真理は たとえ でしか説明できないもの、そう言う事だと思うよ、真理さとりは。

日日(にちにち) 是(これ) 好日(こうにち)

リアルの生活場面では、良い日ばかりではないのは今更であり、誰もがそんなことは知っているよね。

日常の生活方法や、常識は、真理であるとは言っているのではない、逆立ちしている、転倒(てんどう)しているのでそれをひっくり返さなきゃ、本質が見えない、だから、常識の殻を打ち破れと、公案に取り組む。

読み書きそろばんが出来る日本人とは違い、中国は貧富の差が大きく禅宗流行の時代は読み書きができない人がほとんどの中国だった。

抽象的な哲学用語や、宗教用語など、農民庶民には、不必要であった。

だから、極めて具体的に、庭先の柏の樹が佛だよと言い、親指を立てるだけで佛を示したり、きわめて日常に置き換えて教えた。

日日 是 好日(にちにち これ こうにち)

毎日が晴れの日だよ、とは、言ってない。 では、何だ、と言っているのか。

そこが問いであり、 答えは、その人だけの答えを出すんだよね。

本を読んだり、ググったり、ちょちょいのちょい、の時代だもの、誰もが同じ答えを出す、そんな馬鹿な時代に居るんだ、現在の人間は。

のたうち回る、という事があってもいいのではないか。

禅はむずかしい事を求めているのではない。また、たくさんの事を言ってるのでもない。

存在しているものは、原因が有り、条件が備わって、結果となる。

原因があっても、条件が整わなければ、結果は無い。

原因が無ければ、条件も無いのだから、結果など無い。

結果は、原因と条件が有って、結果となり、原因は、結果と条件が無ければ、結果も無い、のである。


真理さとりは、言う所の宗教的ですらなく、真理は、きわめて科学的である。

一点加えるが、宗教とはおおもとのおしえ、の事を言い、禅宗がみずからを宗教と言っていたのだが、
明治、外国語を日本語化するにあたって、諸派の中でも哲学的であった言語体系を持つ禅宗用語を多く取り入れ、レリジョンreligion
を和訳したもの、だ、と聞く。