輪廻する固定的な主体があるわけじゃなくて、業が五蘊(常に生じては滅している)を
形成し続けているだけ、ということでは。

いまここに生きている自分自身も同様。
この自分が死んで、死んだ自分が生まれ変わるという感覚は、自我が実態として
あるという前提認識に基づく発想だが、その前提自体が勘違いだからな。