【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践12 [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
お釈迦さまの教えとヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践11
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/psy/1425309691/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 瞑想する人がときどき「無我がわかりません」と言います。
わからなくていいんです。
その気持ちで結構ですよ、冥想するときはね。
無我がわからないというけれど、「自我」がわかりますかね?
自我ならわかりますよ、と言えますか?
だから無我がわからないと言っても、本当は自我もわからないでしょう?
そこでヴィパッサナー実践をするんです。「一体どうなっているのか?」とみればいいんです。
無我っていうのは、「わからない」というのが決して変ではなく、これは事実です。
無我がわかった時点でもう覚っています。覚りに達していなければ無我がわかっていないんです。だからそれを困る必要はありません。
わからないものは頑張ってわかるようにするということです。そこを無理してはいけません。妄想してはいけません。
ただ単に、実践をしていると真理が出てきます。
真理が確認作業によって現れてきたら、それは本物です。考えて発見したらそれは本物ではない。
妄想だけじゃなくて思考さえも抑えて、確認していくんです。
思考は切るということはありえないから、抑えて、あまり頼りにしない。それで確認作業を続けていきます。
それで真理のありのままの姿がどんどん見えてくると、自我っていうものが存在しないと発見します。
自我が存在しないと発見したことが無我なんです。
無我より先に自我にいかなくちゃいけないでしょう?
それで、性格的に「無我を発見してやるぞ」と思って冥想してもできない可能性があります。
だから、無我に挑戦するのはまれな人間だけなんです。 >>291
注釈書もね
そうじゃないと「身行(kāyasaṅkhāra)って何?」ってなっちゃう 無常に挑戦するんです。
100人が修行するなら、無常に挑戦して覚る人々は95人くらいでしょう。
苦もありますが、無常のほうが、たくさんの人々のわかりやすいんですね。
無我が宿題になるのはまれな人です。
とにかく、苦・無常・無我は同義語なんです。
だからわかりやすい無常をなんとか念頭に入れて冥想したほうが、かなりスピーディに成長します。
誰かが「無常を発見しました」と言えば、同じ意味で「無我も発見した」ということなんです。
定義的に言えば、” 我 ”とは、「永遠不滅の何かがある」ということです。
無常というのは、「すべての現象は変化するんだ」と。二つは同じことです。
誰にでもわかりやすい「無常」を宿題にしてください。無我ではなくて。 >>297
これスマナサーラさんのことだろw
毒舌=正直って公式は実際はあまり成り立たない
仏陀も道元も目の前の相手の感情に最大限に配慮して
優しい言葉を使うべきと言っていたし実際に使っていたそうな ブッダはマーガンディヤの娘さんをマゾなのを知っててなじったわけか 世俗の価値観と涅槃への道は、ぜんぜん別もの、別系統の価値観だし
世俗で価値あるものはぜんぶ無常、苦、無我だから
仏教徒が正直に話したら毒舌にしかならないと思う。 補足
〜正直に話したら“世俗の価値観的には”毒舌にしか〜 それにしても、糞尿に満ちたこの女には足でさえも触れたくない、てのは酷すぎだけどねw どこの世界も高いレベルを目指せば厳しい
だいたい適当で甘ちょろいやり方で結果が出る分野があるのか?
努力なしで素敵な成果が得らようなことを言う者は詐欺か金儲けか無能なんだよ
新興宗教の教祖にそんなのが山ほどいる
スマ長老の日本人向け説法でさえ、かなり甘い、甘すぎるくらいだ ヴィパッサナーしてれば悟るの?と同じ
その人による >>305
>スマ長老の日本人向け説法でさえ、かなり甘い、甘すぎるくらいだ
スマの場合は他宗に対して皮肉っぽいのであって
あれで甘いということはもっと他宗批判をしろということになるw 正しいと思うことことをズバズバ言って何が悪いの
間違いがあると思うなら反論すればいいんだし
いちいち顔色をうかがう必要なんかないね 仏教は理論的で明快だから誰に対しても(お釈迦様に対してもね)忖度なんかいらないよ
自由に質問、反論OK
そういうのが嫌なら新興宗教(大乗仏教も)しかないね
だって真実、真理を受け入れたくないひとは甘い夢や願望や希望を語る先生が好きなんだから >>316
スッタニパータの解説はなかなか良い
しかし、水子供養ってなんだ?訳わからん 色(rupa)は物質ではない――仏典における原意と訳語の考察――
https://doi.org/10.4259/ibk.59.2_858
村上真完先生、やってしまいましたなあ…… 天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
「・・・でありますように。」なんか慈悲の瞑想に似てるな 伝統的なヴィパッサナーは大雑把で個人差があり過ぎて個別の細かい指導が必要な感じ
現代のマインドフルネスの方はシステマティックで誰にでも安定した効果がでる感じ
ヴィパッサナーで停滞したり行き詰ったりした時はマインドフルネスのテクニックを取り入れた方が効果的かもだよ >>321
テーラワーダ系の瞑想会はマインドフルネスもヴィパッサナーも実践させているよ たしかに、いつまでも膨らみ、縮み、右足、左足のラベリングだけじゃ行き詰るな >>323
マハシ・サヤドー系の瞑想会ね
違う系統の比丘の瞑想会のところはやり方もまた違う >>323
感情とか心に浮かぶものはみんな気づきなさいって言われない?
思い出してる、思い出してる、聞こえる、聞こえる、触れている、触れている
気づく対象多すぎじゃない?
あとラベリングは気づきがちゃんとあるならなくても良いよってチャンミェ・サヤドーの法話に書いてあった 気づく対象を追いかけていたらきりがないような気がするが
観察の対象を腹や鼻先に絞ったら本当に短期間(二週間ぐらいで)で悟りに近いレベルまで行くのかな
スマさんは可能と言ってるみたいだけど >>323
でも生きてることって膨らんで縮むの繰り返しで、生きてる限り酸素を渇望し、二酸化炭素を吐き出したいと苦しむ、
つまり生きている限り煩悩は消えない、キリがない、生きている限り常に苦しみのなかにいる、
でも人間だけはそれに気づくことができる
養老孟司がいってたんだけど、人間は水を飲みたいと思ってから体を動かすのではなくて、
実は水を飲むために体を動かしはじめた後で水を飲みたいと思ってるらしいよ、それは脳科学的に実証されていることだと
瞑想が進んでいくと、そういう生命の大きなトリックにも気づいていくことになるのかな
というか、瞑想って実はそれに気づかせるためのものなのではないかって気もする 先に体が勝手に動き出してしまうということは、人間は放っておけば好き勝手してしまう生き物だということ
それをしないためには、それぞれが規則を作って、それを守っていくしか方法はないのだろう
自分が思う聡明な人たちは、皆自分でルールを作り、それを守るような生き方をしているような気がする、宗教とか関係なく >>327
結局、生命の根源、始まり、そして意味に対するブッダの答えが解脱なんだと思う
人間も原始的な生物から進化してきたわけだが
最初の生命がなぜ生まれ、なぜ盲目的生き続けようとするのか
生まれたからには寿命まで死なないように闇雲に必死で生き続けようとして
生物同士が殺し合って生き続けることにどんな意味があるのか
そうやって生き残って子孫を残して最後はボロボロになって死んでゆく
そういったサイクルに何か特別な意味、意義ががあるのか
悟ることによてその答えがわかるんじゃないのかな >>327
気づいているというのは誰?
気づいていると言う事はなに? 釈迦でも形而上のことは無記として答えなかったわけだし瞑想に過度の妄想を働かせるのはやめようや >>330
欲望には終わりがなく、またそれが自然だということ
それを知っているだけでも、少しはましな生き方ができるのではないかと
笑うから嬉しくなるとか、行動するからやる気になるとか、その類いの話には半信半疑だったけど、
世の中の賢い人たちはおそらく体験的に、ごくふつうのこととして知っていることなのだろうね >>327
煩悩というのは苦の原因となるので捨てるべきものなんで
呼吸を捨てたら死ぬそれは苦である
呼吸まで煩悩にカウントしたらあかんで >>331
137億年前にビックバンから 宇宙が誕生し
46億年前に地球が誕生し
40億年前にバクテリアのような生命が誕生し
600万年前に長い進化を経て人類が誕生した
これは形而上の問題じゃなくてほぼ真実
ただ最初の生命(生き続けようとする有機体)がなぜ,どのように生まれたかはまだ分かってない >329
この生命に満ちあふれた地球
その永い年月の間には、強い牙、高く早く飛ぶ翼
どこまでも深く潜る能力など様々な力を得てきました。
しかしながら、それらは空の彼方から来る破滅の力には
無力であり、繁栄をえていたものがあっという間に滅び去った
事がしらています。
それらの生命の試みは、ある意味失敗であったと思えます。
しかし、ついに生命は、考えるという特異な能力を生み出すことによって
それに対処しようとしているようにみえます。
いつの日か、この地球は炎に飲み込まれ、焼かれ
全ての生命が滅びる時がやってきます。
それに対処し、生命を生き続けられる能力は
今の段階では人にしかないようにみえます。
人はその能力と、その責任を有しているのでは
生き続けるために
生きとし生けるものが末永く幸せでありますようにと 生物の生きようする本能が煩悩だな
人間の場合それが少しばかり複雑になって数が増えただけ 解脱してないなら、また来世がある。
無常、苦、無我にして自業自得の輪廻が続いていく。
そして、来世も人間として仏法に出会える保証はない。 >>338
それどこの宗派の教え?それとも独自理論? 人類が600万年前に誕生したのならそれ以前は霊界はなかったことになるな なんでこの地球上の現生人類だけしか考慮対象に入ってないの。
仏教でいわれる輪廻のタイムスパンは阿僧祇劫、それどころか無始無終なのだが。 >>339
知らんけど輪廻からの救済というのは輪廻を信じてる人に対する方便じゃないの? ていうか、実は輪廻がないという信仰が迷信、つまり無明なんだけどね。 「輪廻があっても、なくっても、業と業果はありますよ」という語り口が、
輪廻がないと信じている、唯物論に毒された現代人への方便なのだと思うよ。
心を脳で説明したりとかね。
精神(心)を物質(脳)で説明しないと理解できないぐらい、有身見に囚われてるからね。
現代人は。
名色の区別を知っている僧侶が、本気で脳が心の本体だと思っているわけがないし。 >>342
アメーバの時代や恐竜の時代に天界、地獄界はありえんだろう 冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。
何かを考えている限り普通の意識レベルに留まります。
夢を見るときはあなたは潜在意識下に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。
意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊椎を柱として、
無上の喜びの中心にいるのに気付きます。
その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。
パラマハンサ・ヨガナンダ
http://mandalaya.com/s7.html この地球だけが人間界というのは、あまりにも人間的な発想。 自我が形成されるようになって善悪の概念が生まれ
人の心の中の天界や畜生や地獄のような感情や思考が集合無意識に六道を創り上げた
善悪の判断ができない下等な生物にとって天界も地獄もない 頭で考えた答えは、概念でしかないよ。
例えば、イヌがイヌの自我で考えても、出てくる考えはイヌの構造から出てくる、イヌの限界に規定されたものしか出てこない。
この事情は、人間も同じ。
三学を通して慧に達したときのみ、その限界から自由になれる。自我から抜け出せるから。
従って、そこではじめて信実が見えてくる。(考えて答が出てきたわけではない) 言い方は悪いけど、率直に言うと
自我自体がそもそも錯覚なので、その錯角の塊がいくら考えたところで、悟りの智慧から出てきた話は理解できない。 やれやれ、自我がないと分かったら悟り(解脱)なんだけどね
悟ってないんだから自我があるように感じるよね、普通は 煩悩がなくなっていないなら、まだ終わりじゃないでしょうよ。 何億年も続いた灼熱の時代に六道なんかあるわけないわ 「比丘たちよ、存在の始源は知りえない。それは無始である」 科学者の3大疑問とは、1)宇宙誕生、2)生命誕生、そして3)意識の形成、であると著者は考えている。
生命体を分解することは簡単だが、分解した生命体の部品をすべて使用しても生命を誕生することはできない。
人間はもちろんのこと、シンプルなウイルスでさえ部品を混ぜ合わせて作ることはできない。
これらの問題は古典的な物理学や生物学では解決できない。
しかし!答えは量子力学、量子生物学にある!(神通力のも解明も可能)
経典ばかり読んで「存在の始源は知りえない」なんて決めつけないで、最新の科学に少しは目を向けよう。
仏教は心の科学というじゃないか!
「量子力学で生命の謎を解く」
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51QpZOYUQtL._SX342_BO1,204,203,200_.jpg
この本はいいぞ!ためになるぞ! 原因の原因に遡ると、無限訴求するから
どんな理論的な論理でも、存在の原始には辿り着けない。
はず。 スマナサーラって人も、仏教は心の科学みたいなこと言ってたな
宗教の中では合理的だといいたいんだろう
たしかにマインドフルネスみたいに、科学的に捉えた瞑想もあるが、
本来の仏教って、やっぱり宗教だからな
輪廻転生とか、涅槃とか、どうしても科学に収まらない次元を扱ってる
そもそも科学みたいに存在の世界を扱ってるわけじゃない
科学は科学で必要だが、仏教とはあんまり結びつかないと思う >>362
経典バカか?
原因と結果(因果)は科学の基本だろ
原因を発見することで現代社会の様々な問題が解決されてきたんだよ 書き込み量が、激減しているのう
ほれ
もっと、頑張らんかい! >>365
無駄な落書きなら、書き込みこそ罪悪。
書き込み量の過多で物事を推し量る鬼和尚は邪道。 >>365
爺さんや、相変わらず達者じゃね!
いつもご苦労さんです
これからも、いつまでも、どこまでも馬鹿者共を導いてやってくださいな 魂や自我はないと言ってるの六道にいろいろな住民がいるの?
誰か教えて 映画のスクリーンに映し出された映像は、ある種の幻でしょ。
でもいろいろな世界があって、いろいろな登場人物やら動物たちがいますよね。
でもぜんぶ幻です。
そんな感じです。 × そんな感じです。
○ そんな感じだと言えると思います。
群盲象を評す。 >>369
車はタイヤや車軸やフレーム等を組み合わせてできている機能で、どこをどう変えても部品を全部とっかえても、走れれば車であることは変わらない
生命も同じで実体じゃなくて機能ってこと
そして、走る理由がある限り走る道(六道のどこか)に合わせて部品を変えて走り続けるわけ
おまけにこの車の機能にはナビが付いてて、ナビは自分が車そのものだと思ってる
目的地を設定してそれに向かって進むだけの単なるオプションにすぎないのにな
まあナビが提案した目的地にたいてい行くし、ナビに表示されてる地図に沿って動いてくから、自分が車で地図が実際の道だと思い込んでても仕方ない
…でもナビも換装可能なパーツで実装されている機能にすぎないんだよ…おわかりいただけただろうか…(ここ怪談風で) さあ他の群盲のみんなを象をさわるんだ
象を倒せば俺達の勝ちだ!(違う >>370-371
スクリーン、フィルム、映写機から発する光。
映画の映像や、そこに映し出される人物たちは、上記の組み合わせで生じる現象。
観客の視点からはそれが分かるが、映像の中の人物たちには(仮に意志があった
として)分からない。
瞑想すると、自我を生みだしている構造が見えるので、無我ということが実感として分かる。
その時、自我はなくて、ただ気づく働きだけがある(無我)。 スマナサーラとかは紅蓮地獄に落ちたコーカーリヤについて、コーカーリヤの何が地獄に落ちたと言ってるの?
無我を強く主張しているから我ではない、阿頼耶識も認めない、となると地獄に落ちたのは何? 輪廻する固定的な主体があるわけじゃなくて、業が五蘊(常に生じては滅している)を
形成し続けているだけ、ということでは。
いまここに生きている自分自身も同様。
この自分が死んで、死んだ自分が生まれ変わるという感覚は、自我が実態として
あるという前提認識に基づく発想だが、その前提自体が勘違いだからな。 >>376
業というのは形成力だから行蘊のこと?
いずれにしても業というのは生じたり滅したりはしないで、ずっと我とはまた違う概念の個人について回るわけ? 悟ってもいないのに自我がないと簡単にほざくでない!
自我とはなんぞや
自動車というものはない、ただの素粒子の集まりにすぎぬ
だがな、自動車はあるぞ!わしは今日乗ったからな >>379
自動車【じどうしゃ】
エネルギー源と原動機を備え,レールによらず主として路上を走行する車両。トレーラートラックなど牽引(けんいん)されるものも自動車に含めるが,架線から集電するトロリーバスはふつう含めない。
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A-74374
自動車というのは単体の元素とか素粒子のことではなく上記を満たした車両に付けられた概念。
だれも自動車という元素があるだなんて言ってない。 >>379
無我って、三相だから、悟ってなくても無我は無我では。
悟って十結が根絶やしになくなって、到達した境地としての無我と
物事の性質としての無我と、両方の語義があるよね。 悟る前(道果に達する前)でも、無我は何度も何度も見るものでしょ。
坐禅で自我が消える体験を一度でもすれば、一応は体験として分かる。
そういう人なら、日本の禅宗にもテラワダにも、けっこう沢山いるはず。 無我、無常、苦のどれか一つでも判れば悟りなんじゃよ!
軽々しく無我を見るなんて口に出したらアカン 一時的なもんで、思考が動き始め、思考に巻き込まれ、五感を感じはじめ
身体感覚が戻り、自我が戻ってくると、いつもののび太君状態だけどね。
でも、それが組み合わせで一時的に生じている現象であることは、もう知ってる。
だからといって、自分が悟ったとか、解脱したなんて思わない。
ようやく始まったところ。 自我が消える体験をしたら、もうそこが悟りっちゅうのは
ちょっと勘違いじゃないのか。
あるいは言葉のやり取りの齟齬か。 テラワダの場合、悟ったかどうかは十結で判断するはずだから
まずは有身見、戒禁取、疑が消えたかどうか、三毒が弱まったか
で判断すればいいのでは。
無我がわかったといっても、一時的に見ただけ(有漏)なのか、
いつもずっと無我が見えてる状態(無漏)なのかの違いはあるでしょ。
慢が根こそぎ無くなるレベルで無我の悟りを徹底したら、それは
悟り(無学)と言えるのでしょう。 スマナサーラ長老へお布施したいのですが、振込先などが書かれているサイトはありますか?
テーラワーダ協会のサイトを見ても分からなかったもので。 >>385
ああ、わかる
十二縁起を体感するんだよな
でも瞑想が終われば通常営業に戻る
>>388
スマナサーラは間違ってる
そんなとこにお布施すると不幸になるぞ >>389
>ああ、わかる
>十二縁起を体感するんだよな
いや、兄貴。
おれにはそこまで分かんねっす。
>でも瞑想が終われば通常営業に戻る
そこは分かるっす。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています