
実際にやって見ると、そこにあるのは、心、心所、色だけで、自我はどこにもありませんでしたという結果に達します。
勝義諦を観察して、無常・苦・無我の真理を発見するのです。
そうして自我、つまり私という実感は錯覚でしたということに行き着くわけです。
それで、完全に私という幻想を滅したら生命は卒業です。
「私」の無い生命は、生命の資格を失います。 無我と忘我を混同しないよう注意が必要です。
無我(アナッター)は無我夢中の無我とは無関係です。
無我だからといって認識機能がないわけでは無いのです。
何度も言いますが、「私という実感」この幻想を破った状態を無我というのです。 >>464
>私という実感は無くても観察は出来ます。
>五蘊には機能として備わっています。
>>462
>無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
ほう、この正しき智慧を持って如実に観察している主体は五蘊であると? >無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
(五蘊は悉く)無我であるから、これ(五蘊)はわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
五蘊が無我であるという観察を無我である五蘊でするんだ!(◎_◎;) >>466
>何度も言いますが、「私という実感」この幻想を破った状態を無我というのです。
幻想を打ち破っているのは誰なのかな? >>469
誰もいませんよ。
初めから誰もいません。
「私という実感」は幻想です。
あなたもわたしも、そもそも「誰」ですらないのです。
現象の流れがあるだけです。 >>470
じゃあ無我という実感や観察も幻想ということだね >>470
>初めから誰もいません。
>「私という実感」は幻想です。
これを幻想ととらえているのは誰なのかな? 問い自体に主客分離が入っちゃってるから誰でも回答不能と思われ >>472
とらえているのは五蘊です。
五蘊と自我が一緒くたになっているのが普通の生命です。
自我が無い状態は、想像すらできないでしょう。 >>465
>そうして自我、つまり私という実感は錯覚でしたということに行き着くわけです。
現実の立脚点にたてば、『私という実感は錯覚でした』という感覚自体が
錯覚に他ならない。
幾ら言う所の「悟った境地」に居たろうともこの現実は何ひとつ変わらない
のだよ。
よって、その『私という実感は錯覚でした』の境地に留まっていてはならない。 >>475
>『私という実感は錯覚でした』の境地に留まっていてはならない。
ご心配なく。
その境地には『留まる』という要素はありません。
もはや『誰が何かをする』に属しませんので。 >>476
>もはや『誰が何かをする』に属しませんので。
それもまた貴方の錯覚w 結局、その事実は何も変わってないけど、視点というか、
立脚点が異なるだけでしょ。 要するにこういう事です。
車を分解してみたらどこにも車の"本質"は無かった。
車は部品の集まりで、車という働きをする現象だけでした。
同様に私を分解してみたら、あったのはナーマとルーパ(精神と物質の流れ)だけでした。あったのは車と同様に部品だけでした。
どこにも私の本質である自我や魂はありませんでした。私という名を付けられた現象があるだけでした。
ということです。 「私には自我がある。だから私には自我が分かる。」
というのは間違いです。
魚は一度陸に上がらなければ、水の存在を知る事は困難です。それと同様、自我を本当に理解するには、一度無我を体験する必要が出てきます。
「私は自我を知っている」と思うから、色々な誤解や無意味な思考ループが発生するのです。
無我が分からないなら、自我も本当の所は分かっていないと覚えておいて下さい。 頭の良し悪しじゃないからね。
明晰な論理思考を極めても、月は見えない。
指をはっきりみたり、指を分析することはできるけど。 「父母未生以前の本来の面目如何」
禅宗の方法論には詳しくないけれども、きっと、
これにどう回答するかで、禅の進み具合が測れるでしょう。 >>479
では、この点を説明して下さい。
>私の本質である自我や魂はありませんでした。
>私という名を付けられた現象があるだけでした。
その事を自覚認識した今の自分は「私という名を付けられた現象」ではなく、
私の自我であり魂ではないのでしょうか? >>479
君のその思考もまた錯覚ですw
>>480
それも錯覚ですww 「余の辞書には錯覚という言葉しかない」
ナポレオン・ボナパルト ・思考を通して生みだされた概念を言葉で述べた場合
・観察によって洞察された事象を言葉で述べた場合
前者は、自我が自我の中に生みだした概念。
後者は、自我が生まれる土壌が、自我が生みだされている事象を観察し、それを言語化している。 言語化した時点で、概念も観察結果(事象)も、
言語と思考という同じ土俵に乗せることになる。 「地球は丸い」と考えて、「地球は丸い」と述べたのか。
「地球は丸い」と観察して、「地球は丸い」と述べたのか。
前者は唯の思考概念だが、後者は観察結果を述べている。
どちらも言語を介して思考される。
従って、観察しない人にとっては、区別がつかないだろう。 >>483
無我にある時、「私」を失います。
「私」を失った時、残っているのは五蘊のみです。
(五蘊とはつまり、精神と物質の流れのことです。)
単純な原理ですが、生命には理解できないようになっています。
なぜなら一切の生命は「私」を前提に存在しているからです。
「私」を失うとは、生命ではなくなるという事です。
だから、「私」を失った時、生死輪廻からの解脱が起こるわけです。
お釈迦様のダンマは、生命が、生命を超えるためにあるのですね。 >>490
お前は帰納法と演繹法とを知らんのか?
古代ギリシャ人が何故地球が丸いことを発見したかというとな…
ってか>>490のその思考も君の自我が生み出した錯覚だけどなw >>491
お釈迦様のダンマは五蘊は無我(非我)です
しかしそのダンマも錯覚ですw >>491
なるほど。頭の中では納得しました。
お教え下さってどうも有難う。 >>492-493
結局、仏教は間違ってるという主張がしたいの?
(無我で無我を説明とは矛盾である、等) もしも悟りが思考の産物なら、瞑想する必要はぜんぜんないよ。
机に向かって書物を読み、思考するだけでいい。 あるいは、ブッダは正しかったが仏典は改竄されてるのだ、
そして現代の仏教徒は、改竄された経典を奉じていると、
そういう主張がしたいのかな。
経典に書かれているのは文字だよ。言葉。
月を指す指。
瞑想は月の観察。
科学的姿勢の基本とは、理論+観察による確認でしょう。
瞑想は名色の観察なんですよ。 文献学的に経典を分析して、経典は改竄されているけど、ブッダは
正しく悟っていたはずだ、と。
そして、自分はブッダの悟りを理解していて、経典の間違いを指摘
できるぞと。
思考を通して悟りを理解しているぞ、と。
ブッダってやつは、なかなか理性的だったもんだ。
おれはそれが分かってるぞ、と。
こういうわけでしょ? 哲学としての仏教
思考の延長にでてくる結論としての悟り
それが悟りなんだ。
ブッダが到達した境地なんだ
(おれはそれが分かってるぞ)
(瞑想している仏教徒は分からんだろうがな)
と、こういうことだよね? >>495-499の一連のレスは個人の思考が生み出した錯覚を綴っているだけですw 思考とは「自分はこのように考えた」ということじゃな
そんなもんはアホの妄想なんじゃから仏教は哲学者も思想家も相手にせん
アホがゴヤゴチャ妄想(思考)したところでロクなものしか出てこんからな
一切の思考を排除して観察して発見するのが瞑想じゃ >>501
それは貴方の思考が生み出した妄想、錯覚!! 余談ですが、私は今までに四八方の宗派や会社バラバラの霊媒師や占い師にあたってきましたが、そ
の人々は邪神不動明王やシヴァ、阿含宗や桐山に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王(シヴァ)などが実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。釈迦達、アマテラス、マリアもこれにだまされてる。善人のほうの邪魔他をしている。
よく東洋系の不動や阿含宗や桐山の術を見破るものを同伴させること。
その洗脳をさっさとどけ、自主的によくよく弁償してくること。そして不動や阿含宗や桐山こそいみきらい何万年分
も弁償とって抹消する対象とすること。
さもなくば強制的に3倍〜7倍ぐらい弁償を取られてひどい目にあい抹消されるでしょう。 >>503
すまんが、言ってる事が良くわからない。
文章を推敲しなおして、初めて読む人に明確に意図が伝わるよう、
改めてうpしてほしい。 瞑想は毎日続けなければだめ?悟った人以外はやめたら元通り?
生きること自体を瞑想化せねばならぬということ? 動中の工夫やね
しかし道中もなかなかそれっぽい響きですな 失礼、動中の工夫でしたw
しかし 道中の工夫 でもちゃんとそのまんまでヒットするw >>506
どうもです、あとで読んでみます。
仏教と断捨離やミニマル的なものって親和性が高いように思うのだけど、いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
端から期待しないことは諦めの肯定かもしれないが、可能性の否定ではない
シンプルに必要最低限って生き方はそれはそれで素晴らしいと思うのだけど、なかには単に面倒なのは御免みたいな人もいる
出合う前から出合いを避けるような生き方は違うのではないか?
最近そのようなことをよく考える 世の中が便利になって
調べりゃなんでもわかるし
シュミレーションもできるし
無駄な幻想を抱かなくなったんだろう 「○○だから○○しない」は正しい生き方だけど「どうせ○○だから○○しない」は違いますよね
こういう時代だとそれらをごっちゃに考える人が増える気がする
自分も少しそっちに行きかけてたので書いてみた
>>511
少子化が心配です >いきすぎると「端から拒絶する」みたいな態度になりませんか?
↓(無明に依存している)思いの手放し?
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
仏性からの智慧が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせる
1119
つねによく気をつけ
仏性からの智慧をもって
自我に固執する見解をうち破って
無明している
すべて一切の諸法を『空性である』と観照せよ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
仏性からの智慧をもって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
…何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
(無明に依存している)思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし(無明に依存している)思いがそれを
つかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
>>513の続き
なぜ、(無明に依存している)思いの手放しが必要なのか?その理由は
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して
依他起性を(正しく)見ることができない
− これを対処するために −
(無明に依存している)思いを手放して
円成実性の世界から
平等性智の智慧と慈悲をもって → 依他起性している世界を観照する
(円成実性は − 主体でもない・客体でもない)
ttp://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
…何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして自然に消えていくのを見届けます 道元禅師 普勧坐禅儀
(無明に依存している)
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
無明に依存している
色受想行識の仮和合
無明している世界を手放しする、その為に
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
非想非非想も超えて
滅に触れて想滅定が生起して
余念を交えず、ただひたすら只管打坐(しかんたざ)
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
…さらに無の世界も超えて
移り行く世界の様を
仏性の世界から
平等性智の智慧と慈悲によって
ありのまま見つめている
生きとし生けるものに
光り輝いている
仏性からの
智慧と慈悲が現れますように
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 桐山及び阿含宗は悪い方向へ行ってしまったとの情報を得てるのでダメだが原始仏教である阿含経の7科37道品は
具体的にたとえばここで足に縄をつけてファンジージャンプ見たく飛び降りるとか、ここでは心による行そくを具体的にはどう覚智
するのかなどを早く解明したほうがいい。阿含宗も完全には解明できてないんではないかと思う。
そしてネットなどでも載せ、コースももうけることが大事。密教では金剛界の曼荼羅に37に分けた絵をのせてそれを観想するだけ
になってしまっており具体的な修行をやっておらず本当の力や悟りがひらけない。やれるようになると密教の苦行してきた坊さんよりも
何倍もの、いやもっと?力がつくし本当の悟りがえられるだろう。その阿含教をやったところからは密教の方法をとると本当に力
を発揮する。ただし不動はやはり悪いほうへいってしまい上神仏界では抹消対象となってるので唱えないほうがいい。
そこは降三世明王などに変える必要がある。また阿含教をやって悟ると、悟りはえられるかもしれないが、後でこんなことをやりたい
と俗世間的なものごとをやろうとしたときまったくやれなくなってしまう。これ自体には当の釈迦さえも悩んでいる。
だから、引き出しを分けるなどしてそこに煩悩はやすとか、新たな改良が必要。両立できるようになんとかしたい。
たとえば、西洋は文明、東洋は無文明(どちらかといえば)にわかれてしまってるがこれも両立したい。 瞑想していて不思議な体験をした人います?
たとえば霊が出てきたとか(妄想でもいいんですが)
>瞑想していて不思議な体験をした人います?
瞑想ではなくて
小学四年生の時に
トランシーバー(無線機)に意識を集中していたら
『落武者の霊を見た』ことがある
日常的な意識状態以外の
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)みたいな?
兄が自宅で待機して
トランシーバー(無線機)の電波が何処まで届くのか?
小学四年生の時に
おじゃるが自宅の周辺を歩きまわっていた
ちなみに
おじゃるは
輪廻肯定派
幽霊も肯定派
変性意識状態も肯定派で おじゃる 最初の座禅からいきなり魔境だ
白い光が見えるわ、光輝く仏像が見えるわで終わった後に腹を抱えて爆笑した
いかなり魔境なんだもん だったと書いたんだけど、消えていた
過去の話であって、最近の話じゃない >>519
大乗の文脈では魔鏡だけど、テーラワーダ的に光はニミッタと言って、禅定に入るのに不可欠であるので、それがすぐ見えたというのは、あなたには瞑想の才能があるのでは? >>517
恐ろしいほどの快感と全能感に突如おそわれて、自分は完全に悟ったと誤解した事があります。
あまりに強い感情はやっぱり毒でした。その後だいぶたちますが、未だに瞑想するとその時の心理状態を再現しようと思ってしまいます。
まあそれも人情っすね。 >>523
なかなかすごい体験でしたね
やはりサマディ瞑想ですか?
ヴィパッサナー瞑想ではそんな経験は無理ですよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています